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第1話
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グラスが派手に割れた音で、一瞬静まり返る店内。
「失礼しましたぁ!」
一斉にこちらへと向けられた視線に慌てながら、俺は深々と頭を下げた。
今日からバーでウェイターとして働き始めたものの、どんくさいせいで何度もグラスを割ってしまっている。
さっき先輩の鈴木さんから俺にしか聞こえない声量で「マジで使えねぇな」と罵られてからは余計に緊張して、また手を滑らせてしまった。
自分でも本当に使えない奴だと思っているけれど、こんなどうしようもない俺にも救いの手を差し伸べてくれる人がいた。
「大丈夫? 怪我してない?」
バーテンダーの勅使河原さんは素早く箒と塵取りを持ってきて床に散らばった破片を掃き取ってくれる。
「申し訳ないです……」
持ち前の人見知りを発揮している俺は謝るだけで精一杯だ。
「ドンマイ」
それでも優しく微笑みながら肩を叩いてもらえたお陰でガチガチだった心が解れていくのを感じた。
働き始めて数時間しか経っていないのに、もうすっかり勅使河原さんに憧れてしまっている。
俺もいつかはあんな風に仕事も気遣いもできる男になりたいな、なんて考えながら割れたグラスの処理を終えたところで、店長から声を掛けられた。
「ちょっといい?」
「はい」
絶対に怒られるに違いないと思いながら店長に続いてスタッフルームに入る。愛想がいい勅使河原さんと違って店長はまだ笑っているところを見たことがないから少し怖い。
「志村くんさ、辞めないよね?」
真顔でそう尋ねられて、心配してくれているようにも、遠回しに退職を促されているようにも感じた。
「えっと……できれば辞めたくはないんですけど……」
「あ、別にクビにしようとかそういうんじゃなくて、むしろ逆だよ」
辞めろと言われても仕方ないくらいの仕事振りだという自覚はあるから不安だったけど、肩叩きではないとわかって俺は胸を撫で下ろした。
「鈴木くんって当たり強くない?」
店長からのその問い掛けには素直に頷けるはずもなく、何も言えずに首を傾げたら「答えづらいか」と小さく笑われた。
「鈴木くんにはコミュニケーションも仕事のうちだっつってんだけどな。まあ、ミスなんか誰でもするもんだし気にしなくていいよ」
「ありがとうございます」
俺は仕事ができないから何を言われてもしょうがないと思っていたけど、そう言ってもらえて安心した。店長からすると鈴木さんも仕事ができない奴なのかもしれない。
「ちなみに鈴木くんとは今月末でお別れだからさ」
「そうなんですか」
「お、ちょっと嬉しそうじゃん」
「そんなことないですよ」
店長から思わぬ吉報を受けて思わず少し口元が緩んでしまった。あとちょっとの辛抱かと思うと少しは気が楽だ。
「とりあえず、なんかあったらいつでも相談してくれていいから」
「ありがとうございます」
店長はなんとなくクールな印象だったけど意外と情に厚い人みたいだ。
勅使河原さんも店長も優しく接してくれて、なんとかやっていけそうな気がしてきた。
「おはようございます」
「おはよう」
入店から半月が過ぎたある日、出勤したら店内に勅使河原さんしかいなくて少し驚いた。鈴木さんは確か休みだけど、店長がいないなんて珍しい。
「あの、今日、店長は……?」
「野暮用でちょっとだけ遅れるって」
「なるほど」
勅使河原さんと二人だけで話す機会なんてそうないし、何か話してみたいけど話題が思い付かない。
頭を悩ませながらスタッフルームで制服に着替えて勅使河原さんの元へ戻ると、おずおずとこんな質問をされた。
「つかぬことをお伺いするけど、今月末の日曜の仕事終わりって時間ある?」
「あっ、はい」
プライベートの予定を聞かれるという初めての事態に動揺した俺は裏返った声でそれに答えた。
「実は志村くんの歓迎会兼鈴木くんの送別会をやろうかって話になってるんだよね」
「あー……なるほど……」
しかし用件を聞いた瞬間に俺のテンションは急降下した。鈴木さんが辞めるとは聞いていたけど、そんなイベントがあるなんて考えてもいなかった。
「嫌だったら断ってくれていいからね?」
