さそりの心臓、君の幸い

三千鴉

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第十話

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 ふわふわとした、夢心地。
 陽だまりのような暖かさが手に触れる。手繰り寄せるように握ると、空っぽな安心が胸を浸していく。

 うすぼんやりとした視界には、誰かがさっきまで居たかのように皺の寄ったベッドの半分が。今は空っぽだけれど、布団やこの場所にはまだ温もりが残っている。しばらく温もりと微睡みに甘えていると、がちゃりとドアの開く音がした。


「ヤト、起きれそう?」

「ん、起きる……」

「はは、眠そう。また、抱っこしてあげよっか?」

「やめろ、子供扱いすんな」


 ふわふわりと笑うルキが、俺の額に手を伸ばす。熱は下がっているみたいで、安心したように彼は頷いた。確かに気怠さもずいぶんマシになったが、のそのそと名残惜しく布団の隙間から這い出す。

 冷たいフローリングに両足をつけたところで、いつもは抱かない違和感を覚える。開いたドアの隙間から、食欲を刺激する香りが漂っているのだ。もしやと思い、ルキを見上げた。彼はニコニコとしたままで、俺の腕を引いてリビングへ連れて行く。


「食欲がありそうなら、何か食べた方が良いからさ。簡単に料理作っといたよ」


 彼は、どこまで優しいのだろう。
 机に置かれたお椀が、湯気を立てて食べられるのを待っていた。半ば強制的に座らされ、ルキが横に座る。そして、なぜか彼がお椀を手にして中身を掬った。差し出されたスプーンにあるのは、卵たっぷりのお粥。


「はい、どうぞ」

「はぁ? 自分で食べら、」


 反論しようとして、喋った隙に口内に放り込まれる。何もかも彼の計算な気がしてならず、少し悔しい。けれど、口内へ優しく広がる塩気と甘みに絆され、思わず口元が綻ぶ。本当に悔しいけれど、美味しい。


「そうかもな、って思ってたけどさ。本当に冷蔵庫空っぽだったの、驚いたよ? ヤト、お弁当ばっかりだったでしょ」

「お前は、お母さんか何かか?」

「……夫じゃだめ?」


 2杯目を掬いながら、彼はこてんと首を傾げてそう言った。少し崩れた彼の笑顔と、スプーンに乗った米。ただ、黙ってそれを見つめた。

 さっきは絆されたけれど、そう簡単に流されはしない。匙だけ奪い取り、自分で口に運ぶ。ゆっくり、たっぷりと時間をかけて咀嚼をしてから、答えを出した。口内に残る米の甘みを吐き出すように。


「──ルキ。俺、分かんないんだ。大好きなのに、ずっと苦しいんだよ」


 ルキは、少しだけ目を見開いた。その間が語るのは、彼に『最期の記憶がない』こと。あるいは、さほど重要なものとしていないか。俺に傷だけを残し続けたその全てを、彼は簡単に消化している。だから今までのようには……きっと。先へなんて、とても言えやしない。

 しかし彼はすぐに、笑みを浮かべた。憂いを帯びた、あの笑顔。そんな顔をさせたいわけじゃなくて、言うつもりのなかった二言目が口から零れてしまった。


「もう一度、恋人未満から始めよう」

「…………!! うん、それでいい。……ありがとう、ヤト」


 始めよう、なんて。まだ怖がっているくせに、なんて無責任な言葉だろう。それでも、ルキは真っ直ぐ受け取ってしまうから。泣きそうな顔をした彼に、強く抱きしめられる。

 落っことさないようにお椀を置いてから、そっと彼の背に腕を回した。懐かしい暖かさも、初めて聞くルキの泣き声も、甘く強く心臓を締め付けていく。


「3年前、ヤトがテレビに出ているのを見てから……ううん。生まれてから今まで、ずっと。ヤトのこと、探していたんだよ。元に戻れなくたって良いって、思いながら。また君に出会えて、良かった」

「……ありがとう、俺を見つけてくれて」


 あの時と全く同じ言葉を吐いて、彼の独白を受け入れる。
 正解なんて分からない。ここで突き放してしまえば、きっと心を守れたのだろう。でも、俺はいつだって同じ選択をした。

 彼の幸せを知りたいだなんて、言っていたくせに。彼の愛情の行く先が俺であるのを知った途端、受けとめていたくなる。まだ、もっと、なんて縋って痛くなるのだ。

 一滴だけが頬を濡らしたのを見られたくなくて、そっとルキの肩口に顔を埋める。ああ、どうしても。彼の前では、うまく笑顔を作れない。


「ごめんな、ルキ。ようやく会えたのが、笑えなくなった空っぽの俺で」

「何言ってんの。ヤトとまた出会えて、こんなに暖かい気持ちになれてさ。充分だよ」

「……そっか。うん、俺もあったかい」


 ちくりとトゲに刺されたような痛みに目を逸らし、抱きしめる手に力を込めた。

 恋人未満とは言ったけれど、互いに温もりを求めてしまう。友人以上と付け足したら良かったかもしれない。いや、彼にならきっと伝わっているはずだ。強まる抱擁を甘んじて受け入れ、よりいっそう顔を伏せた。

 彼の優しさに触れるほど、心の穴が浮き彫りになっていく。無理やり押し込むように、幸福をねじ込んで。こんなにも、痛い幸せがあるだなんて。

 しかし、どうしようもなく彼に惹かれてしまった俺だから。もう他の道なんて考えられなくて、ルキに縋ってしまうしかない。どれだけ辛くても、飲み込んでしまうしか。


「ルキ、そろそろ離してくれ。作ってくれたお粥が冷める」

「あ、そうじゃん。ごめんね」

「さらっと膝に乗せようとするな」

「あはは、バレた」


 そっと体を離し、お椀を持ち直して食事を再開する。頬杖をついて眺めてくるルキを横目に、黙々と咀嚼していく。少し冷めてしまった米は、皮肉にも甘さを増していた。出汁を吸い込んでしょっぱくなった卵も一緒に、喉を滑り落ちた。

 明日には二人とも仕事だから、今日はゆっくりしようだとか。仕事の時は、距離感を考えろだとか。そんな他愛ない会話と食事を、繰り返す。デートのやり直しも計画しながら、束の間の休息を味わっていった。
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