織田信長 -尾州払暁-

藪から犬

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第二章 台風の目

十二

 遡ること十九年前、天文三年(一五三四年)、織田信秀の正室・土田つちだ御前が待望の男子を産んだ。乳母の乳首を噛んでは大笑いする暴れものの赤子だったという。
「良いか、長政。あのお方こそ、我らが終生を通してお仕えする吉法師きっぽうしさまだ」
「はい、父上」
 織田信長がこの世に生を受け、平手長政が元服した頃、弾正忠家は、当主・信秀の元、破竹の勢いで尾張を席巻していた。そんな弾正忠家の未来に、長政も、自分が幾分かの力添えができるだろうか、と夢を見ていた。

――

 どうしてこうなった?
 例の馬の一件以後、平手長政には、町民の噂話がまことしやかに、心の内へと入り込んできて仕方がない。
『平手のところの長男だか次男だかと、あの大うつけが喧嘩したらしい。何でも馬を欲しがった信長がそれを断られ、逆恨みにソイツを手打ちにしようとしているって話だ』
『恐ろしいこった。いくら戦が強かろうとも、所詮はうつけの殿様だってことさ。いつどんな些細なことで気を損ねるものかわかったもんじゃねえ。ああいう手合いには近づかんことだね』
『しかし、いまのところは何のお咎めもナシだというじゃねえか。平手と言やあ、織田信長の側近中の側近だぜ。たかだか馬の諍い程度じゃあ、さすがの信長も勝手な真似はしねえんじゃねえだろうか』
『それがそうでもないらしい。近頃の信長は、その平手政秀とも折り合いが悪いって噂だ。親子ともども処罰されることもあり得るって噂よ』
 根も葉もないデマである。悪趣味な噂話というのは古今東西、庶民の娯楽として無数に、また、無限にあるものだが、軽はずみに口を滑らす無責任な群衆とは違い、事件の当事者というのは、それを殊更深刻に聞くものだ。「火のないところには何とやら、」などと考えながら、もっともそれが事実であるかのように、追い込まれてしまう。長政もそうだった。
『父は、織田信長が何をやっても、これまで根気強く仕えてきた。我らの忠義に間違いない。ならば、この胸の苦しみ、私を、そして父を追い詰めるものは、何だ? それは織田信長自身に他ならないではないか』
 存在しない責任の矛先を信長へ向けることに、次第に夢中になっていく。
『私は、間違っていたのかもしれない。世の中とは理不尽なもので、その理不尽に、己の理と知でいかに抗するか、それこそがひとの技量だと考えていたのだ。主従の関係にしてもまた同じこと、例え稚拙な主であろうとも、その責任を主に求めてはいけない。それは世の理不尽、災害のようなものなのだから。真心の元に二心などは決して抱かず、いかにお諫めするか、と日夜考えを巡らすことこそが忠臣たる者の心構えなのだ、と。
 だが、真実は違うのではないか? 織田信長の存在しない世界を考えてみたなら、どうだ。万事が整うのではないか。だとすれば、その世界は諦めるほどには遠くない。信勝さまは筋目の規律を侵すことに怯み、現状に甘んじている様子だが、滅んでからでは遅いのだ』
 そして、決断する。
『誰もやりたがらないなら、私が率先するまでのことだ』
 長政は覚悟を決めた。内心ではこのような忠義の像を自らの胸中に拵えてはいたが、その実、信長からの制裁を恐れるあまり自ら生み出した詭弁であることには、一向に気付きはしなかった。
「清洲衆は、助け船を望んでいよう」
 長政は、信長暗殺の謀略を信勝に持ち掛けようとは考えなかった。今更そっち側に付いたところで、結局は、柴田や林の風下に平手が留まってしまうことは目に見えていた。
「小守護代・坂井大膳に恩を売り、平手は、自分の代より守護代家に仕え、以後、信勝が当主に成り代わるだろう弾正忠家との折衝役を担ってやろう」
 それが長政の構想だったのだ。

