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第三章 血路
十七
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生暖かい風はやがて小雨を伴い、敗走する信長軍をからかうかのようにその背に降り注いだが、馬に鞭打つ信長はそれを相手にせず、ただひたすらに尾張への帰路を駆ける。
道中、岩倉衆が清洲の北に位置する下ノ郷という村に放火したとの情報を得るや、信長はこれに直行して、深更の乱取りに興じていた岩倉衆の残党を打ち破ったが、大将であるはずの信安らしき姿は何処にもなかった。
「なんでい。岩倉衆も所詮は清洲衆と似たようなものですか。殿の留守に放火するのが背一杯たあ笑わせます。美濃の斎藤高政をアテにしていただけだな。端から正面から私たちと戦う気なんてなかったってことサ、気の小さい野郎です」
及川・大浦の敗戦を経て尚も剽軽な口ぶりを失わない恒興に、信長は内々感心したが、
「そうかもな」
ただ苦笑して、すぐに兵を退かせた。
信長の戦はすでに終わっていた。
清州城の城門をくぐる頃には空が白み始めていたが、悪天候で時刻の見当がつかない。
雨はいよいよ本降りとなり、わずか遠雷が聞こえてきた。槍持ちはまだ遠いのに落雷を恐れてそそくさと槍を伏せながら、我先にと屋根のある蔵なり厩なりに走って逃げた。
『生き延びた』
緊張の糸が切れるや、兵たちは、まるでその念だけで駆動されていた人形であるかのように、皆一様に尻もちをついて泥のなかに倒れ込んだ。ただ一人、信長だけが、いつ抜いたかも忘れた脇差を握りしめたまま、美濃の山々を覆う黒雲をじっと見つめていた。
「ご無事でしたかッ」
「よくぞ帰られました、」
城へ入るや、留守居の者たちは競い合うように主君の身を案じ声をかけたが、信長にはすべてが他人事のように遠く聞こえるだけだった。
――帰った? アア、ここはオレの家なのだったか――
勝幡に生まれ、那古野で育ち、そうして、この清洲を手に入れて主城とした信長。彼はこの清洲城を、いつまで経っても自分の城だと感じることができなかった。敵が攻め込んできたときのために、城内の構造は、部屋の配置、柱の本数に至るまで知り過ぎるほど知っていたが、それに慣れ親しむような気持ちがどうにも起こりそうもなかったのである。
――所詮は叔父上が大膳を騙して奪いとった城だ。いや、それを言うなら、那古野城も父上が今川から奪い取った城だったな――
信長は怪我人の手当に奔走する侍女たちを尻目に、帰蝶の待つ北櫓へと向かった。
合わす顔はなかった。しかし、帰蝶のほかに第一に会うべき人間など居るべくもなかった。
――すべきことをただするだけだ――
それがこの男の行動原理だった。とりわけ戦のときにはそれが如実に表れたが、帰蝶との対峙も信長にとっては一つの小さな戦だった。大見栄を切っての敗戦の、その不格好は分かり切っていたが、それを理由に会わないということが信長にとっては、もっともやりにくかったのだ。
――戦争に行き、負けた。斎藤道三も、織田信長も、斎藤高政に敗北した。事実として、それだけのことだ。何をどう言えば良いかと、ウジウジ考えるようなことじゃない――
奥の広間は夜よりも暗く見えた。暗ければ見えないと思うだろうか、それを闇という。暗雲に包まれ、しかしながら、その暗いことがよく分かる世界を陰という。ここは陰の広間であった。無機質に冷たい柱が立ち並んでいる。まるで広大な世界からこの部屋だけが切り離されたかのようにひっそりとしていた。
中心に女が座っている。顔は向こうへ向いていて、表情は分からない。
髪から滴る水が床に落ちて小さな音を立てるかというときに、信長は声を発した。
「斎藤道三は死んだ。オレは負けた」
喉元にまで出かかった謝罪じみた言葉を飲み込んだ。
「ええ。聞きました」
向き直らないままに、女はやや掠れた声で返答した。
そして、それ以上、言葉は続かない。
帰蝶は森の深奥にひそむ池のように静かだった。信長はこの態度を判じかねる。静謐は何も教えてくれず、ただそこにあるばかりだったから。
