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一章 アスカとルミ①
六 不思議な夢の話 六(改)
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ルミさんとの通話から
あっという間に三十分。
カランコロンと店の扉が開き、
「こんにちは」とルミさんがやって来た。
「こんにちは……って、
どうしたんですか、その顔」
ルミさんの姿を見た途端、
私は驚愕の声を上げた。
髪はボサボサだし、眼は充血してるし、
泣き跡がくっきり残っているし、
少しやつれているし、何か……
いや、何があったのだろう。
「アスカ……アスカぁ」
「え? ちょ──」
本当に急な出来事だった。
ルミさんが突然抱き付いてきた。
かと思えば、私の体に顔を埋めて、
子供みたいに泣きじゃくる。
一ヶ月前の啜り泣きと比べると、
今回のは明らかに異常だった。
背中を擦ってあげると、
さらに強く抱き締められた。
悲しみや不安、その他諸々。
ありとあらゆる感情を絞り出すように、
ルミさんはひたすら泣き続けた。
くぐもった悲痛な叫び声が
店の中に響き渡った。
「……落ち着きました?」
「うん……」
落ち着いた。そう言うルミさんだけど、
私の背中に回った両腕は
いつまでも離れようとしない。
まるで、お別れを嫌がる子供のように。
「ごめん、アスカ
……しばらく、このままでいい?」
「また、なにかありましたか?」
そう聞くと、
肩をグッと押される感触がした。
背中の締め付けが、よりいっそう強まった。
「話……また、聞いてほしい」
消え入るような声が
私の体に染み込んでくる。
ルミさんの気持ちが
流れ込んでくるようだった。
とても辛く、苦しい。
ルミさんの話。
今すぐ聞いてあげたいところだけど──
「わかりました。でも、条件があります」
「条件?」
予想していなかった言葉なのだろう。
ルミさんが腕をほどいて、
私に驚いた顔を見せつけた。その顔は、
涙と鼻水でぐしゃぐしゃになっていた。
これは益々、
条件をクリアしてもらった方がよさそうだ。
「アスカ、条件って?」
「まずはお風呂です。申し訳ないですけど、
ルミさん……ほんのり臭います」
「におっ──うそでしょ?」
「ほんのりですよ、ほんのり。
で、お風呂の後はご飯です。
あんまり食べれてないんですよね?
まずは食べましょう?
話を聞くのはそれからです」
ルミさんの身に一体何があったのだろう。
最近の私は、なるべくニュース番組を
見るようにしている。
彼氏さんの捜索に関する新たな報道が
出されるかもしれないからだ。
けど、新しい報道はまだない。
それどころか、一歩も前進していない。
今も変わらず情報提供を求めるばかりだ。
「……わかったよ。じゃあ、お風呂入ろ」
「はい。……って、え? 私も?」
「一緒にいたいの。いいでしょ?」
断りきれず、渋々一緒にお風呂に入った
私だったけど、結論から言えば一緒に
入って大正解だった。
延々と髪を洗ってるわ、
ずーっとボディタオルで腕を擦るわ、
片時も目を離せなかった。
お風呂から出た私達は、
その足で店に戻った。
そのまま自宅でご飯を食べて
話を聞くのも考えたけど、
店の方が私の気が引き締まるから
そちらを選んだ。
今回はカウンターではなく、
向かい合って座れる普通の席。
お風呂でああだったから、
食事でもそうなんじゃないかと
考えてのことだったけど、
その心配は杞憂に終わった。
「──ごちそうさまでした。
美味しかったよ、アスカ」
お風呂の効果で血色が良くなり、
ご飯を食べて体力も回復。
ルミさんの顔色と声色に
以前の明るさが少しだけ戻ってきてくれた。
「いやぁ、それほどでも。
でも、なにがあったんですか?
お風呂も食事も疎かになるなんて……」
空の食器はひとまず隣のテーブルにどかし、
私は話を聞く姿勢に入った。
「そのことなんだけど、
アスカは信じてくれる?」
「……はい?」
「変というか、不思議な話なんだよね。
正直、私も混乱してて……うまく話せるか
わからないんだけど、聞いてほしい」
不思議な話。
全く予想していなかった言葉に、
私の返事は語尾が跳ね上がる始末。
とにかくまずは話を聞こうと、
私はルミさんの話に耳を傾けた。
「一昨日から、アッくんの夢を見てるの」
「……彼氏さんの?」
「うん。ただ、それがなんというか、
夢なんだけど夢じゃないっていうか……
記憶を再生してるみたいな……」
「記憶を再生?」
「夢を見てる感覚なんだけど、
それが夢じゃなくてちゃんとした記憶なの。
記憶っていうか思い出。
アッくんと過ごした大切な……」
大切。その単語を耳にした時、
私はあることを思い出した。
ルミさんが不思議な夢を見たという一昨日。
それは、四月十九日。そして、その日は──
「一昨日って
ルミさん達の交際記念日ですよね?
