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第一章 うつろの気
十九
横山の戦いの敗戦により廃嫡がまことしやかに噂されていた信長であったが、信秀からその手の処遇が命じられることはついになかった。
信秀はいよいよ衰弱極まり、もはや自立し流暢に言葉を発することすらもままならぬ病態となっていたからである。信長廃嫡を期待している家中の者らは、容体の悪化を信長の敗戦に契機すると揶揄して遊んだが、そんな気楽な戯れの日々は唐突に終わりを迎えることになった。
翌・天文二十一年(一五五二年)三月三日、守護代の一奉行という家柄から身を起こし、尾張随一の勢力にまで成り上がった織田弾正忠家当主・織田信秀が、四十二歳の生涯を閉じた。
末森城で父を看取った信長が那古野へ帰ってきたとき、もう夕暮れ時だった。
「母が泣いていたよ」
信長は縁に座って帰蝶に言う。
「まるで生娘みたいに人目も憚らずに、ね。信勝のやつも涙を必死に堪えているように見えたな」
「ご自分はどうだというのですか」
帰蝶はおよそ信長が聞いてほしいだろうことを訊ねた。
「ちっとも悲しい気持ちにならないんだな。父上の事はキライではなかったのだけどね」
「この間に泣きすぎてしまったのでございましょう」
「涙が枯れたということか。マア、それも、あるかもしれない」
信長は頭をぽりぽりと掻いた。
「それにしても、もう居ないのだというのが変な感じだ。でもそれだけだな。どうも実感というのがないらしい。あっけない」
信長は「悲しい気持ちにならない」と言うが、一方で、明らかに平静ではなかった。話の結びが悪く、どこでやめたらいいのかわからないというようにだらだらと言葉を並べている。大うつけと悪評を垂れ流されてもケロッとしている織田信長が、父の死に動揺しない自らの心というのを一般常識の観点から今更疑っているのが、帰蝶にとってはちょっとおもしろいことだった。
「輿入れの日、父がわたしとの別れを泣いて惜しんだという話を覚えていますか」
「忘れるものかい。オレはいまでもウソだと疑っているよ」
「嘘……。いま思えば、それは半分当たっているかもしれない、と最近そう思うのです」
「なんだって?」
「父はあのとき、泣きにいったのかもしれません」
「芝居だというのか?」
「いいえ。本心です」
「分からないな」
「芝居とはすこし違う。だけれども、堪えようと思えば堪えられるところを、わざわざ、泣きにいった。はじめは冗談かと思うほど素っ頓狂な大声でした。わたしが吃驚して固まっているうち、いつの間にか、父はほんとうに大粒の涙をぼろぼろ零して、子どものようにわんわん泣いたのです」
「それで。山城殿には何が残るか」
「いいえ。何も残らないのです。斎藤利政という男は、これで帰蝶というムスメのことをさっぱり忘れてしまえる。あの日、父は感情のままに泣き喚くことで、私との離別を今生の別れにまで押し上げた。わたしとの縁を切ったのです」
信長は目からうろこが落ちる思い。権謀術数と聞けば、第一に敵を、他者を欺くことだと決めつけていたが、それだけにはとどまらないものだ。自らの目的のために、また別の自らの心が邪魔を働こうとしていたなら、その自らをも騙し切る覚悟が必要なのだという兵法として解した。
「オレは落第だな。泣きにゆく、べきだったか」
「いいえ。あなたは、きっと、自分にウソをつけないひと。それだけでなく、ついたウソをたのしむこともできないようなひとですから、だったら半端なことはしないべきです」
「ドウモ、難しいことだな。なかなかオマエには勝てないね」
信長はそういうとゴロンと寝転がって、傍らにある干し柿を頬張った。
「夫婦の会話に勝ち負けを持ち込むのは、あなたぐらいのものですよ」
「ある程度負け慣れておかないと退き戦のときに困るからな」
「言い訳ですね。勝ってごらんなさい」
「今度ね」
どうもわたしはこの男に気を遣いすぎてやしないか、と帰蝶は話し終えてからすこし癪な気分になった。父を亡くした境遇に対する同情というのは、あるだろう。また、横山の戦いが自分の使嗾に端を発していたことに対する引け目のようなものも、なくなはない。加えて「判官贔屓」というのは自分の生まれもった性質なのだろうけれど、それらすべてを考慮に入れても、こんな平和な普通の会話というものは、気味が悪くて仕方がない心地。
