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第三章 妖刀と姉と弟
紅蓮一閃
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「ああ、まあな。その辺のことについて話したいところだが、今はこいつをどうにかするのが先だ」
王毅にとって、死んだはずの燈との再会は感動や喜びの感情よりも驚きの方が勝る出来事だったようだ。
文字通り、幽霊に出会ったような呆然とした表情を浮かべる王毅を一瞥した燈は、即座に戦いの相手である鼓太郎へと視線を戻す。
「……立てよ。まだやれんだろ? んな強引な一撃で沈むほど柔な野郎じゃないはずだぜ、てめえは」
「ぐ、ぐぐぐぐぐっ……!!」
妖刀の力を得て、身体能力までもを上昇させた鼓太郎は、燈によって吹き飛ばされた際の痛みに歯軋りしながらゆらりと立ち上がった。
その狂気を宿した双眸に燈の姿を映し、それ以外の全てを視界から消し去るほどの執着と殺意を彼に向けた鼓太郎は、胸の内の怒りを咆哮として叫ぶ。
「殺ずっ!! 俺の邪魔をする奴は、全員殺してやるっ!!」
「おいおい、完全にトチ狂ってるじゃねえかよ。あれが妖刀の魔力って奴か、笑えねえな」
頭から血を流し、口から折れた歯を吐き飛ばしながら吼える鼓太郎の姿を見た燈が呟く。
傍から見ても、十分な重症。されど鼓太郎は全身の痛みを感じていないかのような振る舞いを見せ、燈に対する殺意を剥き出しにしてこちらを睨んでいる。
興奮によって痛みの感覚が麻痺しているのか、もしくはこれもまた妖刀の力が為せる芸当なのか。
どちらにせよ、人間としての雰囲気をかなぐり捨て、外道へと堕ちていく鼓太郎をこのままにしておくわけにはいかない。
「ふっ……!」
短く息を吐き出した燈が、一直線に鼓太郎へと突っ込む。
構えた『紅龍』を赤く光らせ、その刃に気力を注ぎながら突進する燈の姿を見た王毅は、彼と同じように攻撃を仕掛けたタクトがどうなったかを思い出し、はっとした表情で燈へと叫んだ。
「だ、駄目だっ! 奴に接近戦は通用しないんだっ!!」
周囲の地形を沼のように変化させ、自分に攻撃を仕掛けようとする者の接近を防ぐ『泥蛙』の能力に捕まれば最後。
足を取られ、身動きを封じられた状態で、なすすべなく鼓太郎からの手痛い反撃を喰らうしか道がなくなってしまう。
『泥蛙』を持つ者に接近戦を仕掛けるなら、その能力を発動させないように仲間と連携を取って敵の意識を削ぐしかない。
今の燈のように単騎で真っ向から突っ込むという行動は、自ら蛙の口の中に飛び込むような愚行でしかないのだ。
その王毅の予想は正しく、一目で燈の進行ルートを見切った鼓太郎は、彼の足元を泥化させて一直線に突っ込む燈の足をぬかるみに捉えた。
敵の機敏な動きを封じ、攻撃も同時に防いだ彼は、身動きを封じた相手を一方的に嬲るという、お得意の戦術を取ろうとしたのだが――。
「舐めんなっ! 何度その技を見たと思ってんだ! 同じ手が何度も通用すると思うなよっ!!」
「んなっ……!?」
鼓太郎の目の前で、泥に足を取られているはずの燈が信じられない跳躍を見せる。
一瞬のうちに沼と化した地面から脱出し、再び自分へと急接近する燈の姿に、鼓太郎が隠し切れない驚愕の表情を見せる。
(あれはまさか、足の裏から気力を放出したのか!? ロケットの発射の時のように気力を噴射することで、泥からの脱出を!?)
自分たちが脱出を果たせなかった泥の束縛をいとも容易く破ってみせた燈が、何をしたのか?