どんな夢──思い出だったんですか?」
「記念日は、私達にとって一番大切な日。
だから、その日は特別な一日にしようって
決めてて、普段はできないことをして過ごすの。
その時の思い出。六年付き合ってるから、
六回分。それを……多分、ランダムで」
ランダムと聞いて、私はまた思い出す。
ルミさんが最初に言っていた
『一昨日から』という言葉を。
「その夢、連日連夜なんですか?」
「そう。ただ、昼も夜も関係ないみたい。
寝れば、必ずその夢を見る」
一昨日から。それって、具体的には
一昨日の朝ってことだよね。
そうだとすると、昨日の朝、今日の朝。
単純計算で三回。
でも、昼も夜も関係ないって、
そう言えてしまうのは……
「昼間も、見たんですか?」
「見たよ。アッくんの夢を見始めてから、
ますます寝れなくなって」
ルミさんの見た夢は、一見すると
とても素敵な夢に思えた。
少し不思議で、とても温かい、
お互いの愛をよりいっそう
深めてくれるような、そんな夢。
けど、彼氏さんが行方不明という
たった一つの事柄が、その夢を
黒く塗り潰してしまった。
今の彼女にとって、
この夢は首を絞める真綿でしかない。
何とかして、その真綿を取り除けたら……
そんな私の思いは、
次の瞬間、粉々に打ち砕かれた。
彼女の口から放たれた
衝撃的な一言によって。
「──アッくんね、死んじゃったみたい」
彼女の弱々しい涙声がもたらした衝撃は、
さながら爆撃。滅びた世界に
取り残されたような静けさの中、
私はやっとの思いで声を絞り出した。
「行方不明じゃ……ないんですか?」
土砂崩れのように
押し寄せる困惑を振り切って、
私はどうにか冷静を保つ。
本当は捲し立てたい気分だけど、
その荒波をグッと抑える。
「行方不明だよ。まだ見付かってない」
「なら……まだわからないじゃないですか。
生きてる可能性だって、まだ……」
「こんな言い方したくないけど、
この夢を見てないアスカにはわからないよ」
「それ、どういう──」
「私にだってわからないよ!」
至近距離の落雷のような
前触れのない怒号に、
私の視界は闇に包まれ、
体は情けなく震え上がった。
「ルミさん……?」
「あの夢を見ると涙が溢れて……
物凄く……懐かしい気持ちになる……。
起きて……アッくんの夢だって思ったら、
急にストンって……」
泣きじゃくり、
言葉も絶え絶えな彼女の姿は、
今にも儚く崩れてしまいそうで
見ていられなかった。
かといって、触れたら
粉々に壊れてしまいそうで、
私はただ
彼女の言葉の続きを待つしかできない。
ルミさんの話をありのまま理解するなら、
彼氏さんとの記念日の思い出を夢に見て、
懐かしい気持ちに涙を溢れさせる。
ここまでは理解できる。
そして、夢から覚めた時、ストンと……
ここだ。ここがわからない。
ストンと……気付く?
彼氏さんの死に気付く、
ということだろうか。
ストン……か。
その感覚だけなら、私にも覚えがあった。
もっとも、漫画で読んだことがある
だけなんだけど。
主人公が恋心を自覚するシーンだ。
ずっと一緒にいて、無自覚に無意識に想いを
募らせていき、やがて無視できない
胸の高鳴りや顔の火照りに
悩まされるようになり、
ふとしたことが切っ掛けで
『ああ、自分はこの人のことが好きなんだ』
って気付く……そんなシーン。
彼氏さんがすでに亡くなっていて、
けどその死を受け入れられなくて、
受け入れたくなくて、
ずっとずっと逃げてきたって言うなら
まだ理解の余地はある。
けど、そうじゃない。
彼氏さんは失踪直前まで
元気に暮らしていたはずだ。
ルミさんや、必死に捜索願を配る家族、
報道関連の人達が揃いも揃って嘘を
ついていない限り、この話は有り得ない。
「ごめん、アスカ……理解できないよね」
「……ごめんなさい」
「謝らないで。私だって、
理解してほしくてここに来たんじゃない。
ただ、相談をしたくて……」
「相談?」
私のことを見据える、
一切の光を持たない彼女の眼差し。
それは不気味とさえ感じてしまうほどに、
いつもの彼女からは想像できない瞳だった。
「相談ってどんな?」
そう問うと、ルミさんは席を立った。
どこに行くのかと思えば、
店の入り口から空を見上げていた。
「アッくんのこと……
もう、探さない方がいいのかなって……」
ルミさんが何を見ているのか。
それを察した私は、慌てて彼女を
窓から引き剥がす。そして、
彼女の顔を見た私は、恐怖にたじろいだ。
諦めや絶望、
それらが限界に達してしまうと
出現する表情なのだろうか。
光が灯っていない目に、
乾いた涙の跡でパリパリになった皮膚。
彼女の顔には、暗闇に照らし出された
古い日本人形のような気味の悪い微笑みが
張り付いていた。
「私、思ったの。あの夢は、
アッくんからのメッセージ
なんじゃないかって。
俺はもう死んだから、
探さなくていいって
言ってるんじゃないかな……」
「……なに、言ってるんですか。
そんなわけないじゃないですか!」
ルミさんの気持ちが、
想像しかできない私に理解できるのかな。
私の想像には限界があり、ルミさんが
味わう苦しみには恐らく限界がない。
というか、限界を簡単に越えてくる。
けど、それでも私は諦めてほしくない。
だって、誰よりも彼氏さんを想っていて、
誰よりもその帰りを待っているのは、
ルミさんのはずだから。
それに、彼氏さんに
一番愛されていたのもルミさんのはずだ。
そんな二人が
このまま終わりを迎えるなんて、
そんなの駄目だ。そう思ったら、
もう言葉を止められなかった。
「わかってるよ。わかってるけど、
アッくんはもう死んじゃってるんだよ?
頑張って探しても、
見付かるのが遺体なら……私は……」
「諦めるんですか?