「悲しいか」
「どうでしょうか」
帰蝶が前触れもなく不意に振り向いた。
切れ長の目が充血してやや腫れていた。ひとよりわずか出た頬骨の辺りに、涙のつたった跡が見える。
「泣いていたのか」
「ええ」
「それは、悲しいということじゃないのか」
「そうかしら」
「そうだろう。泣くというのは、悲しいということだ」
信長は半ば強引にそう結論を放り投げた。ありとあらゆるものに意味を与えてやるのが、この乱雑な世界を生き抜くためのコツだと信長は心得ている。
『笑えば可笑しい、震えれば腹立たしい、涙が流れれば悲しい』
戦争を、大量なる人殺しを玩具足らしめる思想とは、そういうものだった。意味なく血液が流れ出て、意味なく身体が冷たくなり、そして、誰々というよく知った一人の人間が意味なく消えていく。そういった事実を認めてしまっては、彼は戦争を継続することができなかったからだ。
帰蝶の態度は、まさにその意味で信長の急所を突くものである。
「さあ。わかりません。わかろうということも、もう、ありません」
帰蝶は、既にすべてを終わらせていた。
信長の居ない間に実父の死を知り、そして、信長の居ない間に自らの心に整理をつけた。
「戦のことを話そうか」
「いいえ」
「舅殿の最期も聞かないのか」
「ええ。興味がありません」
嗚咽に喉が焼けたのだろう、その掠れ声だけが、悲哀の時間が彼女にもあったことを示す痕跡となっていたが、その他の一切が、いつも信長をからかうだけの帰蝶に戻りつつあった。城門に夫を見送ったときの取り乱した風は既に影もない。むしろ、自分の方が未だ道三の死に動揺しているのではないか、と信長は感じざるを得なかった。
――采配は、川へ飲まれたのだったか。もし、遺品の一つでも目の前へ転がしてやったなら、この澄ました女も再びオレの前で父を想って泣くだろうか。どうだろう?――
信長は夢想した。猥雑な嗜虐趣味の類ではない。信長は、ただ、帰蝶に触れる手立てを失ってしまった。
斎藤道三という男の存在だけが、公私に渡って自分たち夫婦の絆を形成していたという事実を、信長は、妙な愛憎をもって認めざるを得なかった。
「じゃあ、眠るか」
「いいえ。それもしないわ」
「じゃあ、どうするかね」
「何もしません」
「何かはしなくちゃ駄目だ。生きているうちは」
「いいえ。何もしません」
まるで手ごたえがない。
「そうですか」
どうにでもなれ、という気分。
信長はキツく結んでいた萌黄の髪紐をびゃっと放り投げ、裸足を縁側に放り出して雨に打たせて弄んだ。ちょっとすると、両手が暇を持て余していて都合が悪く思われたので、放った髪紐を再び拾い上げクルクルと振り回し始めたが、水滴が帰蝶の方へ飛ぶのを見たら、やっぱりそれも止めてしまった。何もしないでいることは思いのほか難しい。けれども、不意に帰蝶を見やると、彼女はそれをいとも簡単にこなしているように、信長には映った。
ぼうっと庭を、雨だか、その中を濡れながら飛んでいく燕だかを見ていた。やることは何一つないはずなのに、すべての細胞が、それだけに、そのぼんやりに動員されているように見える。
――こういう芸当は、女なら誰にでも出来ることなのだろうか――
「何もしないでください」
「わかっているよ」
信長は間というのに耐えることができずに、すぐ何か言おうとしたり、やろうとしたりしてしまうが、その度、帰蝶に咎められた。
雨はすでに嵐となって木戸にガリガリ打ちつけていた。雷もずいぶん近づいて来ていた。先刻まで人々の喧騒に包まれていた城内は、雨、雨、雨一色に塗りつぶされている。
そして、薄墨で描かれたような行儀悪い黒雲を縁どるように、一筋の稲妻が明滅したときだった。
「何も言わないで、何もしないで、ただそこに居てください」
時が止まり、突風と雷鳴が折り重なって信長の全身を突き上げた。飛沫は、降り注ぐ矢のようで、縁のそばの二人を豪快に薙いだ。
――アア、こういうことか――
信長は突然に、腑に落ちた思いに駆られた。
「しずかだ」
「ええ」
消え入りそうな呟き。
