織田信長 -尾州払暁-

藪から犬

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第四章 蛟竜雲雨

十二

「すべては私の力不足。申し開きもありません」
 元康は義元の前に額をついて詫びた。その表情は知る由もないが声色は冷たく一定の調子を保っていた。
「面を上げよ。今日、そなたを駿府で呼んだのはそれを罰するためではない。むしろ恩賞を遣わすためよ」
 義元はそう言って元康に太刀を下賜した。所作は悠然としている。皮肉を弄してなじろうというのでもない。すべては真心だった。
「信長は、緒川衆を使ってそなたを石加瀬に誘い出し自らはその隙を突いて高橋郡の諸城を攻めた。一見すれば、彼奴は目的を達したかのように見える。が、しかし、それを受けたそなたの行動は信長の想定をも超えていたことだろう。まさか、などとは、信長も考えなかったであろう。見事よ」
 高橋郡が灰塵に帰しても元康は救援に向かわなかった。それどころか、退却する素振りで油断を誘い信元軍を打ちのめし、その余生を駆って大高城へ到達した。信長は元康が今に高橋郡に迎撃に来るだろうと早々に兵を退いたが、まさにその裏をかいたのである。
「二兎を追う者は一兎も得られぬ。どころか、戦に際してすべてを失う。そなたはそれを知っていたな。以後、私には隠し事などするな。おかげで大高城はもう半年は持とうが、――しかし、山口教継は死んでもなお手を煩わせてくれる困った男よ。危険な任をそなたに幾度もさせるのは心苦しいな」
「勿体なきお言葉。すべてわかっております。かの城を餓え死にさせては鳴海の士気に関わりましょう」
「聡いな。元康」
 雨が降り出していた。
「信長は今に鳴海、大高の城にも攻め来るでしょう」
「信長にしてみれば当然。鳴海城、大高城を落とせばいよいよ我らは尾張国から駆逐されよう。そなたはこう言いたいのだろう、『もはや信長の攻勢は、松平勢だけでは食い止めきれない』、と」
「何もかも、太夫さまにはお見通しにございます」
「あと一年だ。あと一年を忍び堪えよ。大高城、鳴海城の命脈を保ち、私とそなたで三河を平らかにいたす。鳴海城の岡部元信、大高城の朝比奈輝勝にも、すでにそう伝えてある。あの者たちならば必ず城を守り通す。尾張へ攻め入るはそれからよ。無理を押しても、何としても、後顧の憂いだけは断っておかねばならぬ」
 尾三国境地帯では徐々に織田方が優勢になりつつある。しかし、義元はまだ思うように動けない。緒川城の水野信元を筆頭に反今川の国人たちがわずかながら三河周辺には蠢動していた。
「元康よ。水野信元を調略できまいか」
 それは元康にとって意外な命令だった。信元ほど義元を侮った者は居ない。三河にほど近い緒川に領地を持ちながら、かつて村木砦で信長と共に寡兵で今川勢に戦いを挑んできた武辺者。調略に応じる余地も、また、義元が信元を赦す義理も、元康には無いように思えた。
「この期に及び、こちらへ付くものでしょうか。よしんば味方についたとしても、私は伯父に信を置けませぬ」
 視線を逸らしながら不平を口にする元康の姿は、この時だけ、年相応に少年の面影を宿していた。義元はそれを好ましく思った。元康のなかに身内への情を見たからである。そして、その情こそ、義元が元康を自らの一門に迎え入れた最大の理由でもあった。
「こう見ることができはしないか、元康よ。『此度の合戦で水野信元は信長に村木砦の借りを返した。これで、もう、織田への義理立ては済んだ』と。刈谷城の弟・信近と甥であるそなたが言葉を尽くせば、これは靡かぬ理由の方が少ないと、私には見える。今川に与したなら知多郡の一切は安堵いたそう。
 そなたの度重なる攻勢で、信元の兵は疲弊していよう。加えて此度の戦に至っては、緒川衆には何の得もなかったはず。『信長の利己的な版図拡大のための戦の囮となっただけだ』と、そう囁いてやるがいい」
 諸城を焼かれ、敵陣に据えられた味方の拠点が窮地に陥っていても、義元は対局を見失わない。大軍を擁しながら悪戯に兵を小出しにして消耗することすらない。ただ、着実な手段で信長の兵力をこそぎ取りにかかる。
――私は、戦場で敵を倒すことばかりを考えていた。在りし日の思い出に憑かれ、織田信長という男を過剰に恐れていたのかもしれないな――
「承知しました。緒川城・水野信元の調略は、この松平元康がしかと成し遂げて見せまする――」
「ふふ。なに、縮こまることはない。元康よ。乱世とは、。それだけのことだ。弱者は、我らが自らの強さに目を眩ませ足を踏み外すのを心待ちにしていようからな」
 その言葉は、かつて義元の腹心を務め、また、幼年の元康の養育に当たったかの太原崇孚雪斎の言葉だった。

――

 およそ二十余年前・天文五年(一五三六年)、今川家は揺れていた。
 今川家第十代当主にして義元の兄である氏輝うじてるは生来より病弱だった。北は甲斐の武田、東は相模の北条と領国を接し、さらに西・三河に目を向ければ、元康の祖父・松平清康がその大胆不敵に勢力を拡大していた。若年の氏輝は苦慮の末に三河を放置し、甲斐に攻め入ったが、これも芳しい戦火は上げられなかった。
 戦が長期戦の様相を帯び始めると、氏輝は、京の仏門に入っていた英才として知られる弟と、その師となっていた名僧を駿府に呼び戻した。他でもない、後の今川義元(当時は栴岳承芳せんがくしょうほうといった)その人と、太原雪斎であった。
「兄上はいつまで武田などと戦うつもりだ。攻めるなら三河じゃないか。そうは思わぬか、雪斎」
「三河は三河で複雑な土地柄、一筋縄では行きますまいが、それでは、甲斐、相模は何といたしますか」
「片方を立てれば片方が立たぬと言うのだろう。だが、もう数年来、同じことをずっとしている。武田も北条も馬鹿ではない。倦む頃合いではないのか。どうだ、三国で手を結び、それぞれの侵攻すすむべき道をこの今川が諭してやるというのは」
「ワハハハハ。今川、武田、北条の三国で和睦すると申されますかな。これはまた大胆なお考えですな」
「いけないか、大胆では」
「いやいや、結構。大志の元に多く小事を成す。これが人のうえに立つ者の務めにございましょう」
「私は出家した身だ。上には立たぬ。けれども、当主というのも不幸なものだとつくづく思うのだ。兄上は、与えられなかったのだろう。私のように、お前と一心に勉学に励むときを」
 ところが、事態は急転直下の動きを見せる。氏輝が二十四の若さで病没したのである。嫡子は居なかった。家督は次男の彦五郎に継承されることと決まっていたが、何と、この彦五郎までもが氏輝の後を追うかのように急逝してしまう。かくして家督は、三男の義元に手にあれよあれよと転がり落ちてくる。
「何が起こるか、わからないものだな、まったく。誰も彼もが当主の座に就きたいなどと思っている訳ではないが―ー」
「それに、幸先からして、幾分血の匂いがいたしますぞ――」
 家中には、京から舞い戻り還俗したばかりの義元の家督継承に反発する者たちがいた。腹違いの兄である玄広恵探げんこうえたんと、その同族にして重臣の福島正成くしままさしげの一派である。恵探らは家督の簒奪を目論み今川館に攻め寄せたが、驚くべきことに、義元は初陣ながらこれを物ともせずに押し返した。自ら弓を取り敵兵を射落とす。大将の雄姿に味方は大いに興奮したが、ただ雪斎だけが不服だった。
「野犬のように戦いまわるだけでは、戦は長引きましょう」
「お前に学んだ武勇の腕がこれを私に成させたものだ。いけないか」
「いけませんな」
 雪斎は座を正して義元に向かい、粛々と説く。
「あなたさまは、お強い。そして、強者は腕力のままに敵をねじ伏せる。これは紛うことなき乱世の真の姿でござる。それは誰にも否定できませぬ。けれども、イイヤ、だからこそ、強者は常にその先を見通して戦わなければならない」
 義元は弓の弦を見つめながら、空に吸い込まれそうな声で、しかし、確かに訊ねた。
「では、どうすればいい」
「強さとは、即ち、あらゆる余地をもたらすもの。あなたさまは、家格も、才知も、武勇も、運も、およそ人の羨むすべてのものを持ってこの世に生を受けられた。だからこそ、努めてその先を見なければ、それらは宝の持ち腐れとなりましょう。自らの女房、子ども、兄弟を守るためだけに槍を振るう、足元の事を成すだけで精一杯である末端の兵には出来ぬことを、あなたさまは成さなければならない。わかりますかな。勝ち戦に際しては、さらに兵を失わぬ工夫を常に一番に考え、試み、ここに、今川家の新当主がいずれは東海をも統べ得る英傑の器であることを示してやらねばなりませぬ」
 雪斎の諫言に義元は答えを得た。
「おもしろい。やってみせよう」
 義元は北条に少数の援軍を乞い、そして、駿河から甲斐へ至る経路を悉く遮断した。お家騒動に必ずと言って良いほど付きまとう外部勢力の介入を、可能性から根絶やしにしたのだ。恵探はしばらく花倉はなぐら城に籠城を続けていたが、やがて勝機のないことを悟って開城。ほどなく自害の結末を遂げた。

「目前の勝利に飛びつくことは、あなたさまの格を一つ下げること。勝利のすぐそばには、さらに未来を見越した布石がいくつも転がっていましょう。あなたさまは、それを選び、掴み取るための優れた眼を持っておられるのですから。良いですか、強者ほど思慮深く動かなければなりませぬ」

――

 義元は小さく息をついてから、にこりと笑った。
「緒川城の水野信元を押さえた暁には、二万余の大軍を以て大高城の救援に向かう。信長という野犬の牙の鋭さは認めてやろう。だが、我らはただ着実に事を成すのみである。油断はない。あらゆる手を尽くして織田信長を叩き潰してくれよう」
 これより一年の歳月をかけて、元康は鳴海城・大高城の補給に奔走しながら信元の調略を試み、義元は織田方の付砦を撃滅するための軍勢の徴募にかかった。
 永禄二年(一五五九年)、桶狭間の戦いの前年のことであった。
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