「しかし、これからはオマエもそんな取り澄ました顔はできなくなるぜ」
「何のことでしょう」
「尾張の大うつけの元に輿入れした女がおだやかな一生を送れるなどとは、思わない方がいいということさ」
夕日が沈むと、信長はそれを予め合図に決めていたかのように、もう父の話をしなくなった。
「俺の死は今川に気取られぬよう、当分の間は隠すのだ」
そう遺言して信秀は死んだ。しかし、彼の死去した翌翌日にはその報せは駿河へと滞りなく届けられてしまった。
信秀に長く目をかけられてきた重臣・山口教継という男が付近の国衆を引き連れて今川方に寝返った。そのあまりにも露骨な動きに家中の者らは激昂したが、内実はもっと単純だった。尾張と三河の国境近くの要所を預かっていた教継は、信秀が死去する以前より既に今川に通じており、その死去の報告も、かねてより義元からの命令に含まれていたというだけのことだった。
かくして信秀の遺言はいとも簡単に失敗してしまったのである。死人の滑稽さというのは笑うに笑えないので、生前にかく恥よりも一段とどうにもならない悲壮のようなものがある。
教継の討伐も急務ではあったが、それにはまず家中をまとめなければならない。平手や秀貞の奔走により、急遽、葬儀が執り行われることとなった。
信秀は生前に万松寺という菩提寺を建立していたのだが、ここに国内外の僧侶をざっと三百人ほど集めて、大規模な葬儀を催した。何も知らない民衆らは「さすがは信秀さまだ」と舌を巻いたのだが、駿河でその様を伝え聞いた義元は気分よく大笑いしたという。過剰な葬儀は、遺言が破綻したことへの目眩ましだという風に映ったからである。あながち、それもないではなかった。
さて、喪主となったのは信長と信勝の二人の息子だが、時刻となっても信長の姿だけ見えない。平手政秀、林秀貞といった慇懃な大人衆らは勢ぞろいしているが、当人だけがいないのだ。
一方の信勝の方は、当たり前だが葬儀が始まるずっと前から居る。柴田勝家、佐久間盛重といった武辺ものを両脇に従えているから、威厳もますます高まって見える。すぐそばには信長を探してあっちこっちを行ったりきたり忙しない平手がいるが、信勝は対照的に落ち着いていた。うつけの兄など居ないなら居ないで構わない。兄がいて困ることはあっても、兄がいなくて困ることは別にない。表情の大きい方ではないが、そういった自信が見てとれる。
いよいよ信長の焼香という段取りになったとき、間一髪、間に合った。弔問客のなかをぞろぞろかき分けて信長が現れる。恰好は、相変わらずの茶筅髷、湯帷子に半袴。髪紐だけはこの日は朱色ではなく代わりにあざやかな萌黄色のものだったが、これは、後々聞くことには「礼を弁え、血を思わせる赤を避けた」のだそうである。いつだかの相撲大会を想起させる登場に、平手は額を自らの手でパシンと打って胃の辺りを手で揉むように抑えた。
「大丈夫ですかな、平手殿」
秀貞が心配して声をかけるが、か細い声で「大事ない」と返すので精一杯。
『今日この日ぐらいは折り目正しくしてくれるかもしれない。慣れない袴や紋付の着付けに手間取り、それで心ならずも遅れてしまっているに相違ない』
平手の夢想した物語は儚くももろく崩れ去った。
喧騒と読経に包まれる中、周囲などには目もくれず、信長は一人ですたすたと仏前へと歩いて行った。足取りは軽い。長年この男を見てきた平手は、この足取りの軽さだけでもう嫌な予感がしているのだが、他の人間にはそこまでは分からない。
抹香に手を伸ばした信長は、それを一握りして動きを止めた。拳はゆっくりと持ち上げられ、しかし、額に押し頂かれることなくそこを通過し、頭上高くでぴたりと動きを止めた。
「あっ!」
平手が思わず声を上げる。この男はやはり他人よりも一瞬はやく信長の行動に気付くのだが、止めるには全然遅すぎる。
信長は握りしめた抹香を仏前に向かって投げつけた。誰もが目を疑って言葉をなくした。
抹香はほとんどが宙に舞って煙となり、信勝一派の方へと流れて行った。それでも信勝は驚くような素振りも見せず、ただ着物の袖で鼻と口を覆って目を細めるに留まった。
本堂は静まり帰っていた。僧侶もこれには肝をつぶし、読経すら一部止まっていた。
