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「……あ、やっほ。後輩くん」
「あれ、先輩?」
雲ひとつない、夕日の橙色の輝く夕方。人混みの中で目立つように手を振る女性がいる。僕が先輩と慕っている同じ大学の生徒。僕は、つられたように控えめに手を振り返す。先輩も同じく講義を済ませた後なのか、どこか疲れているように見えた。
「君ももう授業終わった感じ?」
「はい。ってことは、先輩も?」
「うん。四限の講義で今日はおしまい」
本当は午前で全部終わりのはずだったんだけどさ~、と先輩はイレギュラーな授業変更を不満げに口にした。それはいわゆる大学生あるあるってやつ。大変でしたね、なんて当たり障りない言葉でその言葉たちに耳を傾けた。
「あ、そう言えば、君は今日この後時間あったりする?」
「え、あ、はい」
今日はバイトも入ってないんで、と言葉を付け足すと「それはよかった」と先輩は声を弾ませる。ただ、その言葉が口から出てくる一瞬前。ほんの一瞬だけ、その表情に陰が差しているように見えた。すぐに取り繕うように笑みを浮かべるから確証はないけれど、でもそんな違和感があった。
「このまま寄り道しようよ」
「寄り道ですか?」
「そう。コーヒーでも飲みに行こうよ。いつもみたいに」
先程の曇った表情なんて見間違えだと思うくらいに明るく澄み、そしていつも通りの声で言葉を紡ぐ。色をつけるとすれば透明度のある白に限りなく近くて綺麗で、でも白とは言えないどこか不純物の混じった微かなグレー。
真白と呼ぶには心許ない、そんな色だ。
「……ぜひ」
僕はまるで、それに気づかなかったように二つ返事を口にする。きっとあれだ。先輩は午後の予期せぬ講義に疲れているんだ。だからきっと、あんな表情が不意に顔を表していて、文字通りのコーヒーブレイクってやつがしたかったんだ。
そういうことか、その相手が僕でいいなら、……僕はそれで。
「場所、いつものとこにします?」
僕らには行きつけというか、決まって利用しているコーヒーチェーン店がある。テスト前やめんどくさい何かがある度に通っていた。今日もそこかな、なんて思っていたけど、先輩はしばらく小さな声で「んー」と口を噤み、そこから何か思いついたのか「あっ」と声を漏らす。口角を少し上げ、悪戯にずるい言葉を吐いた。
「私が気に入ってる、秘密の喫茶店、今日はそこに行ってみない?」
☆☆☆☆
「いらっしゃいませ」
「あ、マスター。やっほ~」
「おやおや。今日もお変わりなく元気だね」
「そりゃね~」
秘密の喫茶店、というのは雑に説明するといかにもここがいわゆる喫茶店である、と言うに相応しい喫茶店だった。十人程で満席になるようなこじんまりとした店内にマスターと呼ばれる四十代くらいの男性が一人、カウンターで洗い物をしている。先輩はその男性とそれなりに顔馴染みなようで、フランクな言葉を交わしていた。
「そこの彼は見ない顔だね。知り合いかな?」
「うん。大学の後輩くん。一つ下の二年生」
「後輩くん、か。……でもあれだね、君が年下の男の子を連れてくるなんて珍しいな」
「馬鹿、変な言い方しないでよね。誤解されちゃうでしょ」
それなりの付き合いがあるからこそのジョークを交わすと、先輩は「あそこにしよっか」と窓側の席を指す。指差した先、部屋の隅には椅子の向かい合った二人用のテーブルがあった。
店内は装飾といいBGMといい、アンティークという表現の似合うものだった。アコースティックギターの音が心地いい。今の僕からすると、少し背伸びをしたような空間だった。
「もう、そんなに固くならなくても大丈夫だよ」
僕を見かねた先輩は語尾に笑みを含ませるとメニュー表を僕の方へと向けてくれる。僕らが普段利用しているコーヒーチェーン店とメニューの名前は対して変わらないというのに、値は一、二割増しだった。少しだけ身構えしてしまう。
「……ここ、よく来るんですか?」
