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井津治は通夜の宴席が始まる前に勝手に天王町のホールを抜け出たした。白川通りから東天王町の交差点を曲がり、丸太町通りを西に向かって歩いた。同じ歩数と間隔で男も歩き続けていた。井津治は丁度東天王町のバス停に着いた三条河原町行きの空いたバスに飛び乗った。
先ほど見てきたおじさんの安らかな顔が頭に残っていた。やり残した事が有るはずなのにどうしてあんなに穏やかなんだろう。それに引き替え俺に向かって眉間を寄せる礼子は一体何なんだ。何が気に入らないんだ。それがおじさんを偲ぶ通夜膳を彼が無言で欠席する切っ掛けだった。とにかく今日は木屋町辺りで思い切り酒を浴びてやれと、自棄ぎみに通りを行く雑踏の群れに鋭い視線を投げ付けていた。此の時、後ろから不意に肩を叩かれた。昨日の男がいつの間にか後の席に座っていた。この男もあのホールに居たのか?
「焼香の帰りか、なぜ残らなかったんだ良い話が聞けたかもしれないのに」
きっとホールのどこかで見ていたに違いない。
「籍のない俺には関係ない」
井津治は突っぱねた。
「遺言がなければなあ。だがあれ程大切に育ててくれた長沼のおっさんが何も残さないはずがないだろう」
何処まで知っているのか男は不気味な笑いを浮かべた。
「何が言いたいんだ」
「あのじいさんが忘れ形見のお前に何にも残さないって云う手はないだろう」
男は回りくどく更に念を押してくる。
「母さんとはとうの昔に死別しているから俺にそこまでする訳がないだろう」
男は今度は意味ありげな太々しい笑いに変わった。
「嘘つけ、今まで相当な情けを掛けてもらっているじゃねぇか」
「あの人は平等に分け隔てなく見てるだけでそこまで考えている訳ないだろう!」
根っから否定する者に何を言っても無駄だか感情のままに言った。
「それはどうかなぁもう十年以上もあそこの娘達同様に面倒見てるって話じゃないか尋常じゃねえぞ」
「尋常じゃないのはあんたの方だ、とっくに縁が切れたるのに急に現れるんだからなあ。最初は面食らって入れたが今度からは門前払いだかなぁ、そのつもりでいるがいい」
「そう迷惑そうに言われてもお前は籍は抜けても俺の血は抜けないってことを忘れるなぁ」
男は捨てぜりふを残してバスを降りた。
別れてからもあの男はご機嫌伺いにたまにやって来た。だが母が亡くなってからはプッツリと途絶えた。十年音信のなかったあいつが今朝、姿を見せた。おそらくおじさんの重病説を嗅ぎ付げたのだろう。その辺りから俺の身辺を見張っていたに違いない。余程困っているのだろう、しかしさっきのあの余裕の笑いは何だ! 薄気味悪い。
井津治は河原町でバスを降りて三条木屋町を下がった。
さっきの礼子もそうだ。側のあの馴れ馴れしい男は何だ。葬式を取り繕うならそれらしく威厳を持ってやれ。やたら礼子に取り入ってやがる。次第に高ぶる感情に苛立つと騒ぎたくなった。すっかり闇が彼を包んでいた。闇の綻びの様に灯る赤提灯に似た明かりが現世を繋ぐように灯っていた。彼はひとつの灯明に吸い込まれた。木屋町で一件の居酒屋に飛び込んだ。そこで酒とつまみを注文して、ひとりおじさんの通夜膳を挙げた。
翌朝は九時の告別式である。近所で朝食を済ましホールに戻り遺族と挨拶した。会社や個人から寄せられた献花、弔電の確認と火葬場へ向かう送迎車への乗車確認は、葬儀が始まるまでに済ましておかないといけない。
店長は高野ホールで朝礼を済ますと、白川ホールへまた応援に駆けつけてくれた。弔問客が多い会場も家族葬も似たような刻限だから、長沼家は何倍も忙しくなり朝から慌ただしかった。
ホールのスタッフが行き交う中で三姉妹が会場に現れた。昨日は喪服が夕闇に埋没していた。今日は喪服が今朝の朝陽の中で基調の黒が鮮やかに引き締まった。結い直した黒髪と共に広い会場でも際立たせた。特に礼子は昨夜より綺麗に見えた。この時に雅美は同行の夫を紹介したが、慌ただしい会場の雰囲気を止めるだけの印象はなかった。
野々宮は祭壇に飾られた遺影を見ながら、クルーズ船での船酔いに悩まされたのだろうと思わずにはいられなかった。
その合間に会場設営だが、通夜と違って昼間はホールの者が全員出勤してるからサブロクの応援は不要だった。
住職との打ち合わせが終わると、遺族との私語もなく案内着席した。導師の入場着席で野々宮は告別式の開始を告げた。遺族とは出棺まで一定の距離で進行して厳かに進めた。
焼香が終わると喪主の挨拶が続き、その後に遺族の手で霊柩車に棺が納まった。野々宮は遺族をハイヤーに案内して最終確認してホールを出てゆく車列の最後尾を着いてゆく。到着後は火葬場で故人との最後のお別れの場を設定した。これでやっと一服できて業者の待機場で、簡単な昼食を駆け込み連絡を待った。
火葬が終わると内線の電話が鳴り、葬儀会社の名前と火葬された家の名前が告げられる。野々宮も店長と一緒に待っていると坂下が入ってきた。
「よう、新人のサブロクじゃないのに店長の桐山はんがここまでついてきてるんでっか」
「いや、このご当家は一寸興味があってなあ」
「ホウ、さよか。余裕のよっちゃんやね」そう云いながら紙切れを出した。
「もう一本取ったんか」
「夕べの通夜膳で判押してもうた。五千円や。喪主とちゃうで、喪主は今日入ってもらうように話し付けた」
「幾らや?」
「多分、五千円入ってくれるんちゃうか」
「今月もう十万ゲットか、余裕のよっちゃんは坂下はんの方でんがなぁ、ヘエーどやねん」
「夕べの親族は手応えありましたか?」坂下はにやけた顔で訊いた。
「ないな、そんな話しが出来る、と云うか入る隙がないのや。向こうにすれば別次元の世界やなあ」
「もうさっさと喪主から判もらったらいぬしかないなあ。そうちゃいまっか、野々宮はんには申し訳ありまへんが次の待機で良えェのん当てるこっちゃなあ」
内線が鳴った。取った者がA社、長沼家を告げた。
「焼けたなあ、ほなぁいくわ」と立った。振り返れば坂下はすぐにその場に誰かが置き忘れた週刊誌を広げている。
「大掛かり過ぎてどっから手をつけてええか分からんなあ」
バタバタせん家族葬の方がじっくり営業できると桐山は言っている。
「店長、うちは葬儀が終わってから膨大な名簿で営業出来るんですよ」野々宮は気休めのように云った。
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