いつもならすぐに駆け寄って信長を叱り飛ばす平手だが、もう、そんなことはできない。既に織田信長は弾正忠家の当主なのだ。「叱る」という行為それ自体が、この場では恥となってしまう。
家中の者らの反応はさまざまだった。
平手政秀は顔を真っ赤にして穴に入りたいような恥辱に襲われ下を向いている。
林秀貞はかかる面倒事を予想して眉をひそめた。
林道具はけらけら笑って信長の排斥をいまから楽しみにしている。
織田信勝は呆れ帰って相手にしない。
柴田勝家は怒りに震え信長に掴みかからんとしたところを、同輩の佐久間盛重に止められている。
織田信光はそれら家中の反応をきょろきょろ見分して髭を一さすり。これの思惑は分からない。
しかし、それらの一切を、織田信長は気に留めない。早足にその場を去る。後御堂の外で待っているのは恒興たちである。
「見ていましたよ。またとんでもないことをなすって。背水の陣でも敷いたつもりじゃないでしょうね」
「アハハ。やってしまったよ。ああいう場へ行くと、どうも、あがってしまう。駄目だな」
「何だって?それじゃあ、はじめからそうするつもりではなかったのですか?」
「まあね。だが、憑きものが落ちようだ。オレは、今わの際のあの人の惨たらしい最期をどうも見ていられなかったのだ。病というのは人を変える。だが、もう魂魄となって病体を離れたのだろうから、今ならきっと紛うことなき織田信秀という侍の気迫で、このオレを蹴飛ばしにくるだろうな」
「死人にまで嫌われようというのですか。欲張りな人だなあ」
「そうさ。オレは織田信長だからな」
天文二十一年(一五五二年)三月、織田信長は織田弾正忠家の家督を継承した。齢十八歳。
四方八方に留まらずその内側にまで敵を抱えた絶体絶命の代替わりだが、当の本人はどこ吹く風といった様子。いやむしろ、織田信長自身が風なのかもしれない。
無邪気に他人を振り回す風の子はやがて台風となり、尾張を、そして天下をもさらうことになるが、この葬儀に集められた者のうち一体誰がそれを知り得たというのだろうか。否、風を知ることなど誰にもできやしない。風を前にして人にできることは、ただ、それを感じることだけである。
信秀はいよいよ衰弱極まり、もはや自立し流暢に言葉を発することすらもままならぬ病態となっていたからである。信長廃嫡を期待している家中の者らは、容体の悪化を信長の敗戦に契機すると揶揄して遊んだが、そんな気楽な戯れの日々は唐突に終わりを迎えることになった。
翌・天文二十一年(一五五二年)三月三日、守護代の一奉行という家柄から身を起こし、尾張随一の勢力にまで成り上がった織田弾正忠家当主・織田信秀が、四十二歳の生涯を閉じた。
末森城で父を看取った信長が那古野へ帰ってきたとき、もう夕暮れ時だった。
「母が泣いていたよ」
信長は縁に座って帰蝶に言う。
「まるで生娘みたいに人目も憚らずに、ね。信勝のやつも涙を必死に堪えているように見えたな」
「ご自分はどうだというのですか」
帰蝶はおよそ信長が聞いてほしいだろうことを訊ねた。
「ちっとも悲しい気持ちにならないんだな。父上の事はキライではなかったのだけどね」
「この間に泣きすぎてしまったのでございましょう」
「涙が枯れたということか。マア、それも、あるかもしれない」
信長は頭をぽりぽりと掻いた。
「それにしても、もう居ないのだというのが変な感じだ。でもそれだけだな。どうも実感というのがないらしい。あっけない」
信長は「悲しい気持ちにならない」と言うが、一方で、明らかに平静ではなかった。話の結びが悪く、どこでやめたらいいのかわからないというようにだらだらと言葉を並べている。大うつけと悪評を垂れ流されてもケロッとしている織田信長が、父の死に動揺しない自らの心というのを一般常識の観点から今更疑っているのが、帰蝶にとってはちょっとおもしろいことだった。
「輿入れの日、父がわたしとの別れを泣いて惜しんだという話を覚えていますか」
「忘れるものかい。オレはいまでもウソだと疑っているよ」
「嘘……。いま思えば、それは半分当たっているかもしれない、と最近そう思うのです」
「なんだって?」
「父はあのとき、泣きにいったのかもしれません」
「芝居だというのか?」
「いいえ。本心です」
「分からないな」