その一部始終を間近で見ていた王毅には、彼がどんな手段を用いたのかがよく判った。
燈は、掴み取られた足の裏から気力を勢いよく放出することで、それをジェット噴射のように用いて泥の束縛から脱出してみせたのである。
王毅が泥玉に捕らえられた際、全身から気力を放出することでそれを吹き飛ばした時と理屈は同じ。
ただ、闇雲に大量の気力を放出すればよかった自分の時とは違って、燈の場合は繊細な気力のコントロールと移動方向の調整が必要だ。
噴射する気力の勢いが少しでも強ければ、あるいは、進行方向の調整が微妙にでも狂ってしまえば、燈の体はコントロールを失った飛行機のようにとんでもない方向へと飛び出し、壁や地面に激突してしまうだろう。
その繊細な気力操作を実戦の中で一発で成功させてみせた燈の実力に対する驚愕は、彼が生きていたことを知った際のそれとほぼ同等だ。
何もかもを計算ずくでやってのけた燈の戦闘センスに感嘆することしか出来ない王毅の目の前で、燈は鼓太郎に対して大振りな横薙ぎの一撃を繰り出す。
「うおおおっりゃああっっ!!」
「ぎっ、ぐうぅううっっ!!」
刀の軌道は丸見え、振りも決して早いとはいえないその攻撃は、鼓太郎からすればどうぞ防いでくださいと言っているような見え見えの一撃だった。
しかし、日々の鍛錬で鍛え上げた燈の腕力と膂力を活かした刀の振りに気力噴射による突進の勢いを上乗せしたその攻撃の威力は並大抵のものではなく、『泥蛙』を前に出して防御を行った鼓太郎の体は、先ほどよりも大きく吹き飛ばされてしまう。
「ぐ、ああっ……! うお、ぉぉ……!?」
刀と刀がぶつかる際に生まれた気力の爆発と純粋な燈の力に圧された鼓太郎は、地べたを転げまわった後で息を荒げながら苦悶の呻きを漏らした。
燈の打ち込みを防いだ腕がジンジンと痺れ、全身が熱や擦り傷の痛みでズキズキと痛む。
完全に、先ほどまでの勢いを殺された鼓太郎は、この攻防の中で数の不利をものともせずに攻め続けていた際の強気な心を完全に失ってしまったのである。
(よし、止めた! 嫌な流れを切り替えたぞ!!)
殺意より、怒りより、自分が不利になっている現状に怯えにも近しい感情を抱き始めた鼓太郎の姿を見て取った燈は、自分の狙いが見事に成されたことに心の中で拳を握り締めた。
戦いの中で相手が調子に乗っている時は決してそのままぶつかり合ってはいけない。まずはその勢いを挫き、条件を五分に戻せ……というのは、師匠である宗正の教えだ。
立ち合いにも、討論の場にも、スポーツの試合にだって、その場の空気というものが存在している。
戦っている者の心理状態。観客たちからの声援。その他諸々の諸事情が複雑に絡み合った空気は、戦いの場には必ずといって存在しているものだ。
それを味方につけ、勢いに乗った方が勝負の主導権を握り、戦いを有利に進めることが出来るというのは、誰だって理解していることだろう。
両者の実力が伯仲しているほどに、戦いが長引けば長引くほどに、その場の流れを味方に付けた者の勢いは増し、勝負の流れはよりそちらへと傾いていく。
そういう時、無理な攻めに出て強引に流れを引き寄せようとしてはいけない。無謀な行動は自陣に綻びをもたらし、ともすればその時点で勝敗が決してしまうこともあるのだ。
勝負の最中で相手に良い流れが、自分に悪い流れが来ていると感じたのならば、まずはその流れを断ち切ることを第一にすべし。
