鳴かぬ蛍が身を焦がす

らすぽてと

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第9話

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 勅使河原さんと一緒に夕飯を食べてカフェバーの前で別れた俺は温かい気持ちで帰途についた。幸せそうにオムライスを食べている勅使河原さんを思い出すと頬が緩んでしまう。
 家に帰ってからはステアの復習をしながら今日あったことを思い返していた。勅使河原さんのことを深く知れたし、人生観が変わるような話も聞けて、本当に貴重な時間を過ごさせてもらったと思う。
 話を聞く限り、勅使河原さんはとても一途そうだから俺が今朝懸念していたようなことは全くもって見当違いだったかもしれない。
 勅使河原さんの師匠に対しては憤りを感じたけれど、それがなければこうして出会うこともなかったわけだから、と考えて溜飲を下げた。
 俺は失恋したことがないからフラれた場合はどんな気分になるんだろうかと不安になる。想像もできないくらいのショックを受けるに違いないし、バイトを続けられる自信はまるでない。
 かといって、こんなに目を掛けてくれている勅使河原さんにも、不出来な俺を見限らずに雇い続けてくれている店長にも感謝しているから、何も恩返しできないうちに辞めるなんて嫌だ。
 それに、告白したところで勅使河原さんが急に態度を変えるとは考えづらい。最初は気まずかったとしても喉元過ぎればなんとやらでどうにかなるような気もする。
 少し前までは後ろ向きな考えばかりだった俺も時生や冬彦さんの影響で少し前向きになれているみたいで、今度は逆に上手くいった時のことも考えてみることにした。
 今は休みの日に時間を割いてもらっているだけでもありがたいし、ただの後輩の分際でこれ以上何か望むつもりはないけど、もしも恋人になれたら「もっと一緒にいたいです」と恥ずかしがらずに伝えたい。
 漠然とデートしたいという気持ちもある。出不精だから具体的な行き先は思い付かないけど、勅使河原さんといればどこに行ったって楽しそうだ。
 手を繋いで歩くのはさすがに難しいだろうかと考えた時、振り返ってみればそれに近いことは勅使河原さんの家に米を運ぶ時に既にやっていたということに気付いた。あの時は周りの目なんて気にならなかったから案外大丈夫かもしれない。
 今日、恋人繋ぎしているだけでも満たされた感覚はあったけど、やっぱり勅使河原さんは何を思って俺の手を握ったんだろうという疑問は残っている。
 一般的にはどうなのかと思って『手を握る 心理』とネットで調べてみたけど、好意の表れだとか、気持ちを確かめるためだとか、下心があるからだとか、ただのノリだとか、色々な情報が出てきてよくわからなかった。
 延々とウェブサイトを見ているうちにいつの間にか普段なら寝ているような時間になっていたから急いでシャワーを浴びて歯を磨いた。ベッドに入って瞼を閉じたものの、なぜか勅使河原さんの手の感触が思い出されて寝付けなくなってしまった。
 あまりにも眠れないから仕方なく起き出して、またステアの練習をすることにした。勅使河原さんが言っていた通り指の皮がめくれてきたけど、絆創膏を貼ってスプーンを回し続けた。
 結局、空がすっかり明るくなった頃に眠りに就いて、いつもより遅い時間に目を覚ました。ぼんやりと食事を摂っていたら珍しく店長からメッセージが届いたから何事かと思った。
『今夜は台風直撃するみたいだから無理して来なくても大丈夫だよ』
 俺の家から店までは徒歩十分くらいの距離なのに、こんな風に気遣ってくれる店長には頭が下がる。
『ありがとうございます。行ってもいいなら行きたいです』
『来るなとは言わないけど気を付けてね』
 店長の優しさに触れて、勅使河原さんとの関係がどうなったとしてもバイトは続けたいという気持ちが強くなった。
 食べ終わる頃にはわりとギリギリの時間になっていたから急いで身支度をして家を出ると、雨も風も思ったより酷くはなくて無事に店に到着することができた。
「おはようございます」