 年の明けた天文二十三年(一五五四年)閏一月、長政は、信長に登城の許可を願い出た。
『馬の一件を謝罪させていただけないでしょうか。無礼でなければ、栗毛の馬も献上いたします』
 しかし、信長は取り合わない。「もう済んだことだから、それには及ばない」とだけ返答し、長政の要求を突っぱねた。
 長政はそれでも諦めない。何とか信長に接近する機会をつくるべく、しつこく取次を願った。すると遂に、「それほど言うなら、オレの方からそっちへ行こう」と信長が折れた。「しめた」と長政は膝を打った。それに、こちらから城へ出向くよりも、来てもらう方が、何倍も事は成しやすいからだ。
 当日、信長は数名の供周りを連れただけで、志賀城を訪れた。いつもの「うつけ」の恰好であった。これを目にするのも最期か、と思うと、長政は妙に感傷的になった。「いまからこの手で殺すというのに、こういった情が沸いてくるのは、私も父上の血を継いでいるな」などと、既に自分に酔っている始末。
「なんだ、今日は、政秀はいないのか」
「はい。父は、出ております。直に戻るとは思いますが、」
 長政は、信長を奥の櫓へ通した。そこで襟を正し、慇懃に手を突いて頭を垂れ、つらつらと用意していた謝罪の言葉を述べた。元より、馬の一件などにはとうに関心を失っている信長だから、長政の言うことのほとんどを聞き流しながら「ウンウン」と適当な相槌を打ち、最後にとってつけたように、「わかった。キサマを許そう」とだけ言った。
「ほかに用向きがなければオレは帰るぜ。政秀が居れば話したいこともあったのだが、それはまた今度だな」
「お待ちください。このようなところまでわざわざご足労いただいたのです。何のお構いもできないのでは、私の面目がございません。お食事の一つでも召し上がって行きかれませ」
「イヤイヤ、結構。あまり気を遣ってくれるな」
「そう言われましても、すでにご準備ができておりますので、何卒、」
「勝手なやつだなア。案外そういうところが似ているよ、父親に」
 信長は立ち上がりかけた腰を下ろして軽い溜息をついた。長政は「ハハハ」と愛想笑いを挟んで、それからゆっくりと手を頭の辺りにまで上げる。真冬だというのに、びっしりと細かい汗の粒を張り付かせたその掌で、長政が柏手を打ち、「オイ」と言った。
 突如、信長を中心とした左右のふすまが開け放たれ、甲冑と面頬をつけた屈強な武士数名が現れた。瞬く間に対面して座っている信長と長政を取り囲む。
「もう、アナタにお仕えすることはできませぬ」
「ホウ。妙だな。平手政秀というのはオレの配下にいる優秀な家臣だが、平手長政がオレに仕えているというのは、初めて聞いたよ」
「御託は結構です。しかし、思ったよりも取り乱しておられませんな。驚きです。やはり、このように肝が据わっていなければ、恥を知らない種々の振舞いはできないということですな。アナタの軽口もこういった状況で聞くと、どこか哀愁の風情がありますよ」
「馬鹿言いやがる。御託が多いのはそっちだぜ」
「ハハ。これは失敬。織田信長さまは何においてもせっかちなことだ。お望みの通りにいたしましょう」
 長政が合図したその時、甲冑の武士らは一斉に長政の方を抑えつけた。
「アッ?」
 ろくに声を発する間もなく、床に顔を叩きつけられて苦悶する長政。あっという間に取り押さえられてしまった。信長は眉一つ動かさず、それをつまらなさそうに見ていた。
「オイッ、どういうことだ、」
 甲冑の武士のなかで最も恰幅の良い一人が面頬を外すと、それは那古屋勝泰という男であった。
 長政が大膳に刺客を譲り受けるとき、勝泰はこれに自ら手を挙げた。「清洲衆のなかでも暴れ牛のような武辺者だ」と大膳から聞きおよび、長政としてはまるで申し分がなかったが、その勝泰が既に簗田政綱と共に信長に内通しているなどとは、大膳も、長政も、夢にも思っていない。すべては筒抜けだったのである。
 長政は状況を飲み込み切れずにいたが、気付けば信長の供周りが取り囲み、もう命数が尽きていることだけは分かった。
「首を刎ねますか」
 勝泰の問いかけに、信長は首を振り、
「いいや。せっかくだから、もう一つやりたいことがあるのさ」
 長政を縄で縛りつけ、目隠しをし、屋敷の庭へ放り投げた。
 そして、信長は待った。城主・平手政秀その人が帰城するのを、黙ってじっと待っていた。
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