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第6章 越境者 / The Crossing

第55話 点が線になり

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湯気が立ちこめる厨房。

寸胴鍋からは濃厚な香りが立ち上り、火加減を調整する音と、包丁の重い音が響いていた。

ユウは割烹着を着せられ、まな板に置かれた大きな豚肉の塊に包丁を入れていた。

脂の層を切るたびに、じゅわりと白い脂がにじみ出て、刃とまな板が重く鳴る。

「あの、魔素の…その、練習は……?」

小声でこぼすユウ。
背を向けて寸胴をかき混ぜていた帰還者は、振り返りもせずに答えた。

「それをやりながら魔素をコントロールしてみろ」

「……えぇ……?」

仕込みをしながら、魔素を……?

納得できないままユウは、包丁を動かしつつ指先に意識を集中させる。

最初は何も掴めない。冷たい柄の感触と、肉を押し切る重みしかない。

けれど、脂を削ぐたびに掌に熱がじわりと染み込むような感覚があった。

「……っ」

思わず手を止めかけるが、すぐに背後から声が落ちる。

「止めるな。続けろ」

ユウは再び包丁を押し込みながら、その“熱”を追った。指先に集まっていた違和感が、今度は掌の内へじわじわ広がっていく。

形を描くわけでもなく、ただぬるい水が肌の下を染み渡るような曖昧な気配。だが確かに、そこに“何か”が存在していた。

帰還者は寸胴を覗き込みながら、淡々と呟いた。

「向こうの世界で生きていくのもひとつの道だ。
だが道はそれだけじゃない」

ユウは手を止めないようにしながら、息をのむ。

「君が守りたいものはなんだ?」

「守り方が一つしかないのなら、それは“選べない”のと同じだ」

淡々と告げられた声が、重く胸に落ちてきた。
包丁を置き、手を洗うと、ユウは息を整えてカウンターの端に腰を下ろした。

まだ掌には“ぬるい水”の感覚が残っている。

帰還者は火の加減を弱め、寸胴の蓋を閉じると、こちらを振り返った。その目は、淡々としたまま揺らがない。

「魔術というのはな、あくまで“術”だ」

低い声が、厨房に響く。ユウは思わず背筋を伸ばした。

「構築し、発動し、効果を得る。それが常識」

「…だが誰も疑わない。なぜ魔素がそこにあるのか」

「空気の存在を気にしないのと同じことだ」

ユウは言葉を飲み込む。

確かに、自分もリゼもクラヴァルも、“魔素はあるもの”として扱っていた。それ以上を考えたことはなかった。

帰還者は、カウンターに肘を置き、少しだけ唇を歪めた。

「俺は違った。魔素そのものに呼びかけ、直接応える形を選んだ。術式を挟まず、ただ開くだけでいい」

ユウは掌を見下ろす。
さっき感じた“水のにじみ”が、かすかに脈打つように広がっていく。

帰還者は淡々と告げる。

「従来の特技とは違う。特異ではあるがな。俺は――バインドと名付けた」

その一言に、ユウは瞬きをした。
バインド。意味はわからない。ただ、その響きだけが掌に残る熱と重なった。

帰還者はカウンターの上に片手を伸ばした。
その掌がゆっくりと宙をなぞる。

「扉を開ければいい。それで充分だ」

何もないはずの空間が、ふいに揺らめいた。

次の瞬間、光の縁取りを伴った“裂け目”が現れる。ほんのひと欠片、別の空気が流れ込み、奥に違う景色が覗いた。

ユウは息を呑み、身を乗り出す。
手を伸ばせば触れられる気がして、けれど恐ろしくて動けなかった。

「……どうやったんですか、それ」

震える声。帰還者は肩をすくめただけだ。

「応用とはイマジネーションだ。形に縛られるな。」

ユウは自分の掌を見下ろす。

そこに広がる“ぬるい水”の感覚が、裂け目の光景と重なった。自分の中の流れが、外の世界と繋がってしまうような錯覚。

帰還者の裂け目は、やがて静かに閉じていく。
光は消え、ただの空気に戻った。

「……っ」

ユウは言葉を失い、拳を握った。
胸の奥がざわめき、掌の感覚が一層強まる。

帰還者はゆっくりと歩み寄り、ユウの前に立った。その目には憐れみも期待もなく、ただ静かな光だけが宿っている。

「俺の特技は伝授でも付与でもない。――継承だ」

そう言って、掌を差し出す。ユウは戸惑いながらも、その手に自分の掌を重ねた。

次の瞬間、眩い光が流れ込む。指先から腕へ、胸の奥へ。熱と痛みが同時に押し寄せ、ユウは息を詰めた。

「……っぐ……!」

体の奥で“水”の感覚が爆ぜ、波紋のように広がっていく。曖昧だったにじみが、確かな存在感を持ち始める。

――ユウ。

どこかで、声を聞いた気がした。幻聴のように響いたその声は、あの日別れた彼女のものだった。

ユウは歯を食いしばり、拳を固く握る。口には出さず、心の中でただ一つを刻む。
――守りたい。

光が収まったとき、帰還者は手を離していた。ユウの掌はまだ熱を帯び、震えが残っている。背を向ける帰還者の声が、低く落ちる。

「使いこなしてみろ、城野君」

厨房の奥へ歩み去る背中。残されたユウは、自分の掌を見つめた。そこにはまだ、“ぬるい水”が確かに広がっていた。
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