4 / 10
阿吽
しおりを挟む
「……ん、おかえり」
「ただいま」
家に帰ると同居人である君がリビングのソファに凭れてスマホをいじっていた。君の視線がスマホから僕の方へと移ることはないけれど、君の口からは労いの言葉が紡がれる。一見、冷たいように見えるかもしれないけれど、これが二人の通常運転、僕らの日常。決して、喧嘩の最中などではない。
僕と君の関係性をわかりやすく伝えるとすれば、ルームシェアをしているルームメイト同士ってやつなんだろうか。ここに暮らしているのは僕と君の二人、そして僕は男性であり君は女性。男女二人が仲睦まじく住んでいるというと、付き合っている、或いは結婚していると思われるが、それらは断じて違う。お互いに相手に対して好意を抱いていることも、それもその好意というのは恋愛に限りなく近いものであることも知っているが、それでも僕らが恋仲になることはなかった。お互いに相手のことは好きだったが、付き合うかと言われると何か違うと思ったのかもしれない。そんな曖昧な二人を宥めるように生まれた折衷案がこのルームシェアだった。
こんなわかりにくい関係をしてどうなんだ、と言われることもあったが、これが一番僕ららしくて心地のいい過ごし方だった。友達の延長線というか、付き合うよりもどこか悩みの種が少ないような気がして。
「卵、安くなっていたからついでに買っておいたよ」
「卵? あれ、この前買ってなかったっけ」
「そうだけど、さっき出かける前に冷蔵庫確認したらあと三つしか残ってなかったよ」
「あれ、そんなに減ってた?」
「君がずっと、毎食のように卵かけご飯食べてたからじゃない?」
「あー……ごめん」
「食べるものに関して厳しく言いたくないけどね、僕だって一応おかずは作ってるんだから、少しくらいは食べてほしいかな」
ただでさえ偏食なんだから、と僕が言葉を続けると君はまた「ごめん」と短く呟いた。多分、明日になればこのやりとりだって頭の中から抜けてしまっていて、きっと卵かけご飯を食べているんだろうけど。
僕が人のことを言える立場じゃないけれど、君は人一倍日々の生活に執着がなかった。言い換えれば、ズボラな人間だった。とりあえず生きてさえいればいい、と言わんばかりの軽い考え方。
家具は最低限あればいい。
食事は食べる本人が満足すればそれでいい。
服は好きに着れるならなんでもいい。
老後のことなんて歳をとってから考えたらいい。
明日の私が幸せなら、それでいい。
君は全てにおいて無頓着だった。まるで人が生きるという行為に大した意味がないと、生物としての真理を見出してしまったかのように。だけど僕はそんな君のなにものにもこだわらない性格をそれなりに気に入っていて、だから今もこうしてルームシェアを続けている。
もうルームシェアを始めて二年以上が経っていた。それなりに好き勝手に暮らしている。お互いにバイトしかしていないために大した贅沢もできないが、逆にその細々とした生活が好きだった。家賃五万円の2LDKじゃ、全てにおいて快適よりもその反対の方が多かったけれどそれはそれでエモいんだろうなぁなんて思って過ごしていた。多分、間違っているんだろうけど。
お互いの収入は月に八万円程。引くもの引けば手元に残る金額なんてたかが知れていたが、でも生活をするにあたって不自由はほとんどなかった。些細な趣味もない僕らには生活費以外の出費がほとんどなかった。せいぜい、月に二回程慣れないお酒を飲みながらくだらないことをするのが最高に楽しいエンターテインメントだった。あとはお互いの記念日を祝うくらい。それだけでよかった。
僕の両親をはじめとした大人たちはいい年こいてこんなことはやめろ、早く仕事に就けなんて説教じみたことを吐いていたが全部聞き流していた。僕らにとって欲しかったものはお金でも安定した将来でもない。自由な時間と安らぎを与えてくれるパートナーの存在だった。お金は最低限生きていけるだけあればそれでいい。それに足りなくなったらその時に僕らでなにかしら頭を使えばいいのだから。人間なんて、人様に迷惑さえかけなければ自由に生きていい生き物なんだから。
「あ、ねぇ」
「んー?」
「明日ってなにか予定ある? バイト?」
