織田信長 -尾州払暁-

藪から犬

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第三章 血路

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 「そら、押し返せ。尾張から蹴散らしてやれ」
 年が明けた天文二十四年(一五五五年)、信光死去の後、その旧領を併呑して更に勢力を増した織田信長は、ここぞとばかりに今川勢に対して攻勢に出た。
 兼ねてより山口教継らの寝返りによって今川方が支配を強めていた笠寺周辺の一帯へしきりに派兵し、ついに盛り返し始める。
 義元は、三河統治の責任者として自らの右腕である太原雪斎を立て、重臣たちを動員してその支配に当たらせていたが、村木砦陥落以降は、元来今川氏の支配に反発心を持っていた土豪らからキナ臭い動きが散見されるようになり、以前のように尾張の中心地まで気軽に攻め込んでいけるような優勢は完全に失われた。
 背後で糸を引いているのはもちろん信長であり、また、その意図を汲んで暗躍する緒川城の水野信元である。

 ところが、尾張国内に目を向けると、末森城の織田信勝は意外にも素っ気なくそれを見ていた。
『信長が調子づいているのは不快だが、焦っても仕方がない。戦機というのは「行きつ戻りつ」だ。叔父上の死が必ず信長に不利に働くときがくる。今はまだ、じっとしていることだ』
 信長が今川との戦争に邁進する間、信勝は政に精を出していた。
 弾正忠家当主の証である「弾正忠」を自称してみたり、信長が義親からの下賜を拒んだ守護代の通字である「達」の字を用いて「達成」と改名してみたりと、細やかな政治的駆け引きに余念がなかった。
 しかし、そんな緻密な策謀ばかりに注力していると、どうにも気が張りすぎていけない。
――私は、あのうつけとは違って頭があるのだから、疲れるのは当然だ。たまには労わってやらねばね――
 そんなことを思いながら、小休止と称して鷹狩、ならぬ百舌鳥狩に興じていた。

「信勝兄さまは、百舌鳥で狩りをなされるのですか」

 残雪と見紛うばかりの純白の肌に浮かぶ気色の良い朱い唇から、溌剌とした声が響く。
「そうさ、秀孝ひでたか。小柄だからといって侮ってはいけないよ。人もまたそうさ。その者がいかなる本性を持っているのか、上に立つ者はいちいちそれを見てやらねばならない」
 傍らの蔵人が耳をそばだて、こんな優しい声色も持っているのか、と感心している。
 織田秀孝は、信長・信勝と母を同じくする弟で今年十四になる。土田御前が産んだ嫡子は、はっきりとしているのは三人だけ。上の二人は周知の通りに剣呑な仲であるのに、この秀孝は、どういうわけだか信長にも信勝にも大層可愛がられているらしい。
「狩りを見せてくださいませんか」
 跳ねるような声。天真爛漫な笑みがそうさせるのかもしれない。
――この弟だけは敵に回すわけにはいかない――
 秀孝は未だ元服を終えたばかりではあるものの、信長と信勝の対立が鮮明になったその時は、どちらに付くかを迫られ戦場に立たざるを得ない。
――そうなったとき、確実にこちら側へついてもらわなければ駄目だ――
 打算で目を掛けている訳ではない。かわいい弟を殺さなければならないような状況が来るのを避けたい。それだけだった。
「いいだろう。見ていなさい」
 信勝は鳥籠からお気に入りの百舌鳥を一羽出して親指に乗せた。それは一際大きい。影だけを見たならおよそ椋鳥と見間違うかというほどに。
 ところが、百舌鳥は突如としてキリキリと忙しない声を上げ、
「あっ」
 空高く飛び去ってしまった。
 信勝は眉間に皺を寄せて背後を振り返る。そこに見慣れた髭面を認めると、これ見よがしな溜息をついた。
 勝家が下馬をして膝をついている。
「今こそ、決戦の機にござる」
 信勝は頭痛がした。
 わざわざ作った憩いの、それも最愛の弟との至福の時間を台無しにした挙句、開口一番に戦争の話ときた。
「すまないが、秀孝、もう少し遊んできてくれ。このと話さねばならんようだ」
 秀孝はそんな信勝の心の内を知ってか知らずか、ハイ、と屈託なく笑い、走り去った。
 弟が駆けていく広大で肥沃な尾張の草原を、信勝は、秀孝の姿が見えなくなってもずっと眺めていた。
「今こそ、決戦の機にござる」
 勝家は信勝の心情など知る由もないので、もしや自分の声が聞こえなかったのかと考えて要らぬ催促をした。
 ここに至り堪らず蔵人が横から口を挟む。
「お待ちを。勝家殿は来るやそればかりではないですか」
「拙者の役目は、信勝さまを戦に勝たせること。勝機を言上差し上げるのは、当然にござる」
「信長さまが信光さまを失った今こそが勝機だとでも言いたいのでしょうが、果たして本当にそうですかな、信長さまはその旧領を掠めとり、信じられぬことではあるが、駿河勢を押し返している。これのどこが勝機ですか」
「なればこそ、だ。駿河勢の動きが鈍いうちに、信長との決戦に及びこれを打ち倒し、再び今川と和睦をとりまとめるのがよろしかろう」
「順序がまるで逆ですよ、勝家殿。あなたの腕っぷしは認めるが、駆け引きというのをご存じないようです。駿河勢が勢いを取り戻すのを待ち、これと結んで信長さまを追い詰める。明白なことです」
「今川が勢いを取り戻すという保証は何処にもないではないか」
 自分より一まわりも年下の蔵人に煽られて、勝家はつい本音をこぼした。
 しばらくは二人のやり取りを白眼視していた信勝だったが、これには異議があるようで、
「妙な言い方をするではないか。兄上が今川を退ける。ふふ、織田信長がそんな辣腕を振るえる男なら、あえて我らが挙兵する理由はないな」
「イ、戦の才と、政の才は異なるもの故、」
 信勝はもちろん皮肉で言ったのだが、勝家にとっては真を穿っていた。
――このままいけば、やがては織田信長に対して挙兵に及ぶ理由そのものがなくなってしまうのではないか?――
 勝家は無意識のうちにそれを恐れていたのだ。
「ホウ、それは一層聞き捨てならんな。戦の才であれば、『私よりも信長の方に部がある』、そう聞こえたぞ」
「決して、そのような、」
 苦し紛れの言い訳は、主君の繊細な神経を逆撫でしただけに終わった。
 当初は勝家とて「信長めに何ほどの才があるか」とタカを括っていた。
 確かに、鳴海城の山口一族をはじめ尾三国境に拠る者らのいくらかは、同じように「信長に当主の器量なし」として離れたのだから。しかし、一方で、信長はいま、清洲城を手中に治め、今川勢を押し返していることも事実なのだ。それも、
「兎も角、信長をこれ以上乗せるのは危のうござる」
 勝家は戦屋だ。政治の細やかな機微などはさして分からないが、信長軍の精強さは、たとえ数度目にしただけとはいえ分かってしまう。しかしながら、悲しいかな、それは所詮、言葉の上に組み立てて、詳らかに解説できるような性質のものではなかった。
「勝家、今日はもう下がれ」
「下がりませぬ」
「わからんやつだ。では、私たちがここを去ろう。弟を待たせている」
 信勝は背を向けて踏み出した。
「お待ちくだされッ」
 小走りで縋りつくこうとする勝家の前に、蔵人が立ちふさがる。
「信勝さまは秀孝さまとのお時間を割いてあなたに応えたのです。もし、私の無礼な発言に腹を立てられたのなら謝ります。とにかく今日のところはお引き取りを。これはあなたのためでもあるのです、勝家殿」
 こんな謝罪は心にもない形だけの言葉だと分かる。そして、がどうやら大切らしいことも、勝家には分かっている。しかし、それが分かったとて、どうすることもできない。身体がそのようにできていないのだから。
 草原に一人立ち尽くしている。いつの間に戻ってきたのか、あの大きな百舌鳥の声が勝家の耳を劈いた。
 勝家は何となく川べりまでトボトボ歩き、二月の冷え切った川の水を両手に掬うと、雑念を振り払うようにばしゃばしゃと顔を何度も洗った。

 織田信長の勢いは尾張国内を沈黙させた。
 末森城の織田信勝も、岩倉城の織田信安も、はたまた林秀貞・通具の兄弟に至るまで、示し合わせたかのようなダンマリを決め込んだ。
 表層だけを見たなら、おおよそ平和と言えなくもない月日が流れていたが、平和なときというのは、それはそれで、緊張の糸が切れるとでもいうのか、脈絡のない珍事を引き起こしてしまうこともしばしばである。
 信光騒動からおよそ半年が過ぎた六月二十六日、織田秀孝が突然の事故死を迎える。
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