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第6章 越境者 / The Crossing
第54話 彼女の決意
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大丈夫、とは言ったものの、胸に空いた穴は簡単には埋まらなかった。
森で薬草を摘み、報酬を受け取っても、指先に残るのは乾いた感触ばかり。
本来なら小さな達成感があるはずなのに、そこにユウの声がないだけで、世界全体が色褪せて見える。
カヤと並んで市場を歩くときもそうだ。
彼女は陽気に屋台を冷やかし、甘い菓子を差し出してくれる。
「ほらリゼも食べなよ」と笑顔を向けてくれるが、リゼの口元はぎこちなく引きつる。
味は確かに甘いのに、胸の奥は苦く締めつけられる。隣にユウがいれば、違ったのだろうか――そんな思いが、瞬間ごとに心を刺す。
夜になり宿に戻ると、ベッドに潜り込んでも眠気は訪れなかった。暗がりの中、天井を見つめると、ユウの最後の言葉がふいに蘇る。
――待ってて。必ず、戻る。
その声を聞くたびに胸は震え、崩れそうになる心を辛うじて繋ぎ止める杭のようだった。
だが日が経つにつれて、その声は霞んでいく。
何度も思い返しては掴み直そうとするが、指先をすり抜ける幻のように遠のいていく。
焦燥は募り、呼吸は浅く、胸に黒い空洞だけが広がっていく。リゼは膝の上で拳を固く握った。
待っているだけでは駄目だと、心のどこかで分かっている。
けれど自分に何ができるのか――その答えはまだ見えなかった。
♢
依頼の報告を終えてギルドのロビーを出ようとしたとき、不意に背中に声が飛んできた。
「なあ、リゼ」
振り返ると、テーブルに腰を下ろしたナズがこちらを見ていた。椅子の背を揺らすいつもの癖をやめ、真っ直ぐに。
「この前言ってただろ。“強くなりたい”って」
軽口の響きを残しながらも、その目は冗談を言うときの色じゃなかった。
リゼは足を止め、無言で視線を返す。
「でさ、その“強さ”って結局なんなんだ?」
場の空気がぴんと張る。
ロアが読んでいた書類を閉じ、低く言葉を継いだ。
「剣か? 魔術か? それとも…生き延びる術か」
短い問いだったが、選択肢を並べられただけで胸が重くなる。どれを選んでも、自分の口から出した瞬間に本当に欲しいものから遠ざかる気がしてならない。
沈黙が落ちる中、ハナラが壁から背を離し、こちらを一瞥した。
「強さの形は人それぞれ。だけど――“何を欲するか”を決めなきゃ、強くはなれない」
突き刺すような声音。
けれど挑発ではなく、真剣に言っているのが伝わる。
三人の視線が一斉に集まり、リゼは唇を噛んだ。
何を欲しているのか――その答えを探そうとするほど、頭の中は空白に近づいていく。
(私は……何を……?)
声にしようと息を吸っても、喉が固まる。
言葉が形にならず、胸の奥でざらついたまま残る。
長い沈黙が流れた。
ギルドのざわめきが遠ざかり、卓上の視線だけが重くのしかかる。
「……私は」
やっと絞り出した声は、掠れて途切れた。
次の言葉を続けられない自分に、リゼは小さく拳を握りしめた。
♢
ギルドを後にして街の石畳を歩いた。
夕暮れは深まり、橙色に染まる屋根の隙間を、鳥の影が渡っていく。人々の声が賑わい、屋台の鉄板がはぜる匂いが漂ってくる。
だが、どんな音も色も匂いも、リゼの心には遠いものにしか思えなかった。
「……強さ、って」
思わず声が漏れる。
頭に浮かぶのは、剣を振るう自分の姿。
刃が敵を斬り裂き、歓声が上がる。
けれどそれは誰かの姿を借りただけの幻にすぎない。
実際の自分がその場に立ったところで、刃は鈍く、歓声は空っぽだと直感する。
ならば魔術か。
詠唱を口にし、眩い炎を放つ姿を思い描く。
確かに華やかで、強者と呼ばれるのにふさわしい光景かもしれない。
けれどその光の中に、自分の願いはなかった。
魔術を放っても、胸の空洞は埋まらない。
足が止まる。
胸に手を当て、息を吐いた。
――ユウの声。
必ず戻る、と言ってくれた。その言葉が杭のように心を支えている。
けれど、待つだけではまた奪われる。
ただ突っ立っている自分の手から、大切なものはすり抜けてしまう。
弱さとは――間に合わないこと。
強さとは――必ず間に合うこと。
クラヴァルのように自分から奪いに行くのでもない。誰よりも強い冒険者のように誇る力を得るのでもない。そんな姿を思い描いても、胸に熱は灯らない。
私は何を欲している?
