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正解だった
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アパートの隣人に恋をした。
でも僕は隣人の正確な年齢すら知らない。たまに交わす会話の雰囲気からして、多分三つくらい年上なんだろうと想像しているだけ。ぼんやりとした人物像しか知らない。僕が大学から帰る頃、いつもベランダで一人煙草をふかしていた。僕を見かけるなり「おかえり、少年」って手を振ってくれる。そんな一部始終すら様になっていた。でも、互いの名前すら知らないような関係。学生なのか、社会人なのかもわからない。僕が知っているのは、どれも目に映るインスタントなものばかり。
気だるそうに、とろり誘うように垂れた目尻。
アッシュグレーに染められたウルフカット。
揺れると音の鳴る、耳を飾るシルバーピアス。
折れそうに細い体と、それを強調するモノトーンファッション。
女性にしては少し低く、掠れたハスキーボイス。
僕の知っていることなんてたかが知れていたけれど、だけどその全てに首ったけ。
その全てが好きで、心奪われていた。
ダサい妄想だって膨らんだ。
実はあのおねーさんは僕のことを好きで、とか。
だからいつも話しかけてくれるんだ、とか。
なにかのきっかけさえあれば告白もきっとされちゃって。
それからその先は……、とか。
中高生かよ、って笑われそうな純粋を夢見たりもした。くだらないなぁってたまに正気を取り戻しながら、でもやっぱりそんなくだらないことを次の日にはまた繰り返していた。
本当は、もうとっくに好きな人は素知らぬ男のものなのに。
もう知っているんだ。僕は知っている。安いアパートの壁はどうしたって薄いから、隣の生活音が漏れてしまうから。特に僕の部屋は本当に音の立たない生活で成り立っていたから、好きな人の生活音はより一層よく聞こえてしまう。
だから僕は知っているんだ。
好きな人には彼氏がいるってこと。
週末になればその彼氏が泊まりに来ること。
そして夜になればベッドが愛で軋んでしまうことを。
壁越しに聞こえた上擦る声のせいで全部に気づいてしまった。それがずっと、僕の心臓を刺している。アイスピックみたいな細く鋭利なもので刺されていく。蓄積されるように繰り返し、繰り返し。毎週のようにそんな声を聞く度に、一本ずつ増えていく痛み。
遅効性で持続的な悲しみ。
だから、決まって週末の夜は散歩って言い訳を抱えて外へと逃げ出した。ワイヤレスイヤホンからはいつも大音量でロックが流れていた。正直音楽なんてなんだってよくて、何も聞こえたくないだけだった。どれくらい歩けば、なんて目安もない。ただ気が済むまで逃避行に満たしてもらえたら、なんて貧相なわがままを叶えたいだけ。
そのためには馬鹿なこともした。
缶コーラの一気飲みをした。
噎せてそのまま泣きたくなった。
誰もいない公園でブランコをメトロノームのようにひたすら漕いだ。
地球の自転と混ざるとそれはまるで時計の針に思えた。
意味なんかなくてよかった。僕はただ、時間が過ぎていくのを待っているだけ。あの声が聞こえなくなるその瞬間との待ち合わせをしているだけ。むちゃくちゃで偽物の僕を惰性のように生きていた。
それなのに面白いというか無様というか、どうしてか僕の心はまだあの人に奪われたままだった。いい加減そろそろやめたらって思うのに変われない。こんなくだらない感情なんか捨ててしまえたら楽になれるのに。
なぁ、あんた馬鹿だよ、本当に。
僕ですら僕の本心に寄り添うことが難しくなってきていた。揺らいでしまいそうになっていた。そんな頃、秋に近づき始めたある夏の夜だった。
その日も僕は相変わらず夜の街をしばらく歩いていた。もう半袖で過ごすにはどこか心許ない夜だった。空全体を雲が覆っていて月も見えないような、雨が降ってもおかしくないような不安定な夜。こんな日は気分転換するに限る。夜食でも買おうと最寄りのコンビニへと入る。カップラーメンに炭酸飲料、スナック菓子を手に取って棚の角を曲がった先、知った顔が立っていた。
隣人のあの人だった。
目が合った。口が開かない。
開いてもそれは空白のような些細な隙間で、息が漏れ出るだけ。ただずっと、喉元では「なんで」って言葉が不燃している。目の前の好きな人は気温に似合わぬ汗を首に伝わせていた。ハーフパンツによれた白いTシャツ。手元の買い物かごにはたくさんの酒がひしめきあっていた。