「いや、行きます」
露骨な態度のせいで気を遣わせてしまって、申し訳ない気持ちになった俺は反射的に参加の意思を表明していた。
「無理してない? 断るなら今のうちだよ?」
「大丈夫です」
「ホントにホント?」
「疑い過ぎですよ」
正直なところ全く大丈夫な気はしていないけど、しつこいくらい確認されて思わず笑うと勅使河原さんも笑ってくれた。
「よかった。飲み会嫌いなんじゃないかって夏彦さんも心配してたんだよ」
そこで勅使河原さんの口から出たのは聞き慣れない名前だった。
「夏彦さん?」
「あ、店長ね」
店長の下の名前が夏彦だなんて今知った。確か昨日までは店長と呼んでいたはずなのに、どうして急に名前で呼ぶようになったのか気になる。
「前は店長って呼んでませんでしたっけ?」
「そうそう、昨日一緒にファミレス行った時にそういうノリになったんだよね」
そういうノリがどういうノリなのか俺にはわからない。ただ、勅使河原さんと店長は俺が思っていたよりも親しい間柄だということはわかった。
俺はバイトだしいつも閉店作業がある程度終わったら退勤しているから仕方ないけど、俺が帰った後に二人でご飯に行っているというのは少し寂しい。
「仲良さそうで羨ましいです」
率直な気持ちを伝えてみたら、勅使河原さんから返ってきたのは思い掛けない一言だった。
「志村くんとも仲良くなりたいな」
屈託のない笑顔でそう言われると、なんだか胸がいっぱいになって言葉に詰まってしまう。
「志村くんはそうでもない?」
打って変わって不安気な表情で尋ねられて、俺は慌てて弁解した。
「あのっ、そういうことじゃなくて、なんていうか……嬉しくて固まっちゃっただけです」
「何それ」
それがなぜかツボに入ったみたいで、勅使河原さんは両手で顔を隠して笑っていた。
「そんなに笑わないでくださいよ」
「ふふふっ」
普段からよく笑う人とはいえ、ここまで大笑いしているところを見るのは初めてだ。年上の男性に対しては失礼かもしれないけど、つい、可愛いと思ってしまった。
「飲み会、楽しみにしてるね」
ひとしきり笑った後、勅使河原さんは満面の笑みでそう言ってくれた。
「俺もです」
さっきまではまるで気が進まなかったのに、俺はあっさりと掌を返していた。
「失礼しましたぁ!」
一斉にこちらへと向けられた視線に慌てながら、俺は深々と頭を下げた。
今日からバーでウェイターとして働き始めたものの、どんくさいせいで何度もグラスを割ってしまっている。
さっき先輩の鈴木さんから俺にしか聞こえない声量で「マジで使えねぇな」と罵られてからは余計に緊張して、また手を滑らせてしまった。
自分でも本当に使えない奴だと思っているけれど、こんなどうしようもない俺にも救いの手を差し伸べてくれる人がいた。
「大丈夫? 怪我してない?」
バーテンダーの勅使河原さんは素早く箒と塵取りを持ってきて床に散らばった破片を掃き取ってくれる。
「申し訳ないです……」
持ち前の人見知りを発揮している俺は謝るだけで精一杯だ。
「ドンマイ」
それでも優しく微笑みながら肩を叩いてもらえたお陰でガチガチだった心が解れていくのを感じた。
働き始めて数時間しか経っていないのに、もうすっかり勅使河原さんに憧れてしまっている。
俺もいつかはあんな風に仕事も気遣いもできる男になりたいな、なんて考えながら割れたグラスの処理を終えたところで、店長から声を掛けられた。
「ちょっといい?」
「はい」
絶対に怒られるに違いないと思いながら店長に続いてスタッフルームに入る。愛想がいい勅使河原さんと違って店長はまだ笑っているところを見たことがないから少し怖い。
「志村くんさ、辞めないよね?」
真顔でそう尋ねられて、心配してくれているようにも、遠回しに退職を促されているようにも感じた。
「えっと……できれば辞めたくはないんですけど……」
「あ、別にクビにしようとかそういうんじゃなくて、むしろ逆だよ」
辞めろと言われても仕方ないくらいの仕事振りだという自覚はあるから不安だったけど、肩叩きではないとわかって俺は胸を撫で下ろした。
「鈴木くんって当たり強くない?」
店長からのその問い掛けには素直に頷けるはずもなく、何も言えずに首を傾げたら「答えづらいか」と小さく笑われた。