「ここ? んー、まぁそれなりに、かな。基本他の人には教えたことはないんだけどね。私にとってここは憩いの場所だもん。……でも、君は特別」
濁すような誤魔化すような、どこか曖昧な言葉の響きにどうしたことか頬が熱を帯びたように思えた。
「私としては、もう少し他の人を誘ってもらえる方がありがたいんですけどねぇ」
マスターが二人分のお冷を持ってきたタイミングで言葉を挟む。
少し揶揄うような口ぶりだった。
「でも、マスターだってここが人で満杯のぎゅうぎゅうの状態なんて嫌でしょ? 私は、ここのひっそりとした隠れ家的雰囲気が好きなの」
「まぁね、気持ちはわかるけれど。でも、私だって一度くらいはそういう思いをしてみたいんだよ?」
「そうなの? なんだか意外」
でも私はこのままでいいけどなー、と先輩は小さく呟き、結露で少し湿ったグラスの輪郭を指でなぞる。
「それで、お二人とも。注文は決まりましたかな?」
「あ、じゃあ僕はこのコーヒーを」
「私は、いつもので」
「はい。かしこまりました」
メニューの一番上、人気とポップのついたコーヒーを指さす僕の横で、先輩は板についた口調で短く注文する。その姿に大人びた憧れを感じたものの、物理的ではないがどこか遠いものを感じた。どうしてそんなものを思ったのか、僕にも分からないけれど。
「お待たせしました。こちら、コーヒーとホットミルクになります」
男性はしばらくすると二つのマグカップをそれぞれの手元へと並べる。つーっと立ち昇る湯気が綺麗だった。
「今日はいつもより少し砂糖を多めに入れたけど、それでもよかったかな。少し疲れているように見えて」
「流石マスター、ありがと」
「いえいえ」
僕の違和感を証明したような会話に、思わずさっきのワンシーンが浮かび、リフレインする。心臓が、静かにピリッと痛んだ。
「そしてこちらは私からのサービスになります。お口に合えば幸いですが」
二人の間に小さな皿が置かれる。そこには大小、そして形のまばらなクッキーが幾つか並んでいた。
「もしかしてマスターの手作り?」
「いえいえ。私の娘作、です」
男性の顔が、少しだけにこやかになる。
「最近、小学生の娘がお菓子作りにハマりまして。こうやってよく作ってくれるんだけど私たちだけではどうも食べきれなくてね。よかったらどうぞ」
では、ごゆっくり、と彼は一礼するとそのままカウンターへと戻って行った。
「……あの、コーヒー。飲まないんですか?」
「え? あぁ、うん。私、実はあんまりコーヒー得意じゃないんだよねー」
いつもは飲んでいるのに、という言葉を口にせずに留めていると、そんな言葉が返ってくる。いつものコーヒーチェーン店では二人してブラックコーヒーをちびちびとゆっくりと嗜んでいた。それが僕らの普段であり日常だった。だから、そんな僕の知らない先輩が目の前に座っている現状は、どうも不思議な感覚に思えた。まるで知らない人との相席にも思えた。顔がそっくりの双子のもう一人なのではないか、なんてありえないことすら考えてしまう。
「だから、メニュー表を見たらわかるんだけど本当はホットミルクなんてメニューはないの」
「……そ、そうなんですか?」
「私がコーヒー苦手なのを見つけたマスターが、特別にって出してくれたのがきっかけなんだけど、今じゃもうそればっかり飲んでてさ~」
言われるがまま、メニュー表の左上から右下までの隅々を見渡す。たしかに、どこにもホットミルクというメニューの記載がなかった。
「な、なんか意外ですね。そんなイメージなかったです」
「え? そうかなぁ」
「……はい」
僕はそんな返事で会話を一度閉めると間を埋めるようにコーヒーを啜った。思ったよりも苦かった。そのホットミルクで割ったら丁度いいんじゃないかと思うくらいに、苦味の特徴的なコーヒーだった。
「……ね、気づいた?」
「え?」
「ほら、髪」
先輩は僕に見せつけるように首を振り、自身の髪をさらりと揺らしてみせた。
「ちょっとばっさりと切ってみたの」