「いや、ないよ。なんで?」
「下着、苦しくなっちゃって。新しいの欲しいなって」
「いいよ。……あれ、もしかして太った?」
「……もしかしなくとも殴るよ?」
「……冗談じゃん」
君の目がギラっとした。怖い。
「冗談でよかったね。本音だったら今頃死んでたよ」
「失言に対する罪が重すぎない?」
僕はゲームのキャラじゃないんだけど。
「女の子に今のは禁句でしょ」
「ごめんごめん。……でも、そういやこの前脱衣場で体重計に乗りながらため息ついてなかったっけ?」
「おい、なんで君がそれを知ってるんだ、おい」
「………………やべ」
「くそっ、やっぱりさっき殺しておけば……!」
「待て待て待て!? 近くにあったからってノーパソで殴ろうとするのはやめよう!? 死ぬ、死んじゃうって!?」
「卵かけご飯も筋トレにいいって聞いたから食べてたのに、それなのに、それなのに君ってやつは!」
「いやなんかもう色んな情報ダダ漏れになってるよ!?」
「うるさいっ、もうやけくそだっ!!」
「いやいやいやいや!?」
振りかざされたノートパソコンを両手で押さえ、恐る恐る君の顔を覗く。ノートパソコンを持つ君の手には力など入っておらず、言葉になっていたような殺意はなにひとつ含まれていない。そこには怒りおろか笑みが、いたずらっ子のような笑みを浮かべる君が立っている。
まるでこれら一連の流れがエンターテインメントみたいになった。
「ばーか。今回だけだからね」
君は僕の頬をぴっと指で刺した。
そう、そうだ。これでいい。
僕らの日々なんて、これくらいでいい。
はたから見たらくだらないくらいでいいんだ。
そこに大した意味がなくたって。
君がいるから、この日々が色めいている。
僕らの日々なんて、全部そんなオチで終わればいい。
●●●●
「そう言えば、少し話したいことがあるんだけど」
「また私の身体のことだったら次こそほんとに殺しちゃうよ?」
「まだなにも言ってないんだけど」
「ついさっきの前科があるからね」
「ぐうの音も出ないな」
ふん、と小さく胸を張る君がかわいらしい。ボーイッシュな黒髪ショートの君はよれた大きいシャツにハーフパンツという見る人が見れば色気のない格好だけど、そんなところが君らしくて僕は好きだった。きっと細身の君だからこういうスポーティーな格好が似合うんだろう。でも、色気なく見えるからって君には魅力がないとかそういうわけじゃなくて、君を構成するいくつもの要素が僕の好みだった。髪が揺れると見えるインナーカラーの赤も、大きく澄んだその二重も、触れると瑞々しいその柔肌も、実は今着ているそのシャツが本当は僕のものだっていう事実も。
「それで、改まっちゃってどうしたの?」
「いや、なんというか、さ。どうしてみんな男女間の好意を恋愛とか結婚とかそういう形式じみたものにあてはめたがるんだろう、って」
「うわ、なんか急に真面目な話」
「ごめん」
「いいよいいよ。んー……そうだなぁ。単純にその方が都合がいいからじゃない? 例えば、恋仲ってことにしておけばその二人のことをだいたい把握することができるし、ドラマとかだとそれが数字に繋がるじゃん」
「つまり、 僕らの感情は大衆のエンターテインメントの素材でしかない、と」
「卑屈だなぁ。そういうことじゃないよ。でもさ、考えてみてよ。実際、世間的に見たら変でしょ。私たちみたいな好きな人と同居もしてるのに、結婚はおろか、付き合ってもいないなんて。じゃあ君たちは一体どういう関係なのって思わない?」
「まぁ、それはたしかに同意だけど、でもなんでもがそうやって言葉で言い表すことのできる関係にしないといけないのかなって」
「んー、でもそれって私たちがこの問題の当事者だからそう思うんじゃないかな。言葉で伝わるような関係じゃないと、当事者以外の人には理解できないからね。人は言葉を通じてわかりあっていく生き物だもん。その唯一のツールである言葉にならないんじゃ、わかりあうのはこれから先もずっと難しいよ」
「それもわかるけど、なんだかそういう全てが理解できないと認めない、みたいな考え方って時代と比べて劣化してるように見えない?」
「しかたないよ。今の偉い人たちがみんな頭硬いんだもん。でも、それもひとつの個性なんだよ、きっと」
失礼するね、と君は断りを入れると僕の膝へ腰を下ろした。ふわりとシャンプーや石鹸の匂いが舞う。僕と君は同じシャンプーや石鹸を使っているというのに、君から感じる匂いは全く別のものに思えた。多分、これが愛おしいって感情なんだろうけど、口に出さないようにするとなんだかむず痒い気持ちでいてもたってもいられなくなる。言い訳をするように君のことを抱きしめた。普段僕が着ているシャツですら、一度君が着てしまえば全く別のものになってしまう。そのまま顔をうずめた。僕のシャツなのに、君の匂いがする。
「……私は、今の関係を気に入ってるよ」
君は物寂しそうに言った。
「僕もだよ」
「ありがと。私は君のことが好きだし、それはもちろん男の人としてだし、私たちはキスもハグもする。でも付き合っていない。お互いが恋人なわけでもなく、別に大切な人がいるわけでもない。だけど、言ってしまえばこれから恋人を作ることだってできるし、それを理由に明日から別居することだってできる。でも、私たちはそれをしない。口約束のような不安定なつながりしかないけれど、でもその不安定なつながりを大切にしている。言い方は悪いかもしれないけれど、首輪の付いていない犬と飼い主のような、そんな関係。信頼って言葉がいいのかな。とりあえず私は、そんな今の関係がちょうどいいなって思ってる」
「ちなみに、付き合うって選択肢を選ばなかった理由は、他にもあったりする?」
「もちろん。これはただの建前だよ」
「え、そうなの?」
「私ね、関係を増やすことが怖いの」
「……えっと、ごめん、具体的に言うと?」
抽象的な言葉に戸惑う。
「作られたものはいつか壊れる。生まれた人もいつか必ず死ぬ。くっつけばいつか離れる。ただひたすらに、私はそれが怖い。始まりがあるから終わりが来る、それが世界の理。でも、それが私にはつらいの。永遠なんて幻想に心奪われてしまうくらいに、今のままがいい。君と離れたくない。いつか必ずやってくるお別れがどんな形になったとしても、少しでも、ほんの少しでもつらくならないように特別なつながりを、名前のついたつながりを増やしたくなかった。つながりさえなければ、君を失ったとしても、悲しみが減るんじゃないかって」
「……そんなに好きでいてくれたなんて、知らなかったよ」
「あたりまえでしょ。いつも言えないけど、私は君のことが大好きなの。こんな気持ちになったのは、君が初めて。……きっと君が最初で最後なんだけどね」
「うわ、かわいい」
「うるさい、殴るよ?」
「前言撤回」
「それはそれで殴る」
「八方塞がりじゃん」
女の子はずるいんだよ、なんて君は呟くとくるりと座ったまま僕の方へと体ごと振り返る。君の顔が近い。ぱすっと君の右こぶしが僕の胸に触れた。左胸、心臓の真上だった。
「……ねぇ、君は私のこと好き?」
「好きだよ」
心臓を狙ったようにあてられたこぶしがゆっくりと下りていく。君の顔は、やっぱり悲しそうに見えた。
「やっぱり声で直接聞けると嬉しいね。安心する。……少しだけ、悲しくなってしまうけど」
君は泣かなかった。この場では泣けなかったんだと思う。でも肩が震えていた。僕がそばにいるということは、いつか離れてしまう終わりへのカウントダウンが始まっているということで。時間が経てば経つ程その悲しみは残酷に膨らんでいく。
君はずっと、そんな景色を一人で見ていたんだろうか。
「ねぇ、キスしてもいい?」
「え、なんで」
「今、唐突にしたくなった」
君の悲しみを止める方法がこれくらいしか思いつかなかった。悲しみの底が見えてしまう前に、またなにかで満たしてあげなくてはならない。それがきっと愛なんだろうと思った。
「い、いいけど、んー……」
「だめ、だった?」
「だめ、じゃないけど……、泣いちゃうかも」
君が僕の胸に顔を隠す。小さく二つ、水溜まりのような温もりが生まれる。肩が震える。
「……泣いてんじゃん」
「うるさい、殴るよ…」
「……好きにしたらいい」
僕が君を抱きしめると、君はもう隠さずに声にして泣いた。
子供みたいにわんわん泣いた。
鼻をすする音がする。
嗚咽が聞こえる。
君の幸せが、悲しみとなって降っている。
「……僕はずっと、ここにいるから」