「おはよう」
「お、テシの弟子だ」
「へ?」
 勅使河原さんはいつも通り笑顔で挨拶してくれたけど、店長の第一声は思い掛けない言葉だったから素っ頓狂な声を出してしまった。
「いや、テシのところで修行中だって聞いたからさ」
「俺なんてまだ師匠名乗れるほどじゃないですよ」
「十年もやってりゃ十分だろ。十九からじゃないの?」
「そうですね。見習い期間も入れていいなら今年で十周年です」
「おめでとうございます」
「ありがとう」
 俺は勅使河原さんに拍手を送りつつ、頭の片隅で師匠と六年くらい付き合っていたのかと計算してしまっていた。
 その時、不意に勅使河原さんが「あ」と小さく声を上げて、昨日と同じように俺の右手を取った。どうやら絆創膏の存在に気付いたらしい。
「帰ってからも練習してたの?」
「特にやることなかったんで」
「練習熱心で偉いね。でも、睡眠時間削ったりしちゃダメだよ?」
「気を付けます」
 寝不足気味なのはバレているみたいで優しく注意されてしまった。勅使河原さんはまさか自分の行動が原因で眠れなかったなんて露ほどにも思っていないだろう。
「いつまで触ってんだよ」
「失礼しました」
 店長から後頭部に軽くチョップを入れられた勅使河原さんは苦笑しながら俺の手を離した。店長は小さく溜め息を吐いて、俺にゴム手袋を差し出した。
「あげる。傷口、滲みてもよくないし」
「すみません、ありがとうございます」
「うちでもお客さんいない間はなんでも好きに使ってくれていいからね」
「ありがとうございます」
 頭を下げながらそれを受け取った後、温かい言葉を掛けてもらって俺はまたお礼を言った。店長も愛想がないだけで勅使河原さんに負けず劣らず優しい人だ。
 いつものように制服に着替えて開店準備をしながら、冬彦さんの笑顔を見た瞬間のなんとも言えない違和感を思い出していた。
「そういえば一昨日、時生に連れられて冬彦さんに会ってきました」
「えー、いいなぁ。楽しそう」
 本店に行ってきたことを話してみたら勅使河原さんは羨ましそうにそう言った。ほとんどずっと俺の恋愛相談の時間だったとはとても言えない。
「二人ともうるさかったでしょ。疲れなかった?」
「めちゃくちゃ元気だったんでこっちまで元気になりました」
「ならよかった」
 店長は心配してくれたけど、俺の返答を聞いて少し安心したような顔をしていた。俺も前よりは店長の表情を読み取れるようになった気がする。
「あと、店長の子供の頃の写真見せてもらって癒されました」
「勝手に見せびらかすのやめろっつってんだけどな」
 店長の反応からして、冬彦さんが店長の昔の写真を見せるのはいつものことのようだ。
「子供の頃の夏彦さんホント可愛いよね。俺も待ち受けにしてるよ」
「なんでだよ」
 勅使河原さんのスマホの画面には握り拳を口に入れている赤ちゃんが映っていて、それを見た店長は眉を顰めていた。何がどうしてそうなったのかは俺も知りたい。
「冬彦さんから写真や動画いっぱい送ってもらった時にノリで設定しました」
「全消ししといて」
「嫌です」
 店長は冷ややかな態度で削除依頼を出していたけど、勅使河原さんは笑顔できっぱりと断る。
「肖像権の侵害とかで訴えられないもんかな」
「法廷で争おうとしないであげてください」
「はははっ」
 穏やかじゃないことを言う店長に思わずツッコんだら勅使河原さんが声を上げて笑ってくれて嬉しかった。
「あ、夏彦さんって歌上手いですよね。文化祭か何かにバンドで出てたの、とってもかっこよかったです」
 勅使河原さんが思い出したように口にしたその言葉に店長は目を見張った後、片手で頭を抱えて俯いた。
「それ、マジで今すぐ消して」
 珍しく顔を赤らめている店長に俺は驚いたけど、勅使河原さんは見るからにときめいている様子で口を開く。
「可愛い」
「殺すぞ」
「照れてる顔なんて初めて見ました」
 店長から恫喝されても意に介さなかった勅使河原さんも、いつもより強めにビンタを入れられたら口をつぐんだ。なぜか嬉しそうではある。
 店長と話している時の勅使河原さんのテンションが十だとしたら俺と話している時は八くらいのような気がして悲しい。