「……結構短くなりましたよね」
元々は背中くらいまであったのに、今はボブより短いショートヘアになっていた。
「どう? 似合うかなぁ」
「似合うと、思いますよ」
その黒髪は長い頃と変わらず艶があり、滑らかさも目でわかる柔らかさも健在でとても綺麗だった。言うまでもなく、先輩に似合っている、美しく見える。そんな、端的な言葉でしか言い表すことができない、けれど。
「……ちょっとひとつ言ってもいい?」
「なんですか?」
先輩が前置きなんて用意するから、思わず目線が先輩の方へと向けられる。
先輩は、窓の向こうの道路を見ていた。
「彼氏に振られたの」
先輩はそう、短く要件を伝えるとサービスに出されたクッキーを齧った。咀嚼の音がセリフのように鳴り、飲み込まれると静かになる。そしてその音を繋ぐようにまたクッキーを齧り、咀嚼し、飲み込む、それの繰り返し。三つのクッキーをお腹に収めると、それでようやく落ち着いたのか続きを口にする。
「素敵な人だったか、なんて聞かれてもよく分からないけど、いい人だったとは思う。顔は整っていたし、歌も上手くて人気だった。でも、同時にちょっと変な人ではあった。家にはモアイ像が並んであったし、えっとあれなんだっけ、グから始まる宇宙人……」
「……グレイ?」
「あ、それだ。そうそう、グレイの模型とかフィギュアとかが机の上にいっぱい飾ってあったの。好きな物をどうこう言うつもりはないけれど、でもちょっと変わってて面白い人だったかなぁ」
変わってるよね、あの人。って先輩が投げかけるから僕も曖昧に相槌を打つけれど、内心はぐちゃぐちゃだった。彼氏がいるなんて聞いたこともなければ知ってもいなかった。
……だから、こんなにも浮かれていたのに。
先輩は、ちょっとごめんね、と一言挟むとバッグからタバコとライターを取り出した。カチッと音が鳴るとタバコに火がつき、一本の細い煙が揺らめく。タバコというよりは嗜好品という名目に口をつけているように見えた。初めて見る仕草。タバコのパッケージは奇抜な蛍光色に塗れていた。
「でもね、なんだか悲しいって言葉じゃ表せないの」
一本のタバコが灰になった頃、先輩はまるで知り合いのことのように話し始めた。
「悲しくない、と言えばそれは違うけれどでも本当にそうなの。何かがなくなるような、喪失感って感じなのかな。ほら、毎日食べてた商品が製造中止になってお店からも手元からもなくなって、過去のものになってしまうあの感覚。そんな、どこか不安定な私がここにいるの。きっと、どんなに優れた代替品があっても、私が満たされることはないのかもしれないね、きっと」
先輩は冷め始めたホットミルクを一気に飲み干すと小さく、重い吐息を見せた。タバコの二本目に手を伸ばしたけれど、火はつけなかった。二度も使われた「きっと」という言葉は、言い訳にも、強がりにも、嘘にも見えた。
「ごめんね、暗い話なんかしちゃって」
あまりにも僕が言葉未満の声しか出さないから、先輩は困ったように静かに笑う。真似して笑えたらいいのに笑えなかった。ただ、震えそうな声をどうすれば震えずに吐き出せるのか、それだけを知りたかった。考えるだけで精一杯になっていた。
「本当は君には何も言わないでおこうと思ったんだけどね。どうしてだろう、理由はわからないんだけど、さっき声をかけた時にピンと来たの。君には伝えなくちゃいけないって。どうしてなのか、私もわかんないけど」
やっぱり聞かなかったことにして忘れて、なんて言われたけど、僕は相変わらず形のままならない相槌しか返せなかった。それが限界だった。
「きっと、私はこれからもあの人のことを日常のなにかをきっかけに思い出すんだと思う。大学の食堂、A棟のパソコン室、駅の二番ホームのベンチ、宇宙人の特集番組、そして、ここも。私はきっと、あの人に染まりすぎたの。どんなにコーヒーにミルクを注いだって白に戻らないのと一緒。あの人はずっと、私についてくるんだと思う。
…………あはは、私って、一体何を言ってるんだろうね」