降水確率0パーセントの夜、僕らは土砂降りに苛まれている。
傘も持たずに身を寄せ合い、待っている。
この雨が止み、晴れるその時を待っている。
言葉なんて不要だ。
この時間だけが確立していたらいい。
幸せはきっと、触れた時間の中だけにあるのだから。
「ただいま」
家に帰ると同居人である君がリビングのソファに凭れてスマホをいじっていた。君の視線がスマホから僕の方へと移ることはないけれど、君の口からは労いの言葉が紡がれる。一見、冷たいように見えるかもしれないけれど、これが二人の通常運転、僕らの日常。決して、喧嘩の最中などではない。
僕と君の関係性をわかりやすく伝えるとすれば、ルームシェアをしているルームメイト同士ってやつなんだろうか。ここに暮らしているのは僕と君の二人、そして僕は男性であり君は女性。男女二人が仲睦まじく住んでいるというと、付き合っている、或いは結婚していると思われるが、それらは断じて違う。お互いに相手に対して好意を抱いていることも、それもその好意というのは恋愛に限りなく近いものであることも知っているが、それでも僕らが恋仲になることはなかった。お互いに相手のことは好きだったが、付き合うかと言われると何か違うと思ったのかもしれない。そんな曖昧な二人を宥めるように生まれた折衷案がこのルームシェアだった。
こんなわかりにくい関係をしてどうなんだ、と言われることもあったが、これが一番僕ららしくて心地のいい過ごし方だった。友達の延長線というか、付き合うよりもどこか悩みの種が少ないような気がして。
「卵、安くなっていたからついでに買っておいたよ」
「卵? あれ、この前買ってなかったっけ」
「そうだけど、さっき出かける前に冷蔵庫確認したらあと三つしか残ってなかったよ」
「あれ、そんなに減ってた?」
「君がずっと、毎食のように卵かけご飯食べてたからじゃない?」
「あー……ごめん」
「食べるものに関して厳しく言いたくないけどね、僕だって一応おかずは作ってるんだから、少しくらいは食べてほしいかな」
ただでさえ偏食なんだから、と僕が言葉を続けると君はまた「ごめん」と短く呟いた。多分、明日になればこのやりとりだって頭の中から抜けてしまっていて、きっと卵かけご飯を食べているんだろうけど。
僕が人のことを言える立場じゃないけれど、君は人一倍日々の生活に執着がなかった。言い換えれば、ズボラな人間だった。とりあえず生きてさえいればいい、と言わんばかりの軽い考え方。
家具は最低限あればいい。
食事は食べる本人が満足すればそれでいい。
服は好きに着れるならなんでもいい。
老後のことなんて歳をとってから考えたらいい。
明日の私が幸せなら、それでいい。
君は全てにおいて無頓着だった。まるで人が生きるという行為に大した意味がないと、生物としての真理を見出してしまったかのように。だけど僕はそんな君のなにものにもこだわらない性格をそれなりに気に入っていて、だから今もこうしてルームシェアを続けている。
もうルームシェアを始めて二年以上が経っていた。それなりに好き勝手に暮らしている。お互いにバイトしかしていないために大した贅沢もできないが、逆にその細々とした生活が好きだった。家賃五万円の2LDKじゃ、全てにおいて快適よりもその反対の方が多かったけれどそれはそれでエモいんだろうなぁなんて思って過ごしていた。多分、間違っているんだろうけど。
お互いの収入は月に八万円程。引くもの引けば手元に残る金額なんてたかが知れていたが、でも生活をするにあたって不自由はほとんどなかった。些細な趣味もない僕らには生活費以外の出費がほとんどなかった。せいぜい、月に二回程慣れないお酒を飲みながらくだらないことをするのが最高に楽しいエンターテインメントだった。あとはお互いの記念日を祝うくらい。それだけでよかった。
僕の両親をはじめとした大人たちはいい年こいてこんなことはやめろ、早く仕事に就けなんて説教じみたことを吐いていたが全部聞き流していた。僕らにとって欲しかったものはお金でも安定した将来でもない。自由な時間と安らぎを与えてくれるパートナーの存在だった。お金は最低限生きていけるだけあればそれでいい。それに足りなくなったらその時に僕らでなにかしら頭を使えばいいのだから。人間なんて、人様に迷惑さえかけなければ自由に生きていい生き物なんだから。
「あ、ねぇ」
「んー?」
「明日ってなにか予定ある? バイト?」
「いや、ないよ。なんで?」
「下着、苦しくなっちゃって。新しいの欲しいなって」
「いいよ。……あれ、もしかして太った?」
「……もしかしなくとも殴るよ?」
「……冗談じゃん」
君の目がギラっとした。怖い。
「冗談でよかったね。本音だったら今頃死んでたよ」
「失言に対する罪が重すぎない?」
僕はゲームのキャラじゃないんだけど。
「女の子に今のは禁句でしょ」
「ごめんごめん。……でも、そういやこの前脱衣場で体重計に乗りながらため息ついてなかったっけ?」
「おい、なんで君がそれを知ってるんだ、おい」
「………………やべ」
「くそっ、やっぱりさっき殺しておけば……!」
「待て待て待て!? 近くにあったからってノーパソで殴ろうとするのはやめよう!? 死ぬ、死んじゃうって!?」
「卵かけご飯も筋トレにいいって聞いたから食べてたのに、それなのに、それなのに君ってやつは!」
「いやなんかもう色んな情報ダダ漏れになってるよ!?」
「うるさいっ、もうやけくそだっ!!」
「いやいやいやいや!?」
振りかざされたノートパソコンを両手で押さえ、恐る恐る君の顔を覗く。ノートパソコンを持つ君の手には力など入っておらず、言葉になっていたような殺意はなにひとつ含まれていない。そこには怒りおろか笑みが、いたずらっ子のような笑みを浮かべる君が立っている。
まるでこれら一連の流れがエンターテインメントみたいになった。
「ばーか。今回だけだからね」
君は僕の頬をぴっと指で刺した。
そう、そうだ。これでいい。
僕らの日々なんて、これくらいでいい。
はたから見たらくだらないくらいでいいんだ。
そこに大した意味がなくたって。
君がいるから、この日々が色めいている。
僕らの日々なんて、全部そんなオチで終わればいい。
●●●●
「そう言えば、少し話したいことがあるんだけど」
「また私の身体のことだったら次こそほんとに殺しちゃうよ?」
「まだなにも言ってないんだけど」
「ついさっきの前科があるからね」
「ぐうの音も出ないな」
ふん、と小さく胸を張る君がかわいらしい。ボーイッシュな黒髪ショートの君はよれた大きいシャツにハーフパンツという見る人が見れば色気のない格好だけど、そんなところが君らしくて僕は好きだった。きっと細身の君だからこういうスポーティーな格好が似合うんだろう。でも、色気なく見えるからって君には魅力がないとかそういうわけじゃなくて、君を構成するいくつもの要素が僕の好みだった。髪が揺れると見えるインナーカラーの赤も、大きく澄んだその二重も、触れると瑞々しいその柔肌も、実は今着ているそのシャツが本当は僕のものだっていう事実も。
「それで、改まっちゃってどうしたの?」
「いや、なんというか、さ。どうしてみんな男女間の好意を恋愛とか結婚とかそういう形式じみたものにあてはめたがるんだろう、って」
「うわ、なんか急に真面目な話」
「ごめん」
「いいよいいよ。んー……そうだなぁ。単純にその方が都合がいいからじゃない? 例えば、恋仲ってことにしておけばその二人のことをだいたい把握することができるし、ドラマとかだとそれが数字に繋がるじゃん」
「つまり、 僕らの感情は大衆のエンターテインメントの素材でしかない、と」
「卑屈だなぁ。そういうことじゃないよ。でもさ、考えてみてよ。実際、世間的に見たら変でしょ。私たちみたいな好きな人と同居もしてるのに、結婚はおろか、付き合ってもいないなんて。じゃあ君たちは一体どういう関係なのって思わない?」
「まぁ、それはたしかに同意だけど、でもなんでもがそうやって言葉で言い表すことのできる関係にしないといけないのかなって」
「んー、でもそれって私たちがこの問題の当事者だからそう思うんじゃないかな。言葉で伝わるような関係じゃないと、当事者以外の人には理解できないからね。人は言葉を通じてわかりあっていく生き物だもん。その唯一のツールである言葉にならないんじゃ、わかりあうのはこれから先もずっと難しいよ」