「鈴木くんにはコミュニケーションも仕事のうちだっつってんだけどな。まあ、ミスなんか誰でもするもんだし気にしなくていいよ」
「ありがとうございます」
俺は仕事ができないから何を言われてもしょうがないと思っていたけど、そう言ってもらえて安心した。店長からすると鈴木さんも仕事ができない奴なのかもしれない。
「ちなみに鈴木くんとは今月末でお別れだからさ」
「そうなんですか」
「お、ちょっと嬉しそうじゃん」
「そんなことないですよ」
店長から思わぬ吉報を受けて思わず少し口元が緩んでしまった。あとちょっとの辛抱かと思うと少しは気が楽だ。
「とりあえず、なんかあったらいつでも相談してくれていいから」
「ありがとうございます」
店長はなんとなくクールな印象だったけど意外と情に厚い人みたいだ。
勅使河原さんも店長も優しく接してくれて、なんとかやっていけそうな気がしてきた。
「おはようございます」
「おはよう」
入店から半月が過ぎたある日、出勤したら店内に勅使河原さんしかいなくて少し驚いた。鈴木さんは確か休みだけど、店長がいないなんて珍しい。
「あの、今日、店長は……?」
「野暮用でちょっとだけ遅れるって」
「なるほど」
勅使河原さんと二人だけで話す機会なんてそうないし、何か話してみたいけど話題が思い付かない。
頭を悩ませながらスタッフルームで制服に着替えて勅使河原さんの元へ戻ると、おずおずとこんな質問をされた。
「つかぬことをお伺いするけど、今月末の日曜の仕事終わりって時間ある?」
「あっ、はい」
プライベートの予定を聞かれるという初めての事態に動揺した俺は裏返った声でそれに答えた。
「実は志村くんの歓迎会兼鈴木くんの送別会をやろうかって話になってるんだよね」
「あー……なるほど……」
しかし用件を聞いた瞬間に俺のテンションは急降下した。鈴木さんが辞めるとは聞いていたけど、そんなイベントがあるなんて考えてもいなかった。
「嫌だったら断ってくれていいからね?」
「いや、行きます」
露骨な態度のせいで気を遣わせてしまって、申し訳ない気持ちになった俺は反射的に参加の意思を表明していた。
「無理してない? 断るなら今のうちだよ?」
「大丈夫です」
「ホントにホント?」
「疑い過ぎですよ」
正直なところ全く大丈夫な気はしていないけど、しつこいくらい確認されて思わず笑うと勅使河原さんも笑ってくれた。
「よかった。飲み会嫌いなんじゃないかって夏彦さんも心配してたんだよ」
そこで勅使河原さんの口から出たのは聞き慣れない名前だった。
「夏彦さん?」
「あ、店長ね」
店長の下の名前が夏彦だなんて今知った。確か昨日までは店長と呼んでいたはずなのに、どうして急に名前で呼ぶようになったのか気になる。
「前は店長って呼んでませんでしたっけ?」
「そうそう、昨日一緒にファミレス行った時にそういうノリになったんだよね」
そういうノリがどういうノリなのか俺にはわからない。ただ、勅使河原さんと店長は俺が思っていたよりも親しい間柄だということはわかった。
俺はバイトだしいつも閉店作業がある程度終わったら退勤しているから仕方ないけど、俺が帰った後に二人でご飯に行っているというのは少し寂しい。
「仲良さそうで羨ましいです」
率直な気持ちを伝えてみたら、勅使河原さんから返ってきたのは思い掛けない一言だった。
「志村くんとも仲良くなりたいな」
屈託のない笑顔でそう言われると、なんだか胸がいっぱいになって言葉に詰まってしまう。
「志村くんはそうでもない?」
打って変わって不安気な表情で尋ねられて、俺は慌てて弁解した。
「あのっ、そういうことじゃなくて、なんていうか……嬉しくて固まっちゃっただけです」
「何それ」
それがなぜかツボに入ったみたいで、勅使河原さんは両手で顔を隠して笑っていた。
「そんなに笑わないでくださいよ」
「ふふふっ」
普段からよく笑う人とはいえ、ここまで大笑いしているところを見るのは初めてだ。年上の男性に対しては失礼かもしれないけど、つい、可愛いと思ってしまった。
「飲み会、楽しみにしてるね」
ひとしきり笑った後、勅使河原さんは満面の笑みでそう言ってくれた。
「俺もです」
さっきまではまるで気が進まなかったのに、俺はあっさりと掌を返していた。
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