君は絶対にこんな重い女の子と付き合っちゃだめだよ、なんて自嘲を説くと、先輩は伝票を掴んでそのまま立ち上がった。
「……ごめん、先に行くね。ここもやっぱり、あの人の影が見えてしまうから」
今日は私の奢りだから、なんて言葉を残して席を後にする先輩を、僕は黙って見ているしかできない。僕を置いて、また一人になろうとする先輩を、見たまま何もできずにいる。何かしなくてはと思うのに、行動が伴わない。そして葛藤のような心情を繰り返し、黙って店を出る先輩を受け入れた。それだけだった。
そして店はまた静かになった。扉の閉まる音が響いた後、BGMだって相変わらず流れているのに鼓膜を揺らしてくれない。コーヒーを口にしても苦くて苦くてたまらないだけだった。サービスのクッキーなんかじゃ拭えないような苦味に涙が出そうだ。
……先輩も、そんな気持ちだったんですか。
僕は悟ったように先輩の抜け殻のようなマグカップを見つめ、そのまま「すみません」とマスターを呼んだ。
「彼女と同じ、ホットミルクをください」
「……かしこまりました」
マスターは少し複雑な面立ちを見せたがメニュー表にはないメニューのオーダーを快諾し、しばらくしてからホットミルクを用意してくれた。
「ごゆっくりどうぞ」
それ以上の言葉を残さず、マスターは席を外れる。
きっと、僕が生涯の内に飲むホットミルクはこれが最後だ。
そう思いながら僕はマグカップを口元へと傾ける。
だって、ミルクからは先輩の匂いがしてたまらないんだもの。
「あれ、先輩?」
雲ひとつない、夕日の橙色の輝く夕方。人混みの中で目立つように手を振る女性がいる。僕が先輩と慕っている同じ大学の生徒。僕は、つられたように控えめに手を振り返す。先輩も同じく講義を済ませた後なのか、どこか疲れているように見えた。
「君ももう授業終わった感じ?」
「はい。ってことは、先輩も?」
「うん。四限の講義で今日はおしまい」
本当は午前で全部終わりのはずだったんだけどさ~、と先輩はイレギュラーな授業変更を不満げに口にした。それはいわゆる大学生あるあるってやつ。大変でしたね、なんて当たり障りない言葉でその言葉たちに耳を傾けた。
「あ、そう言えば、君は今日この後時間あったりする?」
「え、あ、はい」
今日はバイトも入ってないんで、と言葉を付け足すと「それはよかった」と先輩は声を弾ませる。ただ、その言葉が口から出てくる一瞬前。ほんの一瞬だけ、その表情に陰が差しているように見えた。すぐに取り繕うように笑みを浮かべるから確証はないけれど、でもそんな違和感があった。
「このまま寄り道しようよ」
「寄り道ですか?」
「そう。コーヒーでも飲みに行こうよ。いつもみたいに」
先程の曇った表情なんて見間違えだと思うくらいに明るく澄み、そしていつも通りの声で言葉を紡ぐ。色をつけるとすれば透明度のある白に限りなく近くて綺麗で、でも白とは言えないどこか不純物の混じった微かなグレー。
真白と呼ぶには心許ない、そんな色だ。
「……ぜひ」
僕はまるで、それに気づかなかったように二つ返事を口にする。きっとあれだ。先輩は午後の予期せぬ講義に疲れているんだ。だからきっと、あんな表情が不意に顔を表していて、文字通りのコーヒーブレイクってやつがしたかったんだ。
そういうことか、その相手が僕でいいなら、……僕はそれで。
「場所、いつものとこにします?」
僕らには行きつけというか、決まって利用しているコーヒーチェーン店がある。テスト前やめんどくさい何かがある度に通っていた。今日もそこかな、なんて思っていたけど、先輩はしばらく小さな声で「んー」と口を噤み、そこから何か思いついたのか「あっ」と声を漏らす。口角を少し上げ、悪戯にずるい言葉を吐いた。
「私が気に入ってる、秘密の喫茶店、今日はそこに行ってみない?」
☆☆☆☆
「いらっしゃいませ」
「あ、マスター。やっほ~」
「おやおや。今日もお変わりなく元気だね」
「そりゃね~」