「……買い出し、ですか」
「……まぁ、うん。そんな感じ。……あぁ、もしかして、少年も?」
「………えぇ、まぁ」
あからさまな嘘を互いについた。笑ってしまうくらいにつまらない嘘。第三者からしたら、しょうもないくらいに馬鹿げた会話。僕はそこから続ける言葉が見つからなくて、どうしようもなく視線を逸らした。見てはいけないものを見たような気がした。
普段の姿からは想像もつかない崩れたメイク。僕の好きな人はこんな中途半端な姿じゃ外になんかでないような人なのに。アイシャドウは泥みたいで、リップは出血みたいに頬まで汚している。波紋のようなグラデーションは、それはそれでアーティスティックにも見えた。
「……あぁ、わかっちゃった感じ?」
視線が合うと取り繕うように、誤魔化すように首を右に傾ける。
「付き合ってよ。今夜だけでもいいから」
唇がもう一度だけ、柔らかくうねった。
◆◆◆◆
「ふられたんだ、私」
荒れた部屋の中、さっきまで誰か別の人がいた痕跡の中、向かい合うよう椅子にかけた二人。缶のプルタブをあけて小さく乾杯をした後、独り言のように好きな人は呟いた。酒のせいだろうか、今日は饒舌だった。思い出話のように、好きな人は好きな人の好きだった元彼氏のことを語った。楽しそうだけど苦しそうで、吐露のようで息継ぎのような唇の動きが目にしみる。
途中から僕はもうどこを見ているのかわからないくらいにぐちゃぐちゃで、相槌のように缶コーラを言い訳みたく呷った。声色も口数も、無理やり一定を保っても頬には涙が伝っていて、有耶無耶にしたくてポテトチップスをかじる。塩味にしたのは間違いだったかもしれない。これじゃまるで僕までもらい泣きしているみたいだ。涙の味がする。これならコンソメ味にでもしたらよかった。それかブラックペッパーとかサワークリームとかそういうやつ。僕まで気分が落ちていく。
いや、最初からずっと右肩下がりを記録していたけれど。
「……はぁ」
ため息が僕の頬を掠める。
アルコール臭い。
「……もう君でいいや」
顔がもう一歩近くなる。
「少年」
わざとらしく呼ばれる。
「私のこと慰めてよ」
いやに艶かしい音で声が撫でた。
好きな人の手元にはもう五本も空になった酒の缶が並んでいる。深淵のような瞳も艶を含んでいた。上気の薄桃に染まる表情も、自分の嚥下が聞こえるくらいに扇情的。手の届く距離に、欲しかった好きな人が無防備にいる。きっと伸ばした手も、その先の手遊びも許してくれる。
でも、どうしてなんだろう。
「……それは、できません」
ちっとも嬉しくない。心が踊らない。
その手を伸ばそうと思えない。
好きな人が、言ってくれた言葉なのに。
「……こういうのは、ちゃんと好きな人とするべきです、きっと」
ごめんなさい、と僕の声が情けなく漏れた。ださかった。コーラじゃちっとも酔えなくて、僕は良くも悪くも好きな人の弱さに触れることができなかった。つまらない男だと僕ですらわかったけれど、でもこれが正しいからって思い込みたかった。
「……そっか」
好きな人は、冷めた声になった。
「まぁ、君らしいっちゃ君らしいか」
腑に落ちたというより、腑に落ちるように意図的に消化した、という表現の正しい顔。
「少年、君はいい子だね。いいと思う、腐ってないよ、君は。純粋でかわいいね。……だけど少年、それじゃだめ。そういう真面目な人間は損の多い人生を送るよ。おかしな話だけど、でもほんと。だからちゃんと、ずるくならないといけないんだよ」
後悔してからじゃ遅いからね、と警告みたいな自戒を吐くとひとつ缶をあけてそのまま酒を頭から被った。エンターテインメントのような光景。酒が好きな人を濡らして、なにかを溶かしていく。そして隠してしまうように水溜まりとして床に這った。
「……でも、考えたらそっか。君の選択はきっと正解なんだろうね。少年、君は間違ってもこんなめんどくさいメンヘラなんか好きになっちゃいけないよ。こんなことなら、ってきっと後悔する。君は見てくれも悪くないんだし、もっと普通の女の子を好きになって、結ばれるべきだよ」
もう帰って大丈夫だよ、なんて言うから、僕は「あぁ、それじゃあ」なんて曖昧な返事だけ吐いて立った。「どうも」とか気の利かない言葉を置いて部屋を出る。
「おやすみ、少年」
「……おやすみ、なさい」
玄関まで見送られた僕は手を振り返さなかった。寂しそうに好きな人の手だけが揺れる。僕はそれをただ見ているだけ。その手がドアノブを握り、閉まるまでを見届けた。そして、その姿が扉越しになってしまうその小さな隙間、消えゆくような声がぽつり、僕に触れた。
「……私も、君みたいに綺麗なままでいられていたら、もう少し幸せだったのかな」
ドアは閉まった。僕は夜の静寂に包まれた。
聞き返す間もなく、僕らは一枚に隔てられる。
その言葉の棘は、共犯のように痛かった。
それからしばらくが経った。僕らが言葉を交わすことはもう無くなってしまった。互いにあの日のことが気まずくなっていた。目を合わせるのもどうもバツが悪くて逸らすようになった。僕はずっとあの夜を反芻している。後悔する反面、あれで良かったんだとも思っていた。
あの時言われたのは「僕でいい」という言葉。「僕が」ではなく「僕で」と言った。それがこの片思いへの答え合わせだと思った。この「が」と「で」の間には大きく深い溝がある。僕はその本質に気づいてしまった。だから、あの夜もあの答えにたどりついたんだと思う。
あれからずっと隣の部屋は週末になっても静かだ。
上擦る声はもちろん、騒がしい生活音もしない。本当に今までが満たされていたんだとわかるくらいに静かだった。最近のあの人は目元のクマがひどいし、細身の体には拍車がかかり、リストカットが腕に走っている。生きているというよりは死にきれなくて生きるしかないというような姿だった。
僕はそれでもやっぱりこの気持ちが捨てられない。
おかしいだろう。
好きな人も言っていたよ。
こんなめんどくさいメンヘラを好きになっちゃだめだって。
後悔するよって。
わかってるんだけどな。
でもやっぱり勝てないってわかっても諦められないんだよ。
僕も一緒にぐちゃぐちゃに壊れていいから、もう少しこのまま孤独な静寂に二人お揃いにもがきながら溺れていきたいよ。またいつか、あの声が聞こえてしまうなんて考えたくないから、僕は。
そんな女々しいことを願いながら僕はベッドに腰かける。隣の部屋に耳を潜めるが何も聞こえない。その事実にただひたすらに安堵する。僕は今日も散歩に行かなくて済む。
よかった。だけどずっと、心は泣いて止まらない。
ほんと、僕ってやつは困った人だ、ほんとに。
でも僕は隣人の正確な年齢すら知らない。たまに交わす会話の雰囲気からして、多分三つくらい年上なんだろうと想像しているだけ。ぼんやりとした人物像しか知らない。僕が大学から帰る頃、いつもベランダで一人煙草をふかしていた。僕を見かけるなり「おかえり、少年」って手を振ってくれる。そんな一部始終すら様になっていた。でも、互いの名前すら知らないような関係。学生なのか、社会人なのかもわからない。僕が知っているのは、どれも目に映るインスタントなものばかり。
気だるそうに、とろり誘うように垂れた目尻。
アッシュグレーに染められたウルフカット。
揺れると音の鳴る、耳を飾るシルバーピアス。
折れそうに細い体と、それを強調するモノトーンファッション。
女性にしては少し低く、掠れたハスキーボイス。
僕の知っていることなんてたかが知れていたけれど、だけどその全てに首ったけ。
その全てが好きで、心奪われていた。
ダサい妄想だって膨らんだ。
実はあのおねーさんは僕のことを好きで、とか。
だからいつも話しかけてくれるんだ、とか。
なにかのきっかけさえあれば告白もきっとされちゃって。
それからその先は……、とか。
中高生かよ、って笑われそうな純粋を夢見たりもした。くだらないなぁってたまに正気を取り戻しながら、でもやっぱりそんなくだらないことを次の日にはまた繰り返していた。
本当は、もうとっくに好きな人は素知らぬ男のものなのに。
もう知っているんだ。僕は知っている。安いアパートの壁はどうしたって薄いから、隣の生活音が漏れてしまうから。特に僕の部屋は本当に音の立たない生活で成り立っていたから、好きな人の生活音はより一層よく聞こえてしまう。
だから僕は知っているんだ。
好きな人には彼氏がいるってこと。
週末になればその彼氏が泊まりに来ること。
そして夜になればベッドが愛で軋んでしまうことを。
壁越しに聞こえた上擦る声のせいで全部に気づいてしまった。それがずっと、僕の心臓を刺している。アイスピックみたいな細く鋭利なもので刺されていく。蓄積されるように繰り返し、繰り返し。毎週のようにそんな声を聞く度に、一本ずつ増えていく痛み。
