29 / 38
第29話 残りのひとり
しおりを挟む翌日、朝の光がまだ淡い時刻に、鈴屋の店主が、前に集めた三人の娼妓を連れて屋敷にやってきた。
そのうち二人は昨日、奇跡的な回復を見せて帰した娘たちだ。
彼女たちの顔には、まだ入院しての疲れは残るものの、確かな生気が宿っていた。
そして、残りの一人、昨日治療におびえ、ついに来なかった娘は、店主の隣で、昨日とは打って変わって、どこか覚悟を決めたような面持ちで立っていた。
店主は、まず深々と頭を下げた。
「先生、昨日は本当にありがとうございました。この子たちが、まさか一夜にしてここまで回復するとは……夢にも思いませんでした。どうか、先生のお力をこの子たちにもお貸しください」
そう言って、店主は隣に立つ娘に視線を向けた。
娘はまだ少し顔を伏せがちだが、その瞳には強い光が宿っている。
「申し訳ありません、先生。この子は、どうしても治療が怖いと申しまして、先日はいらぬ心配をかけてしまいました。しかし、昨夜、無事に帰ってきた二人の様子を見て、そして、どれほど体が楽になったか、痛みはあったものの、それが一時のものだったと聞かされて……。怖さよりも、治りたい気持ちが勝ったようです。どうか、先生、この子もどうかお願いいたします」
店主の言葉に、隣に立つ、昨日治療を終えた二人の娼妓が、力強く頷いた。
「そうか……別に、怖がるのは良い。俺でも初めての治療だったから怖かった。だが、あなたたち二人が無事に帰ってきたのを見て、この子の決心がついたようだな。楼主殿、二人の治療のお礼と、残り一人についての治療のお願い、承知した」
俺は、別に構わないので、先の二人の治療の経験から3~4日の入院をもって治療することを伝え、今日から治療することにした。
楼主は、安堵の息をつき、再び深々と頭を下げた。
一連の挨拶が終わると、楼主はふと真剣な顔つきになった。
「先生、実はもう一つ、ご相談がございまして……」
そう言って、他の娼妓の間で流行り始めた梅毒についての相談もしてきた。
前に伺った時にも話したことだが、この三人と同じ条件での治療ならば数人ずつならば受けられると話し、相談については終わった。
だが、最後に今回の治療についての費用をどうすればよいか、と問いかけられた。
原価で言うと、薬の材料費や作業の手間を入れても一人当たり1円にも満たないだろう。
だが、入院に3日の間の食費などを考えると……どうしたものかな。
入院日だけで一日当たり一人1円、これは俺が初めて泊まったホテルから頂いた目安だ。
それに診察と投薬などの治療にかかる費用をいくらにするか。
まだ世の中に広まっていない治療法だ。相場などあろうはずもない。
わからぬ時には、正直に商人に話して聞くのが一番だ。
「正直、いくらにすればいいか私にもわかりません。この場合の相場と言っても……初めてのことでどこにでもあるわけもないので、どうしましょうか」
俺の率直な問いかけに、店主は少し考え、そして覚悟を決めたように、すっと背筋を伸ばした。
「私にとっては大切な娘たちの命の代金ですので、先生のおっしゃる金額をそのままお支払いするつもりですが」
その言葉に、俺は一瞬、言葉を失った。
命の重さに比べれば、金など取るに足らない。
だが、この治療を継続し、より多くの命を救うためには、ある程度の費用は必要不可欠だ。
しばし沈黙が降りた後、俺はゆっくりと口を開いた。
「では、今回についてだけですが、入院と言いまして、ここに泊まった費用として一日当たり一人1円。診察と治療費については……本当に、この治療にはまだ決まった費用というものがないので、此度については一日当たり入院費と同じ一円とさせてください。そうすると、採血から治療完了まで4日間の計算になりますから、先の二人については、合わせて十六円でいかがでしょうか……高すぎますか」
そう言いながら、俺は店主の顔色を窺った。常識外れの金額を提示してしまったのではないか、という不安がよぎる。
しかし、店主は即座に、安堵の表情でかぶりを振った。
「いえいえ、とんでもございません! 娘たちの命が救われるのですから、この十六円は、まさに破格の恩恵でございます。では、先生、それでお支払いいたします!」
店主の震える声に、俺も安堵した。
「支払いは、もう一人と合わせて改めて請求させていただきます。それから、他の娼妓につきましては、今回の治療でかかった費用などをもう一度検討しますから、その上で改めてご相談でいいでしょうか」
「はい、承知いたしました。先生、本当にありがとうございます……」
屋敷を訪ねてきた鈴屋の店主との話し合いを終えて、店主と治療の終わっている二人は、深々と頭を下げてそのまま帰っていった。
残った娼妓は、昨日までの不安そうな表情は消え失せ、決意に満ちた顔つきで静かに立っていた。
覚悟を決めたように、ゆっくりと腕を差し出した。
この間と同じ要領で採血を行う。震える細い腕から、黒い血液がゆっくりとシリンジに吸い上げられていく。
採血するとすぐに、俺は二階に上がり、顕微鏡を覗き込む。
PCから電子顕微鏡?を操作して、視野の中でうごめく病原体がはっきりと見えた。
結果は予想通り、陽性だった。
安堵と、これから始まる治療への覚悟が入り混じった感情が胸に広がる。
その後すぐにペニシリンの注射を、これも先の時と同じ要領でおこなう。
注射針が皮膚を貫き、薬液が体内に入っていく。
娼妓の顔が苦痛に歪み、小さな呻き声が漏れる。
今回も発熱に痛みを発したが、俺は前に説明した時と同じ説明をして、震える彼女の手をそっと握った。
そして、そのまま布団を敷いてある部屋で休ませる。
今回は採血の後すぐに治療にかかれたため、3日で治療が終わり、彼女も3日目の採血で問題が無いことを確認後に帰らせた。
窓から差し込む光を浴びながら、彼女は深々と頭を下げ、晴れやかな顔で屋敷を後にした。
この治療が、彼女の、そして鈴屋の娘たちの未来を少しでも明るく照らすことを願うばかりだ。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
甲斐ノ副将、八幡原ニテ散……ラズ
朽縄咲良
歴史・時代
【第8回歴史時代小説大賞奨励賞受賞作品】
戦国の雄武田信玄の次弟にして、“稀代の副将”として、同時代の戦国武将たちはもちろん、後代の歴史家の間でも評価の高い武将、武田典厩信繁。
永禄四年、武田信玄と強敵上杉輝虎とが雌雄を決する“第四次川中島合戦”に於いて討ち死にするはずだった彼は、家臣の必死の奮闘により、その命を拾う。
信繁の生存によって、甲斐武田家と日本が辿るべき歴史の流れは徐々にずれてゆく――。
この作品は、武田信繁というひとりの武将の生存によって、史実とは異なっていく戦国時代を書いた、大河if戦記である。
*ノベルアッププラス・小説家になろうにも、同内容の作品を掲載しております(一部差異あり)。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる