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第31話 変な使命を感じてしまった件
しおりを挟む鈴屋さんとのあの会合を終えて、俺はなんというか胃のあたりがガチガチに固まったような感覚に囚われていた。
まさか、こんなにも梅毒がこの街に深く根を張っていたとは思わなかったのだ。
いや、知っていたはずなんだろう?
それでも実際に数字として突きつけられるとそのインパクトたるや計り知れない。
食堂に集まった楼主たちの顔色は一様に土気色でまるで幽霊でも見たかのようだった。
鈴屋さんが深々と頭を下げて口火を切る。
「先生、お忙しいところ本当に申し訳ありません。ですが、もう私たちだけではどうにもなりません……」
その声は震えていて今にも泣き出しそうだった。
話を聞けば聞くほど、関内にある小妓楼では梅毒が想像を絶する勢いで蔓延しているらしい。
まるで長野で買った漫画での疫病イベントみたいに、あっという間に広がっているってことか。
いくら漫画を参考にペニシリンの事業にしゃしゃり出たが、そこまで漫画のような緊迫する場面など経験したくは無かったが、まあ、ある意味どこでもあり得る話か……この時代では。
彼女たちの困り果てた、いや絶望に近い表情を見ていると俺の心臓もキュッと締め付けられる思いがした。
鈴屋さんで梅毒患者を直せたという情報がどれほどの速度で広まったのかは知らないが噂はたちまち広まり他の楼主たちは本当に我先にと治療を希望してきたのだ。
その熱意たるやまるでレアアイテムを求めて殺到する冒険者の群れのようだった。
「どうか、うちの娘をお救いください!」
「先生!何卒!お願いします!」
その声の熱量に俺は思わず後ずさりしそうになった。
しかし問題はその数だ。
なんと一店あたり五から七人、全部で三十二名だというのだ。
俺は思わず天井を仰いだ。
ううむ……流石にこの人数をいっぺんに治療するなんて無理だろ。
ペニシリンの生産だってまだ手探り状態だというのに。
これはもう完全犯罪に素人探偵が事件解決の依頼を受けるようなものじゃないか?
冗談じゃない。
そしてさらに俺を絶望させたのはその内訳だ。
三十二名のうち第三期以降の者が八名。
話を聞く限り、潜伏期に入ったものもかなりいそうだが今回の数には含まれていないらしい。
つまり、まだ水面下に隠れている梅毒患者がわんさかいるってことだよな?
この「まだ隠れている」という言葉が、まるで深淵の魔物がじっと息を潜めているかのように、俺の胸に重くのしかかった。
さて、どうしたものか。
俺は腕を組み深く唸る。
いきなり重症患者を受け入れて何かあって死亡者でも出してしまったら?
せっかく築き上げたばかりの信用なんて一瞬で瓦解するだろう。
この時代、医療に関する信頼は薄い。
一度疑念を抱かれたらもう二度と挽回できないかもしれない。
まずは実績を積むのが先決だ。
確実な治療で結果を出し、この医療に対する不信感を払拭しなければならない。
「まずは、第三期の患者さんで、比較的最近発症された方から直していくことにします」
俺がそう告げると、楼主たちはい一瞬、不満げな表情を浮かべたがすぐに真剣な眼差しに変わった。
まあ、そうなるよな。
「第四期に入った方々は正直、素人の俺に直せるかどうか確証はありません。ですので、最初の患者さんを見てから、順番に重い症状の方も治療することにします」
俺は正直にそう伝えた。
隠しても意味がない。下手な期待をさせる方がタチが悪い。
幸い、彼らは俺の正直さに納得してくれたようだ。
患者の命を預かるというのは、本当に胃がキリキリするな。
まるで、毎日が難事件に一人で臨む探偵のようだ。
最初の三人、第三期の患者は順調に回復していった。
ペニシリンの効果はやはり絶大だ。
四、五日で全員無事に治療が済み、元気な足取りで屋敷を後にしていったのだ。
ホッと安堵の息が漏れる。
よし、これなら大丈夫だろう。
俺は次のステップに進むことを決めた。
次に、重たい第四期、もしくは第四期に近い患者を見ることにした。
彼らの症状は見ていて痛々しいものだった。
それでも、俺は冷静を保ち、これまで培ってきた知識と経験を総動員して治療に当たった。
結果は幸い、三人共に無事に治療が済み、退院していった。
これで、俺の「治癒スキル」も少しはレベルアップしただろうか。
そんな場違いなことを考えて、俺はフッと笑った。
治療が終わり、ホッと一息ついたのも束の間、楼主の一人が困ったように、だがどこか懇願するように話を切り出した。
「先生、実は……ここ屋敷に連れてくることも叶わず、寝たきりになってしまっている娼妓がおりまして……」
聞けば、彼女らの治療については、楼主の方も半ば諦めているというのだ。
寝たきり……か。
つまり、第四期のかなり進行した、末期的な状態ってことだよな?
今の俺のスキルじゃ、正直言って、かなりリスキーな「絶望クエスト」だ。
勝算は低い。だが、ここで見捨てていいのか?
俺は悩んだ。
しかし、彼女たちの絶望的な状況を思うと、やはり試す価値はあると思ったのだ。
そう、「ダメ元」だ。
ダメ元なら、やってみる価値はある。
次に、軽い方の第二期までの患者を受け入れる前に、治療費請求にそれぞれの妓楼を回った。
その時だ。
俺は、思い切って、その寝たきりの患者にも注射をしてみることにした。
楼主には事前の説明をしっかりとした。
「ショックで耐えられないかもしれない。これが原因で死ぬ可能性もあります」
俺は、わざと冷徹な口調でそう念を押した上で、念書まで交わして治療を試みた。
これでもし何かあったとしても、俺の責任は問われない。
とはいえ、内心は、ガチガチに緊張していた。
注射器を握る手が震える。
まるで、初めて回復魔法を使う新米ヒーラーの気分だ。
頼む、効いてくれ!
俺の思い、いや、ペニシリン!
結果は……奇跡、と言っていいだろう。
一人を除き、一応治療はできたようだ。
彼女たちの顔に、ほんのりと血色が戻り、かすかにだが、生気が宿ったのを俺は確かに見た。
その変化は、まるで枯れた大地に水が染み渡るような、静かで、しかし確実なものだった。
奇跡だ!
本当に奇跡が起こったんだ!
彼女たちには、状態が良くなってからでいいから、一度屋敷に来てもらうように指示を出しておいた。
しかし、一人だけは残念ながら、治療が間に合わなかった。
彼女は、静かに、息を引き取った。
結局、治療が間に合わずに死なせてしまった娼妓については、その後の処理を楼主がしてくれるということで、話がついた。
葬儀らしいこともされなかったようで、今までの慣習どおりに処理されたと聞かされた。
「慣習どおり」……その言葉が、まるで鉛のように重く俺の胸にズンと響いた。
彼女の命は、この時代では、それだけの価値しか持たなかったのか?
俺は、ただ静かに、唇を噛み締める。
これが、この時代、この世界、この横浜の現実なんだろうな。
やりきれない気持ちでいっぱいだったが、それでも、俺は顔を上げた。
まだ、救える命がある。
この小さな屋敷で、俺は、静かに、だが確実に、「病院」という名の砦を築き続けていくのだ。
やれやれ、俺の挑戦は、まだまだ始まったばかりのようだ。
先は長いが、諦めるわけにはいかない。
俺は、楽に生きたい……いや、かっこよくハードボイルドのような世界を生きたいと考えて始めたことだが、変な使命っていうのか、そんなのを感じてしまった。
そう、決意を新たにする俺だった。
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