遅効性で持続的な悲しみ。
だから、決まって週末の夜は散歩って言い訳を抱えて外へと逃げ出した。ワイヤレスイヤホンからはいつも大音量でロックが流れていた。正直音楽なんてなんだってよくて、何も聞こえたくないだけだった。どれくらい歩けば、なんて目安もない。ただ気が済むまで逃避行に満たしてもらえたら、なんて貧相なわがままを叶えたいだけ。
そのためには馬鹿なこともした。
缶コーラの一気飲みをした。
噎せてそのまま泣きたくなった。
誰もいない公園でブランコをメトロノームのようにひたすら漕いだ。
地球の自転と混ざるとそれはまるで時計の針に思えた。
意味なんかなくてよかった。僕はただ、時間が過ぎていくのを待っているだけ。あの声が聞こえなくなるその瞬間との待ち合わせをしているだけ。むちゃくちゃで偽物の僕を惰性のように生きていた。
それなのに面白いというか無様というか、どうしてか僕の心はまだあの人に奪われたままだった。いい加減そろそろやめたらって思うのに変われない。こんなくだらない感情なんか捨ててしまえたら楽になれるのに。
なぁ、あんた馬鹿だよ、本当に。
僕ですら僕の本心に寄り添うことが難しくなってきていた。揺らいでしまいそうになっていた。そんな頃、秋に近づき始めたある夏の夜だった。
その日も僕は相変わらず夜の街をしばらく歩いていた。もう半袖で過ごすにはどこか心許ない夜だった。空全体を雲が覆っていて月も見えないような、雨が降ってもおかしくないような不安定な夜。こんな日は気分転換するに限る。夜食でも買おうと最寄りのコンビニへと入る。カップラーメンに炭酸飲料、スナック菓子を手に取って棚の角を曲がった先、知った顔が立っていた。
隣人のあの人だった。
目が合った。口が開かない。
開いてもそれは空白のような些細な隙間で、息が漏れ出るだけ。ただずっと、喉元では「なんで」って言葉が不燃している。目の前の好きな人は気温に似合わぬ汗を首に伝わせていた。ハーフパンツによれた白いTシャツ。手元の買い物かごにはたくさんの酒がひしめきあっていた。
「……買い出し、ですか」
「……まぁ、うん。そんな感じ。……あぁ、もしかして、少年も?」
「………えぇ、まぁ」
あからさまな嘘を互いについた。笑ってしまうくらいにつまらない嘘。第三者からしたら、しょうもないくらいに馬鹿げた会話。僕はそこから続ける言葉が見つからなくて、どうしようもなく視線を逸らした。見てはいけないものを見たような気がした。
普段の姿からは想像もつかない崩れたメイク。僕の好きな人はこんな中途半端な姿じゃ外になんかでないような人なのに。アイシャドウは泥みたいで、リップは出血みたいに頬まで汚している。波紋のようなグラデーションは、それはそれでアーティスティックにも見えた。
「……あぁ、わかっちゃった感じ?」
視線が合うと取り繕うように、誤魔化すように首を右に傾ける。
「付き合ってよ。今夜だけでもいいから」
唇がもう一度だけ、柔らかくうねった。
◆◆◆◆
「ふられたんだ、私」
荒れた部屋の中、さっきまで誰か別の人がいた痕跡の中、向かい合うよう椅子にかけた二人。缶のプルタブをあけて小さく乾杯をした後、独り言のように好きな人は呟いた。酒のせいだろうか、今日は饒舌だった。思い出話のように、好きな人は好きな人の好きだった元彼氏のことを語った。楽しそうだけど苦しそうで、吐露のようで息継ぎのような唇の動きが目にしみる。
途中から僕はもうどこを見ているのかわからないくらいにぐちゃぐちゃで、相槌のように缶コーラを言い訳みたく呷った。声色も口数も、無理やり一定を保っても頬には涙が伝っていて、有耶無耶にしたくてポテトチップスをかじる。塩味にしたのは間違いだったかもしれない。これじゃまるで僕までもらい泣きしているみたいだ。涙の味がする。これならコンソメ味にでもしたらよかった。それかブラックペッパーとかサワークリームとかそういうやつ。僕まで気分が落ちていく。
いや、最初からずっと右肩下がりを記録していたけれど。
「……はぁ」
ため息が僕の頬を掠める。
アルコール臭い。
「……もう君でいいや」
顔がもう一歩近くなる。
「少年」
わざとらしく呼ばれる。
「私のこと慰めてよ」
いやに艶かしい音で声が撫でた。
好きな人の手元にはもう五本も空になった酒の缶が並んでいる。深淵のような瞳も艶を含んでいた。上気の薄桃に染まる表情も、自分の嚥下が聞こえるくらいに扇情的。手の届く距離に、欲しかった好きな人が無防備にいる。きっと伸ばした手も、その先の手遊びも許してくれる。
でも、どうしてなんだろう。
「……それは、できません」
ちっとも嬉しくない。心が踊らない。
その手を伸ばそうと思えない。
好きな人が、言ってくれた言葉なのに。
「……こういうのは、ちゃんと好きな人とするべきです、きっと」
ごめんなさい、と僕の声が情けなく漏れた。ださかった。コーラじゃちっとも酔えなくて、僕は良くも悪くも好きな人の弱さに触れることができなかった。つまらない男だと僕ですらわかったけれど、でもこれが正しいからって思い込みたかった。
「……そっか」
好きな人は、冷めた声になった。
「まぁ、君らしいっちゃ君らしいか」
腑に落ちたというより、腑に落ちるように意図的に消化した、という表現の正しい顔。
「少年、君はいい子だね。いいと思う、腐ってないよ、君は。純粋でかわいいね。……だけど少年、それじゃだめ。そういう真面目な人間は損の多い人生を送るよ。おかしな話だけど、でもほんと。だからちゃんと、ずるくならないといけないんだよ」
後悔してからじゃ遅いからね、と警告みたいな自戒を吐くとひとつ缶をあけてそのまま酒を頭から被った。エンターテインメントのような光景。酒が好きな人を濡らして、なにかを溶かしていく。そして隠してしまうように水溜まりとして床に這った。
「……でも、考えたらそっか。君の選択はきっと正解なんだろうね。少年、君は間違ってもこんなめんどくさいメンヘラなんか好きになっちゃいけないよ。こんなことなら、ってきっと後悔する。君は見てくれも悪くないんだし、もっと普通の女の子を好きになって、結ばれるべきだよ」
もう帰って大丈夫だよ、なんて言うから、僕は「あぁ、それじゃあ」なんて曖昧な返事だけ吐いて立った。「どうも」とか気の利かない言葉を置いて部屋を出る。
「おやすみ、少年」
「……おやすみ、なさい」
玄関まで見送られた僕は手を振り返さなかった。寂しそうに好きな人の手だけが揺れる。僕はそれをただ見ているだけ。その手がドアノブを握り、閉まるまでを見届けた。そして、その姿が扉越しになってしまうその小さな隙間、消えゆくような声がぽつり、僕に触れた。
「……私も、君みたいに綺麗なままでいられていたら、もう少し幸せだったのかな」
ドアは閉まった。僕は夜の静寂に包まれた。
聞き返す間もなく、僕らは一枚に隔てられる。
その言葉の棘は、共犯のように痛かった。
それからしばらくが経った。僕らが言葉を交わすことはもう無くなってしまった。互いにあの日のことが気まずくなっていた。目を合わせるのもどうもバツが悪くて逸らすようになった。僕はずっとあの夜を反芻している。後悔する反面、あれで良かったんだとも思っていた。
あの時言われたのは「僕でいい」という言葉。「僕が」ではなく「僕で」と言った。それがこの片思いへの答え合わせだと思った。この「が」と「で」の間には大きく深い溝がある。僕はその本質に気づいてしまった。だから、あの夜もあの答えにたどりついたんだと思う。
あれからずっと隣の部屋は週末になっても静かだ。
上擦る声はもちろん、騒がしい生活音もしない。本当に今までが満たされていたんだとわかるくらいに静かだった。最近のあの人は目元のクマがひどいし、細身の体には拍車がかかり、リストカットが腕に走っている。生きているというよりは死にきれなくて生きるしかないというような姿だった。
僕はそれでもやっぱりこの気持ちが捨てられない。
おかしいだろう。
好きな人も言っていたよ。
こんなめんどくさいメンヘラを好きになっちゃだめだって。
後悔するよって。
わかってるんだけどな。
でもやっぱり勝てないってわかっても諦められないんだよ。
僕も一緒にぐちゃぐちゃに壊れていいから、もう少しこのまま孤独な静寂に二人お揃いにもがきながら溺れていきたいよ。またいつか、あの声が聞こえてしまうなんて考えたくないから、僕は。
そんな女々しいことを願いながら僕はベッドに腰かける。隣の部屋に耳を潜めるが何も聞こえない。その事実にただひたすらに安堵する。僕は今日も散歩に行かなくて済む。
よかった。だけどずっと、心は泣いて止まらない。
ほんと、僕ってやつは困った人だ、ほんとに。
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