猫と横浜

のらしろ

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第29話 残りのひとり

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 翌日、朝の光がまだ淡い時刻に、鈴屋の店主が、前に集めた三人の娼妓を連れて屋敷にやってきた。 
 そのうち二人は昨日、奇跡的な回復を見せて帰した娘たちだ。 
 彼女たちの顔には、まだ入院しての疲れは残るものの、確かな生気が宿っていた。 

 そして、残りの一人、昨日治療におびえ、ついに来なかった娘は、店主の隣で、昨日とは打って変わって、どこか覚悟を決めたような面持ちで立っていた。 

 店主は、まず深々と頭を下げた。 

「先生、昨日は本当にありがとうございました。この子たちが、まさか一夜にしてここまで回復するとは……夢にも思いませんでした。どうか、先生のお力をこの子たちにもお貸しください」

  そう言って、店主は隣に立つ娘に視線を向けた。 
 娘はまだ少し顔を伏せがちだが、その瞳には強い光が宿っている。 

「申し訳ありません、先生。この子は、どうしても治療が怖いと申しまして、先日はいらぬ心配をかけてしまいました。しかし、昨夜、無事に帰ってきた二人の様子を見て、そして、どれほど体が楽になったか、痛みはあったものの、それが一時のものだったと聞かされて……。怖さよりも、治りたい気持ちが勝ったようです。どうか、先生、この子もどうかお願いいたします」 

 店主の言葉に、隣に立つ、昨日治療を終えた二人の娼妓が、力強く頷いた。 

「そうか……別に、怖がるのは良い。俺でも初めての治療だったから怖かった。だが、あなたたち二人が無事に帰ってきたのを見て、この子の決心がついたようだな。楼主殿、二人の治療のお礼と、残り一人についての治療のお願い、承知した」 

 俺は、別に構わないので、先の二人の治療の経験から3~4日の入院をもって治療することを伝え、今日から治療することにした。 
 楼主は、安堵の息をつき、再び深々と頭を下げた。 

 一連の挨拶が終わると、楼主はふと真剣な顔つきになった。 

「先生、実はもう一つ、ご相談がございまして……」 

 そう言って、他の娼妓の間で流行り始めた梅毒についての相談もしてきた。 
 前に伺った時にも話したことだが、この三人と同じ条件での治療ならば数人ずつならば受けられると話し、相談については終わった。 

 だが、最後に今回の治療についての費用をどうすればよいか、と問いかけられた。 
 原価で言うと、薬の材料費や作業の手間を入れても一人当たり1円にも満たないだろう。 
 だが、入院に3日の間の食費などを考えると……どうしたものかな。 

 入院日だけで一日当たり一人1円、これは俺が初めて泊まったホテルから頂いた目安だ。 
 それに診察と投薬などの治療にかかる費用をいくらにするか。 
 まだ世の中に広まっていない治療法だ。相場などあろうはずもない。 
 わからぬ時には、正直に商人に話して聞くのが一番だ。 

「正直、いくらにすればいいか私にもわかりません。この場合の相場と言っても……初めてのことでどこにでもあるわけもないので、どうしましょうか」 

 俺の率直な問いかけに、店主は少し考え、そして覚悟を決めたように、すっと背筋を伸ばした。 

「私にとっては大切な娘たちの命の代金ですので、先生のおっしゃる金額をそのままお支払いするつもりですが」 

 その言葉に、俺は一瞬、言葉を失った。 
 命の重さに比べれば、金など取るに足らない。 
 だが、この治療を継続し、より多くの命を救うためには、ある程度の費用は必要不可欠だ。 

 しばし沈黙が降りた後、俺はゆっくりと口を開いた。 

「では、今回についてだけですが、入院と言いまして、ここに泊まった費用として一日当たり一人1円。診察と治療費については……本当に、この治療にはまだ決まった費用というものがないので、此度については一日当たり入院費と同じ一円とさせてください。そうすると、採血から治療完了まで4日間の計算になりますから、先の二人については、合わせて十六円でいかがでしょうか……高すぎますか」 

 そう言いながら、俺は店主の顔色を窺った。常識外れの金額を提示してしまったのではないか、という不安がよぎる。 
 しかし、店主は即座に、安堵の表情でかぶりを振った。 

「いえいえ、とんでもございません! 娘たちの命が救われるのですから、この十六円は、まさに破格の恩恵でございます。では、先生、それでお支払いいたします!」 

 店主の震える声に、俺も安堵した。 

「支払いは、もう一人と合わせて改めて請求させていただきます。それから、他の娼妓につきましては、今回の治療でかかった費用などをもう一度検討しますから、その上で改めてご相談でいいでしょうか」 

「はい、承知いたしました。先生、本当にありがとうございます……」 

 屋敷を訪ねてきた鈴屋の店主との話し合いを終えて、店主と治療の終わっている二人は、深々と頭を下げてそのまま帰っていった。 

 残った娼妓は、昨日までの不安そうな表情は消え失せ、決意に満ちた顔つきで静かに立っていた。 
 覚悟を決めたように、ゆっくりと腕を差し出した。 

 この間と同じ要領で採血を行う。震える細い腕から、黒い血液がゆっくりとシリンジに吸い上げられていく。 
 採血するとすぐに、俺は二階に上がり、顕微鏡を覗き込む。 

 PCから電子顕微鏡?を操作して、視野の中でうごめく病原体がはっきりと見えた。 
 結果は予想通り、陽性だった。 
 安堵と、これから始まる治療への覚悟が入り混じった感情が胸に広がる。 

 その後すぐにペニシリンの注射を、これも先の時と同じ要領でおこなう。 
 注射針が皮膚を貫き、薬液が体内に入っていく。 
 娼妓の顔が苦痛に歪み、小さな呻き声が漏れる。 

 今回も発熱に痛みを発したが、俺は前に説明した時と同じ説明をして、震える彼女の手をそっと握った。 
 そして、そのまま布団を敷いてある部屋で休ませる。 

 今回は採血の後すぐに治療にかかれたため、3日で治療が終わり、彼女も3日目の採血で問題が無いことを確認後に帰らせた。 

 窓から差し込む光を浴びながら、彼女は深々と頭を下げ、晴れやかな顔で屋敷を後にした。 

 この治療が、彼女の、そして鈴屋の娘たちの未来を少しでも明るく照らすことを願うばかりだ。 

 
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