相手が場の空気を味方に付けている要因はなんなのか? そこを冷静に見極め、その一点に集中して攻撃の的を絞る、場合によっては逃走すらも選択肢に入れて立ち合いに臨むべきであると、宗正は戦いの心得の一つとしてその言葉を燈に授けた。
そのお陰か、比較的冷静な思考能力を保つことに成功した燈は、今現在の勝負における自分たちと鼓太郎との大きな差に気が付くことが出来たのである。
率直に言ってしまえば……余裕。そして、自分の力に対する陶酔感こそがその正体だ。
王毅たちは磐木にある妖刀は『禍風』一本のみであるという大前提を崩されて混乱していた。
そこに次々と新たな人物が姿を現し、状況を搔き乱した上に、仲間の中に自分たちを裏切っている者までいると知った彼らの精神的動揺は想像を絶するものだったであろう。
対して鼓太郎の方は最初こそ復讐に意識を傾倒させているきらいがあったが、『泥蛙』の扱い方を学び始めた頃から徐々に戦いの目的を自分の邪魔をする者を殺すというシンプルなものに切り替え、自らの成長を実感することで気分を高揚させていった。
自分が繰り出す技は面白いくらいに敵を慌てさせ、敵の攻撃は軽々と防げる。
敵の方が数が多いのに、それと互角以上に立ち回れている自分自身の力量に鼓太郎が酔い痴れるのも無理はない。
自分はこの場にいる誰よりも強いという過剰な自信、慢心は彼の高揚感を更に加速させ、その心を勢い付かせた。
所謂、天狗になった状態。
余裕、自分に対する自信、『泥蛙』の能力に対する絶対の信頼が組み合わさった時、鼓太郎の心は戦いの空気を味方に付けるだけの熱を持った。
様々な事情に翻弄されて戦いに集中出来ない王毅たちに対して、目の前の敵を殺すことだけに意識を向ける鼓太郎が流れを掴むのは自明の理。
鼓太郎を有利たらしめているのは、余裕と慢心から来る強気な心であることに気が付いた燈は、まずはその過剰な自信を打ち砕くことに集中した。
絶対に打ち破られない自信があったであろう泥沼の拘束を破り、大振りな一撃を喰らわせて防御の上から鼓太郎を吹き飛ばすことで、自分よりも強い力を持つ者がこの場にいるということを彼の本能に刻み込む。
鼓太郎の強気の要因になっていたのは、自分の強さに対する絶対の自信。
しかし、それを裏打ちするような努力の跡は存在せず、ただ妖刀の力に頼っている以上、彼のその思いが砕けるのは本当に容易いことだった。
判らせる、燈の実力を。
お前が戦っている相手は、そう簡単に倒せる男ではないということを鼓太郎に理解させ、真っ向勝負で彼の自信を打ち砕いてしまえば、後は簡単な話だ。
怒りより殺意より、怖れが勝つ。
怖れによって強気な心は死に、強気な心によって作り上げられていた鼓太郎の有利が死に、状況は鼓太郎の有利から一転して、その流れを断ち切られた彼の不利へと真逆に反転してしまう。
鼓太郎も、王毅たちも、一度冷静になってしまえばそう難しい理屈は必要ない。
鼓太郎を優位たらしめていた戦場の空気は断ち切られた。『泥蛙』の能力も、既に存分に見せてもらった。
人数も状況も知識量も、全てが自分たちの方が上……逆に言えば、鼓太郎には勝てる要素が何一つとしてないのだ。
「さあ、どうする? お前にゃ助けてくれる仲間なんざいねえだろ? こうなった以上、詰みだぜ、お前さんはよ」
刃を赤熱させた『紅龍』を手に、燈が鼓太郎に近づきながら言う。
自身の不利を悟った鼓太郎は歯を食いしばり、何とか逃走経路を見つけ出そうとするも、主だった逃げ場は既に蒼、栞桜、やよいの三人に塞がれており、自分が完全に追い込まれたことに気が付いた彼は先ほどまで殺意に漲っていた強気な表情を青くして、再び正面の燈を見やった。