見つからないままでいいって、
そう言いたいんですか?」
ルミさんが、静かに頷いた。
「さっきから……そう言ってるじゃん」
その瞬間、私の右手が別の生き物みたいに
痙攣した。勝手に動こうとする右手を制し、
私は彼女の言葉をどうにか受け止めた。
“夢”を見ていない私にはわからない感覚。
思い返せば、ルミさんはお風呂も食事も
疎かになっていた。
そうなってしまうほどのショックを、
不思議な夢から受けていたんだ。
けど、それでも私は、
動きたがる右手の意思を聞き届けた。
パシン……
「アスカ……?」
震える掌に残る、ルミさんの頬の感触。
意識して人を叩く。初めての経験に、
私は泣きたくなった。
響いたのは情けない音だった。
多分、ルミさんへの
物理的ダメージもほとんどない。
それでも、後悔や罪悪感に襲われて、
右手を引き千切りたい衝動に駆られて、
その末に私は泣いた。
けど、それ以上に悲しくなった。
悲しくて、私は涙を流した。
胸が締め付けられて、心が酷く痛む。
苦しくて、ますます涙が溢れ出る。
怒りや責任感は元からなかった。
後悔や罪悪感は
溢れる涙に押し流されていく。
悲しみがひたすら満ちていく。
なんで……こんなに悲しいの。
考えるまでもないはずだ。
私は許せなかったんだ。
ルミさんが彼氏さんの捜索や
生存を諦めることが。
諦めて、彼氏さんへの想いを押し殺して、
新しい日常に踏み出そうとしていることが。
だって、もしそうなってしまったら、
ルミさんの心には
ずっと穴が空きっぱなしで、
その喪失感を必死に見て見ぬ振りをしながら
生きていくことになる。
楽しそうにしていても、
嬉しそうにしていても、
その表情はどこか空っぽなんだ。
そんなルミさんなんて、私は見たくない。
私は──
そっか……
私は、ルミさんの笑顔が見たいんだ。
人は、嬉しい時にも泣くことができる。
けど、悲しい時に笑うことはできない。
私は、彼女の笑顔が好きだ。
全てを諦めた壊れた笑顔でも、
辛い気持ちを圧し殺して作った
偽りの笑顔でもない、子供みたいに
無邪気で屈託のない心からの笑顔が、
もう一度見たい。
彼女の笑顔はとても可愛らしくて、
太陽みたいに輝いていて……
ああ、なんて私は最低なんだろう。
私は、彼氏さんのことなんて
どうでもいいんだ。
無事でいてほしい、
早く帰ってきてほしいって
想ってはいるけど、
それはルミさんの笑顔を
取り戻すために必要なだけ。
彼氏さん本人に対しては、
私は残酷なまでに無関心でいる。
「ごめんなさい、私……」
言葉が詰まった。
だって、ありのままを謝って、
それでどうなるの?
言えるわけない。ルミさんのために
探しているだけであって、
本当はどうでもいいと思っているだなんて。
「……ううん、私の方こそごめん。
諦めちゃ……ダメだよね。
死んじゃってても、ちゃんと
見付けてあげないと……
可哀想……だもんね」
「そうじゃなくて……!」
あのまま口をつぐんでいれば、
ルミさんに何も知られずに
済んだのかもしれない。
けど、そうだとしても、
彼女の言葉を利用して
逃げるのだけは憚られた。
そんなのは嫌だと、
私の細胞一つ一つが全力で拒絶した。
「私……ルミさんの笑顔が好きなんです」
心臓がうるさい。頭の中もうるさい。
言葉が、浮かんだ側から
口を突いて出ていく。
整理も吟味もできない。
口を滑らせていないか、
他人事のように考える自分が小さい。
言葉が勝手に紡がれていく。
毛羽立った荒々しい縄が
見えない何かに引っ張られているみたいに、
するすると声が震える。
「ルミさんには笑っていてほしくて、
そのためには彼氏さんっていう
存在が必要で、だから私は
彼氏さんに無事でいてほしくて……」
止まらなきゃいけないのに、
私はブレーキとアクセルを
踏み間違えている。
それがわかっているのに、
足はアクセルから離れてくれない。
離せ離せと脳が送った指令は
体のどこかで迷子になって、
力強くアクセルを踏み抜く足先には
届いてくれない。
「私は、ルミさんのことしか考えてない……
彼氏さんの心配なんて全然……」
ようやく足が離れた。けど、それは
無事に止まったことにはならない。
ひしゃげた車の中で、
私は終わりを待ちながら
浅い呼吸を繰り返す。
視界が闇に侵されていき、
けど完全に飲み込まれる前に
一筋の光が差し込んだ。
その光の正体は彼女の声で、
それは曇りのないガラスみたいに
綺麗に透き通っていて、
森の中の苔むした岩のように
優しく潤っていた。
「──アスカ」
ルミさんが、私の手を取った。
開花の時を待つ蕾のように
重なり合う私達の四つの手。
それは、
親鳥に愛された卵のようにも思えた。
不意に、私の手が
ルミさんの胸元に引き寄せられる。
柔らかい膨らみに抵抗なく沈み込み、
その中に生きる確かな鼓動が
私の体に伝わってきた。
「ごめんなさい、こんな最低な私で」
鼓動の出所はルミさんの心臓──心だ。
今この瞬間も、彼氏さんへの想いを
絶えず募らせ続けている。
彼女の胸がドクンと脈打つその度に、
私の中に頭痛のような
痛みが流れ込んでくる。
もう、その手を離してほしかった。
「ううん……私の方こそごめんね。
アスカにこんな辛い思いさせて……」
「どうして……ルミさんが謝るんですか。
悪いのは……私なのに……」
「アスカはなにも悪くない。
会ったことない人の心配なんて、
誰にもできないよ。
悪いのは、むしろ私の方。
私は……ずっと逃げてるの。
アッくんがいなくなったことから。
そのせいで、アスカを泣かせた……」
ルミさんは俯くように
「ごめんなさい」と頭を下げた。
いまだ彼女の胸に沈む私の腕に、
冷たくて小さな一滴。
綺麗な球体だったその滴は、
歪に広がって染みていく。
「──でも、ありがとう」
「え?」
「アスカ、さっき言ってくれたでしょ?