「芝居とはすこし違う。だけれども、堪えようと思えば堪えられるところを、わざわざ、泣きにいった。はじめは冗談かと思うほど素っ頓狂な大声でした。わたしが吃驚して固まっているうち、いつの間にか、父はほんとうに大粒の涙をぼろぼろ零して、子どものようにわんわん泣いたのです」
「それで。山城殿には何が残るか」
「いいえ。何も残らないのです。斎藤利政という男は、これで帰蝶というムスメのことをさっぱり忘れてしまえる。あの日、父は感情のままに泣き喚くことで、私との離別を今生の別れにまで押し上げた。わたしとの縁を切ったのです」
信長は目からうろこが落ちる思い。権謀術数と聞けば、第一に敵を、他者を欺くことだと決めつけていたが、それだけにはとどまらないものだ。自らの目的のために、また別の自らの心が邪魔を働こうとしていたなら、その自らをも騙し切る覚悟が必要なのだという兵法として解した。
「オレは落第だな。泣きにゆく、べきだったか」
「いいえ。あなたは、きっと、自分にウソをつけないひと。それだけでなく、ついたウソをたのしむこともできないようなひとですから、だったら半端なことはしないべきです」
「ドウモ、難しいことだな。なかなかオマエには勝てないね」
信長はそういうとゴロンと寝転がって、傍らにある干し柿を頬張った。
「夫婦の会話に勝ち負けを持ち込むのは、あなたぐらいのものですよ」
「ある程度負け慣れておかないと退き戦のときに困るからな」
「言い訳ですね。勝ってごらんなさい」
「今度ね」
どうもわたしはこの男に気を遣いすぎてやしないか、と帰蝶は話し終えてからすこし癪な気分になった。父を亡くした境遇に対する同情というのは、あるだろう。また、横山の戦いが自分の使嗾に端を発していたことに対する引け目のようなものも、なくなはない。加えて「判官贔屓」というのは自分の生まれもった性質なのだろうけれど、それらすべてを考慮に入れても、こんな平和な普通の会話というものは、気味が悪くて仕方がない心地。
「しかし、これからはオマエもそんな取り澄ました顔はできなくなるぜ」
「何のことでしょう」
「尾張の大うつけの元に輿入れした女がおだやかな一生を送れるなどとは、思わない方がいいということさ」
夕日が沈むと、信長はそれを予め合図に決めていたかのように、もう父の話をしなくなった。
「俺の死は今川に気取られぬよう、当分の間は隠すのだ」
そう遺言して信秀は死んだ。しかし、彼の死去した翌翌日にはその報せは駿河へと滞りなく届けられてしまった。
信秀に長く目をかけられてきた重臣・山口教継という男が付近の国衆を引き連れて今川方に寝返った。そのあまりにも露骨な動きに家中の者らは激昂したが、内実はもっと単純だった。尾張と三河の国境近くの要所を預かっていた教継は、信秀が死去する以前より既に今川に通じており、その死去の報告も、かねてより義元からの命令に含まれていたというだけのことだった。
かくして信秀の遺言はいとも簡単に失敗してしまったのである。死人の滑稽さというのは笑うに笑えないので、生前にかく恥よりも一段とどうにもならない悲壮のようなものがある。
教継の討伐も急務ではあったが、それにはまず家中をまとめなければならない。平手や秀貞の奔走により、急遽、葬儀が執り行われることとなった。
信秀は生前に万松寺という菩提寺を建立していたのだが、ここに国内外の僧侶をざっと三百人ほど集めて、大規模な葬儀を催した。何も知らない民衆らは「さすがは信秀さまだ」と舌を巻いたのだが、駿河でその様を伝え聞いた義元は気分よく大笑いしたという。過剰な葬儀は、遺言が破綻したことへの目眩ましだという風に映ったからである。あながち、それもないではなかった。
さて、喪主となったのは信長と信勝の二人の息子だが、時刻となっても信長の姿だけ見えない。平手政秀、林秀貞といった慇懃な大人衆らは勢ぞろいしているが、当人だけがいないのだ。
一方の信勝の方は、当たり前だが葬儀が始まるずっと前から居る。柴田勝家、佐久間盛重といった武辺ものを両脇に従えているから、威厳もますます高まって見える。すぐそばには信長を探してあっちこっちを行ったりきたり忙しない平手がいるが、信勝は対照的に落ち着いていた。うつけの兄など居ないなら居ないで構わない。兄がいて困ることはあっても、兄がいなくて困ることは別にない。表情の大きい方ではないが、そういった自信が見てとれる。
