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白鯨

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四方八方見渡すかぎり、海と空以外は何もない。雲もないし、鳥すら見かけない。風も凪いでいる。そんな絶海に一隻の小舟が漂っていた。セミロングの黒髪を後ろで束ねた、若い女性が乗っている。小舟といっても、公園の池に浮いてそうな手漕ぎボートだ。先ほどからしきりにため息ばかりついている。
「嫌な予感しかしないわ…。はぁ…。」

ギシギシ…。

この音は…。
遠くにクジラの潮吹きが見えた。

∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

窓から見える空は一面深い蒼色だった。雲ひとつない。室内を見渡すと、木造の床や壁は酷く傷んでおり、天井には穴が空いている。手元にあった舵はボロボロで全く動かない。どうやら船の操縦室らしい。窓の外には、優雅に泳ぐウミガメが横切っていく。
「カメ…?」
体は軽く、ふわりと宙を舞った。ガラスのない窓からゆっくりと外に出た。船は半分砂に埋もれていた。帆は無く、メインマストは根元から折れている。美しい桃色の珊瑚礁。稚魚の群れがデッキで舞っている。船体に空いた穴からはウツボが顔を出していた。
「沈没船だ…。」
リクはふわふわとデッキに降りると、ボロボロになったロッキンチェアにもたれ、のんびりと海面を見上げた。

∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

突然小舟は女性もろとも宙に舞った。回転する視界に一瞬、とてつもなくデカイ真っ白な尻尾が沈んでいく姿が映った。小舟は木っ端微塵に霧散した。クジラだ、なんとか保った意識の中で確認した。尻尾の一撃を食らったんだ…、理解するまでに数秒かかった。着水すると、落下の勢いのまま女性の体は沈んでいく。そこに大口を開いた白鯨が迫っていた。
「影の次は、クジラかよ…!」

∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

そよそよと揺れる海藻に小魚が見え隠れしている。タツノオトシゴに、クマノミ、ヒトデ、葉っぱみたいたな魚もいた。空にはイワシの大群が群れて泳ぎ、クラゲは風に舞う雪のようにふわふわと漂う。ロッキンチェアはキィキィと、味のある音を出す。不意に口からこぼれた空気は、シャボン玉のように空へと登って行く。餌か何かと間違えたのか、魚が寄っては去って行く。そんな魚影に紛れて猛スピードで泳ぐ人影が、流れ星のように横切って行く。戦艦のような白鯨がその後を追いかけていた。
「…あれは…マキだな。うん。」
急いで操舵室に戻ると、ボロボロで全く動かない舵を蹴っ飛ばした。
「動けや!」

ギギギッ…。

船体は砂埃を舞い上げながら旋回した。

∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

高校にはプールが無かったから、おそらく中学生以来だ。まさか二十歳になって全力のクロールをするとは、夢にも思わなかった。
全開に開かれた口はブラックホールのように真っ暗で、もう後方数メートルにまで迫っている。まるで獲物を弄ぶかのように、絶妙な距離を保ったま追ってくる。

ギシギシギシ。

運命の歯車は軽快に回る、回る。
前方にはいつの間にか陸地が見えてきた。せめて浅瀬まで逃げ切ればなんとか助かりそうだが、クジラも馬鹿ではなかった。ぐっと加速すると、背後から迫る闇は一気にマキを飲み込んだ。

∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

「おぉ?食われたんじゃね?間に合え!」
白鯨の真下まで移動した沈没船は、一気に上昇していく。獲物を得た白鯨はルンルン気分だ。リズムよく尻尾を振っている。鋭く折れた船首を、白鯨の腹へ狙い定めた。

ギシ、ギギギ…。

海面がみるみるうちに迫ってくる。スピードに耐えきれず、船体はギシギシと悲鳴をあげる。

ギギギッ!

「いっけぇぇぇえ!」

∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

「死んだ…の?」
常闇の中、上も下もわからない。間違いなくクジラに食べられた。きっといつもの悪い夢だ。覚めろ、覚めろ、何度も叫んだ。
「リク…。」
刹那、凄まじい爆発音とともに、空間が裂けた。そこから眩い光が射し込む。咄嗟に腕で顔を守り、強くまぶたを閉じた。マキの体は、その空間の裂け目へ吸い込まれていった。
「クジラが、口を開けた…!?」

…ギギ、バキッ!

目を開けると、雲ひとつない青空に青い海。ジェットコースターに乗った時のような、胃が浮く感じが、嫌な予感を的中させる。空中に放たれたマキは回転しながら落下していく。
「今日こんなんばっかりぃぃぃい!」
ぐるぐる回る視界の端に、血しぶきを上げながら落下するクジラをとらえた。その腹には木の断片が深々と突き刺さっていた。
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