私のことしか考えてないって。
あれ、すごく嬉しかった」
子供は、大切なものを抱き締める。
ぬいぐるみや玩具といった大好きな宝物を、
心を宿すその場所に固く抱き寄せる。
そんな愛しい姿を、
私はルミさんに垣間見た。
「あの言葉を聞いて、やっとわかったの。
私はずっと……誰かに側に
いてほしかったんだって。
捜索に協力とか……
本当はそんなこと求めてなくて……
ただ私を、一人にしないでほしかった」
ルミさんは言っていた。
友達や同僚が心配して『力になる』と
言ってくれたと。
けれど、その形はルミさんの思い描く
理想とは異なっていて、結果として
彼女の傷を深くするだけに終わった。
側にいてほしい。一人にしないでほしい。
そうか。それがルミさんの思い描く、
彼女自身でさえ今まで気付けなかった
『力になる』の理想型だったんだ。
とても簡単なことのように見えて、
その実とても難しい。
誰もが命の危機に瀕している
かもしれない失踪者を優先し、
残された人達もまた捜索に尽力するから。
ルミさんのような失踪から目を逸らして
逃げてしまう人は、捜索に向かう人々の
視界には入らない。
入らないから、気付けない。
なら、気付けた私は、どうしたらいいの?
その答えをくれたのは、彼女の声だった。
「でも、誰でもいいわけじゃなくて、
アスカがいいの。
私は……アスカに側にいてほしい」
私達の間にある空間が狭まっていく。
私の手は彼女の胸元から解放されたけど、
代わりに彼女の両手が
私の胸元に沈み込んだ。
圧迫された私の鼓動が、
体内で逃げ場を求めて荒れ狂う。
「逃げたままじゃ駄目なのはわかってる。
でも、
いつか必ずちゃんと向き合うから……。
だから、それまでは一緒にいさせて……」
頭の中が、心の中が、
酷くぐちゃぐちゃする。
絡み合って、もつれ合って、ほどけなくて、
それでもなお蠢いて。
どうして、私なの?
私は彼氏さんのことを、
ルミさんの笑顔を取り戻すための
手段にしか捉えていないのに。
そんな私が側にいて……
私がルミさんの理想になれるとは思えない。
でも、彼女はこんな私の側にいたいと
言ってくれた。誰でもいい訳じゃなくて、
私がいいのだと。
それは妥協ではなく、明確な希望。
私なんかでいいのかな……
私の心臓に覆い被さるルミさんの手。
そっと手を添えると、
霞のような儚い触り心地がした。
でも、ぎゅっと握ると実体がある。
彼女は確かにここにいる。
ルミさんの口から語られた不思議な夢。
彼氏さんの死に気付かせる連日の夢。
二人だけの特別な日から始まった、
とても温かくてとても悲しい夢。
彼女が夢を通じて感じ取ったことが
全て真実だとしたら、
彼女から受けた依頼は
とても辛い結果に終わる。
そうなった時、私に何ができるだろう。
わからない……どうしたらいいの。
私達の出会いから二年。
お互い、笑いすぎたり、感動したり、
そういう時にしか涙は見せてこなかった。
ほんの二、三数ヵ月前までの
楽しかった日々が、今はもう遥か遠い。
あの時、私が彼氏さんの話題を出した時……
悲しみの涙を流した。
あれから全てが始まったんだ。ああ、
あの時に戻って、もう一度やり直せたら……
あの時に、戻る……
ぐちゃぐちゃな私の中に光る確かな形。
口の中、歯が噛み合わさる音が響いた。
あの時、私の目の前で泣いたルミさん。
その姿を見て、私の中に芽生えた思い。
ルミさんを一人にしておけない。
そうだ。
だから、私は私は何でも屋なんだ。
困っている人を、私を頼ってきた人を
見捨てることができなくて、
あの思いが今の私を作っているんだ。
このまま立ち止まるのが、一番駄目だ。
わからないなら、わかることをやろう。
私でいいのかなとか、
余計なことは考えちゃ駄目だ。
何にせよ、ルミさんは私を頼ってきて、
私はルミさんを放っておけないと
感じていて、それなら答えはもう出ている。
「……わかりました。
しばらく、ここにいてください」
ルミさんは言った。いつか、
彼氏さんの失踪にちゃんと向き合うと。
私も、彼氏さんのことを
きちんと考えられるようにならないと。
彼女の言葉を素直に受け止めるために。
「ありがとう」
今までに何回も何人もの人から
同じ言葉を聞いた。不思議と、
今この瞬間の彼女の言葉が
一番重く心に響いたような気がした。
「それと、先に謝っとくね。
これから迷惑かけちゃうけど、ごめんね」
ありがとうと同じくらいの
重みを持った迷惑という言葉に、
私は身構えずにはいられなかった。
ルミさんの言う迷惑が何なのか、
容易に想像できたから。
今の彼女は、昼夜問わず
眠りに落ちれば例の夢を見る。
涙を溢れさせ、懐かしい気持ちにさせ、
その末に彼氏さんの死に気付かせる夢。
眠りから覚めた時、
彼女はひたすら泣き叫ぶのだろうか。
それとも自棄になって
周りのものに当たるのだろうか。
何にせよ、生半可な姿勢で
彼女の側にいてはいけないことはわかる。
「気にしないでください。
私が全部、受け止めますから」
この時、私は気付いていなかった。
私達が、すでに大きな事件に
巻き込まれていたということを。
あっという間に三十分。
カランコロンと店の扉が開き、
「こんにちは」とルミさんがやって来た。
「こんにちは……って、
どうしたんですか、その顔」
ルミさんの姿を見た途端、
私は驚愕の声を上げた。
髪はボサボサだし、眼は充血してるし、
泣き跡がくっきり残っているし、
少しやつれているし、何か……
いや、何があったのだろう。
「アスカ……アスカぁ」
「え? ちょ──」
本当に急な出来事だった。
ルミさんが突然抱き付いてきた。
かと思えば、私の体に顔を埋めて、
子供みたいに泣きじゃくる。
一ヶ月前の啜り泣きと比べると、
今回のは明らかに異常だった。
背中を擦ってあげると、
さらに強く抱き締められた。
悲しみや不安、その他諸々。
ありとあらゆる感情を絞り出すように、
ルミさんはひたすら泣き続けた。
くぐもった悲痛な叫び声が
店の中に響き渡った。
「……落ち着きました?」
「うん……」
落ち着いた。そう言うルミさんだけど、
私の背中に回った両腕は
いつまでも離れようとしない。
まるで、お別れを嫌がる子供のように。
「ごめん、アスカ
……しばらく、このままでいい?」
「また、なにかありましたか?」
そう聞くと、
肩をグッと押される感触がした。
背中の締め付けが、よりいっそう強まった。
「話……また、聞いてほしい」
消え入るような声が
私の体に染み込んでくる。
ルミさんの気持ちが
流れ込んでくるようだった。
とても辛く、苦しい。
ルミさんの話。
今すぐ聞いてあげたいところだけど──
「わかりました。でも、条件があります」
「条件?」
予想していなかった言葉なのだろう。
ルミさんが腕をほどいて、
私に驚いた顔を見せつけた。その顔は、
涙と鼻水でぐしゃぐしゃになっていた。
これは益々、
条件をクリアしてもらった方がよさそうだ。
「アスカ、条件って?」
「まずはお風呂です。申し訳ないですけど、
ルミさん……ほんのり臭います」
「におっ──うそでしょ?」
「ほんのりですよ、ほんのり。
で、お風呂の後はご飯です。
あんまり食べれてないんですよね?
まずは食べましょう?
話を聞くのはそれからです」
ルミさんの身に一体何があったのだろう。
最近の私は、なるべくニュース番組を
見るようにしている。
彼氏さんの捜索に関する新たな報道が
出されるかもしれないからだ。
けど、新しい報道はまだない。
それどころか、一歩も前進していない。
今も変わらず情報提供を求めるばかりだ。
「……わかったよ。じゃあ、お風呂入ろ」
「はい。……って、え? 私も?」
「一緒にいたいの。いいでしょ?」
断りきれず、渋々一緒にお風呂に入った
私だったけど、結論から言えば一緒に
入って大正解だった。
延々と髪を洗ってるわ、
ずーっとボディタオルで腕を擦るわ、
片時も目を離せなかった。
お風呂から出た私達は、
その足で店に戻った。
そのまま自宅でご飯を食べて
話を聞くのも考えたけど、
店の方が私の気が引き締まるから
そちらを選んだ。
今回はカウンターではなく、
向かい合って座れる普通の席。
お風呂でああだったから、
食事でもそうなんじゃないかと
考えてのことだったけど、
その心配は杞憂に終わった。
「──ごちそうさまでした。
美味しかったよ、アスカ」
お風呂の効果で血色が良くなり、
ご飯を食べて体力も回復。
ルミさんの顔色と声色に
以前の明るさが少しだけ戻ってきてくれた。
「いやぁ、それほどでも。
でも、なにがあったんですか?
お風呂も食事も疎かになるなんて……」
空の食器はひとまず隣のテーブルにどかし、
私は話を聞く姿勢に入った。
「そのことなんだけど、
アスカは信じてくれる?」
「……はい?」
「変というか、不思議な話なんだよね。
正直、私も混乱してて……うまく話せるか
わからないんだけど、聞いてほしい」
不思議な話。
全く予想していなかった言葉に、
私の返事は語尾が跳ね上がる始末。
とにかくまずは話を聞こうと、
私はルミさんの話に耳を傾けた。
「一昨日から、アッくんの夢を見てるの」
「……彼氏さんの?」
「うん。ただ、それがなんというか、
夢なんだけど夢じゃないっていうか……
記憶を再生してるみたいな……」
「記憶を再生?」
「夢を見てる感覚なんだけど、
それが夢じゃなくてちゃんとした記憶なの。
記憶っていうか思い出。
アッくんと過ごした大切な……」
大切。その単語を耳にした時、
私はあることを思い出した。
ルミさんが不思議な夢を見たという一昨日。
それは、四月十九日。そして、その日は──
「一昨日って
ルミさん達の交際記念日ですよね?
どんな夢──思い出だったんですか?」
「記念日は、私達にとって一番大切な日。
だから、その日は特別な一日にしようって
決めてて、普段はできないことをして過ごすの。
その時の思い出。六年付き合ってるから、
六回分。それを……多分、ランダムで」
ランダムと聞いて、私はまた思い出す。
ルミさんが最初に言っていた
『一昨日から』という言葉を。
「その夢、連日連夜なんですか?」
「そう。ただ、昼も夜も関係ないみたい。
寝れば、必ずその夢を見る」
一昨日から。それって、具体的には
一昨日の朝ってことだよね。
そうだとすると、昨日の朝、今日の朝。
単純計算で三回。
でも、昼も夜も関係ないって、
そう言えてしまうのは……
「昼間も、見たんですか?」
「見たよ。アッくんの夢を見始めてから、
ますます寝れなくなって」
ルミさんの見た夢は、一見すると
とても素敵な夢に思えた。
少し不思議で、とても温かい、
お互いの愛をよりいっそう
深めてくれるような、そんな夢。
けど、彼氏さんが行方不明という
たった一つの事柄が、その夢を
黒く塗り潰してしまった。
今の彼女にとって、
この夢は首を絞める真綿でしかない。
何とかして、その真綿を取り除けたら……
そんな私の思いは、
次の瞬間、粉々に打ち砕かれた。
彼女の口から放たれた
衝撃的な一言によって。
「──アッくんね、死んじゃったみたい」
彼女の弱々しい涙声がもたらした衝撃は、
さながら爆撃。滅びた世界に
取り残されたような静けさの中、
私はやっとの思いで声を絞り出した。
「行方不明じゃ……ないんですか?」
土砂崩れのように
押し寄せる困惑を振り切って、
私はどうにか冷静を保つ。
本当は捲し立てたい気分だけど、
その荒波をグッと抑える。
「行方不明だよ。まだ見付かってない」
「なら……まだわからないじゃないですか。
生きてる可能性だって、まだ……」
「こんな言い方したくないけど、
この夢を見てないアスカにはわからないよ」
「それ、どういう──」
「私にだってわからないよ!」
至近距離の落雷のような
前触れのない怒号に、
私の視界は闇に包まれ、
体は情けなく震え上がった。
「ルミさん……?」
「あの夢を見ると涙が溢れて……
物凄く……懐かしい気持ちになる……。
起きて……アッくんの夢だって思ったら、
急にストンって……」
泣きじゃくり、
言葉も絶え絶えな彼女の姿は、
今にも儚く崩れてしまいそうで
見ていられなかった。
かといって、触れたら
粉々に壊れてしまいそうで、
私はただ
彼女の言葉の続きを待つしかできない。
ルミさんの話をありのまま理解するなら、
彼氏さんとの記念日の思い出を夢に見て、
懐かしい気持ちに涙を溢れさせる。
ここまでは理解できる。
そして、夢から覚めた時、ストンと……
ここだ。ここがわからない。
ストンと……気付く?
彼氏さんの死に気付く、
ということだろうか。
ストン……か。
その感覚だけなら、私にも覚えがあった。
もっとも、漫画で読んだことがある
だけなんだけど。
主人公が恋心を自覚するシーンだ。
ずっと一緒にいて、無自覚に無意識に想いを
募らせていき、やがて無視できない
胸の高鳴りや顔の火照りに
悩まされるようになり、
ふとしたことが切っ掛けで
『ああ、自分はこの人のことが好きなんだ』
って気付く……そんなシーン。
彼氏さんがすでに亡くなっていて、
けどその死を受け入れられなくて、
受け入れたくなくて、
ずっとずっと逃げてきたって言うなら
まだ理解の余地はある。
けど、そうじゃない。
彼氏さんは失踪直前まで
元気に暮らしていたはずだ。
ルミさんや、必死に捜索願を配る家族、
報道関連の人達が揃いも揃って嘘を
ついていない限り、この話は有り得ない。
「ごめん、アスカ……理解できないよね」
「……ごめんなさい」
「謝らないで。私だって、
理解してほしくてここに来たんじゃない。
ただ、相談をしたくて……」
「相談?」
私のことを見据える、
一切の光を持たない彼女の眼差し。
それは不気味とさえ感じてしまうほどに、
いつもの彼女からは想像できない瞳だった。
「相談ってどんな?」
そう問うと、ルミさんは席を立った。
どこに行くのかと思えば、
店の入り口から空を見上げていた。
「アッくんのこと……
もう、探さない方がいいのかなって……」
ルミさんが何を見ているのか。
それを察した私は、慌てて彼女を
窓から引き剥がす。そして、
彼女の顔を見た私は、恐怖にたじろいだ。
諦めや絶望、
それらが限界に達してしまうと
出現する表情なのだろうか。
光が灯っていない目に、
乾いた涙の跡でパリパリになった皮膚。
彼女の顔には、暗闇に照らし出された
古い日本人形のような気味の悪い微笑みが
張り付いていた。
「私、思ったの。あの夢は、
アッくんからのメッセージ
なんじゃないかって。
俺はもう死んだから、
探さなくていいって
言ってるんじゃないかな……」
「……なに、言ってるんですか。
そんなわけないじゃないですか!」
ルミさんの気持ちが、
想像しかできない私に理解できるのかな。
私の想像には限界があり、ルミさんが
味わう苦しみには恐らく限界がない。
というか、限界を簡単に越えてくる。
けど、それでも私は諦めてほしくない。
だって、誰よりも彼氏さんを想っていて、
誰よりもその帰りを待っているのは、
ルミさんのはずだから。
それに、彼氏さんに
一番愛されていたのもルミさんのはずだ。
そんな二人が
このまま終わりを迎えるなんて、
そんなの駄目だ。そう思ったら、
もう言葉を止められなかった。
「わかってるよ。わかってるけど、
アッくんはもう死んじゃってるんだよ?
頑張って探しても、
見付かるのが遺体なら……私は……」
「諦めるんですか?
