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『双つの心』
其の七 ★
しおりを挟む「青耶さん……お願い、早く来て!」
蛍拿は、小さな声でつぶやいた。六斎日初更は、約束の刻限である。
蛍拿を以前、死の淵から救った修験者同様、真っ赤な天狗面をつけた唯一の味方、楚白の双子の弟《青耶》が、もうすぐここへ現れ、彼女を脱出させてくれる手筈だった。
それにしては、やけに遅い。待ちくたびれて、うたた寝してしまった蛍拿は、よもやその間に不手際が生じたのではないかと、気をもんだ。
しかし、彼女の懸念は杞憂に終わったらしい。
渡殿の太鼓橋をこちらに向かい、歩いて来る人影が見えたのだ。
蛍拿の表情はパッと輝き、喜び勇んで、鉄柵格子戸へと駆け寄った。
「うれしい! 待ってたのよ!」
そう云った瞬間、蛍拿は慄然と凍りついた。
青耶ではない!
男は、端整な白面である。
「ほぉ、今宵は随分、可愛いことを云ってくれるじゃないか、蛍拿。来た甲斐があったよ」
楚白の邪悪な笑みに、蛍拿は震撼した。
そうこうする内にも、楚白は鍵を開け、鳥篭離宮へ入って来る。
蛍拿は恐怖で、居すくまった。
「近づかないで……お願い」
「先夜は、つまらん幻影に惑わされ、果たせなかったが……今宵は、もう逃がさないぞ」
楚白は、自ら帯を解き、長袍を脱ぎ去った。
雄々しい裸体に、蛍拿は、いよいよ恐怖を覚えた。その上、彼の右足首に残る虎鋏でついた傷跡が、蛍拿の心の古傷まで、痛烈にえぐり出した。
〈この男のせいで……家族も、友も、故郷も、なにもかも喪ったんだ! なのに、今では、私の自由や、自尊心まで奪おうとしている! 嫌だ! この男だけは……絶対に嫌だ!〉
蛍拿は再び、結髪をたばねる笄を抜き、迫り来る楚白へと突きつけた。
震える心に鞭を入れ、蛍拿は辛辣な舌鋒で、楚白を威嚇する。
「それ以上、近づいたら、お前を殺してやる!」
楚白は、蛍拿決死の宣告を、鼻で一笑した。
「俺を、殺す? ハッ! できるもんか!」
楚白は、己の長袍を投げ、蛍拿の視界を奪うと、ひるんだ彼女へ一気に襲いかかった。
拳と腕力に物を云わせ、蛍拿の激しい抵抗を封じこめる。
笄はたちまち、叩き落とされた。
「卑しい下等種族に、高家劫貴族の血を注ぎこんでやる……感謝して享けろよ、蛍拿!」
楚白は、処女の細腕をひねり上げた。
己の肢で蛍拿の膝を割り、恥部を無惨にも押し広げ、精悍な躯幹を密着させて来る。
硬く張り詰めた突起物が、柔らかな下腹部に触れ、蛍拿はビクッと体を強張らせた。
「駄目ぇ! それだけは……許してぇぇえ!」
「いいや、許さん!」
泣きじゃくる蛍拿を威喝し、楚白はあくまで我欲を先行させた。
血走った獣の眼が、彼女の顔前にある。
〈この男だけは、絶対に嫌だ!〉
しかし、半狂乱で暴れる蛍拿を、楚白はついに、力尽くで征服してしまった。
蛍拿に、舌を噛むヒマも与えず、楚白は彼女の唇を吸った。
己の舌をからませ、蛍拿がひるんだ隙に、圧しかかった。堪えがたい苦痛が、蛍拿の体をつらぬいたのだ。髪を振り乱して、楚白が腰を振るたび、蛍拿の苦痛はいや増した。
武骨な手が、蛍拿の乳房や臀部、体中あらゆるところをまさぐり、蹂躙した。
つらぬかれたまま、抱き起こされ、蛍拿は楚白の胡坐をまたぐ格好になった。
男の肢の上、無様な姿で、延々と揺さ振られ続けた。踵で床を蹴り、蛍拿は死に物狂いで、楚白の虐使から逃れようとした。激痛で泣き叫び、あがき続けた。
「ひぃっ、痛っ! もう、やめてぇぇぇえっ!」
下肢から流れ出る血滴、獣欲にゆがんだ楚白の凶相、蛍拿の意識は、次第に遠くなった。
――愛しい朱牙天狗――復讐――後宮菊花殿――燃えさかる故郷――仲間たち――血飛沫――断末魔の悲鳴――すべてを奪った仇敵――《董楚白》……この世で、最も憎むべき男の毒牙に、蛍拿は到頭かかってしまったのだ。
「ああ……あっ……あぁあっ!」
白々と曙光に照らされ始めた鳥篭で、繰り広げられる落花狼藉……陵辱に堪える恒久の時間、蛍拿の心は、少しずつ崩れ始めた。恋しい《朱牙天狗》の面影も、後宮に上がって果たさんとした仇討ちも、すべてが水泡に帰す。泪も出ない。下肢がしびれて動けない。
この体は、蛍拿の物でなくなったのだ。最早、なにも考えられなかった。
楚白は、無我夢中で淫行に没頭している。時々低くうなり、何事かささやき、彼女の唇を吸った。その瞬間、蛍拿の心に夜叉が生まれた。
〈上……せめて、あなたの元へ、逝く前に……必ず、この男への復讐を果たします! この男の大切な、家名や体面、高位種族の自負心、誇りを……粉々に、打ち砕いてやる!〉
再び、床板へ寝かされた蛍拿は、陰惨な絶望に犯されるまま、婚礼の席で舌を噛み切り、董家の体面を穢し傷つけ、自害する夢を見た。
