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第四章 蛟竜雲雨
八
煌々と輝く火のなかへ、その一艘の小舟は進んでいく。櫂で水面をぱしりと叩いた男の影は舟の進む方角に反して伸び、まるで荷之上城に覆い迫ってくるかのようだ。
「オイ、服部ッ。なぜ、あの男を信長の元へ帰したッ。殺してやればよかったではないか。いや、今からでも遅くはない。弓を射かけよッ。このまま退き下がるわけには、――」
荷之上へ置き去られた義昭はようやく自らの境遇を理解した。明日からの希望の全くないことにまず取り乱し、傍らの友貞に縋りついたが、その要求は却下されてしまう。
「吉良さまよ。滅多ことを言ってはいけませんで。織田殿の軍勢が対岸に押し寄せよるんは、何も、アナタ方にお別れの挨拶を言いに来たわけじゃねえです。ありゃ『滝川が無事に帰って来おへんかったらどうなるかわかっとるな』ちゅう脅しじゃ」
本当に信長が攻め寄せて来るなどとは友貞も考えてはいない。また、何の権謀術数もない力攻めで一挙に落とされるほど荷之上城も軟ではない。信長とても、国内を制圧したとはいえ、未だ三河・美濃に大敵を抱えているのだから、自分たちとの消耗戦を戦うのは筋が悪いと考えられる。だが、しかし、それでも一益を殺すなどという判断は降せるはずがなかった。相手はあの織田信長だ。うつけと決めつけてかかって滅亡していった諸将を、友貞は知り過ぎていた。
怒っているのやら、泣いているのやら、尚も喚き続ける義昭とは対照に、義銀の態度はあまりに落ち着いていた。少なくとも友貞の目にはそう映った。
「義銀さま、心中並並ならぬでしょうが、寒うございましょう。一度、中へ入りゃあせ」
対岸の火を見つめる義銀の胸中を、その口ぶりとは裏腹に、友貞は判じかねていた。憎悪を滾らせ信長を呪うようにも、はたまた、あまりのことに際限ない哀しみに立ち尽くすようにも、見える。
次にかけるべき言葉を少ない語彙の中から友貞が探していると、義銀がぽつりと呟いた。
「いつか、今日のような日が来ると分かっていた。信長殿とはそういう人だ」
視線を少しも変えず、まだ、対岸を見ている。
「そういう人、ですかい。評判通りの、イヤ、評判では生ぬるいほどの大うつけだという風にしか、ワシの目には映りませんがね」
「大うつけかもしれない。けれども――」
「けれども、何です?」
「強かった。戦は」
薄暗い海岸にあって対岸の明かりに照らされる義銀の横顔が、友貞には女のように見えた。
「後先を考えられぬ者は喧嘩っ早い。時に、それが強いように見えることもありましょうが、天は見ておられますで。信長には、いずれ天罰が降りましょう」
「天、か――。父を殺した清洲織田氏の輩を信長殿が討ったとき、私はそこに天を見たような気がした。強かった。ただ、ひたすらに、強かった。この男が居れば今川など目ではないと本気で思った」
「乱世とは、武衛さまほどの人の目を欺くようだ」
「いいや。乱世が人を欺くのでは、きっとない。乱世を知らぬ者が己に欺かれるのだよ。どういうわけだか、私は、自分だけはこのような憂き目には合うことがないだろうと高をくくっていた。長い間ずっと、――周囲の人間が一人転がり落ちていく様を見ながら、だよ。
乱世と、信長殿と戦わなければならないと思った。けれども、それすら信長殿に仕組まれていたことだったのだな。私とは、信長殿にとって何だったのだろう、そう考えてしまう」
あまりに直截な心根を吐露された友貞は返す言葉を見つけられず、ただ聞き入ることしかできなかった。
「けれど、何故だろうかな。守護の座を追われ、何もかもを奪われた。織田信長という男が憎らしい、己の無力が恨めしい。その気持ちにウソはないが、何処か肩の荷が下りた気がする。
あの男の側には、前進はあっても、休息がない。興奮はあっても、幸福がない。そんなような気がする。ああいう男の下で不自由なく働ける者とは、一体、どんなだろう。私には想像もつかないのだ」
そう言って微笑をたたえる義銀の姿に、友貞はこの時ほど乱世の宿命を呪ったことはなかった。友貞自身も『戦えぬ者』だったからである。長い原始の、万民の万民に対する闘争を経て、人間は戦争を避ける術をあれこれと編み出してきたのではなかったか。その歴史が、何故いまになって戦争へ揺り戻されるのか。
燃え盛る対岸の炎を見ながら、友貞は思う。それが、そのまま口から漏れている。
「あんな火の海を魚のように泳ぎまわって――ありゃあ、人じゃねえ。鬼だ」
――
一益は出迎えた信長の前でわざとらしく跪いて顛末を告げる。
「斯波義銀、吉良義昭、石橋義忠らを荷之上城へお連れいたしました。これより、この尾張の地は殿のものにございます」
歓呼の嵐が夜の港を包み込む。戦の気配がないと見るや、目を覚ました町民たちまでもが合流し、織田勢の凱旋を彩った。
織田軍の多くの者たちにとって、この時の一益は英傑に違いなかった。
『自分もあんな活躍を遂げてみせる』
同じく流れ者として仕えた者の心にも、また、若い信長の小姓たちの心にも、競争の火を確かに灯した。
信長をまるで睨みつけるかのような一益のギラついた視線は、およそ臣下に相応しい敬虔さも、守護を自らの手で追いやったという引け目も、皆無だ。義銀たちに同情を寄せるような者は、この場には居ない。いや、そうした者は信長の軍に居ることが出来ないだろう。信長が家督を継いでから早七年という月日が過ぎていた。言うに短いが、その七年はほとんど反骨の戦に明け暮れていた。清洲衆、岩倉衆、今川、斎藤。ある敵は権威で、また、ある者は武威で、信長を抑えつけようとする上位者ばかりだ。死地に身を投じ、そして、これまで勝ってきた織田軍の精神は、すでに侍大将から一兵卒に至るまでの一人ひとりに至るまでが、旧来の権威などをものともしない鬼の軍勢だった。
「一益、大和を抜ける街道を整えておけ」
「ハ?」
声援に紛れさせるように、信長は一益にだけ聞こえるように次なる命を降した。
「折を見て、オレは上洛する」
昨年、信長が、伊勢国・坂氏の娘を側室に迎えた動機――それは、友貞が懸念するような侵略のためではなかった。すべては京への上洛路を押さえるため。斎藤高政によって通行がままならない美濃を避け、都へ登る唯一の道が、伊勢の関を越えた先の大和街道である。街道沿いの豪族に伝手を持つ坂という豪族と誼を通じて、信長はそれを確保したのである。
「オオ。なるほど。公方さまより尾張守護をいただく心算ですかな」
『斯波を追い出し、守護の座を強奪する』、そのやり口の鮮やかさに一益は思わず感嘆の声を漏らした。しかし、信長の真の望みはもっと純粋だった。
「そんなことは二の次だよ。キサマ、もっと鉄砲が欲しいとは思わんのか。堺に行けば、有金をすべてつぎ込める」
そう言って子どものように笑う信長に一益は武者震いした。一益は想像する。
『守護職を、「そんなこと」と言ってのける眼前の男が思い描く国とは、一体どんなものだろう。守護も、地頭も、あらゆる権威を必要せずに、ただ、力で以てのみ回る国の姿とは、一体どんなものだろう。尋常の支配者であれば、自らを既存の権威に位置づけ、その行いを正当化することに終始するだろう。けれども、こいつは違う。力を振りかざしながらも、ある時には権威を手放し、実効支配だけを問題なく続けるという術を心得ている。それは、まるで、旧来の権威をゆるやかに死滅させることの方に目的があるかのように』
あくまでもそれは一益が信長から発せられたと感じた波動に過ぎない。しかし、後年、滝川一益のほか、羽柴秀吉、明智光秀といった流れ者が織田家中において並々ならぬ頭角を現すのは、果たして偶然だったのか。
翌・永禄二年(一五五九)一月、後詰無き籠城を続けていた岩倉城が遂に陥落する。国内の敵対者を片付けた信長は、信頼する八十の側近と、五〇〇の精鋭を引き連れて、静かに尾張を出立、上洛した。
一益を含め限られた者にのみ伝えられた俊足の行軍だったが、その動きを目敏く見張る者が居た。
「ほう。信長はやはり上洛したかね」
美濃の斎藤高政である。
「御内書が方々に飛んでいるということは知っていたが、――公方さまも節操の無いことだ、織田信長にまで頼られることはなかろうに」
「しかし、そう懸念されていたからこそ、殿は網を張っておられたのでしょう。そして、それにかかった。思った通りではないですか。もっと喜んではいかがです」
守就が子どもをからかうように茶々を入れる。
「マア、そうなのだがね」
室町幕府代十三代将軍・足利義輝は上洛を促す書状を各地の有力者に書いて飛ばしていた。畿内に長く争っていた三好長慶との和睦を成した今、誰でも良い、将軍の権威快復のために力強い各地の支配者を一人でも多く味方につけようと筆を振るっていた。高政は自らも上洛の準備を進めつつ、同時に、尾張の信長を警戒していた。自分の留守に美濃を襲われては堪らない。だが、蓋を開けてみれば信長が先にさっさと上洛してしまったのだから、やや意表を突かれたと言っていい。
「それに、信長は斯波さまを追放したという話じゃないですか」
「何が言いたい」
「アレじゃあ、まるで斎藤道三だ」
「首を刎ねるぞ」
「ワハハ。コワイことです。けれど、心の内にあることは口に出した方が良いですよ。無駄に心に留め置けば、後で必要以上に気になってしまうものだ」
高政はつまらなさそうに頭を掻いた。
「お前、あの小僧が公方さまに会って何をするか、分かるか」
「さあ、サッパリ。予測がつかんことを考えるのは無駄でしょう」
「お前は賢いね」
「ひとまず尾張を攻められますか」
「お前は大馬鹿だね。公方さま肝入りの滅私奉公の上洛要請だよ。その隙を狙って侵略戦争などしてみなさい、公方さまからお叱りを受けるのは私だよ。信長は、それが分かっているのか、いないのか、知らないが、とにかくあれやこれやと頭を使わせやがる。気に喰わないな」
父・道三を屠った高政はしばらくの間、「范可」と名乗った。唐の国にあって、実父の首を斬り落とすことで孝行を成した男の名前に基づくらしいのだが、本当のところは誰も知らない。さらに、永禄元年(一五五八年)には、高政は将軍・義輝より一色姓を賜った。これは、道三はおろか長らく美濃守護を務めた土岐氏を優に凌ぐ家格である。つまりは、高政はそれほどの彫心鏤骨の末にようやく美濃の頂点に君臨したのだ。もはや、彼を父殺しで揶揄する声は無い。その巨躯はいよいよ勇ましく、向かうところが敵が無いようにすら見える。
ところが、そうして尾張へ目をやってみる。あの織田信長が尾張守護の追放などという好き勝手をやった挙句、その足で、今度は上洛までしでかすつもりらしい。高政から言わせれば、あまりに奔放が過ぎて困る。何故、困る? 自らの手で屠った父の影がチラついて離れないからだ。
「では、どうされますか。黙って見ていますか」
「ウウン、そうだな――」
高政の降した結論はあまりにも安易で、そして、急進的だった。
「殺そう。わからんときは、殺す。これに限るよ」