見つからないままでいいって、
そう言いたいんですか?」
ルミさんが、静かに頷いた。
「さっきから……そう言ってるじゃん」
その瞬間、私の右手が別の生き物みたいに
痙攣した。勝手に動こうとする右手を制し、
私は彼女の言葉をどうにか受け止めた。
“夢”を見ていない私にはわからない感覚。
思い返せば、ルミさんはお風呂も食事も
疎かになっていた。
そうなってしまうほどのショックを、
不思議な夢から受けていたんだ。
けど、それでも私は、
動きたがる右手の意思を聞き届けた。
パシン……
「アスカ……?」
震える掌に残る、ルミさんの頬の感触。
意識して人を叩く。初めての経験に、
私は泣きたくなった。
響いたのは情けない音だった。
多分、ルミさんへの
物理的ダメージもほとんどない。
それでも、後悔や罪悪感に襲われて、
右手を引き千切りたい衝動に駆られて、
その末に私は泣いた。
けど、それ以上に悲しくなった。
悲しくて、私は涙を流した。
胸が締め付けられて、心が酷く痛む。
苦しくて、ますます涙が溢れ出る。
怒りや責任感は元からなかった。
後悔や罪悪感は
溢れる涙に押し流されていく。
悲しみがひたすら満ちていく。
なんで……こんなに悲しいの。
考えるまでもないはずだ。
私は許せなかったんだ。
ルミさんが彼氏さんの捜索や
生存を諦めることが。
諦めて、彼氏さんへの想いを押し殺して、
新しい日常に踏み出そうとしていることが。
だって、もしそうなってしまったら、
ルミさんの心には
ずっと穴が空きっぱなしで、
その喪失感を必死に見て見ぬ振りをしながら
生きていくことになる。
楽しそうにしていても、
嬉しそうにしていても、
その表情はどこか空っぽなんだ。
そんなルミさんなんて、私は見たくない。
私は──
そっか……
私は、ルミさんの笑顔が見たいんだ。
人は、嬉しい時にも泣くことができる。
けど、悲しい時に笑うことはできない。
私は、彼女の笑顔が好きだ。
全てを諦めた壊れた笑顔でも、
辛い気持ちを圧し殺して作った
偽りの笑顔でもない、子供みたいに
無邪気で屈託のない心からの笑顔が、
もう一度見たい。
彼女の笑顔はとても可愛らしくて、
太陽みたいに輝いていて……
ああ、なんて私は最低なんだろう。
私は、彼氏さんのことなんて
どうでもいいんだ。
無事でいてほしい、
早く帰ってきてほしいって
想ってはいるけど、
それはルミさんの笑顔を
取り戻すために必要なだけ。
彼氏さん本人に対しては、
私は残酷なまでに無関心でいる。
「ごめんなさい、私……」
言葉が詰まった。
だって、ありのままを謝って、
それでどうなるの?
言えるわけない。ルミさんのために
探しているだけであって、
本当はどうでもいいと思っているだなんて。
「……ううん、私の方こそごめん。
諦めちゃ……ダメだよね。
死んじゃってても、ちゃんと
見付けてあげないと……
可哀想……だもんね」
「そうじゃなくて……!」
あのまま口をつぐんでいれば、
ルミさんに何も知られずに
済んだのかもしれない。
けど、そうだとしても、
彼女の言葉を利用して
逃げるのだけは憚られた。
そんなのは嫌だと、
私の細胞一つ一つが全力で拒絶した。
「私……ルミさんの笑顔が好きなんです」
心臓がうるさい。頭の中もうるさい。
言葉が、浮かんだ側から
口を突いて出ていく。
整理も吟味もできない。
口を滑らせていないか、
他人事のように考える自分が小さい。
言葉が勝手に紡がれていく。
毛羽立った荒々しい縄が
見えない何かに引っ張られているみたいに、
するすると声が震える。
「ルミさんには笑っていてほしくて、
そのためには彼氏さんっていう
存在が必要で、だから私は
彼氏さんに無事でいてほしくて……」
止まらなきゃいけないのに、
私はブレーキとアクセルを
踏み間違えている。
それがわかっているのに、
足はアクセルから離れてくれない。
離せ離せと脳が送った指令は
体のどこかで迷子になって、
力強くアクセルを踏み抜く足先には
届いてくれない。
「私は、ルミさんのことしか考えてない……
彼氏さんの心配なんて全然……」
ようやく足が離れた。けど、それは
無事に止まったことにはならない。
ひしゃげた車の中で、
私は終わりを待ちながら
浅い呼吸を繰り返す。
視界が闇に侵されていき、
けど完全に飲み込まれる前に
一筋の光が差し込んだ。
その光の正体は彼女の声で、
それは曇りのないガラスみたいに
綺麗に透き通っていて、
森の中の苔むした岩のように
優しく潤っていた。
「──アスカ」
ルミさんが、私の手を取った。
開花の時を待つ蕾のように
重なり合う私達の四つの手。
それは、
親鳥に愛された卵のようにも思えた。
不意に、私の手が
ルミさんの胸元に引き寄せられる。
柔らかい膨らみに抵抗なく沈み込み、
その中に生きる確かな鼓動が
私の体に伝わってきた。
「ごめんなさい、こんな最低な私で」
鼓動の出所はルミさんの心臓──心だ。
今この瞬間も、彼氏さんへの想いを
絶えず募らせ続けている。
彼女の胸がドクンと脈打つその度に、
私の中に頭痛のような
痛みが流れ込んでくる。
もう、その手を離してほしかった。
「ううん……私の方こそごめんね。
アスカにこんな辛い思いさせて……」
「どうして……ルミさんが謝るんですか。
悪いのは……私なのに……」
「アスカはなにも悪くない。
会ったことない人の心配なんて、
誰にもできないよ。
悪いのは、むしろ私の方。
私は……ずっと逃げてるの。
アッくんがいなくなったことから。
そのせいで、アスカを泣かせた……」
ルミさんは俯くように
「ごめんなさい」と頭を下げた。
いまだ彼女の胸に沈む私の腕に、
冷たくて小さな一滴。
綺麗な球体だったその滴は、
歪に広がって染みていく。
「──でも、ありがとう」
「え?」
「アスカ、さっき言ってくれたでしょ?
