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第一章 うつろの気
九
平手が訪れたとき、信秀は笑っていた。
「「いよいよ弾正忠家も進退窮まったな」」
「何を仰いますか、」
「これまでは唯々諾々と俺に靡いていた者らが、そう言って離反の頃合いを相談し始めたようだ。稲葉山で斎藤に、小豆坂で今川に敗れた。負けが込んできたのは、その通りだ」
「ほんの一時のことにございます」
「だからこそ、この一時は是が非でも凌がねばならぬ」
信秀は懐から一束の書状を取り出し、乱雑に放った。
「これは……?」
「お前を呼んだ理由だよ」
それは坂井大膳から斎藤利政に向けて宛てられた文だった。
『挙兵のことについてだが、松平と示し合わせようにも信秀の奴が常に目を光らせていて、迂闊には動けない状況である。今度のことに失敗すれば、信秀とていよいよ清洲に攻め来るかもしれない。作戦の成功が確実でない限り、我らからは動けないことをどうかご理解いただきたい。もし、美濃勢が先に立ち信秀領へ侵攻するというのなら、その時は清洲の全軍を挙げてそれを支援するのはやぶさかではないが、……』
「何と、……」
「清洲から美濃に向かう間者を捕らえた」
「しかし、これは、返書ですかな。利政の方から、清洲衆・松平の双方に、我らを討つための挙兵の話が持ち掛けられたということですか」
「独力で我らに勝てる見込みのない清洲衆が和睦を真っ向から蹴ってくるカラクリが、これだ」
「弱りましたな……。これでは清洲衆との和睦は一向に見込めないということに、」
「それが、そうでもない」
信秀の目がぎらりと光る。
「と、仰いますと……、」
「利政は、俺が小豆坂で今川勢と戦っているとき、なぜ尾張へ侵攻しなかった? 清洲衆や松平に挟撃を持ち掛けておきながら、自らは動く気がないのだ。時に、西美濃の方では利政の支配が及んでいない土地があると聞く。尾張に攻め来る余裕など、実際のところ、奴にはないのではないか」
信秀の読みは当たっていた。美濃国内では、その成り上がりの手段が故に敵の絶えない斎藤利政に対して、国衆たちの反感が高まり、利政はその対応に追われていた。
「我らが再び美濃の地に攻め入ることを恐れ、松平や清洲衆を使ってそれを牽制しようとした……。これが、利政の本当の狙いだったということですか」
「そう見える。しかし、『本当の狙い』というのは、もう少し踏み込んだ先だろう」
平手は信秀の推察するところを察せられない。
信秀はしばらく黙っていたが、フと小さな溜息をついて、静かに言う。
「美濃へ行け」
「ハ?」
「利政との戦は、もうやめだ。奴と話をつけてこい」
目を丸くして驚く平手。平時から何を考えているか分からない主だが、冗談などをいう場面ではない。
「放っておいてもいずれ向こうからくるだろうが、こちらも一刻を争う身だ。仔細は、すべてお前に任せるよ」
平手は口を開きかけて、しかし、それ以上何も聞かなかった。信秀が、夥しい汗を流しながらも力強く笑いかけてきたからだった。今更、自分が尋ねる事柄などは、すべて既にこの人の中で熟考されているに違いない。そう思わせる笑みである。
なりふり構わず弾正忠家を守ろうとする信秀の覚悟は、自然、平手に伝播する。
「この大役、我が命に代えても果たして見せましょう」
そう言って平手はすぐに部屋を去った。
途端、信秀は糸が切れたように横になった。天井がぐるぐるとまわっている。
四周は敵だらけ。からだも思うように働いてくれない。それなのに、なにか憑き者が落ちたような、いい気分だ。
弾正忠家に生まれ、父・信定の築いた繁栄を引き継いで清洲織田氏を支えるのが己の役目と思っていた。ところが、戦に勝てば勝つほど主家に疎まれ、多くの敵をつくり、まさに窮地を迎えている。そうかと思うと、今度はその窮地を脱するべく、年来の大敵と俺はいま手を結ぼうとしているのだ。
一人の人間の思惑などまるで無いもののように、乱世は、それらを薙ぎ倒していく。これより先、当家の辿る運命は、この俺ですら見当がつかない。しかし、
「氏豊さま、私はあなたに沢山の嘘をついたが、今日ほどそれを思った日はありません。乱世は、今わの際に臨む眺望は、美辞麗句で飾るまでもなく、こんなにも美しい」
数日の後、斎藤利政との同盟を滞りなくとりまとめた平手政秀が尾張に帰国した。
