織田信長 -尾州払暁-

藪から犬

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第二章 台風の目

二十二

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 尾張の西方・美濃国に利政と高政の不和の火種が燻っているかと思えば、東方・三河国はもっときな臭い。
 信長の関心事は一にも二にも、親今川の土豪らがひしめく三河の地だった。

 竹千代の祖父・松平清康という男は群雄割拠の三河を実力で切り取り領土を拡大していった傑物に違いないが、そまた、三河国そのものにそういった成り上がりを可能にする土壌があったことも疑い得ないだろう。
 東海地方、特に三河国はちょうど日ノ本を東西に二分した分断地である。比すれば武田や今川といった強力な守護大名の現れにくいという国であり、清康の時代にも豪族らが小競り合いを繰り返していた。ちょうど新興で力をつけ始めた松平家が実力でのし上がっていくにはもってこいの地だったのだ。
 けれども裏を返せば、それは常に戦乱と共にある極めて不安定な地ということ。清康、広忠の当主二代が続けざまに家臣によって討たれるという珍事は決して偶然ではなかった。混沌から生まれ落ちた松平という家が、その隆盛から少しずつ孕んできた見えざる鬼に母胎を食い破られたのだ。

 遡ること四年余、天文十八年(一五四九年)に松平広忠が暗殺されて、ほどなく松平家は内紛状態に入る。
 遺された嫡男・竹千代は幼く、織田との人質交換によって今川へ受け渡された後は義元によって駿河に留め置かれていた。宗家当主が不在となった松平一族はまとまりを欠き骨肉の争いに足を踏み入れる。宗家の弱体化を好機と見て独立せんと蜂起する分家あれば、家臣の中から敵方へ内通する者もあり。
 ここで言う「敵方」とは、もちろん、織田弾正忠家のことである。
 今川・織田の両者は未だ直接に互いの当主が出向いての大決戦にまでは及ばぬまでも、三河国を舞台にした水面下での攻防は今日に至るまで常に行われていた。
 そして、常態化して戦争の緊張の中で、やがてその混沌自体を切り売りして生き抜ぬこうとする逞しい男が現れる。
「たァッ、まあた今川から城へ登れとの催促がきやがった。疑り深ェ野郎だぜ。あんまり聞き分けがねェとホントに攻め込んじまうぞ、この野郎」
 いや、むしろ、その混沌が、三河と隣合わせの地に領地を持つこの男を必然として育んだというべきかもしれない。
「兄上、誰の耳に入るかわかりません」
「義元本人の耳にぶち込んでやりゃあいいのよ。そうすりゃあの高慢ちきもちったあ冷や汗を流すだろうってな」
 男は紙束を弟の前に叩きつけると、どっかと腰を下ろして言った。
 徳利をどすりと置き、持っていた空の猪口を床に転がした。顔は真っ赤でいまにもはち切れんばかりにむくんでいて、無精ひげに水滴が粒だって光っていた。
「やけ酒ですか」
「景気づけだ」
 緒川水野おがわみずの家当主・信元のぶもと。彼が治めるは緒川、刈屋かりや大高おおだか常滑とこなめといった伊勢湾を望む尾張の沿岸、知多半島の北部だ。それは尾張であって尾張ではない、もちろん三河でもない、第三の小国とも言える国である。
「また、皆が不審がりますよ。兄上が泥酔しているときには戦が起こる。家中の者はそう噂しているのだとか、」
「信近よ、世は戦国時代だぜ、放っておいても戦は起きるじゃあねェか」
 弟は兄の放った皺くちゃの文を広げて一読した。
「『水野一族が織田に通じているとの噂がある。一月の間に駿府へ登城して釈明せよ』、ですか」
「気に喰わねェ、気に喰わねェ。俺たちは今川の家来じゃあねェぞ」
「兄上がのらりくらりと姑息を働いてきたツケでしょうが、それを踏まえても近頃の義元はやけに筆まめです。よほど尾張に欲気を覚えているでしょう」
「ケッ。死ぬまで小田原と争っていればいいものをヨ」
「あの生臭坊主が義元の側にいる限りはあまり勝手の良い動きはしてくれませんでしょうね。デ、どうするのです」
「ウツケ信長が、またも清洲衆を討ち伏せたらしいじゃねェか。清洲の織田は虫の息だそうだ」
 途端、信近は神妙な面持ちになった。
 兄の徳利を奪い取ると、自分もグイと一杯あおる。
「まさかとは思いますが、再び織田に付く、なんて言い出すのではないでしょうね」