「最後の警告だ。その刀を捨てて降伏しろ。さもなきゃ、テメーを斬るぜ」
真っ直ぐに持ち上げた武神刀の切っ先を突きつけ、刀身に燃え盛る炎を纏わせながらの脅し文句。
実際、燈には鼓太郎を斬れる気などまるでしていなかった。王毅同様、彼もまた人を斬ることに抵抗感を残す普通の若者だ。
しかし、長年の喧嘩生活で身に着けた脅しのテクニックとこの大和国で習得した凄味を合わせることで、自分の中の迷いを相手に悟らせることなく強気な交渉に出られるようになった燈の姿は、脅迫を受ける鼓太郎からしてみれば何人もの人間を斬り捨ててきた非情な剣豪にしか見えなかった。
「さあ、その刀を捨てろ! そうすりゃ命だけは助けてやる!」
「う、うぅぅぅぅぅ……!!」
押せ押せの雰囲気から一変、絶体絶命の危機を迎えた鼓太郎が頭の中に響く不快な痛みに悶えながらその場に蹲る。
空っぽの心を震わせる燈への恐怖に涙が流す彼であったが、同じく何も思考を働かせていないはずの彼の頭の中では、嵐に殺された家族や村の人々の顔が浮かんでは消えていった。
(い、嫌だ……! この刀を奪われたら、俺は復讐を果たせなくなる! あいつを殺すには、この刀が必要なんだ! 絶対に手放してなるものか! これは、俺の刀だ!!)
恐慌をきたす焦燥感。自らの絶対的な力を与えてくれる妖刀への強い執着心。
それが、鼓太郎に僅かな抵抗をもたらす強さを与えた。
「お、終われないんだ! 俺は、俺はぁっ!!」
「う、うおおっ!?」
叫びながら、抜き身の『泥蛙』を地面に突き刺す鼓太郎。
彼の悲痛な叫びと復讐への執着を感じ取った妖刀は、その想いに応えるかのように邪悪な力を発動させ、広範囲の地面を揺らした。
「くっ!? まだ、こんな力が残ってたのかっ!?」
予想外の反撃を受け、揺れる地面の上で立っていられなくなった一同はその場にしゃがみ込んでしまった。
絶体絶命の状況の中で燈たちの隙を見出した鼓太郎は、地面を揺らす『泥蛙』を掴むと再び咆哮を上げながらその能力を用いて、自分の体を泥の中に沈ませたではないか。
「し、しまったっ!?」
深い海の中に潜るようにして地中に潜った鼓太郎の姿を探し、周囲を見回す一行。
しかし、元の平坦で硬い石畳に戻った地面は彼の逃走の痕跡を一切残すことはなく、僅か一瞬の隙を突かれて鼓太郎の逃走を許してしまった燈は、地団太を踏んでそのことを悔しがる。
「くそっ! あと一歩だったっつーのに、なにを油断してやがんだ、俺は!?」
嵐と鼓太郎。二人の妖刀使いを捕らえる絶好の機会に遭遇しながら、自分たちは彼らを取り逃がしてしまった。
これで彼らが再び誰かの命を奪うようなことになったら、悔やんでも悔やみきれないとばかりに拳を震わせて口惜しさを露わにする燈に対して、王毅が覚悟を決めた様子で声をかける。
「虎藤くん、なんだよな……? 君は、死んだんじゃなかったのか? どうして君が、ここに……?」
「……ああ、説明させてもらうぜ。だが、心して聞けよ? こいつは結構ハードで、長くなる話だからな」
妖刀使いたちを捕えれらなかった後悔を抱えながらも、今は王毅に事情を説明した方がいいだろうと判断した燈が『紅龍』を鞘に納めて口を開く。
タイミングが狂ってしまったが、ここでクラスメイトたちに真相を告げ、協力体制を作り上げ、今度こそ嵐と鼓太郎を捕える。
これ以上、彼らの手で悲劇が引き起こされることだけは防がなければならない。そのためには、自分たちの協力が必要だ。
そう判断した燈は、王毅の目を真っ直ぐに見て話を始めようとする。
だが、そんな彼の言葉を遮るようにして、甲高い男の声が夜の磐木の町に響いた。
「止せ、王毅! 虎藤の話を聞くんじゃねえっ!!」
王毅にとって、死んだはずの燈との再会は感動や喜びの感情よりも驚きの方が勝る出来事だったようだ。
文字通り、幽霊に出会ったような呆然とした表情を浮かべる王毅を一瞥した燈は、即座に戦いの相手である鼓太郎へと視線を戻す。
「……立てよ。まだやれんだろ? んな強引な一撃で沈むほど柔な野郎じゃないはずだぜ、てめえは」
「ぐ、ぐぐぐぐぐっ……!!」
妖刀の力を得て、身体能力までもを上昇させた鼓太郎は、燈によって吹き飛ばされた際の痛みに歯軋りしながらゆらりと立ち上がった。
その狂気を宿した双眸に燈の姿を映し、それ以外の全てを視界から消し去るほどの執着と殺意を彼に向けた鼓太郎は、胸の内の怒りを咆哮として叫ぶ。
「殺ずっ!! 俺の邪魔をする奴は、全員殺してやるっ!!」
「おいおい、完全にトチ狂ってるじゃねえかよ。あれが妖刀の魔力って奴か、笑えねえな」
頭から血を流し、口から折れた歯を吐き飛ばしながら吼える鼓太郎の姿を見た燈が呟く。
傍から見ても、十分な重症。されど鼓太郎は全身の痛みを感じていないかのような振る舞いを見せ、燈に対する殺意を剥き出しにしてこちらを睨んでいる。
興奮によって痛みの感覚が麻痺しているのか、もしくはこれもまた妖刀の力が為せる芸当なのか。
どちらにせよ、人間としての雰囲気をかなぐり捨て、外道へと堕ちていく鼓太郎をこのままにしておくわけにはいかない。
「ふっ……!」
短く息を吐き出した燈が、一直線に鼓太郎へと突っ込む。
構えた『紅龍』を赤く光らせ、その刃に気力を注ぎながら突進する燈の姿を見た王毅は、彼と同じように攻撃を仕掛けたタクトがどうなったかを思い出し、はっとした表情で燈へと叫んだ。
「だ、駄目だっ! 奴に接近戦は通用しないんだっ!!」
周囲の地形を沼のように変化させ、自分に攻撃を仕掛けようとする者の接近を防ぐ『泥蛙』の能力に捕まれば最後。
足を取られ、身動きを封じられた状態で、なすすべなく鼓太郎からの手痛い反撃を喰らうしか道がなくなってしまう。
『泥蛙』を持つ者に接近戦を仕掛けるなら、その能力を発動させないように仲間と連携を取って敵の意識を削ぐしかない。
今の燈のように単騎で真っ向から突っ込むという行動は、自ら蛙の口の中に飛び込むような愚行でしかないのだ。
その王毅の予想は正しく、一目で燈の進行ルートを見切った鼓太郎は、彼の足元を泥化させて一直線に突っ込む燈の足をぬかるみに捉えた。
敵の機敏な動きを封じ、攻撃も同時に防いだ彼は、身動きを封じた相手を一方的に嬲るという、お得意の戦術を取ろうとしたのだが――。
「舐めんなっ! 何度その技を見たと思ってんだ! 同じ手が何度も通用すると思うなよっ!!」
「んなっ……!?」
鼓太郎の目の前で、泥に足を取られているはずの燈が信じられない跳躍を見せる。
一瞬のうちに沼と化した地面から脱出し、再び自分へと急接近する燈の姿に、鼓太郎が隠し切れない驚愕の表情を見せる。
(あれはまさか、足の裏から気力を放出したのか!? ロケットの発射の時のように気力を噴射することで、泥からの脱出を!?)
自分たちが脱出を果たせなかった泥の束縛をいとも容易く破ってみせた燈が、何をしたのか?