「「いよいよ弾正忠家も進退窮まったな」」
「何を仰いますか、」
「これまでは唯々諾々と俺に靡いていた者らが、そう言って離反の頃合いを相談し始めたようだ。稲葉山で斎藤に、小豆坂で今川に敗れた。負けが込んできたのは、その通りだ」
「ほんの一時のことにございます」
「だからこそ、この一時は是が非でも凌がねばならぬ」
信秀は懐から一束の書状を取り出し、乱雑に放った。
「これは……?」
「お前を呼んだ理由だよ」
それは坂井大膳から斎藤利政に向けて宛てられた文だった。
『挙兵のことについてだが、松平と示し合わせようにも信秀の奴が常に目を光らせていて、迂闊には動けない状況である。今度のことに失敗すれば、信秀とていよいよ清洲に攻め来るかもしれない。作戦の成功が確実でない限り、我らからは動けないことをどうかご理解いただきたい。もし、美濃勢が先に立ち信秀領へ侵攻するというのなら、その時は清洲の全軍を挙げてそれを支援するのはやぶさかではないが、……』
「何と、……」
「清洲から美濃に向かう間者を捕らえた」
「しかし、これは、返書ですかな。利政の方から、清洲衆・松平の双方に、我らを討つための挙兵の話が持ち掛けられたということですか」
「独力で我らに勝てる見込みのない清洲衆が和睦を真っ向から蹴ってくるカラクリが、これだ」
「弱りましたな……。これでは清洲衆との和睦は一向に見込めないということに、」
「それが、そうでもない」
信秀の目がぎらりと光る。
「と、仰いますと……、」
「利政は、俺が小豆坂で今川勢と戦っているとき、なぜ尾張へ侵攻しなかった? 清洲衆や松平に挟撃を持ち掛けておきながら、自らは動く気がないのだ。時に、西美濃の方では利政の支配が及んでいない土地があると聞く。尾張に攻め来る余裕など、実際のところ、奴にはないのではないか」
信秀の読みは当たっていた。美濃国内では、その成り上がりの手段が故に敵の絶えない斎藤利政に対して、国衆たちの反感が高まり、利政はその対応に追われていた。
「我らが再び美濃の地に攻め入ることを恐れ、松平や清洲衆を使ってそれを牽制しようとした……。これが、利政の本当の狙いだったということですか」
「そう見える。しかし、『本当の狙い』というのは、もう少し踏み込んだ先だろう」
平手は信秀の推察するところを察せられない。
信秀はしばらく黙っていたが、フと小さな溜息をついて、静かに言う。
「美濃へ行け」
「ハ?」
「利政との戦は、もうやめだ。奴と話をつけてこい」
目を丸くして驚く平手。平時から何を考えているか分からない主だが、冗談などをいう場面ではない。
「放っておいてもいずれ向こうからくるだろうが、こちらも一刻を争う身だ。仔細は、すべてお前に任せるよ」
平手は口を開きかけて、しかし、それ以上何も聞かなかった。信秀が、夥しい汗を流しながらも力強く笑いかけてきたからだった。今更、自分が尋ねる事柄などは、すべて既にこの人の中で熟考されているに違いない。そう思わせる笑みである。
なりふり構わず弾正忠家を守ろうとする信秀の覚悟は、自然、平手に伝播する。
「この大役、我が命に代えても果たして見せましょう」
そう言って平手はすぐに部屋を去った。
途端、信秀は糸が切れたように横になった。天井がぐるぐるとまわっている。
四周は敵だらけ。からだも思うように働いてくれない。それなのに、なにか憑き者が落ちたような、いい気分だ。
弾正忠家に生まれ、父・信定の築いた繁栄を引き継いで清洲織田氏を支えるのが己の役目と思っていた。ところが、戦に勝てば勝つほど主家に疎まれ、多くの敵をつくり、まさに窮地を迎えている。そうかと思うと、今度はその窮地を脱するべく、年来の大敵と俺はいま手を結ぼうとしているのだ。
一人の人間の思惑などまるで無いもののように、乱世は、それらを薙ぎ倒していく。これより先、当家の辿る運命は、この俺ですら見当がつかない。しかし、
「氏豊さま、私はあなたに沢山の嘘をついたが、今日ほどそれを思った日はありません。乱世は、今わの際に臨む眺望は、美辞麗句で飾るまでもなく、こんなにも美しい」
数日の後、斎藤利政との同盟を滞りなくとりまとめた平手政秀が尾張に帰国した。
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