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昌幸と家康

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 家康が雑兵たちの構える陣に足を踏み入れると、何やら聞き覚えのある声が聞こえてきた。

「武田様は懐の広いお方……。寝返った者も重用してくださる……。なにより、実力次第では城持ちにもしてくれるぞ!」

「あれは……」

 聞き覚えのあるかん高い声。

 間違いない。木下秀吉のものだ。

「なぜここに……」

 飛騨での撤退で殿を務めた秀吉は、そのまま戦死したものと思われていた。

 それが、なぜここにいるというのか……。

 だが、そんなことはどうでもいい。

 柴田勝家が討ち死にした今、秀吉の帰還は何よりも心強い。

「木下殿!」

 家康が駆け寄ると、秀吉が「げぇっ」と顔をしかめた。

「と、徳川殿……」

「心配していましたぞ。てっきり、飛騨でお討ち死にされたものかと……」

「あ、いや、その……」

「む? こちらの御仁は……?」

 家康の視線が真田昌幸に向けられる。

「それがし、真田昌幸と申す。武田家では侍大将を任されておる」

「なっ……」

 昌幸の名乗りに、家康が絶句した。

 家康だけではない。

 秀吉もまた、昌幸の行動に目を剝いていた。

(なぜ素直に名乗る! ここは適当なことを言って誤魔化すところだろ!)

(恥ずかしながら、儂は嘘が苦手で……)

(嘘つけ!)

 秀吉が小声でツッコむ。

「……驚いたわ。よもや武田の者がここに来ようとは……」

 顔では驚きながらも、腰に下げた刀に手を乗せる。

 隙あらばいつでも斬る。

 そんな気配を漂わせ、家康が昌幸の様子を覗った。

 昌幸もまた腰に下げた刀に手を伸ばすと──

「っ!?」

 ──刀を家康の足元に捨てた。

「なっ……どういうつもりじゃ!」

「こうでもせねば、徳川殿も話を聞いてはくれますまい」

 家康が足元に投げられた刀に目を向けた。

 ……どうやら争うつもりはないらしい。

 家康の力が僅かに抜ける。

 それを見て、昌幸が薄っすらと笑みを浮かべた。

「話というのは、他でもない。徳川殿のかつての領地、三河のことよ」

 三河と聞いて、家康の目の色が変わった。

「たしか、義信は三河に本拠地を移したのだったな……。義信に攻められ、三河を失った儂を笑いに来たのか」

「さにあらず。三河の国衆のことよ。
 三河侵攻ののち、お館様は三河の国衆を手中に収められた。
 しかし、未だに徳川殿を慕う者が多く、お館様も難儀されておる。
 ……そこでじゃ。お主、お館様の家臣とならぬか?」

「なに!?」

「もちろんタダとは言わぬ。郡二つ……いや、三つくらいならお主の領地としていいぞ」

「……………………」

 三河を追われて以降、家康は事実上、信長の家臣となった。

 とはいえ、心から忠誠を誓っているわけではない。

 信長についたのも、あくまで義信を打ち倒し三河に帰り咲くための布石にすぎない。

 しかし、いま義信に降れば三河の一部を返してもらえるという。

 ……悪い話ではないのではないか。

 逡巡する家康に、昌幸が続けた。

「もちろん、郡三つとは言わぬ。働き次第ではあるが、武田家が天下を取った暁には、三河一国を領地に賜われるやもしれぬぞ」

 家康の額を汗が伝った。

 昌幸に提示された条件は破格のものだ。

 現状、兵数では優位となっているものの、織田軍に勢いはない。

 それなら、武田軍に降った方が、得なのではないか。

 そこまで考えて、いやいやと首を振った。

「……武田家中は譜代も多い。新参者の儂が降ったところで、出世など望めるはずもなかろう」

「それは違いますぞ!」

 口を挟んだのは、他ならぬ木下秀吉であった。

「飛騨戦役で捕らえられたのちは、それがしはお館様にお仕えしております。その儂が、今では侍大将にまで任ぜられておる。
 この儂が侍大将なのだ。徳川殿であれば、国持ちなどあっという間よ」

「木下殿……」

 実際に寝返った秀吉の言葉は、どこか説得力があった。

 少し考えると、家康が口を開いた。

「此度のお話、実にありがたいことだ……」

「では……」

「されど、どうあってもそれは呑めぬ」

 岡崎城から脱出する際、徳川家臣たちは命を賭して家康を逃してくれた。

 その家康が武田家臣となっては、あの世で家臣たちに合わせる顔がないではないか。

「この徳川家康、仇敵に尻尾を振るくらいなら、潔く死を選び申す! ゆえに、何があっても武田義信に降るなどありえぬわ!」

「それは残念……」

 真田昌幸が少しも残念でなさそうに言う。

「武田の間者め! 晒し首にしてくれる!」

 刀を抜くと、家康が襲いかかった。

 すんでのところでそれを躱すと、昌幸は家康の足元を指差した。

「気をつけろ。お主の足元に落ちているそれは、紛れもない名刀じゃ。世が世なら、城一つ手に入るようなシロモノよ……」

「なに!?」

「えっ!?」

 家康の視線が、ついでに秀吉の視線が足元の刀に寄せられる。

 その隙に、昌幸は辺りの雑兵に向けて声を張り上げた。

「武田軍につけば、恩賞は思いのままぞ!」

 懐から小粒金をバラ撒くと、雑兵たちの足元に転がった。

「これって……」

「金だ!」

「金が落ちてるぞ!」

 雑兵たちがその場に群がり、我先にと足元の金を拾っていく。

 雑兵たちに紛れるように、昌幸と秀吉はその場をあとにするのだった。





 二人を見失うと、家康は思わず地団駄を踏んだ。

「くそっ!」

 と、足元に落ちている刀が目についた。

『気をつけろ。お主の足元に落ちているそれは、紛れもない名刀じゃ。世が世なら、城一つ手に入るようなシロモノよ……』

 昌幸の言葉が脳裏をよぎる。

「……………………」

 せっかくの名刀だ。

 敵が捨てたものとはいえ、捨て置くには惜しい。

 昌幸の放った刀を、家康はそっと懐に仕舞うのだった。
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