轟音にかき消され、相手の耳には届いているはずもなかったが、そうした一切がすでに不要となった世界に、二人は居た。雨どいから滝のように水が流れ落ちる。付近の村の一番高い木に落雷した。その轟音に驚いたネズミだか、モグラだかが一匹、軒下から出て泥の水たまりのなかをさながら泳ぐように駆けて行った。
信長はそれらの一切を見ていた。ようやく、ただ見ていることが出来た。
戦に負けた屈辱も、敬愛した舅を失った悲哀も、大見栄を切って失敗した羞恥も、どれもまだ感じなくなったというわけではなかったが、それでも信長は、いまはそれらを煮詰める気にならず、ただ、ぼうっとしていられた。
――こんな豪雨の所為か――
見飽きたはずの庭が、何だか初めて見るもののよう。
長い沈黙の後に、もう一度空全体が白い光に包まれたとき、信長は言葉を得た。
「離縁はしない。それから、オレの家はお前が居るところだ。そういうことにするよ」
別に、言うべきことでもなかった。どちらでも良いはずのことだった。元よりこの音ではまともに聞こえていやしない。
帰蝶は口だけわずか動かして何か言ったが、信長にはしっかりとは聞こえなかった。そして、気にもならなかった。
雨は止んだ。雲間から光が差し、辺りは朝の静けさに包まれていた。
ずいぶん長い旅か何かから戻ってきたような奇妙な感覚が、信長を包み込む。眠っていたのかも知れないとさえ思う。日光が水たまりに反射して信長の目を刺した。
鳥が鳴き始めている。
「村をすこし見てくるよ」
「眠らないのですか」
「ウン、もう、朝だ」
「わたしは、眠りますよ」
「アア。雷が落ちたのは、あの辺りかな」
「いいえ。すこし、二町ほどこっち」
帰蝶はまっすぐに村々を指さして示した。
「そうか。そっちか。夕暮れには帰るよ」
信長はよいしょと立ち上がると、再び髪紐で得意の茶筅髷を結いあげ、そして何も言わずにスタスタとその場を後にした。
「夕暮れって。たくさん、眠れるわ」
帰蝶は一人そう呟き、小さな溜息を一つ吐いた。
懐から一束の書状を取り出して文机に開く。
それは仰々しい文体で「国譲状」と題されて在る。
「明日、私が決戦に赴き、きちんと死ぬことは疑いようがない。
此度、このような不始末となったは、一重に誰の所為でもなく、天の決めたことなのだろうと思う。私は、天道というものにさんざっぱら背いてきたのだから、こういった報いを受けることには驚きもないのだが、しかし、天などに選ばれて国に君臨することほど、つまらぬものはあるまい。
国は己が手で奪い取ってこそ、たのしいのだから。
私はここに、美濃国を織田弾正忠家当主・信長に譲ることを企むものである。
お前の兄も私という目の敵が居なくなるのではずいぶん暇を持て余すだろうから、これは親心である。
なお、この文は織田信長にも見せてやるといい。
手切れとなった同盟相手の家の妻は送り返されるのが世の倣いではあるが、お前は、この国譲りの生き証人となる特別な使命があるために、稲葉山の城へ帰るのは、きっと、その時だろうということを婿殿に心得てもらうと良い。
弘治二年 四月十九日 斎藤山城入道三」
決戦の前夜、道三は我が身の最期を悟り、帰蝶と信長に対する手紙を書いて尾張へ遣いを走らせたのである。
けれども、帰蝶は生涯、この国譲状を信長に読ませることはなかった。
こんなものに頼って側に置いてもらうような屈辱は耐えられなかったし、何よりも、死に際に至って、娘の今後の居所などを案じ大言壮語を用いる父親の卑小さが、あまりにも身に染みて恥ずかしかったからだ。その羞恥心こそが、のっぴきならない肉親の定めだと、帰蝶自身ほとんど知りながらも。
「やだやだ。なぜだか、とってもいい気持ちよ、父上」
空は、天はまるで斎藤道三という大悪党をやっとこそ懲らしめてやったぞとでも言うように、晴れ渡っている。
帰蝶は信長が出向いた村々で泥だらけになっている姿を想像する。
――村の雨で崩れかけた小屋の一つでも暇つぶしに直してから、それからここへ帰ってくるのだろう。それも、ぞろぞろといつもの汚らしい仲間たちをたくさん引き連れて。眠っていても、起こされてしまうかもしれない――
「そうして、こんなことを言うのよ」
『餅か何か、焼いてくれないか』
数刻の後、帰蝶はその予想をぴったりと当てるに至る。
道中、岩倉衆が清洲の北に位置する下ノ郷という村に放火したとの情報を得るや、信長はこれに直行して、深更の乱取りに興じていた岩倉衆の残党を打ち破ったが、大将であるはずの信安らしき姿は何処にもなかった。
「なんでい。岩倉衆も所詮は清洲衆と似たようなものですか。殿の留守に放火するのが背一杯たあ笑わせます。美濃の斎藤高政をアテにしていただけだな。端から正面から私たちと戦う気なんてなかったってことサ、気の小さい野郎です」
及川・大浦の敗戦を経て尚も剽軽な口ぶりを失わない恒興に、信長は内々感心したが、
「そうかもな」
ただ苦笑して、すぐに兵を退かせた。
信長の戦はすでに終わっていた。
清州城の城門をくぐる頃には空が白み始めていたが、悪天候で時刻の見当がつかない。
雨はいよいよ本降りとなり、わずか遠雷が聞こえてきた。槍持ちはまだ遠いのに落雷を恐れてそそくさと槍を伏せながら、我先にと屋根のある蔵なり厩なりに走って逃げた。
『生き延びた』
緊張の糸が切れるや、兵たちは、まるでその念だけで駆動されていた人形であるかのように、皆一様に尻もちをついて泥のなかに倒れ込んだ。ただ一人、信長だけが、いつ抜いたかも忘れた脇差を握りしめたまま、美濃の山々を覆う黒雲をじっと見つめていた。
「ご無事でしたかッ」
「よくぞ帰られました、」
城へ入るや、留守居の者たちは競い合うように主君の身を案じ声をかけたが、信長にはすべてが他人事のように遠く聞こえるだけだった。
――帰った? アア、ここはオレの家なのだったか――
勝幡に生まれ、那古野で育ち、そうして、この清洲を手に入れて主城とした信長。彼はこの清洲城を、いつまで経っても自分の城だと感じることができなかった。敵が攻め込んできたときのために、城内の構造は、部屋の配置、柱の本数に至るまで知り過ぎるほど知っていたが、それに慣れ親しむような気持ちがどうにも起こりそうもなかったのである。
――所詮は叔父上が大膳を騙して奪いとった城だ。いや、それを言うなら、那古野城も父上が今川から奪い取った城だったな――
信長は怪我人の手当に奔走する侍女たちを尻目に、帰蝶の待つ北櫓へと向かった。
合わす顔はなかった。しかし、帰蝶のほかに第一に会うべき人間など居るべくもなかった。
――すべきことをただするだけだ――
それがこの男の行動原理だった。とりわけ戦のときにはそれが如実に表れたが、帰蝶との対峙も信長にとっては一つの小さな戦だった。大見栄を切っての敗戦の、その不格好は分かり切っていたが、それを理由に会わないということが信長にとっては、もっともやりにくかったのだ。
――戦争に行き、負けた。斎藤道三も、織田信長も、斎藤高政に敗北した。事実として、それだけのことだ。何をどう言えば良いかと、ウジウジ考えるようなことじゃない――
奥の広間は夜よりも暗く見えた。暗ければ見えないと思うだろうか、それを闇という。暗雲に包まれ、しかしながら、その暗いことがよく分かる世界を陰という。ここは陰の広間であった。無機質に冷たい柱が立ち並んでいる。まるで広大な世界からこの部屋だけが切り離されたかのようにひっそりとしていた。
中心に女が座っている。顔は向こうへ向いていて、表情は分からない。
髪から滴る水が床に落ちて小さな音を立てるかというときに、信長は声を発した。
「斎藤道三は死んだ。オレは負けた」
喉元にまで出かかった謝罪じみた言葉を飲み込んだ。
「ええ。聞きました」
向き直らないままに、女はやや掠れた声で返答した。
そして、それ以上、言葉は続かない。
帰蝶は森の深奥にひそむ池のように静かだった。信長はこの態度を判じかねる。静謐は何も教えてくれず、ただそこにあるばかりだったから。
「悲しいか」
「どうでしょうか」
帰蝶が前触れもなく不意に振り向いた。
切れ長の目が充血してやや腫れていた。ひとよりわずか出た頬骨の辺りに、涙のつたった跡が見える。
「泣いていたのか」
「ええ」
「それは、悲しいということじゃないのか」
「そうかしら」
「そうだろう。泣くというのは、悲しいということだ」
信長は半ば強引にそう結論を放り投げた。ありとあらゆるものに意味を与えてやるのが、この乱雑な世界を生き抜くためのコツだと信長は心得ている。
『笑えば可笑しい、震えれば腹立たしい、涙が流れれば悲しい』
戦争を、大量なる人殺しを玩具足らしめる思想とは、そういうものだった。意味なく血液が流れ出て、意味なく身体が冷たくなり、そして、誰々というよく知った一人の人間が意味なく消えていく。そういった事実を認めてしまっては、彼は戦争を継続することができなかったからだ。
帰蝶の態度は、まさにその意味で信長の急所を突くものである。
「さあ。わかりません。わかろうということも、もう、ありません」
帰蝶は、既にすべてを終わらせていた。
信長の居ない間に実父の死を知り、そして、信長の居ない間に自らの心に整理をつけた。
「戦のことを話そうか」
「いいえ」
「舅殿の最期も聞かないのか」
「ええ。興味がありません」
嗚咽に喉が焼けたのだろう、その掠れ声だけが、悲哀の時間が彼女にもあったことを示す痕跡となっていたが、その他の一切が、いつも信長をからかうだけの帰蝶に戻りつつあった。城門に夫を見送ったときの取り乱した風は既に影もない。むしろ、自分の方が未だ道三の死に動揺しているのではないか、と信長は感じざるを得なかった。
――采配は、川へ飲まれたのだったか。もし、遺品の一つでも目の前へ転がしてやったなら、この澄ました女も再びオレの前で父を想って泣くだろうか。どうだろう?――
信長は夢想した。猥雑な嗜虐趣味の類ではない。信長は、ただ、帰蝶に触れる手立てを失ってしまった。
斎藤道三という男の存在だけが、公私に渡って自分たち夫婦の絆を形成していたという事実を、信長は、妙な愛憎をもって認めざるを得なかった。
「じゃあ、眠るか」
「いいえ。それもしないわ」
「じゃあ、どうするかね」
「何もしません」
「何かはしなくちゃ駄目だ。生きているうちは」
「いいえ。何もしません」
まるで手ごたえがない。
「そうですか」
どうにでもなれ、という気分。
信長はキツく結んでいた萌黄の髪紐をびゃっと放り投げ、裸足を縁側に放り出して雨に打たせて弄んだ。ちょっとすると、両手が暇を持て余していて都合が悪く思われたので、放った髪紐を再び拾い上げクルクルと振り回し始めたが、水滴が帰蝶の方へ飛ぶのを見たら、やっぱりそれも止めてしまった。何もしないでいることは思いのほか難しい。けれども、不意に帰蝶を見やると、彼女はそれをいとも簡単にこなしているように、信長には映った。
ぼうっと庭を、雨だか、その中を濡れながら飛んでいく燕だかを見ていた。やることは何一つないはずなのに、すべての細胞が、それだけに、そのぼんやりに動員されているように見える。
――こういう芸当は、女なら誰にでも出来ることなのだろうか――
「何もしないでください」
「わかっているよ」
信長は間というのに耐えることができずに、すぐ何か言おうとしたり、やろうとしたりしてしまうが、その度、帰蝶に咎められた。
雨はすでに嵐となって木戸にガリガリ打ちつけていた。雷もずいぶん近づいて来ていた。先刻まで人々の喧騒に包まれていた城内は、雨、雨、雨一色に塗りつぶされている。
そして、薄墨で描かれたような行儀悪い黒雲を縁どるように、一筋の稲妻が明滅したときだった。
「何も言わないで、何もしないで、ただそこに居てください」
時が止まり、突風と雷鳴が折り重なって信長の全身を突き上げた。飛沫は、降り注ぐ矢のようで、縁のそばの二人を豪快に薙いだ。
――アア、こういうことか――
信長は突然に、腑に落ちた思いに駆られた。
「しずかだ」
「ええ」
消え入りそうな呟き。
轟音にかき消され、相手の耳には届いているはずもなかったが、そうした一切がすでに不要となった世界に、二人は居た。雨どいから滝のように水が流れ落ちる。付近の村の一番高い木に落雷した。その轟音に驚いたネズミだか、モグラだかが一匹、軒下から出て泥の水たまりのなかをさながら泳ぐように駆けて行った。
