さそりの心臓、君の幸い

三千鴉

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第六話

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 ぴちゃんと、水滴の音がする。
 節々に痛みと冷たさを感じながら、うすぼんやりと世界を見た。明かりはついているが、冷えた洗面所。どうやら、床で寝落ちしていたようだ。立ち上がろうとすれば、固まった身体が軋んで痛い。

 なんとか立ち上がり、鏡を見る。昨日よりはマシな顔をしているが、このまま外に出るわけにはいかない。冷水をかけ、コンシーラーで隈を隠し、カラコンで瞳も隠せば見せられるほどの顔になった。

 今日も撮影だ、服も着替えないと。おぼつかない足取りで寝室へ向かい、軽く身支度をしていく。


 思い起こされるのは、先ほどの夢。
 あれは、忘れていた記憶だ。ルキが死んだ日のことは覚えていたのに、あの幸せな日はどうしてか欠けていた。

 あの時代でも、俺たちの関係は間違いで。ルキが誰も娶らないのはお前のせいだと彼の母親に殺されかけ、ルキは当然のように俺を庇った。実の母親に刺されてなお、俺に向かって憂いを帯びた優しい笑みを浮かべる彼が……脳裏に焼き付いて消えない。

 そうして段々、俺の記憶はルキの最期で上書きされて、幸せだった日々は欠けていってしまったのだろう。

 
 そういえば、ルキは「生きていたい」と口にしていたな。普段は余裕ぶって多くを語らない彼が、はっきりと。
 ああしたい、こうでいたい……と。全てを押し込んだ裏で、いつも笑っていたのだろうか。それは、どれだけ苦しいことなのか。

 やはり、馬鹿は俺の方じゃないか。自分の気持ちだけ分かってもらおうとして、彼に歩み寄らなかった。甘えるだけで、彼を知ろうとも思わずに。ただ、逃げた。


「……話すチャンス、あったのにな」


 向き合うべきだったのに、なんて意味のない後悔をするしかない。

 どうにも落ち着かなくて、時間を確認しようとスマホを開いた。ロック画面に表示されたのは、午前8時頃を示すデジタル数字と、ランダムに選ばれた朝焼けの景色。そして、メッセージ通知のバナーが二件。

 見れば、どちらもマネージャーからだ。昨日のことを心配しているのと、今日の予定に変更があることを、丁寧な文で送ってくれていた。何気なく返信を送ろうとした手を、ふと止める。

 ──そうだ、マネージャーに頼み込んで、ルキと会う機会を作ってもらえないだろうか。このまま終わりたくはない。ならばいっそのこと、俺から始めてしまおう。今までみたいになれなくても、一から関係を。また、失ってしまう前に。


『予定変更、了解です。13時から現地集合とのことですが、少し早めに向かいます。それと、相談したいことがあるのですが、時間がある時に付き合っていただけませんか』


 思いつきのまま、指を動かした。決心が鈍らないうちに送信してしまって、長く息を吐いてスマホを置く。それから、いつもより丁寧に服に手を通していれば、置いたばかりのスマホから通知音が聞こえた。早いなと思いつつ、目と手を画面に滑らせる。


『相談したいこと?』

『昨日代理として来てくださった星野さんのことで、少し』

『え? 彼なら今日の撮影に来るし、現場で聞くよ』


 ぴたりと、指が止まる。
 彼が撮影に来る、という事実がほんの少しだけ脳の動きをも止めた。額に手を当てて、なんとか無理やり動かしていく。

 今日は、エキストラを含めた大人数の撮影だったか。ならば、助っ人で来るのだろうから何のおかしさもない。動揺することなんて、これっぽっちも。

 そっとスマホをしまい、その場を少しだけ右往左往して、深呼吸をする。

 向き合おうと決めたのは、俺だ。
 こんなにも早く向き合うことになると思っていなかっただけで、どうせ腹は括らないといけないのだ。自分に言い聞かせながらもう一度深呼吸をして、再びメッセージアプリを開いた。


『ありがとうございます。本人が居るのでしたら、彼に直接相談します』

『え、そう? まあ、気をつけなね』


 何がなんだか分かっていないはずのマネージャーから、がんばれと魚のスタンプが送られてくる。決意を応援されたような気持ちになって、勝手に笑みがこぼれた。

 了解ですと文字を返して、今度こそスマホの電源を落とす。これからルキと顔を合わせると考えれば、逃げ出したくなる気持ちや、怖さが一気に襲ってくる。けれど、もう一方的なのは止めにしたいから。液晶に映った俺とうなずき合いながら、そう決意を固める。

 それから、また洗面所へ立ち寄った。
 隠し事だらけの顔に、少しだけ余分に化粧をしていく。今度は隠すためではない、引き立てるための手入れだ。仕事柄もあって洒落込むのは好きな方で、道具も結構揃えている。久しぶりに使ったが、楽しい。

 他人にメイクする時、ルキもこんな風に楽しく感じているのだろうか。そもそも彼は、自分自身にメイクをするんだろうか。

 また彼のことを考えてしまっているのに、鏡に映る自分は微笑んだままで。浮かれていると言われれば、そうなのかもしれない。

 それでも俺は、本当に永く忘れていた恋の期待というものに心を預けてしまった。たとえ、裏切られようとも構わない。彼の幸せを知ることが、出来るなら。
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