下腹部は熱を含み、じんじんと痛む。手足の痣、鬱血痕、体中にまとわりつく楚白の汗と、獣染みた匂いが、蛍拿に吐き気をもよおさせた。
「蛍拿、大切にしてやる。後悔は、させない。だから、俺を……」と、蛍拿の顔を上向かせ、優しくささやきかけた途端、卑族少女は大粒の泪をこぼした。
絶望が、彼女の瞳から光を奪った。楚白の心に、またしても混乱が生じた。
「クソ! お前なんか、『戴星印』がなければ、疾っくに斬り殺してるところだ! その額に、精々感謝するんだな! 薄汚い、非人卑族め!」
乱暴に臥所へ突き放し、楚白は長袍を着こんだ。
裸のまま、震える蛍拿を捨ておき、楚白は鳥篭を去った。無論、施錠は忘れなかった。
折角、捕らえた金の鳥を、逃がす手はない。
渡り廊下を遠ざかる楚白の足音に、蛍拿は心を閉ざした。そしてこの日を境に、哀れな戴星鳥は啼くことをやめてしまった。心も言葉も持たぬ人形だ。
蛍拿はただ、婚礼の席で自害する夢だけをよすがに、生きる屍と化したのだ。
「おお、これが噂の【戴星姫】か! 確かに御験が……だが、真偽のほどは、確かめたのだろうな!? 高家に取り入るため、額に奇妙な細工をほどこしているのでは、ないだろうな!? 以前にそうした悪例があったのも、事実だぞ!」
「ご安心ください、父上。すでに検分済みです」
「そうか。ならば、よいが……うぅむ。随分と無口で大人しい喃。まぁ、卑族といえども天帝の御遣いたる女子ゆえ、気性が穏やかなのはなにより。劫初内の高官連中も驚くぞ! お前に、羨望の眼差しを向けることであろうな! 今から婚礼が愉しみだよ、楚白!」
董家主人である『闈司・姑洗太保』朱薇と面会した際も、蛍拿は騒がなかった。
豪奢な襦裙で着飾った異国風美少女は、他にも色々な理由で訪れる婚礼儀式当日の媒酌人や列席者、賓客たちと、静かに顔合わせした。老家宰典磨や、李蒐武官が拍子抜けするほど、蛍拿は従順にふるまった。反抗的態度は、影をひそめていた。
「どうも、嫌な予感がする喃……李蒐」
「ええ、御老体。あの娘の、思いつめた眼差しは……きっと、なにか企んでおりますぞ」
――若君は、実に果報者ですなぁ。
――戴星姫を見つけ出すなんて、奇跡だ。
――よく見れば、卑族娘も美しいモノだな。
――御験のせいだろ。けど、やったな、楚白。
――戴星姫の神通力を得れば、百人力ですね。
――董家はますます、繁栄するでしょうな。
婚礼の吉報が、劫初内各所へ伝播してからというもの、祝客は引っきりなしに訪れた。
蛍拿はさながら、晒し者であった。物珍しさと好奇心が、人々の目を惹きつける。
恥辱と怒りを抑えこみ、蛍拿は楚々と応対した。
「お前は案外、物分かりがいいんだな」
常にそばへつきそう楚白は、蛍拿の平静な態度に喜色満面。さもうれしそうに、うそぶいたものだ。
「婚礼は、いよいよ明晩。そうしたら、お前の居室を母屋へうつす。窮屈な鳥篭離宮とも、今宵限りだぞ。だから最後の晩を思いきり、愉しもう、蛍拿」と、彼女の耳朶に口づける。
あれからさらに一月、今では楚白の方が、蛍拿の体を隅々まで知り尽くしている。
その夜の楚白は、じっくりと時間をかけて、蛍拿をまさぐった。
蛍拿の中で、トロトロと燃えさかり始めた罪悪感に、より一層の油を注いだ。
〈ごめんなさい……皆が命懸けで守ってくれた『戴星印』を……結局、この男に穢されてしまった……もう私は、昔の蛍拿じゃない。汚らわしい、ただの淫売なのよ……〉
「どうか……許して」
すでにあれから、幾度もかさねられた交合。
いつしか悦楽に屈服し、楚白の愛撫を、理性で抑圧せねばならぬ体へと、ならされてしまった蛍拿だ。久方ぶりに発した、蛍拿の言葉らしい言葉を、楚白は驚いて聞き返した。
「蛍拿……今、なんと云ったんだ?」
蛍拿は再び、貝のように口をつぐむ。楚白は腹を立て、蛍拿の尻尾をつかみ、高々と尻を持ち上げると、乱暴に背後から攻め立てた。蛍拿は、体をのけぞらせた。
「答えろ、蛍拿!」
「あぁ……あぐっ……あぁあっ! あんっ!」
苦しげにうめくばかりで、やがて蛍拿は忘我した。憎悪する男が与える愉悦は、蛍拿の心を蝕み、否応なくひずませた。徐々に感覚を麻痺させ、破壊し、厭世のすべてを隔絶してしまう。
まるで、ぶあつい胎衣につつまれたようだ。楚白の姿も、己の淫靡な痴態も白濁し、苦痛も、羞恥心も、激情さえも、だんだんと薄らいで往く。
〈婚礼の席で花婿を殺し……自害する!〉
人としての自尊心まで踏みにじられた蛍拿は、その瞬間だけを生きる支えにした。
鳥篭離宮での悲惨な閨事で、汚濁まみれにされてしまった己の人生を、すべて白紙撤回するには……もうそれ以外、手立ては残されていなかったのだ。
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