私のことしか考えてないって。
あれ、すごく嬉しかった」
子供は、大切なものを抱き締める。
ぬいぐるみや玩具といった大好きな宝物を、
心を宿すその場所に固く抱き寄せる。
そんな愛しい姿を、
私はルミさんに垣間見た。
「あの言葉を聞いて、やっとわかったの。
私はずっと……誰かに側に
いてほしかったんだって。
捜索に協力とか……
本当はそんなこと求めてなくて……
ただ私を、一人にしないでほしかった」
ルミさんは言っていた。
友達や同僚が心配して『力になる』と
言ってくれたと。
けれど、その形はルミさんの思い描く
理想とは異なっていて、結果として
彼女の傷を深くするだけに終わった。
側にいてほしい。一人にしないでほしい。
そうか。それがルミさんの思い描く、
彼女自身でさえ今まで気付けなかった
『力になる』の理想型だったんだ。
とても簡単なことのように見えて、
その実とても難しい。
誰もが命の危機に瀕している
かもしれない失踪者を優先し、
残された人達もまた捜索に尽力するから。
ルミさんのような失踪から目を逸らして
逃げてしまう人は、捜索に向かう人々の
視界には入らない。
入らないから、気付けない。
なら、気付けた私は、どうしたらいいの?
その答えをくれたのは、彼女の声だった。
「でも、誰でもいいわけじゃなくて、
アスカがいいの。
私は……アスカに側にいてほしい」
私達の間にある空間が狭まっていく。
私の手は彼女の胸元から解放されたけど、
代わりに彼女の両手が
私の胸元に沈み込んだ。
圧迫された私の鼓動が、
体内で逃げ場を求めて荒れ狂う。
「逃げたままじゃ駄目なのはわかってる。
でも、
いつか必ずちゃんと向き合うから……。
だから、それまでは一緒にいさせて……」
頭の中が、心の中が、
酷くぐちゃぐちゃする。
絡み合って、もつれ合って、ほどけなくて、
それでもなお蠢いて。
どうして、私なの?
私は彼氏さんのことを、
ルミさんの笑顔を取り戻すための
手段にしか捉えていないのに。
そんな私が側にいて……
私がルミさんの理想になれるとは思えない。
でも、彼女はこんな私の側にいたいと
言ってくれた。誰でもいい訳じゃなくて、
私がいいのだと。
それは妥協ではなく、明確な希望。
私なんかでいいのかな……
私の心臓に覆い被さるルミさんの手。
そっと手を添えると、
霞のような儚い触り心地がした。
でも、ぎゅっと握ると実体がある。
彼女は確かにここにいる。
ルミさんの口から語られた不思議な夢。
彼氏さんの死に気付かせる連日の夢。
二人だけの特別な日から始まった、
とても温かくてとても悲しい夢。
彼女が夢を通じて感じ取ったことが
全て真実だとしたら、
彼女から受けた依頼は
とても辛い結果に終わる。
そうなった時、私に何ができるだろう。
わからない……どうしたらいいの。
私達の出会いから二年。
お互い、笑いすぎたり、感動したり、
そういう時にしか涙は見せてこなかった。
ほんの二、三数ヵ月前までの
楽しかった日々が、今はもう遥か遠い。
あの時、私が彼氏さんの話題を出した時……
悲しみの涙を流した。
あれから全てが始まったんだ。ああ、
あの時に戻って、もう一度やり直せたら……
あの時に、戻る……
ぐちゃぐちゃな私の中に光る確かな形。
口の中、歯が噛み合わさる音が響いた。
あの時、私の目の前で泣いたルミさん。
その姿を見て、私の中に芽生えた思い。
ルミさんを一人にしておけない。
そうだ。
だから、私は私は何でも屋なんだ。
困っている人を、私を頼ってきた人を
見捨てることができなくて、
あの思いが今の私を作っているんだ。
このまま立ち止まるのが、一番駄目だ。
わからないなら、わかることをやろう。
私でいいのかなとか、
余計なことは考えちゃ駄目だ。
何にせよ、ルミさんは私を頼ってきて、
私はルミさんを放っておけないと
感じていて、それなら答えはもう出ている。
「……わかりました。
しばらく、ここにいてください」
ルミさんは言った。いつか、
彼氏さんの失踪にちゃんと向き合うと。
私も、彼氏さんのことを
きちんと考えられるようにならないと。
彼女の言葉を素直に受け止めるために。
「ありがとう」
今までに何回も何人もの人から
同じ言葉を聞いた。不思議と、
今この瞬間の彼女の言葉が
一番重く心に響いたような気がした。
「それと、先に謝っとくね。
これから迷惑かけちゃうけど、ごめんね」
ありがとうと同じくらいの
重みを持った迷惑という言葉に、
私は身構えずにはいられなかった。
ルミさんの言う迷惑が何なのか、
容易に想像できたから。
今の彼女は、昼夜問わず
眠りに落ちれば例の夢を見る。
涙を溢れさせ、懐かしい気持ちにさせ、
その末に彼氏さんの死に気付かせる夢。
眠りから覚めた時、
彼女はひたすら泣き叫ぶのだろうか。
それとも自棄になって
周りのものに当たるのだろうか。
何にせよ、生半可な姿勢で
彼女の側にいてはいけないことはわかる。
「気にしないでください。
私が全部、受け止めますから」
この時、私は気付いていなかった。
私達が、すでに大きな事件に
巻き込まれていたということを。
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