12 / 40
第二章 蕾ト穢レ
第11話 斑と蛇
しおりを挟む*
ある日の事。
緑色のコートを纏った、立ち姿の美しい女性が門をくぐった。
私に気付いた彼女がふいと会釈をする。よくよく見れば額が仄かに赤く輝いている。やはり、人のようだが人ではないらしい。
「こんにちは」
落ち着いた、やや低い、そして抑揚の乏しい、ぼそぼそとした、しかし女性らしい声音だった。
「斑の竜胆が来たと、伯王にお伝え願えませんでしょうか」
「わかりました。こちらでしばらくお持ちください」
「ありがとうございます」
奥へ呼びに行くと、伯王は黙って頷き玄関へと向かった。竜胆、というその女性に丁寧な会釈をすると、彼は微かに微笑んだ。珍しい物を見た。伯王が他人に愛想を見せるとは。その隣に立ち、彼女を居間へと誘ってゆく。
――ここへきてからどれ程の時がたったかもう記憶も定かではないが、彼がこんな風に女性を扱うのをはじめてみた。
わずかに、ちり、と胸が不快になった。
客人がある時は、私は家内にいないようにしていた。取り立ててそうしろと言われた訳ではないのだけれど、何となくそうした。恐らく、居辛かったのだと思う。この家で、自分と伯王との暮らしが長くなればなるほど、私の知らぬ伯王の知人が訪ねてきて、私の知らない伯王がそこに立ち現れる事が、あやふやに不安を覚えさせて堪らなかった。
門を出た先に、小さなお地蔵様らしきものがある。
小さな社に覆われていて、もう、どう彫刻されていたのか、その表情も見いだせないような、お地蔵様らしき形をしていたと思しき、何か。そんなあいまいなその石の塊の前で、そっと屈みこむ。
振袖が地面を這う。
どういう不可思議なのか、やはりいくら地面を擦ろうが汚れない。人の世の誂えではないのだから、当然かも知れない。袖に流れる流水が、さらさらと音を立てている。鳥は飛び交い、また元の枝へと帰ってくる。花は散る。流水に巻かれて、どこか遠くへと流れて行く。この振袖の果てには、限りがないのだろうか。
そうやって時間を潰していると、ふと蛇が道を横切っているのが見えた。――いや、横切ってはいないか。動いてはいない。単純に、道幅いっぱいに寝そべっているのだ。
「そんなところでそんなふうにしていると、車に轢かれてしまいますよ」
声を掛けてからおかしくなった。こちらに車は走らない。よくて人力があるくらいだ。それも引くのはやはり人ではない。大抵牛頭のようなものが引いている。稀に馬頭もいる。
蛇は、静かにこちらを見ると、またぷいと真っ直ぐに横たわった。
「人の癖が根深い」
思ったよりも高い声がゆったりと、ねっとりとそう言う。
「癖、ですか」
「これは洗うのに時間が掛かる」
そういうと、蛇はぬめるようにその身をくねらせて、今度こそ本当に道を横切り、草原の中へ消えていった。
褒められてはいないことだけは理解できた。
竜胆という女性の滞在時間は半刻程だった。
門で頭を下げて見送る。辻を行く時に、竜胆という女性はゆっくりと振り返り、あっさりとした所作で頭を垂れた。そしてその身を消した。
後味の残らない、不思議な印象の女性だった。
蛇ののたくった様の方が、余程記憶に染みた。
「何処に行っていた」
ふと、頭上から声が降る。伯王がいつの間にか隣に並んでいた。見上げる。視線は竜胆が消えた辺りに向けられたままだ。それが、やはり少し肌をひりつかせた。
心地よくは、なかった。
「そこのお地蔵様を見ていました。それから蛇を」
「蛇」
「文句らしきことを言われました。私は蛇の眼から見ても駄目なのでしょう」
ほう、と薄い溜息が頭上から降り注ぐ。
「貴女は、いつまで――」
伯王が小さく呟く。しかしそれ以上何かを続けて紡ごうとはしなかった。それで、不安になった。
「私は、何か誤っているのでしょうか」
「貴女が自身で見出さねば、意味がない」
叱っている風でも、怒っている風でもない。ただ微かに侘しそうな物言いに、私は却って、酷く責められている気がした。あれは誰だったか。女性だった気がする。そんな風に誰かをがっかりさせた事があった。でももう、それが誰の事だったかは思い出せない。