その一部始終を間近で見ていた王毅には、彼がどんな手段を用いたのかがよく判った。
燈は、掴み取られた足の裏から気力を勢いよく放出することで、それをジェット噴射のように用いて泥の束縛から脱出してみせたのである。
王毅が泥玉に捕らえられた際、全身から気力を放出することでそれを吹き飛ばした時と理屈は同じ。
ただ、闇雲に大量の気力を放出すればよかった自分の時とは違って、燈の場合は繊細な気力のコントロールと移動方向の調整が必要だ。
噴射する気力の勢いが少しでも強ければ、あるいは、進行方向の調整が微妙にでも狂ってしまえば、燈の体はコントロールを失った飛行機のようにとんでもない方向へと飛び出し、壁や地面に激突してしまうだろう。
その繊細な気力操作を実戦の中で一発で成功させてみせた燈の実力に対する驚愕は、彼が生きていたことを知った際のそれとほぼ同等だ。
何もかもを計算ずくでやってのけた燈の戦闘センスに感嘆することしか出来ない王毅の目の前で、燈は鼓太郎に対して大振りな横薙ぎの一撃を繰り出す。
「うおおおっりゃああっっ!!」
「ぎっ、ぐうぅううっっ!!」
刀の軌道は丸見え、振りも決して早いとはいえないその攻撃は、鼓太郎からすればどうぞ防いでくださいと言っているような見え見えの一撃だった。
しかし、日々の鍛錬で鍛え上げた燈の腕力と膂力を活かした刀の振りに気力噴射による突進の勢いを上乗せしたその攻撃の威力は並大抵のものではなく、『泥蛙』を前に出して防御を行った鼓太郎の体は、先ほどよりも大きく吹き飛ばされてしまう。
「ぐ、ああっ……! うお、ぉぉ……!?」
刀と刀がぶつかる際に生まれた気力の爆発と純粋な燈の力に圧された鼓太郎は、地べたを転げまわった後で息を荒げながら苦悶の呻きを漏らした。
燈の打ち込みを防いだ腕がジンジンと痺れ、全身が熱や擦り傷の痛みでズキズキと痛む。
完全に、先ほどまでの勢いを殺された鼓太郎は、この攻防の中で数の不利をものともせずに攻め続けていた際の強気な心を完全に失ってしまったのである。
(よし、止めた! 嫌な流れを切り替えたぞ!!)
殺意より、怒りより、自分が不利になっている現状に怯えにも近しい感情を抱き始めた鼓太郎の姿を見て取った燈は、自分の狙いが見事に成されたことに心の中で拳を握り締めた。
戦いの中で相手が調子に乗っている時は決してそのままぶつかり合ってはいけない。まずはその勢いを挫き、条件を五分に戻せ……というのは、師匠である宗正の教えだ。
立ち合いにも、討論の場にも、スポーツの試合にだって、その場の空気というものが存在している。
戦っている者の心理状態。観客たちからの声援。その他諸々の諸事情が複雑に絡み合った空気は、戦いの場には必ずといって存在しているものだ。
それを味方につけ、勢いに乗った方が勝負の主導権を握り、戦いを有利に進めることが出来るというのは、誰だって理解していることだろう。
両者の実力が伯仲しているほどに、戦いが長引けば長引くほどに、その場の流れを味方に付けた者の勢いは増し、勝負の流れはよりそちらへと傾いていく。
そういう時、無理な攻めに出て強引に流れを引き寄せようとしてはいけない。無謀な行動は自陣に綻びをもたらし、ともすればその時点で勝敗が決してしまうこともあるのだ。
勝負の最中で相手に良い流れが、自分に悪い流れが来ていると感じたのならば、まずはその流れを断ち切ることを第一にすべし。
相手が場の空気を味方に付けている要因はなんなのか? そこを冷静に見極め、その一点に集中して攻撃の的を絞る、場合によっては逃走すらも選択肢に入れて立ち合いに臨むべきであると、宗正は戦いの心得の一つとしてその言葉を燈に授けた。
そのお陰か、比較的冷静な思考能力を保つことに成功した燈は、今現在の勝負における自分たちと鼓太郎との大きな差に気が付くことが出来たのである。
率直に言ってしまえば……余裕。そして、自分の力に対する陶酔感こそがその正体だ。
王毅たちは磐木にある妖刀は『禍風』一本のみであるという大前提を崩されて混乱していた。
そこに次々と新たな人物が姿を現し、状況を搔き乱した上に、仲間の中に自分たちを裏切っている者までいると知った彼らの精神的動揺は想像を絶するものだったであろう。