秘密の喫茶店、というのは雑に説明するといかにもここがいわゆる喫茶店である、と言うに相応しい喫茶店だった。十人程で満席になるようなこじんまりとした店内にマスターと呼ばれる四十代くらいの男性が一人、カウンターで洗い物をしている。先輩はその男性とそれなりに顔馴染みなようで、フランクな言葉を交わしていた。
「そこの彼は見ない顔だね。知り合いかな?」
「うん。大学の後輩くん。一つ下の二年生」
「後輩くん、か。……でもあれだね、君が年下の男の子を連れてくるなんて珍しいな」
「馬鹿、変な言い方しないでよね。誤解されちゃうでしょ」
それなりの付き合いがあるからこそのジョークを交わすと、先輩は「あそこにしよっか」と窓側の席を指す。指差した先、部屋の隅には椅子の向かい合った二人用のテーブルがあった。
店内は装飾といいBGMといい、アンティークという表現の似合うものだった。アコースティックギターの音が心地いい。今の僕からすると、少し背伸びをしたような空間だった。
「もう、そんなに固くならなくても大丈夫だよ」
僕を見かねた先輩は語尾に笑みを含ませるとメニュー表を僕の方へと向けてくれる。僕らが普段利用しているコーヒーチェーン店とメニューの名前は対して変わらないというのに、値は一、二割増しだった。少しだけ身構えしてしまう。
「……ここ、よく来るんですか?」
「ここ? んー、まぁそれなりに、かな。基本他の人には教えたことはないんだけどね。私にとってここは憩いの場所だもん。……でも、君は特別」
濁すような誤魔化すような、どこか曖昧な言葉の響きにどうしたことか頬が熱を帯びたように思えた。
「私としては、もう少し他の人を誘ってもらえる方がありがたいんですけどねぇ」
マスターが二人分のお冷を持ってきたタイミングで言葉を挟む。
少し揶揄うような口ぶりだった。
「でも、マスターだってここが人で満杯のぎゅうぎゅうの状態なんて嫌でしょ? 私は、ここのひっそりとした隠れ家的雰囲気が好きなの」
「まぁね、気持ちはわかるけれど。でも、私だって一度くらいはそういう思いをしてみたいんだよ?」
「そうなの? なんだか意外」
でも私はこのままでいいけどなー、と先輩は小さく呟き、結露で少し湿ったグラスの輪郭を指でなぞる。
「それで、お二人とも。注文は決まりましたかな?」
「あ、じゃあ僕はこのコーヒーを」
「私は、いつもので」
「はい。かしこまりました」
メニューの一番上、人気とポップのついたコーヒーを指さす僕の横で、先輩は板についた口調で短く注文する。その姿に大人びた憧れを感じたものの、物理的ではないがどこか遠いものを感じた。どうしてそんなものを思ったのか、僕にも分からないけれど。
「お待たせしました。こちら、コーヒーとホットミルクになります」
男性はしばらくすると二つのマグカップをそれぞれの手元へと並べる。つーっと立ち昇る湯気が綺麗だった。
「今日はいつもより少し砂糖を多めに入れたけど、それでもよかったかな。少し疲れているように見えて」
「流石マスター、ありがと」
「いえいえ」
僕の違和感を証明したような会話に、思わずさっきのワンシーンが浮かび、リフレインする。心臓が、静かにピリッと痛んだ。
「そしてこちらは私からのサービスになります。お口に合えば幸いですが」
二人の間に小さな皿が置かれる。そこには大小、そして形のまばらなクッキーが幾つか並んでいた。
「もしかしてマスターの手作り?」
「いえいえ。私の娘作、です」
男性の顔が、少しだけにこやかになる。
「最近、小学生の娘がお菓子作りにハマりまして。こうやってよく作ってくれるんだけど私たちだけではどうも食べきれなくてね。よかったらどうぞ」
では、ごゆっくり、と彼は一礼するとそのままカウンターへと戻って行った。
「……あの、コーヒー。飲まないんですか?」
「え? あぁ、うん。私、実はあんまりコーヒー得意じゃないんだよねー」