信長上洛のすぐ後、高政はすぐに六人の配下を京へ向けて出立させた。彼らは関ヶ原を越えて琵琶湖を渡り、一路、京を目指した。信長を暗殺するためであった。
「オイ、服部ッ。なぜ、あの男を信長の元へ帰したッ。殺してやればよかったではないか。いや、今からでも遅くはない。弓を射かけよッ。このまま退き下がるわけには、――」
荷之上へ置き去られた義昭はようやく自らの境遇を理解した。明日からの希望の全くないことにまず取り乱し、傍らの友貞に縋りついたが、その要求は却下されてしまう。
「吉良さまよ。滅多ことを言ってはいけませんで。織田殿の軍勢が対岸に押し寄せよるんは、何も、アナタ方にお別れの挨拶を言いに来たわけじゃねえです。ありゃ『滝川が無事に帰って来おへんかったらどうなるかわかっとるな』ちゅう脅しじゃ」
本当に信長が攻め寄せて来るなどとは友貞も考えてはいない。また、何の権謀術数もない力攻めで一挙に落とされるほど荷之上城も軟ではない。信長とても、国内を制圧したとはいえ、未だ三河・美濃に大敵を抱えているのだから、自分たちとの消耗戦を戦うのは筋が悪いと考えられる。だが、しかし、それでも一益を殺すなどという判断は降せるはずがなかった。相手はあの織田信長だ。うつけと決めつけてかかって滅亡していった諸将を、友貞は知り過ぎていた。
怒っているのやら、泣いているのやら、尚も喚き続ける義昭とは対照に、義銀の態度はあまりに落ち着いていた。少なくとも友貞の目にはそう映った。
「義銀さま、心中並並ならぬでしょうが、寒うございましょう。一度、中へ入りゃあせ」
対岸の火を見つめる義銀の胸中を、その口ぶりとは裏腹に、友貞は判じかねていた。憎悪を滾らせ信長を呪うようにも、はたまた、あまりのことに際限ない哀しみに立ち尽くすようにも、見える。
次にかけるべき言葉を少ない語彙の中から友貞が探していると、義銀がぽつりと呟いた。
「いつか、今日のような日が来ると分かっていた。信長殿とはそういう人だ」
視線を少しも変えず、まだ、対岸を見ている。
「そういう人、ですかい。評判通りの、イヤ、評判では生ぬるいほどの大うつけだという風にしか、ワシの目には映りませんがね」
「大うつけかもしれない。けれども――」
「けれども、何です?」
「強かった。戦は」
薄暗い海岸にあって対岸の明かりに照らされる義銀の横顔が、友貞には女のように見えた。
「後先を考えられぬ者は喧嘩っ早い。時に、それが強いように見えることもありましょうが、天は見ておられますで。信長には、いずれ天罰が降りましょう」
「天、か――。父を殺した清洲織田氏の輩を信長殿が討ったとき、私はそこに天を見たような気がした。強かった。ただ、ひたすらに、強かった。この男が居れば今川など目ではないと本気で思った」
「乱世とは、武衛さまほどの人の目を欺くようだ」
「いいや。乱世が人を欺くのでは、きっとない。乱世を知らぬ者が己に欺かれるのだよ。どういうわけだか、私は、自分だけはこのような憂き目には合うことがないだろうと高をくくっていた。長い間ずっと、――周囲の人間が一人転がり落ちていく様を見ながら、だよ。
乱世と、信長殿と戦わなければならないと思った。けれども、それすら信長殿に仕組まれていたことだったのだな。私とは、信長殿にとって何だったのだろう、そう考えてしまう」
あまりに直截な心根を吐露された友貞は返す言葉を見つけられず、ただ聞き入ることしかできなかった。
「けれど、何故だろうかな。守護の座を追われ、何もかもを奪われた。織田信長という男が憎らしい、己の無力が恨めしい。その気持ちにウソはないが、何処か肩の荷が下りた気がする。
