81 / 100
第四章 蛟竜雲雨
三
「はあ。ついに今川さまからお達しが来てしまったわ」
男は木戸を開け放つと、朝日を照り返す自らの丸い頭をぱしぱしと数回叩いてから、傍らの女を抱き寄せた。
「どうしよう。どうしよかな。逃げよか?」
「そんなこと言っても、服部さま、わたしらを守ってくれるのでしょう?」
「ワシ、そんな男前と違うぜ。ワシはワシの家を守るだけじゃ。だで、姉ちゃんがワシの女房なったら守ったるよ。ホラ、近う、近う」
部屋の内に吹き溜まった淫猥な空気を洗い流すかのように海風が通り抜ける。
外には茫洋たる海、いや、川が広がっていた。ここは、尾張に横たわる長良川、木曽川、揖斐川の三つの大河が合流して海へ注ぐ河口である。尾張と伊勢のちょうど境目に位置する巨大なこの輪中を長島といった。
水上を埋め尽くすほどの舟が引っ切り無しに長島へ吸い込まれていく。ガヤガヤと喧騒の激しいことは尾張一の城下町となった清洲に勝るとも劣らないが、ここに信長の支配は及んでいない。治めるのは、石山本願寺より東海三ヶ国(伊勢・美濃・尾張)の門末の統治を任された願正寺の坊主たち、そして、彼らに追従する在地の土豪たちである。その筆頭がこの男、服部友貞だった。
「信長さまはコワイお方と聞いたわ。戦争はイヤよ」
「気が合うのう。ワシも同じ気分じゃわ。戦争なんて阿呆がするもんじゃがな」
服部党と呼ばれる水軍の頭領である友貞は武士でありながら戦を嫌っていた。彼にとっては戦争行為に大した旨味が見いだせない。長島輪中の荷之上ということろに生まれ、父祖の代からすでに願正寺の取巻きである。外に目を向ければ、尾張も、伊勢も、年がら年中戦をしていた。そうして戦火に絶望を見た者たちがやがて救いを求め、不入の権を認められたこの寺領に流れ込んでくる。同地は余所の国から人や物を強奪せずとも豊かな海の恩恵で経済がまわる。一体どうしてここを離れて外の世界へ殺し殺されに行く必要があるだろう。
「ここに居れば、安心なのよね?」
長島は周囲を海と川に囲まれていた。天然の要害と本願寺の権威を前に、あえてこの地を攻め落とそうなどとは考える者はこれまで居なかった。何処へも攻め込めないが、何処にも攻められない。長島はそれで十二分だった。
ところが、信長が尾張統一に手をかけると荷之上にも暗雲が立ち込める。
「どうだかな。あの信長ってのは何を考えているかよく分からねえ奴じゃ。いまに伊勢にまで手え出して来るかもわからんぜ」
弘治三年(一五五七年)、信長は突如として伊勢国の土豪・坂氏の娘を自らの側室に貰い受け、翌・永禄元年(一五五八年)夏には子どもを産ませた。後の織田信孝である。坂氏はこれといって弾正忠家と縁のある家ではなかった。もし、信長がその女に惚れ抜いたなどというのでない限りは、西へと侵攻せんとする欲望の現れだとしか友貞には考えられなかった。暗黙のうちに結ばれていた長島への不可侵の了解は忽ち怪しむべきものへとなり果てたのである。
「もし、織田さまが攻めてきたら、やっつけてよう?」
「ウハハ。ワシら、舟漕ぎしか取り柄がないんじゃ。まともな戦なんてもう何十年もしとらん。せいぜい、お偉いさまにせっせとお手紙書いて助けてもらうだけじゃ」
遠交近攻、敵の敵は何とやら、今川を頼る友貞の策略は定石だった。信長の妙な動きを煩わしくは思うものの、自分に正面から張り合うだけの力がないこともまた心得ていた。
「けども、太守さまに任せきりでも悪かろうて。戦争はやらん代わりに信長のヤツを少し小突いてくれる。武衛さまを清須に閉じ込めて好き勝手やっとる野良犬にその報いを受けさせるのよ」
屈強な軍兵を恃まない武士が遂行できる敵への攻撃は限られている。友貞もその多分に漏れず口先三寸の小細工を弄するを思い至ったが、この男が他より優れているのは、あらゆる意味で自分の領分を熟知していた点にある。伊勢湾の海上交通を掌握していた友貞は信長に気取られることなく自らの配下を尾張の中枢へと侵入させ、調略活動に乗り出したのだ。標的に定めるは尾張守護・斯波義銀。信長に実権を奪われて今や傀儡となり果てた守護は権威を失った室町幕府の象徴である。この没落貴族が、我が物顔で尾張一国を差配する成り上がりの信長に対して、一つや二つ、思うところがない訳はないと踏んでいた。
――武衛さまが信長に立ち向かうならオモシロイが、全体、成功しなくたって構いやしねえさ。清洲が少しでも剣呑になれば、ワシらは随分やりやすい――
しかしながら、この策略が回り回って、織田信長という大名に新たな覚悟を促す結果になることなど、この時の友貞には知る由もない。
男は木戸を開け放つと、朝日を照り返す自らの丸い頭をぱしぱしと数回叩いてから、傍らの女を抱き寄せた。
「どうしよう。どうしよかな。逃げよか?」
「そんなこと言っても、服部さま、わたしらを守ってくれるのでしょう?」