 それにしても、自分から前に出るタイプではなさそうな店長がバンドを組んでいたなんて想像が付かなかった。
「店長、軽音部だったんですか」
「帰宅部だったけど文化祭の日にボーカルが風邪で休んだから代わりに歌っただけ」
「それはボーカルの人可哀想でしたね」
「ボロ泣きしながら代打頼まれたから断れなかったんだよ」
 そうは言っても、そこで白羽の矢が立つということは相当歌が上手いんだろう。音痴過ぎて合唱の時に迷惑を掛けないように口パクでやり過ごしていた俺とは正反対だ。
「俺もその動画見たいです」
「見る?」
「見せたら勅使河原くんとは仕事以外で二度と口利かない」
「見せないので心の距離取らないでもらっていいですか」
「よっぽど嫌なんですね」
 店長の歌は聞いてみたかったけど本気で嫌がっているみたいだし、勅使河原さんがプライベートで店長に無視されるのは可哀想だから大人しく諦めることにした。
「そもそもあの場にいなかったはずの兄貴がなんで動画持ってんのかもわかんねぇから気持ちわりんだよな」
「それは確かに怖いですね」
 冬彦さんは俺が思っていた以上のブラコンらしい。というか、ブラコンを通り越してストーカー染みているような気さえする。
「健太郎くんは兄弟いるんだっけ?」
「えっ、俺ですか」
 勅使河原さんから突然そう聞かれて、一瞬どう答えるか迷った。近頃は気まずい空気になるのが嫌で一人っ子だと言ってしまうことが多い。だけど、ここはやっぱり正直に話すことにした。
「えっと……高一の時に親が再婚したんで、義理の姉がいます」
「そうなんだ。どんな人なの?」
「無口だけど行動力はある、って感じです。俺が困ってた時に全力で助けてくれました」
「へー、かっこいいね」
 勅使河原さんも店長も変に気を遣ったり同情したりせずにさらりと受け止めてくれて、それがすごくありがたかった。
「勅使河原さんは一人っ子でしたよね」
「うん。だから兄弟いる人が羨ましいんだよね」
「いたらいたでめんどいよ」
 俺も元々は一人っ子だったから勅使河原さんの気持ちはよくわかるけど、店長の言うように面倒な部分もある程度は想像が付く。
「夏彦さんはお兄さんから愛されてるからいいじゃないですか」
「あの余分な愛情を余所に移せたら便利だろうな」
 それは現実主義な店長らしからぬ言葉だと思ったし、勅使河原さんも驚いた顔をしていた。
「ひょっとして恋でもしてます?」
「兄貴にうんざりしてるだけだよ」
「怪しいですね」
 勅使河原さんの質問に店長は呆れた様子で答えたけど、勅使河原さんはそれでも訝しむような目で店長をまじまじと見る。
「こっち見んな」
 店長は右手で勅使河原さんの両のこめかみを挟むように掴んでいた。優しめのアイアンクローといったところだろうか。
「もっと締めてくれてもいいですよ?」
「客商売だから顔に痕残っちゃダメだろ」
「それもそうですね」
 本気じゃないとわかっていてもちょっとどうかと思うようなやり取りの末、店長は勅使河原さんから手を離した。職業や部位に関係なく暴力はよくない。
「夏彦さんってどういう人が好きなんですか」
「そういうこと聞いてこない人」
「それは残念です」
 店長の好みのタイプを聞いた勅使河原さんは言葉とは裏腹ににこにこと笑っていた。
「健太郎くんはどういう人が好き?」
 同じ質問をされて咄嗟に、時生が言っていた「普段からなるべく好きって伝える」を実践するなら今じゃないかと思った。
「俺は勅使河原さんが好きです」
「俺も健太郎くんのこと好きだよ」
 思いのほか重くないトーンで言えたものの、勅使河原さんが笑顔で繰り出したカウンターはあまりにも強烈で、照れていることを悟られないように笑って誤魔化した。
「別に恋愛禁止とは言わないけどさ、こじれた時に辞めないでね」
「こじれないので心配ご無用です」
 店長が真顔で言い放った言葉に勅使河原さんは自信あり気に応えた。もしも店長が俺の気持ちを察しているんだとしたら、この場で冗談を言っているのは勅使河原さんだけかもしれない。
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