いつもは飲んでいるのに、という言葉を口にせずに留めていると、そんな言葉が返ってくる。いつものコーヒーチェーン店では二人してブラックコーヒーをちびちびとゆっくりと嗜んでいた。それが僕らの普段であり日常だった。だから、そんな僕の知らない先輩が目の前に座っている現状は、どうも不思議な感覚に思えた。まるで知らない人との相席にも思えた。顔がそっくりの双子のもう一人なのではないか、なんてありえないことすら考えてしまう。
「だから、メニュー表を見たらわかるんだけど本当はホットミルクなんてメニューはないの」
「……そ、そうなんですか?」
「私がコーヒー苦手なのを見つけたマスターが、特別にって出してくれたのがきっかけなんだけど、今じゃもうそればっかり飲んでてさ~」
言われるがまま、メニュー表の左上から右下までの隅々を見渡す。たしかに、どこにもホットミルクというメニューの記載がなかった。
「な、なんか意外ですね。そんなイメージなかったです」
「え? そうかなぁ」
「……はい」
僕はそんな返事で会話を一度閉めると間を埋めるようにコーヒーを啜った。思ったよりも苦かった。そのホットミルクで割ったら丁度いいんじゃないかと思うくらいに、苦味の特徴的なコーヒーだった。
「……ね、気づいた?」
「え?」
「ほら、髪」
先輩は僕に見せつけるように首を振り、自身の髪をさらりと揺らしてみせた。
「ちょっとばっさりと切ってみたの」
「……結構短くなりましたよね」
元々は背中くらいまであったのに、今はボブより短いショートヘアになっていた。
「どう? 似合うかなぁ」
「似合うと、思いますよ」
その黒髪は長い頃と変わらず艶があり、滑らかさも目でわかる柔らかさも健在でとても綺麗だった。言うまでもなく、先輩に似合っている、美しく見える。そんな、端的な言葉でしか言い表すことができない、けれど。
「……ちょっとひとつ言ってもいい?」
「なんですか?」
先輩が前置きなんて用意するから、思わず目線が先輩の方へと向けられる。
先輩は、窓の向こうの道路を見ていた。
「彼氏に振られたの」
先輩はそう、短く要件を伝えるとサービスに出されたクッキーを齧った。咀嚼の音がセリフのように鳴り、飲み込まれると静かになる。そしてその音を繋ぐようにまたクッキーを齧り、咀嚼し、飲み込む、それの繰り返し。三つのクッキーをお腹に収めると、それでようやく落ち着いたのか続きを口にする。
「素敵な人だったか、なんて聞かれてもよく分からないけど、いい人だったとは思う。顔は整っていたし、歌も上手くて人気だった。でも、同時にちょっと変な人ではあった。家にはモアイ像が並んであったし、えっとあれなんだっけ、グから始まる宇宙人……」
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今日は私の奢りだから、なんて言葉を残して席を後にする先輩を、僕は黙って見ているしかできない。僕を置いて、また一人になろうとする先輩を、見たまま何もできずにいる。何かしなくてはと思うのに、行動が伴わない。そして葛藤のような心情を繰り返し、黙って店を出る先輩を受け入れた。それだけだった。
そして店はまた静かになった。扉の閉まる音が響いた後、BGMだって相変わらず流れているのに鼓膜を揺らしてくれない。コーヒーを口にしても苦くて苦くてたまらないだけだった。サービスのクッキーなんかじゃ拭えないような苦味に涙が出そうだ。
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僕は悟ったように先輩の抜け殻のようなマグカップを見つめ、そのまま「すみません」とマスターを呼んだ。
「彼女と同じ、ホットミルクをください」
「……かしこまりました」
マスターは少し複雑な面立ちを見せたがメニュー表にはないメニューのオーダーを快諾し、しばらくしてからホットミルクを用意してくれた。
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