いよいよ信長の焼香という段取りになったとき、間一髪、間に合った。弔問客のなかをぞろぞろかき分けて信長が現れる。恰好は、相変わらずの茶筅髷、湯帷子に半袴。髪紐だけはこの日は朱色ではなく代わりにあざやかな萌黄色のものだったが、これは、後々聞くことには「礼を弁え、血を思わせる赤を避けた」のだそうである。いつだかの相撲大会を想起させる登場に、平手は額を自らの手でパシンと打って胃の辺りを手で揉むように抑えた。
「大丈夫ですかな、平手殿」
秀貞が心配して声をかけるが、か細い声で「大事ない」と返すので精一杯。
『今日この日ぐらいは折り目正しくしてくれるかもしれない。慣れない袴や紋付の着付けに手間取り、それで心ならずも遅れてしまっているに相違ない』
平手の夢想した物語は儚くももろく崩れ去った。
喧騒と読経に包まれる中、周囲などには目もくれず、信長は一人ですたすたと仏前へと歩いて行った。足取りは軽い。長年この男を見てきた平手は、この足取りの軽さだけでもう嫌な予感がしているのだが、他の人間にはそこまでは分からない。
抹香に手を伸ばした信長は、それを一握りして動きを止めた。拳はゆっくりと持ち上げられ、しかし、額に押し頂かれることなくそこを通過し、頭上高くでぴたりと動きを止めた。
「あっ!」
平手が思わず声を上げる。この男はやはり他人よりも一瞬はやく信長の行動に気付くのだが、止めるには全然遅すぎる。
信長は握りしめた抹香を仏前に向かって投げつけた。誰もが目を疑って言葉をなくした。
抹香はほとんどが宙に舞って煙となり、信勝一派の方へと流れて行った。それでも信勝は驚くような素振りも見せず、ただ着物の袖で鼻と口を覆って目を細めるに留まった。
本堂は静まり帰っていた。僧侶もこれには肝をつぶし、読経すら一部止まっていた。
いつもならすぐに駆け寄って信長を叱り飛ばす平手だが、もう、そんなことはできない。既に織田信長は弾正忠家の当主なのだ。「叱る」という行為それ自体が、この場では恥となってしまう。
家中の者らの反応はさまざまだった。
平手政秀は顔を真っ赤にして穴に入りたいような恥辱に襲われ下を向いている。
林秀貞はかかる面倒事を予想して眉をひそめた。
林道具はけらけら笑って信長の排斥をいまから楽しみにしている。
織田信勝は呆れ帰って相手にしない。
柴田勝家は怒りに震え信長に掴みかからんとしたところを、同輩の佐久間盛重に止められている。
織田信光はそれら家中の反応をきょろきょろ見分して髭を一さすり。これの思惑は分からない。
しかし、それらの一切を、織田信長は気に留めない。早足にその場を去る。後御堂の外で待っているのは恒興たちである。
「見ていましたよ。またとんでもないことをなすって。背水の陣でも敷いたつもりじゃないでしょうね」
「アハハ。やってしまったよ。ああいう場へ行くと、どうも、あがってしまう。駄目だな」
「何だって?それじゃあ、はじめからそうするつもりではなかったのですか?」
「まあね。だが、憑きものが落ちようだ。オレは、今わの際のあの人の惨たらしい最期をどうも見ていられなかったのだ。病というのは人を変える。だが、もう魂魄となって病体を離れたのだろうから、今ならきっと紛うことなき織田信秀という侍の気迫で、このオレを蹴飛ばしにくるだろうな」
「死人にまで嫌われようというのですか。欲張りな人だなあ」
「そうさ。オレは織田信長だからな」
天文二十一年(一五五二年)三月、織田信長は織田弾正忠家の家督を継承した。齢十八歳。
四方八方に留まらずその内側にまで敵を抱えた絶体絶命の代替わりだが、当の本人はどこ吹く風といった様子。いやむしろ、織田信長自身が風なのかもしれない。
無邪気に他人を振り回す風の子はやがて台風となり、尾張を、そして天下をもさらうことになるが、この葬儀に集められた者のうち一体誰がそれを知り得たというのだろうか。否、風を知ることなど誰にもできやしない。風を前にして人にできることは、ただ、それを感じることだけである。
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この小説は『大罪人の娘』を補完するものでもあります。
(前編が執筆終了していますが、後編の執筆に向けて修正中です))