ずっと、ずっと甘い口唇

犬飼ハルノ

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女王様と俺

夜を超える(立石、岡本 『ずっと、ずっと甘い口唇』直前)

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 夜は長いようで短い。

 さりげなく、または何気なく過ぎていく夜もあれば、運命を決めてしまう夜もある。
 しかし、それは後になって改めて知ることであって、その時、その場所にいる誰にも解らぬことなのだ。
 運命の夜。
 時間を巻き戻せたならばどんなに良いだろう。


「…やっぱり、何事もなく過ぎるんじゃねえの?」

 ノートパソコンで開いたカードゲームを投げやりにクリックしながら岡本が呟く。

「まあ、その時がこないと解らないから…。もうしばらく辛抱しようか」

 暇をもてあます同僚の姿に苦笑して、立石は隣の席に腰を下ろす。
 がらんと広いオフィスの中は人の姿もまばらだ。
 岡本たちの部署に至っては二人きり。
 静かなもので、自然と声も低くなる。


 今は大晦日の深夜。


 テレビ番組なら「紅白歌合戦」が終わって、「行く年来る年」でも放映しているところだろう。
 年が変わる時。
 それは、プログラムの中にうっかり忘れていた処理ミスを発見する時でもある。
 年末年始の休みを利用してプログラムの変更操作をすることもあり、それが悪戯してたまに顧客先のサーバーがシステムダウンすることがあるため、素早く対応するためにこうして何人かが待機することとなる。
 そして、その待機人員は、たいてい身軽な独身が多く担うこととなる。

「しっかし、部長が里帰りしているのは、ちいっとまずいんじゃねえの?」

 彼の田舎は雪深い国で、そうそう呼び戻される距離ではない。

「頭を下げないために、ぎりぎりまで念入りにチェックしたんだろう。ある意味、願掛けなのかもな…」

 帰ってこられない距離だからこそ、何も起きないという…。
 そもそも、正月休みというのは仕事漬けでなかなか家庭サービスできないこの業界の人間にとって、一世一代の踏ん張りどころなのだ。
 直前になって突っ込まれたブログラム変更と妻の機嫌を秤にかけて、妻を選んだ部長は尊敬に値する。

「そういう岡本こそ、この時間にこんな所にいたらまずいんじゃないのか?」

 肘掛けに頬杖ついてぽつんと質問を投げかける。

「ああ・・・。まあな。」

 岡本は秋に結婚したばかりだから、新妻との初めての正月になる。

「・・・部長がいない、俺もいないじゃあな。まあそれにあの強烈な実家でいきなり連泊じゃ、有希子もまいってしまうからちょうど良いんだよ」

 はははと力なく笑う。
 岡本には三人の姉がいる。
 そして、実は鹿児島の実家は九州で屈指の名旅館だった。
 今や全国的に有名になりつつあるその旅館を彼女たちが取り仕切っているだけに、家業を継がない岡本は頭が上がらないところがある。

「俺としてはもうちょっと互いの関係の方を固めておきたいところだから、今日の仕事は逆に口実になってありがたい」
「そうか・・・」

 ふ、と立石は笑みをこぼす。
 岡本は、長年思い続けた同僚をその誠実さで射止めた。
 これからもそれは変わらないだろう。

「ん。まあ、そんなとこ」


 人のいるところだけスポット的に電気をつけているために薄暗い雰囲気の館内の静けさが、しんと二人の間に落ちる。


「そういや、逆に片桐が正月は挨拶じゃね?美咲ちゃんとこの実家でさあ」
「そうだな。だからあっちの待機は中村と・・・だれだっけな」
「二、三人いるだろ、さすがに」

 別部署で協力関係にある片桐は、派遣で入っていた美女と今度の初夏に結婚の予定のため、その準備に入っていると二人は聞いていた。

「俺らの歳になると、正月とGWと盆休みの三つは親御さんへの挨拶専門休暇だよな。この休みの間に婚約するやつがどっと出るんじゃねえの?」
「まあ、そんなとこか」
「そういや、佐古はどうしたよ?てっきりこっちに顔を出すかと思ったぜ?」

 いつもなら暇な時は立石の家へくつろぎに来る、同僚で又従兄弟の佐古がいない。

「ああ、真人は実家に拉致されたよ。あまりにも帰省しないから」
「お前の?」
「いや、あいつの生みの親。うちの母と性格上はまるで双子で、ものすごく手強いよ。行動力のあるのなんの…」
「ああ、なる・・・。そういうわけね」

 立石の母親の破天荒ぶりは世間話ついでに時々耳にする。
 今まで、色々な女性に出会ってきたと自負する岡本でさえ、思いつかない母親像だった。

「まあ、そのくらいの方が良いんじゃないかな。このままではいつまで経っても溝は埋まらないからな」


 そんなきっかけのためにこの時は存在するのかもしれない。
 人間にしかない年越しという儀式は。
 失った絆を取り戻すため。
 誰かの心をつなぎ止めるため。
 新しい仲間を迎え入れるため・
 そして、人の温かさを感じるため。
 
「正月に意味があるかなんて、子供の頃は解らなかったな・・・。ちょっといつもと違う生活サイクルにちょっと豪華な料理、初詣や里帰りのための遠出、いつもはなかなか会えない親戚たちに会う、くらいで」
「そうだな、学校に行かなくてラッキーってか?」
「ああ、そんなとこ」

 くすりと笑った後、ふと遠い目をする。

「子供だったなと思う。高校三年生なんて」
「なんだ、その具体的な年代は」
「うん。だから、高校三年生の年越しだよ。岡本はどうしてた?」
「受験生じゃんか。俺は…。そうだな。勉強に飽きて、憂さ晴らしに仲間でカウントダウン初詣に行ったな…」
「俺も行ったよ、クラスの奴らと」
「みんなそんなもんだろ」
「ああ、その中に生もいた」
「・・・」

 言わんとしていることに気がついて、岡本は口をつぐむ。


 長谷川生。
 その当時の名前なら高階郁。

 立石がいつまでもあきらめきれない女の名前だ。


「あいつも一緒だったの?」
「ああ、福岡の方は学業の願掛けと言えばだいたい太宰府天満宮なんだ。運動部で気の合う奴らとで待ち合わせして、大晦日なら夜間でも電車が動いていて、半分遠足気分だったな」

 その中に、普段なら馬鹿騒ぎにあまり加わらない生がいた。

「一番仲良くしている子が留学の準備のためにちょうど渡米していてつまらないからと、待ち合わせの場所にいた時にはびっくりした。まあ、他の女子たちともそれなりに仲良くしていたから、浮いていたりはしなかったけれど」

 人であふれかえる境内で話しているうちに、一緒に暮らしているはずの父親が長期出張先の東南アジアから帰って来られないことを聞いた。
 そして、父が福岡へ異動になった時についてこなかった母は、同じく神戸の母方の実家へとどまった姉の成人式の支度で忙しく、夏以来会っていないと。
 父方の祖父母から鎌倉へ来いと言われていたが、受験に集中したいし帰省ラッシュが面倒だから今年は行かなかったと。
 何でもないことのように話をするから、つい、思い違いをしてしまった。
 生は、平気なのだと。
 中学生くらいから別居生活を送っていたから慣れたものなのだと。
 それは、大きな思い違いだった。
 家族で過ごすことが当たり前なこの空気が、独りであることをつらく感じさせられる時があるのだと思いもしなかった。
 好きだったのに、思いやれなかった。
 いつも見ていたのに、解らなかった。

「あれは、寂しいというサインだったのに、見逃してしまったんだ」
「寂しいねえ…。あの、氷の女王が」

 ただ、ただ、生と年を越せたことが嬉しかった。

「それでも、解散になった時に少し引っかかって、あとを追いかけようかなと思ったんだけど…」
「行かなかったのか?」
「行こうとして、家にいったん電話を入れたら行けなくなった…」

 耳に入ったのは家族の慌てた声。
 一番下の弟がいきなり噴水のように嘔吐をし始めたというのだ。
 それにつられて他の兄弟も気分が悪くなっていると。
 今で言うなら、ノロウィルスだった。
 慌てて戻り、正月三が日は次々と感染する家族の看病や処理に追われた。

「あの時、電話を入れなければ良かった…」

 あの時。
 生の様子がおかしいと気がついたのは自分だけではなかった。
 樋口賢吾。
 女子に人気の高いバスケットボール部の部長が、女子バレー部の部長である生とそこそこ仲が良いことは気になっていたものの、まさか、あの夜、後を追うとは予想していなかった。
 そして、迎え入れてしまうとは。

「触れなば落ちん・・・ってか。ようは、その樋口ってのがカイの父親なんだな」

 まさか、それほど寂しかったなんて。

「たしかにまあ、日本全国、家族団らんモードだもんなあ」

 椅子の背を抱き込んで座り直し、岡本は伸びをした。

「時々思うんだ。弟のそばには両親も他の兄弟もいたのだから、迷わず追いかけていれば、カイの父親は…」

 そんな幻想が頭をよぎる。
 それは、生にあった時でもあるし、彼女の一人息子のカイが自分に駆け寄ってきた時もある。
 そして、大晦日がくるたびに必ず思い出すのだ。
 いつになく、少しうつむきがちだった生の白いうなじを。
 彼女はまだ、たったの十八歳だったのだ。
 どうしてそばに行けなかったのだろう。

「いや、それはないだろ。お前のことだ、もしそうしていれば、カイはこの世にいないよ」

 顎を背もたれに乗せてにやにや笑う。

「きっと、せいぜい手をつないで胸一杯って所じゃねえか?十八の立石徹はさ」

 ずっと見つめるだけだった恋。
 抱きしめるなんて、夢の中でしかあり得ない。

「まあ・・・。そう・・・かもな」
「それで良かったんだよ。あの女は子供がいてちょうど良いんじゃないの?独りだったら、この先どんな肉食獣になっていたか、俺は恐ろしくて想像できないね」
「岡本…。前から思っていたんだけど、なんでお前がそこまで生のことを毛嫌いしているか俺には解らない…」

 肘がぶつかりそうなほど近くに座っている立石の、愁いを帯びた表情に岡本は一瞬どきりとする。

「わ、解らなくて良いさ」

 しどろもどろになりそうなのを何とか踏みとどまり、言葉をつないだ。

「あれがきっかけでカイが生まれたから、お前たちは再会できたし、今も会えるんだろ?それで良しとしろよ」
「・・・ああ、そうだな」

 まっすぐな子供のまなざしに救われるのは、生だけじゃなく、自分もだ。
 この世に生まれてきてくれたことに感謝する。


 二人のそばに置いていた携帯電話のアラームが鳴った。


「あ・・・」

 耳を澄ますと、他の部署からもアラームも聞こえ、待機していた人たちが動き出す。
 二人もすぐにパソコンの前に座り直し、キーをたたき、動作状況の確認を始めた。

「・・・問題ないか?」
「・・・ああ、多分…」

 客先で待機している別働隊や他のフロアにいる中村たちに確認の電話をかけてチェックし直してしばらくの後、プログラムは正常に動いているという結論になった。


「何事もなくて良かったな」

 大きく息をついて、それぞれ椅子に腰を下ろす。
 ふう・・・と天井に向かってため息をついた後、ふと思い出したように岡本が言う。

「立石」
「ん?」
「あけましておめでとう」

 にっと、歯を見せて笑った。

「ああ、そうだな。今年もよろしく」
 

 なんでもない夜が明ける。
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