対して鼓太郎の方は最初こそ復讐に意識を傾倒させているきらいがあったが、『泥蛙』の扱い方を学び始めた頃から徐々に戦いの目的を自分の邪魔をする者を殺すというシンプルなものに切り替え、自らの成長を実感することで気分を高揚させていった。
自分が繰り出す技は面白いくらいに敵を慌てさせ、敵の攻撃は軽々と防げる。
敵の方が数が多いのに、それと互角以上に立ち回れている自分自身の力量に鼓太郎が酔い痴れるのも無理はない。
自分はこの場にいる誰よりも強いという過剰な自信、慢心は彼の高揚感を更に加速させ、その心を勢い付かせた。
所謂、天狗になった状態。
余裕、自分に対する自信、『泥蛙』の能力に対する絶対の信頼が組み合わさった時、鼓太郎の心は戦いの空気を味方に付けるだけの熱を持った。
様々な事情に翻弄されて戦いに集中出来ない王毅たちに対して、目の前の敵を殺すことだけに意識を向ける鼓太郎が流れを掴むのは自明の理。
鼓太郎を有利たらしめているのは、余裕と慢心から来る強気な心であることに気が付いた燈は、まずはその過剰な自信を打ち砕くことに集中した。
絶対に打ち破られない自信があったであろう泥沼の拘束を破り、大振りな一撃を喰らわせて防御の上から鼓太郎を吹き飛ばすことで、自分よりも強い力を持つ者がこの場にいるということを彼の本能に刻み込む。
鼓太郎の強気の要因になっていたのは、自分の強さに対する絶対の自信。
しかし、それを裏打ちするような努力の跡は存在せず、ただ妖刀の力に頼っている以上、彼のその思いが砕けるのは本当に容易いことだった。
判らせる、燈の実力を。
お前が戦っている相手は、そう簡単に倒せる男ではないということを鼓太郎に理解させ、真っ向勝負で彼の自信を打ち砕いてしまえば、後は簡単な話だ。
怒りより殺意より、怖れが勝つ。
怖れによって強気な心は死に、強気な心によって作り上げられていた鼓太郎の有利が死に、状況は鼓太郎の有利から一転して、その流れを断ち切られた彼の不利へと真逆に反転してしまう。
鼓太郎も、王毅たちも、一度冷静になってしまえばそう難しい理屈は必要ない。
鼓太郎を優位たらしめていた戦場の空気は断ち切られた。『泥蛙』の能力も、既に存分に見せてもらった。
人数も状況も知識量も、全てが自分たちの方が上……逆に言えば、鼓太郎には勝てる要素が何一つとしてないのだ。
「さあ、どうする? お前にゃ助けてくれる仲間なんざいねえだろ? こうなった以上、詰みだぜ、お前さんはよ」
刃を赤熱させた『紅龍』を手に、燈が鼓太郎に近づきながら言う。
自身の不利を悟った鼓太郎は歯を食いしばり、何とか逃走経路を見つけ出そうとするも、主だった逃げ場は既に蒼、栞桜、やよいの三人に塞がれており、自分が完全に追い込まれたことに気が付いた彼は先ほどまで殺意に漲っていた強気な表情を青くして、再び正面の燈を見やった。
「最後の警告だ。その刀を捨てて降伏しろ。さもなきゃ、テメーを斬るぜ」
真っ直ぐに持ち上げた武神刀の切っ先を突きつけ、刀身に燃え盛る炎を纏わせながらの脅し文句。
実際、燈には鼓太郎を斬れる気などまるでしていなかった。王毅同様、彼もまた人を斬ることに抵抗感を残す普通の若者だ。
しかし、長年の喧嘩生活で身に着けた脅しのテクニックとこの大和国で習得した凄味を合わせることで、自分の中の迷いを相手に悟らせることなく強気な交渉に出られるようになった燈の姿は、脅迫を受ける鼓太郎からしてみれば何人もの人間を斬り捨ててきた非情な剣豪にしか見えなかった。
「さあ、その刀を捨てろ! そうすりゃ命だけは助けてやる!」
「う、うぅぅぅぅぅ……!!」
押せ押せの雰囲気から一変、絶体絶命の危機を迎えた鼓太郎が頭の中に響く不快な痛みに悶えながらその場に蹲る。
空っぽの心を震わせる燈への恐怖に涙が流す彼であったが、同じく何も思考を働かせていないはずの彼の頭の中では、嵐に殺された家族や村の人々の顔が浮かんでは消えていった。
(い、嫌だ……! この刀を奪われたら、俺は復讐を果たせなくなる! あいつを殺すには、この刀が必要なんだ! 絶対に手放してなるものか! これは、俺の刀だ!!)