 織田信秀存命の頃、水野家は織田方に与して弾正忠家の三河侵攻を援助した。その後、中央の介入によって織田と今川の間に和議がなると、それに伴い、織田に加担した水野一族も義元から赦免され、大きな報復も受けず今日に至っていた。
 ところが今、家督を継いだ信長が今川との停戦を破ったことで両大国に再び大乱の機運が高まっている。義元が本国駿河より尾張へ侵攻しようとするのなら鎌倉街道を通るはずだが、そのためには、半島の付け根を抑えている水野領を是が非でも味方につけておかなければ仕方がない。
「そうは言ってねえさ。だが、まったく無い話じゃあねェってことよ。俺たちのようなのは今川についたところでこき使われて捨てられるだけに決まってらァな」
「しかし、使い捨てられるその日までは生きられる。あまり無頼に振舞われると大火傷を負いますよ」
 信近の目は据わっていた。気性の荒い男ではないが、やけに兄に喰ってかかる。
「それに、竹千代の坊主を助けてやりたいとは思われぬのですか。義元の文にも『久しぶりに甥に会いに来てやったらどうか』とも書いてありますよ」
 信元・信近にとって竹千代は甥にあたる。彼らの妹・だい於大おだいの方)こそが松平広忠に嫁いで竹千代を生んだ女である。だが、大と広忠の仲は長続きしなかった。竹千代生誕のおよそ一年後、信元が信秀と結んで親織田となるや広忠はそれに対抗して今川への臣従を示すために即座に大を離縁したのだ。生憎、その後、ほどなく広忠までもこの世を去ることになるのだが。
「竹千代、……竹千代には何かしてやりてえなァ……。こりゃウソじゃねえ。母とはすぐに生き別れ、城が落ちりゃあ父に身を売られ、遂にはその父とも死に別れときてやがる。日ノ本広しといえども、なかなかにえれえ人生を歩んでいるもんだ」
 信元はにわかに目を潤ませ、鼻水を流した。
「それもこれも、兄上が織田につくようなことするからです」
「うるせいッ、言うなあ」
 情緒の波が甚だ激しいが、信元は動じない。もはや見慣れている。
「やはりここは今川に頭を下げた方がいいのではないですか」
「だが、この文はいけすかねえッ」
 信元は立ち上がると赤らめた顔を引きちぎれんばかりにぐにゃっと歪ませ、紙束を破り、破り、まだまだ千々に破り、そして宙にぶん投げた。
 雪のように舞い落ちた紙切れの一片を信近が拾い上げる。
「困った人だ。フリダシに戻っただけではないですか」
 信元はグデンと項垂れて胡坐をかくと、一転、しんと静かになった。はて、眠ったか、と信近が思っていると、
「決めた」
 声がした。
「どちらに付くのです」
「どっちにも付かねェのさ」
「全然決めていないではないですか」
「いやッ! ……違うぜ。俺ァ、どっちにも付かねェことを、いま決めたのさ」
「義元のアレは脅しではない。きっと、攻めてきますよ」
 信近の最期の忠告に信元は一層と低い声で答える。
「攻めて来たんなら、その時からそいつが俺の敵だ。織田でも今川でも、ダ」
 もしも一度攻められたならば、誰であろうとも牙を剥く。信元はそう腹を括った。か細い蟷螂の斧には違いないが、しかし、彼の矜持が守られるためには、また、「この知多半島を治めるのは他の誰でもない水野一族である」という志が示されるためには、それがどうしても必要だったのだ。
「わかりました。お好きになさりませ。ただし、我ら刈屋の一党が、兄上の酔狂にいつも同心するとは努々思われぬことです」
 兄の心底を理解してはいても、信近には今川との戦争が依然として受け入れられない。
 というのも、信近の治める刈屋城は緒川城の東を流れる境川(伊勢湾へ流れる河口)を隔てた対岸にある。もし義元の矛先が水野一族に向く時は緒川城よりも先に刈谷城が襲われることは間違いがない。いかに実の兄の、当主の言うこととはいえ、生き死にのかかった状況のなかで唯々諾々と従っていられるような呑気な状況にはなかった。
「ヘッ。ナマ言いやがるな。まあそれも戦国の一興だろうぜ」
 不適に笑う兄を見ながら、信近は近づく大乱の気配に動悸を覚えた。
 そして、その予感は数か月のうちに現実のものとなった。

 同年の暮れ、一向に登城しない信元の態度に「明確な叛意あり」と見た義元は、信近の刈谷城よりもさらに東方、今川・松平に対する前線となっていた水野方の重原しげはら城を強襲し、年明けの翌・天文二十三年(一五五四年)正月、ついにこれを陥落させた。守将・山岡伝五郎なる信元の忠臣をはじめとして城兵ら悉くが討死を遂げる壮絶な合戦だったという。
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