「ワシ、そんな男前と違うぜ。ワシはワシの家を守るだけじゃ。だで、姉ちゃんがワシの女房なったら守ったるよ。ホラ、近う、近う」
部屋の内に吹き溜まった淫猥な空気を洗い流すかのように海風が通り抜ける。
外には茫洋たる海、いや、川が広がっていた。ここは、尾張に横たわる長良川、木曽川、揖斐川の三つの大河が合流して海へ注ぐ河口である。尾張と伊勢のちょうど境目に位置する巨大なこの輪中を長島といった。
水上を埋め尽くすほどの舟が引っ切り無しに長島へ吸い込まれていく。ガヤガヤと喧騒の激しいことは尾張一の城下町となった清洲に勝るとも劣らないが、ここに信長の支配は及んでいない。治めるのは、石山本願寺より東海三ヶ国(伊勢・美濃・尾張)の門末の統治を任された願正寺の坊主たち、そして、彼らに追従する在地の土豪たちである。その筆頭がこの男、服部友貞だった。
「信長さまはコワイお方と聞いたわ。戦争はイヤよ」
「気が合うのう。ワシも同じ気分じゃわ。戦争なんて阿呆がするもんじゃがな」
服部党と呼ばれる水軍の頭領である友貞は武士でありながら戦を嫌っていた。彼にとっては戦争行為に大した旨味が見いだせない。長島輪中の荷之上ということろに生まれ、父祖の代からすでに願正寺の取巻きである。外に目を向ければ、尾張も、伊勢も、年がら年中戦をしていた。そうして戦火に絶望を見た者たちがやがて救いを求め、不入の権を認められたこの寺領に流れ込んでくる。同地は余所の国から人や物を強奪せずとも豊かな海の恩恵で経済がまわる。一体どうしてここを離れて外の世界へ殺し殺されに行く必要があるだろう。
「ここに居れば、安心なのよね?」
長島は周囲を海と川に囲まれていた。天然の要害と本願寺の権威を前に、あえてこの地を攻め落とそうなどとは考える者はこれまで居なかった。何処へも攻め込めないが、何処にも攻められない。長島はそれで十二分だった。
ところが、信長が尾張統一に手をかけると荷之上にも暗雲が立ち込める。
「どうだかな。あの信長ってのは何を考えているかよく分からねえ奴じゃ。いまに伊勢にまで手え出して来るかもわからんぜ」
弘治三年(一五五七年)、信長は突如として伊勢国の土豪・坂氏の娘を自らの側室に貰い受け、翌・永禄元年(一五五八年)夏には子どもを産ませた。後の織田信孝である。坂氏はこれといって弾正忠家と縁のある家ではなかった。もし、信長がその女に惚れ抜いたなどというのでない限りは、西へと侵攻せんとする欲望の現れだとしか友貞には考えられなかった。暗黙のうちに結ばれていた長島への不可侵の了解は忽ち怪しむべきものへとなり果てたのである。
「もし、織田さまが攻めてきたら、やっつけてよう?」
「ウハハ。ワシら、舟漕ぎしか取り柄がないんじゃ。まともな戦なんてもう何十年もしとらん。せいぜい、お偉いさまにせっせとお手紙書いて助けてもらうだけじゃ」
遠交近攻、敵の敵は何とやら、今川を頼る友貞の策略は定石だった。信長の妙な動きを煩わしくは思うものの、自分に正面から張り合うだけの力がないこともまた心得ていた。
「けども、太守さまに任せきりでも悪かろうて。戦争はやらん代わりに信長のヤツを少し小突いてくれる。武衛さまを清須に閉じ込めて好き勝手やっとる野良犬にその報いを受けさせるのよ」
屈強な軍兵を恃まない武士が遂行できる敵への攻撃は限られている。友貞もその多分に漏れず口先三寸の小細工を弄するを思い至ったが、この男が他より優れているのは、あらゆる意味で自分の領分を熟知していた点にある。伊勢湾の海上交通を掌握していた友貞は信長に気取られることなく自らの配下を尾張の中枢へと侵入させ、調略活動に乗り出したのだ。標的に定めるは尾張守護・斯波義銀。信長に実権を奪われて今や傀儡となり果てた守護は権威を失った室町幕府の象徴である。この没落貴族が、我が物顔で尾張一国を差配する成り上がりの信長に対して、一つや二つ、思うところがない訳はないと踏んでいた。
――武衛さまが信長に立ち向かうならオモシロイが、全体、成功しなくたって構いやしねえさ。清洲が少しでも剣呑になれば、ワシらは随分やりやすい――
しかしながら、この策略が回り回って、織田信長という大名に新たな覚悟を促す結果になることなど、この時の友貞には知る由もない。
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
四代目 豊臣秀勝
克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。
読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。
史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。
秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。
小牧長久手で秀吉は勝てるのか?
朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか?
朝鮮征伐は行われるのか?
秀頼は生まれるのか。
秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?
【架空戦記】狂気の空母「浅間丸」逆境戦記
糸冬
歴史・時代
開戦劈頭の真珠湾攻撃にて、日本海軍は第三次攻撃によって港湾施設と燃料タンクを破壊し、さらには米空母「エンタープライズ」を撃沈する上々の滑り出しを見せた。
それから半年が経った昭和十七年(一九四二年)六月。三菱長崎造船所第三ドックに、一隻のフネが傷ついた船体を横たえていた。
かつて、「太平洋の女王」と称された、海軍輸送船「浅間丸」である。
ドーリットル空襲によってディーゼル機関を損傷した「浅間丸」は、史実においては船体が旧式化したため凍結された計画を復活させ、特設航空母艦として蘇ろうとしていたのだった。
※過去作「炎立つ真珠湾」と世界観を共有した内容となります。
同じアパートに住む年上未亡人美女は甘すぎる。
ピコサイクス
青春
大学生の翔太は、一人暮らしを始めたばかり。
真下の階に住むのは、落ち着いた色気と優しさを併せ持つ大人の女性・水無瀬紗夜。
引っ越しの挨拶で出会った瞬間、翔太は心を奪われてしまう。
偶然にもアルバイト先のスーパーで再会した彼女は、翔太をすぐに採用し、温かく仕事を教えてくれる存在だった。
ある日の仕事帰り、ふたりで過ごす時間が増えていき――そして気づけば紗夜の部屋でご飯をご馳走になるほど親密に。
優しくて穏やかで――その色気に触れるたび、翔太の心は揺れていく。
大人の女性と大学生、甘くちょっぴり刺激的な同居生活(?)がはじまる。
母の下着 タンスと洗濯籠の秘密
MisakiNonagase
青春
この物語は、思春期という複雑で繊細な時期を生きる少年の内面と、彼を取り巻く家族の静かなる絆を描いた作品です。
颯真(そうま)という一人の高校生の、ある「秘密」を通して、私たちは成長の過程で誰もが抱くかもしれない戸惑い、罪悪感、そしてそれらを包み込む家族の無言の理解に触れます。
物語は、現在の颯真と恋人・彩花との関係から、中学時代にさかのぼる形で展開されます。そこで明らかになるのは、彼がかつて母親の下着に対して抱いた抑えがたい好奇心と、それに伴う一連の行為です。それは彼自身が「歪んだ」と感じる過去の断片であり、深い恥ずかしさと自己嫌悪を伴う記憶です。
しかし、この物語の核心は、単なる過去の告白にはありません。むしろ、その行為に「気づいていたはず」の母親が、なぜ一言も問い詰めず、誰にも告げず、ただ静かに見守り続けたのか——という問いにこそあります。そこには、親子という関係を超えた、深い人間理解と、言葉にされない優しさが横たわっています。
センシティブな題材を、露骨な描写や扇情的な表現に頼ることなく、あくまで颯真の内省的な視点から丁寧に紡ぎ出しています。読者は、主人公の痛みと恥ずかしさを共有しながら、同時に、彼を破綻から救った「沈黙の救済」の重みと温かさを感じ取ることでしょう。
これは、一つの過ちと、その赦しについての物語です。また、成長とは時に恥ずかしい過去を背負いながら、他者の無償の寛容さによって初めて前を向けるようになる過程であること、そして家族の愛が最も深く現れるのは、時に何も言わない瞬間であることを、静かにしかし確かに伝える物語です。
どうか、登場人物たちの静かなる心の襞に寄り添いながら、ページをめくってください。
還暦の性 若い彼との恋愛模様
MisakiNonagase
恋愛
還暦を迎えた和子。保持する資格の更新講習で二十代後半の青年、健太に出会った。何気なくてLINE交換してメッセージをやりとりするうちに、胸が高鳴りはじめ、長年忘れていた恋心に花が咲く。
そんな還暦女性と二十代の青年の恋模様。
その後、結婚、そして永遠の別れまでを描いたストーリーです。
全7話
独裁者・武田信玄
いずもカリーシ
歴史・時代
国を、民を守るために、武田信玄は独裁者を目指す。
独裁国家が民主国家を数で上回っている現代だからこそ、この歴史物語はどこかに通じるものがあるかもしれません。
【第壱章 独裁者への階段】 純粋に国を、民を憂う思いが、粛清の嵐を巻き起こす
【第弐章 川中島合戦】 甲斐の虎と越後の龍、激突す
【第参章 戦争の黒幕】 京の都が、二人の英雄を不倶戴天の敵と成す
【第四章 織田信長の愛娘】 清廉潔白な人々が、武器商人への憎悪を燃やす
【最終章 西上作戦】 武田家を滅ぼす策略に抗うべく、信長と家康打倒を決断す
この小説は『大罪人の娘』を補完するものでもあります。
(前編が執筆終了していますが、後編の執筆に向けて修正中です))