問いを重ねるたび、霧が濃くなる。しかしその奥で――細い光がかすかに灯った。
ユウが帰る道。
あの日、光に飲まれて彼が消えたとき、自分にはその道を繋ぎ止める術がなかった。だから、欲しい。
ユウが望んだときに必ず帰ってこられるように、その道を切らせない力が。
奪う力じゃない。押し退ける力でもない。
誰かの強さを真似るのではなく、自分にしかできない強さ。リゼは目を伏せ、胸に当てた掌を強く握りしめた。そこに確かに熱があった。
――これこそが、自分が心から欲している「力」だ。
胸に浮かんだ答えは、はじめは頼りない灯にすぎなかった。けれど歩を進めるごとに、その光はかすかに形を持ち始める。
(私が欲しいのは――剣じゃない。魔術でもない)
頭の中で、ジャスクの三人の問いが繰り返される。
武術か? 魔術か? 生き抜く術か?
どれも確かに強さの形ではある。だが、私の答えは違う。
「私は、ユウが帰る道に間に合いたい。その道を守り抜く力が欲しい」
言葉にしてみれば、驚くほど簡単だった。
だが胸の奥から湧き出したその声は、確かに自分自身のものだった。奪いに行くのではなく、待つだけでもない。その間にある、繋ぎ止めるという選択。
ユウが望めば必ず戻れるように、道を切らさず守る力。答えを形にした瞬間、胸の奥に張り詰めていた霧が晴れ、静かな熱が広がっていく。
これこそが、私の欲するもの。
リゼは空を仰ぎ、そっと瞼を閉じた。
森で薬草を摘み、報酬を受け取っても、指先に残るのは乾いた感触ばかり。
本来なら小さな達成感があるはずなのに、そこにユウの声がないだけで、世界全体が色褪せて見える。
カヤと並んで市場を歩くときもそうだ。
彼女は陽気に屋台を冷やかし、甘い菓子を差し出してくれる。
「ほらリゼも食べなよ」と笑顔を向けてくれるが、リゼの口元はぎこちなく引きつる。
味は確かに甘いのに、胸の奥は苦く締めつけられる。隣にユウがいれば、違ったのだろうか――そんな思いが、瞬間ごとに心を刺す。
夜になり宿に戻ると、ベッドに潜り込んでも眠気は訪れなかった。暗がりの中、天井を見つめると、ユウの最後の言葉がふいに蘇る。
――待ってて。必ず、戻る。
その声を聞くたびに胸は震え、崩れそうになる心を辛うじて繋ぎ止める杭のようだった。
だが日が経つにつれて、その声は霞んでいく。
何度も思い返しては掴み直そうとするが、指先をすり抜ける幻のように遠のいていく。
焦燥は募り、呼吸は浅く、胸に黒い空洞だけが広がっていく。リゼは膝の上で拳を固く握った。
待っているだけでは駄目だと、心のどこかで分かっている。
けれど自分に何ができるのか――その答えはまだ見えなかった。
♢
依頼の報告を終えてギルドのロビーを出ようとしたとき、不意に背中に声が飛んできた。
「なあ、リゼ」
振り返ると、テーブルに腰を下ろしたナズがこちらを見ていた。椅子の背を揺らすいつもの癖をやめ、真っ直ぐに。
「この前言ってただろ。“強くなりたい”って」
軽口の響きを残しながらも、その目は冗談を言うときの色じゃなかった。
リゼは足を止め、無言で視線を返す。
「でさ、その“強さ”って結局なんなんだ?」
場の空気がぴんと張る。
ロアが読んでいた書類を閉じ、低く言葉を継いだ。
「剣か? 魔術か? それとも…生き延びる術か」
短い問いだったが、選択肢を並べられただけで胸が重くなる。どれを選んでも、自分の口から出した瞬間に本当に欲しいものから遠ざかる気がしてならない。
沈黙が落ちる中、ハナラが壁から背を離し、こちらを一瞥した。
「強さの形は人それぞれ。だけど――“何を欲するか”を決めなきゃ、強くはなれない」
突き刺すような声音。
けれど挑発ではなく、真剣に言っているのが伝わる。
三人の視線が一斉に集まり、リゼは唇を噛んだ。
何を欲しているのか――その答えを探そうとするほど、頭の中は空白に近づいていく。
(私は……何を……?)
声にしようと息を吸っても、喉が固まる。
言葉が形にならず、胸の奥でざらついたまま残る。
長い沈黙が流れた。
ギルドのざわめきが遠ざかり、卓上の視線だけが重くのしかかる。
「……私は」
やっと絞り出した声は、掠れて途切れた。
次の言葉を続けられない自分に、リゼは小さく拳を握りしめた。
♢
ギルドを後にして街の石畳を歩いた。
夕暮れは深まり、橙色に染まる屋根の隙間を、鳥の影が渡っていく。人々の声が賑わい、屋台の鉄板がはぜる匂いが漂ってくる。
だが、どんな音も色も匂いも、リゼの心には遠いものにしか思えなかった。
「……強さ、って」
思わず声が漏れる。
頭に浮かぶのは、剣を振るう自分の姿。
刃が敵を斬り裂き、歓声が上がる。
けれどそれは誰かの姿を借りただけの幻にすぎない。
実際の自分がその場に立ったところで、刃は鈍く、歓声は空っぽだと直感する。
ならば魔術か。
詠唱を口にし、眩い炎を放つ姿を思い描く。
確かに華やかで、強者と呼ばれるのにふさわしい光景かもしれない。
けれどその光の中に、自分の願いはなかった。
魔術を放っても、胸の空洞は埋まらない。
足が止まる。
胸に手を当て、息を吐いた。
――ユウの声。
必ず戻る、と言ってくれた。その言葉が杭のように心を支えている。
けれど、待つだけではまた奪われる。
ただ突っ立っている自分の手から、大切なものはすり抜けてしまう。
弱さとは――間に合わないこと。
強さとは――必ず間に合うこと。
クラヴァルのように自分から奪いに行くのでもない。誰よりも強い冒険者のように誇る力を得るのでもない。そんな姿を思い描いても、胸に熱は灯らない。
私は何を欲している?
問いを重ねるたび、霧が濃くなる。しかしその奥で――細い光がかすかに灯った。
ユウが帰る道。
あの日、光に飲まれて彼が消えたとき、自分にはその道を繋ぎ止める術がなかった。だから、欲しい。
ユウが望んだときに必ず帰ってこられるように、その道を切らせない力が。
奪う力じゃない。押し退ける力でもない。
誰かの強さを真似るのではなく、自分にしかできない強さ。リゼは目を伏せ、胸に当てた掌を強く握りしめた。そこに確かに熱があった。
――これこそが、自分が心から欲している「力」だ。
胸に浮かんだ答えは、はじめは頼りない灯にすぎなかった。けれど歩を進めるごとに、その光はかすかに形を持ち始める。
(私が欲しいのは――剣じゃない。魔術でもない)
頭の中で、ジャスクの三人の問いが繰り返される。
武術か? 魔術か? 生き抜く術か?
どれも確かに強さの形ではある。だが、私の答えは違う。
「私は、ユウが帰る道に間に合いたい。その道を守り抜く力が欲しい」
言葉にしてみれば、驚くほど簡単だった。
だが胸の奥から湧き出したその声は、確かに自分自身のものだった。奪いに行くのではなく、待つだけでもない。その間にある、繋ぎ止めるという選択。
ユウが望めば必ず戻れるように、道を切らさず守る力。答えを形にした瞬間、胸の奥に張り詰めていた霧が晴れ、静かな熱が広がっていく。
これこそが、私の欲するもの。
リゼは空を仰ぎ、そっと瞼を閉じた。
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