さそりの心臓、君の幸い

三千鴉

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第九話

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 あれから、5日後。
 撮影漬けの毎日をようやく終えて、待望の休日である。楽しみにしていた、ルキとの外出。朝の10時には駅前広場で合流している──はずだった、のに。

 現在の時刻は、午前11時20分。
 集合時間なんてとっくに過ぎているが、俺はまだ家どころか布団の中である。ぐったりとした身体は、思うように動いてくれない。

 汗ばむ身体を布団の隙間に滑らせ、何度目かのため息を吐く。明らかに熱い息は、現在の体調を明確に表していた。

 よりによって、今日熱を出してしまうとは。無茶をしていたつもりはないけれど、気が緩みすぎてしまったのかもしれない。ルキへ『ごめん』と送った画面を不定期に見ながら、どうしようも出来ない現実を恨む。

 さらに、悪いことは重なるもので。
 撮影続きでろくに買い物も出来ていないままで、薬のストックどころか食料もない。寝ていることしか、出来ないのである。

 マネージャーへの連絡もとっくに終えたし、本当にやることがない。眠気はないけれど、とりあえず目を閉じることにした。ただの暗闇が、こんなにも寂しく感じたのは久しぶりだ。



 ────ぴーんぽーん。


 それから、何分ほど経っただろう。
 やけに軽快な音が来客を知らせた。マネージャーだろうか、体調不良を知らせると時々家まで来ることがあるし。

 でも、会いたくないな。今はカラコンを外しているうえ、体調不良で余計にひどい顔だ。なにより、ベッドから動く気力が出ない。

 しかし、脳内で反響する音は怠惰を許してくれない。追い討ちかのように、手元のスマホからぴろんと通知。なんだよ……と思いながらも、目を開けて確認する。


『家着いたから開けてー』


 ルキからの、簡潔なメッセージ。
 着いた、とはどこに?誰の家へ?


 ──ぴーん、ぽーん。

 「ここだよ」と言わんばかりに、再び間延びしたインターホンが鳴る。そんなわけないと思いながら、体は玄関へと向かう。重だるいのをなんとか引きずり、チェーンと鍵を震える手で開けていく。『警戒心のなさ』という言葉が過ぎったが、もう今さらだった。

 扉の先には、やはりルキが居た。


「ルキ……」

 俺がようやく姿を見せると、用意していたのであろう笑みを途端に引きつらせて震え出すルキ。


「っ!? な、なんで……!? ヤト、いや──いつ、から」


 なんで、いつから、とお前が言う。
 俺の見舞いに来たんじゃないのか、とか。
 急に来られてびっくりしてる、だとか。
 何を見て驚いたんだ……と。
 そう言えるような雰囲気では、なかった。

 まるで幻でも見たように、はくはくと口を開閉させている。真っ直ぐに、俺の目だけを見て。熱を出している俺よりも震えている手を、伸ばしてくる。

 片手に提げていたレジ袋を地面に落として、確かめるようにルキは両手を俺の頬へと当てた。氷のように冷たい手に、少し嫌な記憶が蘇った。


「……部屋、入ってこいよ。中で話す」


 促せば、すぐにレジ袋を拾って中へと踏み込む彼。鍵を閉めてから、彼をリビングに案内する。それも待てないのか、歩いている途中でルキは話しかけてきた。


「……いつから、記憶戻ってたの」

「なにがだ?」

「惚けないで。前世の記憶、あるんでしょ? その赤い瞳は、いつからだって聞いてるんだよ」


 珍しく強い口調の彼に気圧され、しかしそれでも余裕さを崩さないためにソファへ座る。対面へどかりと座り込んだ彼をまっすぐ見てから、俺はようやく彼に打ち明ける決意をした。


「……最初から、だ」

「じゃあ、オレと初めて会った時。あれ、知らないフリしてたんだね」

「そういう風に聞くってことは、お前も覚えてるんだな」


 ハッとした顔でルキは黙り込む。そう、彼だって知らないフリをしていたのだ。きっと、俺が覚えていないと思って。

 ……二人して、ひどい勘違いのまま接していたのだ。似た者同士と言ってしまえば、少しは軽くなるだろうか。今までにない気まずさの中、繋げる言葉などない。


「るき、……っ」


 それでも繋げていたかった。だから、何でもいいと口を開いたのに。熱い息だけを吐いて、俺はまたソファへぐったりと体を預けていた。忘れていたけれど、あぁそうだ。俺、今熱を出していたんだっけ。

 ルキが無言で立ち上がった。いかないでと腕を上げる元気すら出なくて、目線だけで追う。意外にも、彼は俺の傍に跪いた。


「ベッド、どこ?」

「寝室って、札があるとこ……」

「ん、あそこね」


 彼もまた、視線だけで寝室の場所を確認する。どうするつもりだなんて思っていれば、彼はなんの躊躇いもなく俺を抱き上げた。……いわゆる、『横抱き』というやつで。
 とくとくと速いルキの心音が近くなり、熱だけじゃない火照りに襲われる。まるで抱き寄せるように力を込める彼に、本当に仕方なく縋り付いた。


「──前も、こんなことあったな」

「ん?」

「あれは……ルキが熱出してたけどさ。俺が、帝大休んで看病したやつ」

「……えっ、あの情けないオレ覚えてんの?」


 そっとベッドの上におろされながら、小さくうなずく。ルキはベッドに腰掛け、ため息を吐きながら少し恥ずかしそうに目を逸らした。

 やはり、弱いところを見られたり覚えられたりするのは、変わらず苦手らしい。昔から、何にも変わっていない。ここに居るのは本物のルキなんだ。なんて、今更な思考が脳を埋め尽くした。


「ルキ。俺、今もお前のこと好きだ。……何回も、大好きになっちゃうんだよ」

「うん。オレもだよ、ヤト。起きて熱下がったら、いっぱい話そう。昔のことも、今のことも……たっくさん。ね?」


 やっと伸ばすことが出来た手を握り、ルキは優しく笑ってくれる。こんなにも暖かく全てが溶けていくのは、熱のせいにしたい。
 けれど、彼は熱が下がっても傍に居てくれるらしい。どうしようもなく嬉しくて、あんなに怖かった気持ちが上書きされていく。

 それでも、ほんのちょっぴりだけ。
 悪夢を見てしまいそうで、ルキの手を引き寄せて目を閉じる。一人で目を閉じたどの時よりも、暖かい暗闇の中。この意識を繋いでくれる存在を確かめながら、穏やかな息を吐いた。
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