あの男の側には、前進はあっても、休息がない。興奮はあっても、幸福がない。そんなような気がする。ああいう男の下で不自由なく働ける者とは、一体、どんなだろう。私には想像もつかないのだ」
そう言って微笑をたたえる義銀の姿に、友貞はこの時ほど乱世の宿命を呪ったことはなかった。友貞自身も『戦えぬ者』だったからである。長い原始の、万民の万民に対する闘争を経て、人間は戦争を避ける術をあれこれと編み出してきたのではなかったか。その歴史が、何故いまになって戦争へ揺り戻されるのか。
燃え盛る対岸の炎を見ながら、友貞は思う。それが、そのまま口から漏れている。
「あんな火の海を魚のように泳ぎまわって――ありゃあ、人じゃねえ。鬼だ」
――
一益は出迎えた信長の前でわざとらしく跪いて顛末を告げる。
「斯波義銀、吉良義昭、石橋義忠らを荷之上城へお連れいたしました。これより、この尾張の地は殿のものにございます」
歓呼の嵐が夜の港を包み込む。戦の気配がないと見るや、目を覚ました町民たちまでもが合流し、織田勢の凱旋を彩った。
織田軍の多くの者たちにとって、この時の一益は英傑に違いなかった。
『自分もあんな活躍を遂げてみせる』
同じく流れ者として仕えた者の心にも、また、若い信長の小姓たちの心にも、競争の火を確かに灯した。
信長をまるで睨みつけるかのような一益のギラついた視線は、およそ臣下に相応しい敬虔さも、守護を自らの手で追いやったという引け目も、皆無だ。義銀たちに同情を寄せるような者は、この場には居ない。いや、そうした者は信長の軍に居ることが出来ないだろう。信長が家督を継いでから早七年という月日が過ぎていた。言うに短いが、その七年はほとんど反骨の戦に明け暮れていた。清洲衆、岩倉衆、今川、斎藤。ある敵は権威で、また、ある者は武威で、信長を抑えつけようとする上位者ばかりだ。死地に身を投じ、そして、これまで勝ってきた織田軍の精神は、すでに侍大将から一兵卒に至るまでの一人ひとりに至るまでが、旧来の権威などをものともしない鬼の軍勢だった。
「一益、大和を抜ける街道を整えておけ」
「ハ?」
声援に紛れさせるように、信長は一益にだけ聞こえるように次なる命を降した。
「折を見て、オレは上洛する」
昨年、信長が、伊勢国・坂氏の娘を側室に迎えた動機――それは、友貞が懸念するような侵略のためではなかった。すべては京への上洛路を押さえるため。斎藤高政によって通行がままならない美濃を避け、都へ登る唯一の道が、伊勢の関を越えた先の大和街道である。街道沿いの豪族に伝手を持つ坂という豪族と誼を通じて、信長はそれを確保したのである。
「オオ。なるほど。公方さまより尾張守護をいただく心算ですかな」
『斯波を追い出し、守護の座を強奪する』、そのやり口の鮮やかさに一益は思わず感嘆の声を漏らした。しかし、信長の真の望みはもっと純粋だった。
「そんなことは二の次だよ。キサマ、もっと鉄砲が欲しいとは思わんのか。堺に行けば、有金をすべてつぎ込める」
そう言って子どものように笑う信長に一益は武者震いした。一益は想像する。
『守護職を、「そんなこと」と言ってのける眼前の男が思い描く国とは、一体どんなものだろう。守護も、地頭も、あらゆる権威を必要せずに、ただ、力で以てのみ回る国の姿とは、一体どんなものだろう。尋常の支配者であれば、自らを既存の権威に位置づけ、その行いを正当化することに終始するだろう。けれども、こいつは違う。力を振りかざしながらも、ある時には権威を手放し、実効支配だけを問題なく続けるという術を心得ている。それは、まるで、旧来の権威をゆるやかに死滅させることの方に目的があるかのように』
あくまでもそれは一益が信長から発せられたと感じた波動に過ぎない。しかし、後年、滝川一益のほか、羽柴秀吉、明智光秀といった流れ者が織田家中において並々ならぬ頭角を現すのは、果たして偶然だったのか。