恐慌をきたす焦燥感。自らの絶対的な力を与えてくれる妖刀への強い執着心。
それが、鼓太郎に僅かな抵抗をもたらす強さを与えた。
「お、終われないんだ! 俺は、俺はぁっ!!」
「う、うおおっ!?」
叫びながら、抜き身の『泥蛙』を地面に突き刺す鼓太郎。
彼の悲痛な叫びと復讐への執着を感じ取った妖刀は、その想いに応えるかのように邪悪な力を発動させ、広範囲の地面を揺らした。
「くっ!? まだ、こんな力が残ってたのかっ!?」
予想外の反撃を受け、揺れる地面の上で立っていられなくなった一同はその場にしゃがみ込んでしまった。
絶体絶命の状況の中で燈たちの隙を見出した鼓太郎は、地面を揺らす『泥蛙』を掴むと再び咆哮を上げながらその能力を用いて、自分の体を泥の中に沈ませたではないか。
「し、しまったっ!?」
深い海の中に潜るようにして地中に潜った鼓太郎の姿を探し、周囲を見回す一行。
しかし、元の平坦で硬い石畳に戻った地面は彼の逃走の痕跡を一切残すことはなく、僅か一瞬の隙を突かれて鼓太郎の逃走を許してしまった燈は、地団太を踏んでそのことを悔しがる。
「くそっ! あと一歩だったっつーのに、なにを油断してやがんだ、俺は!?」
嵐と鼓太郎。二人の妖刀使いを捕らえる絶好の機会に遭遇しながら、自分たちは彼らを取り逃がしてしまった。
これで彼らが再び誰かの命を奪うようなことになったら、悔やんでも悔やみきれないとばかりに拳を震わせて口惜しさを露わにする燈に対して、王毅が覚悟を決めた様子で声をかける。
「虎藤くん、なんだよな……? 君は、死んだんじゃなかったのか? どうして君が、ここに……?」
「……ああ、説明させてもらうぜ。だが、心して聞けよ? こいつは結構ハードで、長くなる話だからな」
妖刀使いたちを捕えれらなかった後悔を抱えながらも、今は王毅に事情を説明した方がいいだろうと判断した燈が『紅龍』を鞘に納めて口を開く。
タイミングが狂ってしまったが、ここでクラスメイトたちに真相を告げ、協力体制を作り上げ、今度こそ嵐と鼓太郎を捕える。
これ以上、彼らの手で悲劇が引き起こされることだけは防がなければならない。そのためには、自分たちの協力が必要だ。
そう判断した燈は、王毅の目を真っ直ぐに見て話を始めようとする。
だが、そんな彼の言葉を遮るようにして、甲高い男の声が夜の磐木の町に響いた。
「止せ、王毅! 虎藤の話を聞くんじゃねえっ!!」
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