「それもわかるけど、なんだかそういう全てが理解できないと認めない、みたいな考え方って時代と比べて劣化してるように見えない?」
「しかたないよ。今の偉い人たちがみんな頭硬いんだもん。でも、それもひとつの個性なんだよ、きっと」
失礼するね、と君は断りを入れると僕の膝へ腰を下ろした。ふわりとシャンプーや石鹸の匂いが舞う。僕と君は同じシャンプーや石鹸を使っているというのに、君から感じる匂いは全く別のものに思えた。多分、これが愛おしいって感情なんだろうけど、口に出さないようにするとなんだかむず痒い気持ちでいてもたってもいられなくなる。言い訳をするように君のことを抱きしめた。普段僕が着ているシャツですら、一度君が着てしまえば全く別のものになってしまう。そのまま顔をうずめた。僕のシャツなのに、君の匂いがする。
「……私は、今の関係を気に入ってるよ」
君は物寂しそうに言った。
「僕もだよ」
「ありがと。私は君のことが好きだし、それはもちろん男の人としてだし、私たちはキスもハグもする。でも付き合っていない。お互いが恋人なわけでもなく、別に大切な人がいるわけでもない。だけど、言ってしまえばこれから恋人を作ることだってできるし、それを理由に明日から別居することだってできる。でも、私たちはそれをしない。口約束のような不安定なつながりしかないけれど、でもその不安定なつながりを大切にしている。言い方は悪いかもしれないけれど、首輪の付いていない犬と飼い主のような、そんな関係。信頼って言葉がいいのかな。とりあえず私は、そんな今の関係がちょうどいいなって思ってる」
「ちなみに、付き合うって選択肢を選ばなかった理由は、他にもあったりする?」
「もちろん。これはただの建前だよ」
「え、そうなの?」
「私ね、関係を増やすことが怖いの」
「……えっと、ごめん、具体的に言うと?」
抽象的な言葉に戸惑う。
「作られたものはいつか壊れる。生まれた人もいつか必ず死ぬ。くっつけばいつか離れる。ただひたすらに、私はそれが怖い。始まりがあるから終わりが来る、それが世界の理。でも、それが私にはつらいの。永遠なんて幻想に心奪われてしまうくらいに、今のままがいい。君と離れたくない。いつか必ずやってくるお別れがどんな形になったとしても、少しでも、ほんの少しでもつらくならないように特別なつながりを、名前のついたつながりを増やしたくなかった。つながりさえなければ、君を失ったとしても、悲しみが減るんじゃないかって」
「……そんなに好きでいてくれたなんて、知らなかったよ」
「あたりまえでしょ。いつも言えないけど、私は君のことが大好きなの。こんな気持ちになったのは、君が初めて。……きっと君が最初で最後なんだけどね」
「うわ、かわいい」
「うるさい、殴るよ?」
「前言撤回」
「それはそれで殴る」
「八方塞がりじゃん」
女の子はずるいんだよ、なんて君は呟くとくるりと座ったまま僕の方へと体ごと振り返る。君の顔が近い。ぱすっと君の右こぶしが僕の胸に触れた。左胸、心臓の真上だった。
「……ねぇ、君は私のこと好き?」
「好きだよ」
心臓を狙ったようにあてられたこぶしがゆっくりと下りていく。君の顔は、やっぱり悲しそうに見えた。
「やっぱり声で直接聞けると嬉しいね。安心する。……少しだけ、悲しくなってしまうけど」
君は泣かなかった。この場では泣けなかったんだと思う。でも肩が震えていた。僕がそばにいるということは、いつか離れてしまう終わりへのカウントダウンが始まっているということで。時間が経てば経つ程その悲しみは残酷に膨らんでいく。
君はずっと、そんな景色を一人で見ていたんだろうか。
「ねぇ、キスしてもいい?」
「え、なんで」
「今、唐突にしたくなった」
君の悲しみを止める方法がこれくらいしか思いつかなかった。悲しみの底が見えてしまう前に、またなにかで満たしてあげなくてはならない。それがきっと愛なんだろうと思った。
「い、いいけど、んー……」
「だめ、だった?」
「だめ、じゃないけど……、泣いちゃうかも」
君が僕の胸に顔を隠す。小さく二つ、水溜まりのような温もりが生まれる。肩が震える。
「……泣いてんじゃん」
「うるさい、殴るよ…」
「……好きにしたらいい」
僕が君を抱きしめると、君はもう隠さずに声にして泣いた。
子供みたいにわんわん泣いた。
鼻をすする音がする。
嗚咽が聞こえる。
君の幸せが、悲しみとなって降っている。
「……僕はずっと、ここにいるから」
降水確率0パーセントの夜、僕らは土砂降りに苛まれている。
傘も持たずに身を寄せ合い、待っている。
この雨が止み、晴れるその時を待っている。
言葉なんて不要だ。
この時間だけが確立していたらいい。
幸せはきっと、触れた時間の中だけにあるのだから。
0
あなたにおすすめの小説
淡色に揺れる
かなめ
恋愛
とある高校の女子生徒たちが繰り広げる、甘く透き通った、百合色の物語です。
ほのぼのとしていて甘酸っぱい、まるで少年漫画のような純粋な恋色をお楽しみいただけます。
★登場人物
白川蓮(しらかわ れん)
太陽みたいに眩しくて天真爛漫な高校2年生。短い髪と小柄な体格から、遠くから見れば少年と見間違われることもしばしば。ちょっと天然で、恋愛に関してはキス未満の付き合いをした元カレが一人いるほど純潔。女子硬式テニス部に所属している。
水沢詩弦(みずさわ しづる)
クールビューティーでやや気が強く、部活の後輩達からちょっぴり恐れられている高校3年生。その美しく整った顔と華奢な体格により男子たちからの人気は高い。本人は控えめな胸を気にしているらしいが、そこもまた良し。蓮と同じく女子テニス部に所属している。
宮坂彩里(みやさか あやり)
明るくて男女後輩みんなから好かれるムードメーカーの高校3年生。詩弦とは系統の違うキューティー美女でスタイルは抜群。もちろん男子からの支持は熱い。女子テニス部に所属しており、詩弦とはジュニア時代からダブルスのペアを組んでいるが、2人は犬猿の仲である。
王国の女王即位を巡るレイラとカンナの双子王女姉妹バトル
ヒロワークス
ファンタジー
豊かな大国アピル国の国王は、自らの跡継ぎに悩んでいた。長男がおらず、2人の双子姉妹しかいないからだ。
しかも、その双子姉妹レイラとカンナは、2人とも王妃の美貌を引き継ぎ、学問にも武術にも優れている。
甲乙つけがたい実力を持つ2人に、国王は、相談してどちらが女王になるか決めるよう命じる。
2人の相談は決裂し、体を使った激しいバトルで決着を図ろうとするのだった。
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
石榴(ざくろ)の月~愛され求められ奪われて~
めぐみ
歴史・時代
お民は江戸は町外れ徳平店(とくべいだな)に夫源治と二人暮らし。
源治はお民より年下で、お民は再婚である。前の亭主との間には一人息子がいたが、川に落ちて夭折してしまった。その後、どれだけ望んでも、子どもは授からなかった。
長屋暮らしは慎ましいものだが、お民は夫に愛されて、女としても満ち足りた日々を過ごしている。
そんなある日、徳平店が近々、取り壊されるという話が持ちあがる。徳平店の土地をもっているのは大身旗本の石澤嘉門(いしざわかもん)だ。その嘉門、実はお民をふとしたことから見初め、お民を期間限定の側室として差し出すなら、長屋取り壊しの話も考え直しても良いという。
明らかにお民を手に入れんがための策略、しかし、お民は長屋に住む皆のことを考えて、殿様の取引に応じるのだった。
〝行くな!〟と懸命に止める夫に哀しく微笑み、〝約束の1年が過ぎたから、きっとお前さんの元に帰ってくるよ〟と残して―。
Husband's secret (夫の秘密)
設楽理沙
ライト文芸
果たして・・
秘密などあったのだろうか!
むちゃくちゃ、1回投稿文が短いです。(^^ゞ💦アセアセ
10秒~30秒?
何気ない隠し事が、とんでもないことに繋がっていくこともあるんですね。
❦ イラストはAI生成画像 自作
エリート警察官の溺愛は甘く切ない
日下奈緒
恋愛
親が警察官の紗良は、30歳にもなって独身なんてと親に責められる。
両親の勧めで、警察官とお見合いする事になったのだが、それは跡継ぎを産んで欲しいという、政略結婚で⁉
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる