猫と横浜

のらしろ

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第28話 光と影の臨床試験

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 翌日の午前、屋敷の前に一台の人力車が静かに止まった。 
 昨日、覚悟を決めた二人の娼妓が、約束通りにやって来たのだ。 
 その顔には緊張と、僅かな希望が混じり合っていた。 

 俺は二人を一階の診察室へと通した。 
 本来なら一人ずつ診るべきなのだろうが、彼女たちの不安を少しでも和らげるため、明日香にも立ち会ってもらい、三人同時に診察を進めることにした。 

「一様、その格好は……?」 

 明日香が不思議そうに俺を見る。 
 俺は長野で手に入れた「外科医ギャノンなりきりセット」の白衣を羽織り、首からはおもちゃの聴診器を下げていた。 
 形から入るのは、相手に安心感を与えるための、俺なりの演出だ。 

「まあ、雰囲気作りだよ。だが、これでも案外しっかり聞こえるんだ」 

 そう言って、俺は聴診器の冷たい円盤を彼女たちの胸に当てた。 
 心音のリズムなど俺に分かりはしない。 
 だが、真剣な眼差しで、深く頷きながら聴診する俺の姿は、彼女たちに「専門家」としての信頼を植え付けたようだった。 

 芝居はここまでだ。 
 ここからは、本物の医療行為が始まる。 

 俺は煮沸消毒器から、湯気と共に立ち上る熱気を帯びた注射器と、この時代にしては太い注射針を取り出した。 

「少し痛みますが、正確な診断のために血を採らせてもらいます」 

 俺はそう告げ、彼女たちの腕をアルコールで消毒すると、手際よく採血を行った。 
 針が刺さる瞬間、彼女たちの肩が微かに震える。 
 二本の試験管に満たされた赤い液体。 
 これが、彼女たちの命運を占う鍵となる。 

「次に、体の隅々まで診させてもらいます。隠れた病の痕跡を探すためです」 

 俺の言葉に、彼女たちは恥じらいながらも静かに頷き、衣を脱いだ。二つの白い裸身が、診察室の柔らかな光の中に浮かび上がる。 
 俺はプロフェッショナルに徹し、皮膚に発疹やしこりがないか、リンパの腫れがないかを丹念に調べていく。 

 最後に、俺の腕時計を使って体温や脈拍を測った。 
 ……我ながら、この健康腕時計頼みの診察はいかがなものか。 
 この時代にも水銀式の体温計くらいはあったはずだ。 
 いずれ必ず手に入れようと、俺は心に固く誓った。 

 一通りの検査を終えてから、俺は問診を始めた。 
 順番がめちゃくちゃなのは百も承知だ。 
 心の中でセルフ突っ込みを入れながらも、俺は平静を装った。 

 幸い、二人の症状は落ち着いており、日常生活に支障はないという。 
 俺は彼女たちを労って帰し、一人、診察室に残った。 

 書斎に戻り、鍵をかける。 
 PCを起動し、先ほど採血した血液をプレパラートに乗せ、顕微鏡のレンズの下にセットした。 

 俺の知る世界では「暗視野顕微鏡」という特殊な装置でなければ見つけにくいという梅毒の病原体。 
 だが、俺の持つこのオーパーツは、令和の画像処理技術の粋を集めた代物だ。 

 検索機能に「梅毒トレポネーマ」と入力する。 
 画面上で無数の血球が流れていく。 

 数分の探索の後、PCは警告音と共に、画面上の一点をハイライトした。 
 そこにいた。 
 鞭のように体をくねらせて蠢く、螺旋状の悪魔。 
 ……陽性だ。二人の血液両方から、同じ病原体が見つかった。 

 俺は、製造したペニシリン水溶液を、顕微鏡下の血液に一滴垂らした。 
 息を詰めて、モニターを見つめる。すると、どうだ。 
 今まで元気に動き回っていたトレポネーマの動きが、明らかに鈍くなっていく。 
 あるものは痙攣するように身を震わせ、あるものは力なく動きを止め、やがて溶けるように消えていく。 

「……いける」 

 確信が、胸の奥から込み上げてきた。 
 俺は治療の開始を決断した。 
 翌日、再び屋敷を訪れた二人に、俺は治療方針を説明した。 

「これから、あなたたちの体の中に薬を直接届けます。何回かに分けて注射をしますが、これが病を根絶やしにするための、唯一の方法です」 

 俺は、白濁したペニシリンを充填した注射器を彼女たちの前に示した。 
 その液体は、彼女たちの希望そのものだ。 

「ただし、この薬は強力です。注射の後、痛みや熱が出ることがありますが、それは薬が体の中で病と戦っている証拠だと思ってください」 

 俺の言葉に、彼女たちは固唾を飲んで頷いた。 
 俺はPCの指示よりも若干少なめの量を、慎重に彼女たちの腕に注射した。 
 効果は、劇的だった。 

 すぐに二人が体中の痛みと高熱を訴え、苦しみ始めた。 
 残る一人も、熱に浮かされたようにぐったりとしている。 
 今日は二人をこのまま帰すわけにはいかないか。 

 ……あ、この屋敷には入院設備がない。 
 俺はこの時になって、致命的な準備不足を悟った。 
 俺は慌てて離れの部屋に布団を運び込み、即席の病室を設えた。 

 午後、そして夜、俺は彼女たちの容態を見ながら、可能な限り追加の注射を行った。 
 本来なら一日4回から6回の投与が必要なのだ。 
 だが、素人の俺にできるのは、安全マージンを最大限に取った、手探りの治療だけだった。 

 三日間の闘病は、壮絶だった。 
 彼女たちは高熱と痛みにうなされ、明日香とイルサが付きっきりで看病にあたった。 
 俺もまた、片時も離れず、彼女たちのバイタルをチェックし続けた。 

 そして、運命の三日目。俺は再び彼女たちから採血し、顕微鏡で覗いた。 
 血の中をどれだけ探しても、あの螺旋状の悪魔の姿はどこにも見当たらない。 

 PCの検索機能も「対象を検出できません」という無機質なメッセージを表示するだけだった。 

「……おめでとう。あなたたちは、勝ったんだ」 

 俺は彼女たちに、震える声で完治を宣言した。二人は泣きながら抱き合い、俺に何度も頭を下げた。 
 彼女たちを小妓楼に帰した後、俺は言いようのない疲労と、それ以上の達成感に包まれていた。 

 ふと、思い出す。 
 そういえば、明日香とイルサの血液検査はまだだった。 
 俺は二人の血を採り、同じように調べた。 
 結果は、同じく陰性。俺の軟膏治療も、効果があったようだ。 

 初の梅毒治療は、成功した。 
 俺はとりあえず、安堵の息をついた。だが、これはまだ序章に過ぎない。 
 この小さな成功が、この時代の、そして俺自身の未来にどんな波紋を広げていくのか。        

 その答えは、まだ誰も知らなかった。 

 
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