信長はそれらの一切を見ていた。ようやく、ただ見ていることが出来た。
戦に負けた屈辱も、敬愛した舅を失った悲哀も、大見栄を切って失敗した羞恥も、どれもまだ感じなくなったというわけではなかったが、それでも信長は、いまはそれらを煮詰める気にならず、ただ、ぼうっとしていられた。
――こんな豪雨の所為か――
見飽きたはずの庭が、何だか初めて見るもののよう。
長い沈黙の後に、もう一度空全体が白い光に包まれたとき、信長は言葉を得た。
「離縁はしない。それから、オレの家はお前が居るところだ。そういうことにするよ」
別に、言うべきことでもなかった。どちらでも良いはずのことだった。元よりこの音ではまともに聞こえていやしない。
帰蝶は口だけわずか動かして何か言ったが、信長にはしっかりとは聞こえなかった。そして、気にもならなかった。
雨は止んだ。雲間から光が差し、辺りは朝の静けさに包まれていた。
ずいぶん長い旅か何かから戻ってきたような奇妙な感覚が、信長を包み込む。眠っていたのかも知れないとさえ思う。日光が水たまりに反射して信長の目を刺した。
鳥が鳴き始めている。
「村をすこし見てくるよ」
「眠らないのですか」
「ウン、もう、朝だ」
「わたしは、眠りますよ」
「アア。雷が落ちたのは、あの辺りかな」
「いいえ。すこし、二町ほどこっち」
帰蝶はまっすぐに村々を指さして示した。
「そうか。そっちか。夕暮れには帰るよ」
信長はよいしょと立ち上がると、再び髪紐で得意の茶筅髷を結いあげ、そして何も言わずにスタスタとその場を後にした。
「夕暮れって。たくさん、眠れるわ」
帰蝶は一人そう呟き、小さな溜息を一つ吐いた。
懐から一束の書状を取り出して文机に開く。
それは仰々しい文体で「国譲状」と題されて在る。
「明日、私が決戦に赴き、きちんと死ぬことは疑いようがない。
此度、このような不始末となったは、一重に誰の所為でもなく、天の決めたことなのだろうと思う。私は、天道というものにさんざっぱら背いてきたのだから、こういった報いを受けることには驚きもないのだが、しかし、天などに選ばれて国に君臨することほど、つまらぬものはあるまい。
国は己が手で奪い取ってこそ、たのしいのだから。
私はここに、美濃国を織田弾正忠家当主・信長に譲ることを企むものである。
お前の兄も私という目の敵が居なくなるのではずいぶん暇を持て余すだろうから、これは親心である。
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弘治二年 四月十九日 斎藤山城入道三」
決戦の前夜、道三は我が身の最期を悟り、帰蝶と信長に対する手紙を書いて尾張へ遣いを走らせたのである。
けれども、帰蝶は生涯、この国譲状を信長に読ませることはなかった。
こんなものに頼って側に置いてもらうような屈辱は耐えられなかったし、何よりも、死に際に至って、娘の今後の居所などを案じ大言壮語を用いる父親の卑小さが、あまりにも身に染みて恥ずかしかったからだ。その羞恥心こそが、のっぴきならない肉親の定めだと、帰蝶自身ほとんど知りながらも。
「やだやだ。なぜだか、とってもいい気持ちよ、父上」
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「そうして、こんなことを言うのよ」
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1940年、遂に欧州で第二次世界大戦がはじまります。
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未来の日本から来たという柳生、結城の2人によって1944年のサイパン戦後から1934年の日本に戻った大本営の特例を受けた柏原少佐は再びこの日本の危機を回避させることができるのでしょうか!?
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