翌・永禄二年(一五五九)一月、後詰無き籠城を続けていた岩倉城が遂に陥落する。国内の敵対者を片付けた信長は、信頼する八十の側近と、五〇〇の精鋭を引き連れて、静かに尾張を出立、上洛した。
一益を含め限られた者にのみ伝えられた俊足の行軍だったが、その動きを目敏く見張る者が居た。
「ほう。信長はやはり上洛したかね」
美濃の斎藤高政である。
「御内書が方々に飛んでいるということは知っていたが、――公方さまも節操の無いことだ、織田信長にまで頼られることはなかろうに」
「しかし、そう懸念されていたからこそ、殿は網を張っておられたのでしょう。そして、それにかかった。思った通りではないですか。もっと喜んではいかがです」
守就が子どもをからかうように茶々を入れる。
「マア、そうなのだがね」
室町幕府代十三代将軍・足利義輝は上洛を促す書状を各地の有力者に書いて飛ばしていた。畿内に長く争っていた三好長慶との和睦を成した今、誰でも良い、将軍の権威快復のために力強い各地の支配者を一人でも多く味方につけようと筆を振るっていた。高政は自らも上洛の準備を進めつつ、同時に、尾張の信長を警戒していた。自分の留守に美濃を襲われては堪らない。だが、蓋を開けてみれば信長が先にさっさと上洛してしまったのだから、やや意表を突かれたと言っていい。
「それに、信長は斯波さまを追放したという話じゃないですか」
「何が言いたい」
「アレじゃあ、まるで斎藤道三だ」
「首を刎ねるぞ」
「ワハハ。コワイことです。けれど、心の内にあることは口に出した方が良いですよ。無駄に心に留め置けば、後で必要以上に気になってしまうものだ」
高政はつまらなさそうに頭を掻いた。
「お前、あの小僧が公方さまに会って何をするか、分かるか」
「さあ、サッパリ。予測がつかんことを考えるのは無駄でしょう」
「お前は賢いね」
「ひとまず尾張を攻められますか」
「お前は大馬鹿だね。公方さま肝入りの滅私奉公の上洛要請だよ。その隙を狙って侵略戦争などしてみなさい、公方さまからお叱りを受けるのは私だよ。信長は、それが分かっているのか、いないのか、知らないが、とにかくあれやこれやと頭を使わせやがる。気に喰わないな」
父・道三を屠った高政はしばらくの間、「范可」と名乗った。唐の国にあって、実父の首を斬り落とすことで孝行を成した男の名前に基づくらしいのだが、本当のところは誰も知らない。さらに、永禄元年(一五五八年)には、高政は将軍・義輝より一色姓を賜った。これは、道三はおろか長らく美濃守護を務めた土岐氏を優に凌ぐ家格である。つまりは、高政はそれほどの彫心鏤骨の末にようやく美濃の頂点に君臨したのだ。もはや、彼を父殺しで揶揄する声は無い。その巨躯はいよいよ勇ましく、向かうところが敵が無いようにすら見える。
ところが、そうして尾張へ目をやってみる。あの織田信長が尾張守護の追放などという好き勝手をやった挙句、その足で、今度は上洛までしでかすつもりらしい。高政から言わせれば、あまりに奔放が過ぎて困る。何故、困る? 自らの手で屠った父の影がチラついて離れないからだ。
「では、どうされますか。黙って見ていますか」
「ウウン、そうだな――」
高政の降した結論はあまりにも安易で、そして、急進的だった。
「殺そう。わからんときは、殺す。これに限るよ」
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この小説は『大罪人の娘』を補完するものでもあります。
(前編が執筆終了していますが、後編の執筆に向けて修正中です))