これは洗うのに時間が掛かる。
掛かっているのかも知れない。洗われつつあるのかも知れない。
私は、人であった私は、少しずつ溶け出している。
そんな心持ちになって、
突然――米俵をぶちまけてその中に全身で埋もれたいような気持ちになった。そうすれば、この取り留めもない、ぽっかりとあいた空隙に手触りが生まれるのではないかと、そんな気がしたのだ。
0
あなたにおすすめの小説
後宮の胡蝶 ~皇帝陛下の秘密の妃~
菱沼あゆ
キャラ文芸
突然の譲位により、若き皇帝となった苑楊は封印されているはずの宮殿で女官らしき娘、洋蘭と出会う。
洋蘭はこの宮殿の牢に住む老人の世話をしているのだと言う。
天女のごとき外見と豊富な知識を持つ洋蘭に心惹かれはじめる苑楊だったが。
洋蘭はまったく思い通りにならないうえに、なにかが怪しい女だった――。
中華後宮ラブコメディ。
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
裏切りの代償
中岡 始
キャラ文芸
かつて夫と共に立ち上げたベンチャー企業「ネクサスラボ」。奏は結婚を機に経営の第一線を退き、専業主婦として家庭を支えてきた。しかし、平穏だった生活は夫・尚紀の裏切りによって一変する。彼の部下であり不倫相手の優美が、会社を混乱に陥れつつあったのだ。
尚紀の冷たい態度と優美の挑発に苦しむ中、奏は再び経営者としての力を取り戻す決意をする。裏切りの証拠を集め、かつての仲間や信頼できる協力者たちと連携しながら、会社を立て直すための計画を進める奏。だが、それは尚紀と優美の野望を徹底的に打ち砕く覚悟でもあった。
取締役会での対決、揺れる社内外の信頼、そして壊れた夫婦の絆の果てに待つのは――。
自分の誇りと未来を取り戻すため、すべてを賭けて挑む奏の闘い。復讐の果てに見える新たな希望と、繊細な人間ドラマが交錯する物語がここに。
課長と私のほのぼの婚
藤谷 郁
恋愛
冬美が結婚したのは十も離れた年上男性。
舘林陽一35歳。
仕事はできるが、ちょっと変わった人と噂される彼は他部署の課長さん。
ひょんなことから交際が始まり、5か月後の秋、気がつけば夫婦になっていた。
※他サイトにも投稿。
※一部写真は写真ACさまよりお借りしています。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
復讐のための五つの方法
炭田おと
恋愛
皇后として皇帝カエキリウスのもとに嫁いだイネスは、カエキリウスに愛人ルジェナがいることを知った。皇宮ではルジェナが権威を誇示していて、イネスは肩身が狭い思いをすることになる。
それでも耐えていたイネスだったが、父親に反逆の罪を着せられ、家族も、彼女自身も、処断されることが決まった。
グレゴリウス卿の手を借りて、一人生き残ったイネスは復讐を誓う。
72話で完結です。
27歳女子が婚活してみたけど何か質問ある?
藍沢咲良
恋愛
一色唯(Ishiki Yui )、最近ちょっと苛々しがちの27歳。
結婚適齢期だなんて言葉、誰が作った?彼氏がいなきゃ寂しい女確定なの?
もう、みんな、うるさい!
私は私。好きに生きさせてよね。
この世のしがらみというものは、20代後半女子であっても放っておいてはくれないものだ。
彼氏なんていなくても。結婚なんてしてなくても。楽しければいいじゃない。仕事が楽しくて趣味も充実してればそれで私の人生は満足だった。
私の人生に彩りをくれる、その人。
その人に、私はどうやら巡り合わないといけないらしい。
⭐︎素敵な表紙は仲良しの漫画家さんに描いて頂きました。著作権保護の為、無断転載はご遠慮ください。
⭐︎この作品はエブリスタでも投稿しています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる