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6章 花子さんのいるトイレ
ことの始まり
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ことの始まりはいつも通り、真咲先輩の何気ない一言が発端だった。その日は珍しくメンバーが全員部室に集まっていた。いつもより狭く感じる部室の中でも真咲先輩の声はよく通る。
「新校舎の一階の女子トイレに花子さんが出る」
怪談の王道、怪異の大御所とも言える花子さん。どこの学校にも伝わっているほど有名な話だけれどありふれ過ぎていて、怪異ひしめく祥天高校ではキャラが薄い気がする。
「どうして新校舎に出るんだろうね」
真咲先輩は部屋中に響く声でみんなに聞こえるよう高らかに言うけれど、瞳はじっと僕を捉えていた。つまり僕に話しかけているのだ。
「どうしてって、新校舎の女子トイレに思い入れがあるからじゃないですか?」
僕が模範解答をすると真咲先輩はさらに突っ込んできた。
「不思議だろう? 旧校舎は戦前からあって戦後も建て直された歴史のある場所だ。嘘か真か、戦国時代にあの場所で大規模な合戦があったとか処刑場があったともいわれている。今では滅多に人の訪れもなく中はボロボロ、薄暗くてじめじめしている。だから旧校舎が怪異の巣窟になってしまうのも致し方ない」
浅場先輩が机の上に置いたファイルを繰った。紙を傷めないよう、白い指で優しくめくりながら言う。
「新校舎の女子トイレで何か事件があったという記録はありません」
なるほど。経験上、花子さんのように「特定の場所に出る」怪異はその場所に執着している。そこで何かをなくしたとか、死んだとか。自殺者が出たトイレは人が出入りできないよう封鎖されたりするらしいけれど、祥天高校にそんな話はないようだ。
「あまり考えたくないけど水子の霊ということはないようだしね」
……高校生くらいになればそういう話もある。妊娠した女の子が誰にも言えずにトイレで出産して子どもを捨てたりとか。
「一方で男子トイレに何か出るという話はあまり聞かない。女子トイレは全部個室だから『何かいるんじゃないか』っていう気持ちを起こさせるのかも知れないね」
まるで見てきたように真咲先輩は言う(先輩は調査のためなら女子トイレだろうが火の中だろうが飛び込んでいく気がするけど)。僕は女子トイレに入ったことがないから想像しかできないけど確かにそういうものかもしれない。
「怪奇スポットというのはあまり人が立ち入らない場所、視界が悪くなる場所ですから。野外だと廃墟やトンネルがありがちです」
と浅場先輩。確かにデパートやレストランの怪談はあまり聞かないかもしれない。閉店後のデパートでマネキンが動くとか、誰もいないレストランで割れた皿を数える声が聞こえるという話があっても良さそうだけれど。噂が流れるには「いかにも出そう」「何かいるのでは?」という雰囲気が必要なんだろう。怪異も舞台にはこだわるのかもしれない。
「単なる噂なら僕も気にしないんだけどね、どうも女子トイレに何かがいるのは確かのようだ」
そう言って先輩は神妙な面持ちになった。怪異体験クラブなんていう後ろ向きなクラブの中でも、真咲先輩は明るく振る舞っている。いつも堂々としているからなんとなく「何かあってもどうにかなるんじゃないか」と思わせてくれる。そんな先輩の真剣な視線が胸に刺さって、僕は自分の心臓が跳ねる音が聞こえた気がした。思わず身構える。
「だいぶ前から、女子トイレの一番奥の個室から『誰も入っていないのに女の子の声がする』とか『誰もいないのに勝手に水が流れた』とか、その程度の話はあったようだね。水については、トイレの機能として長い時間使われないでいると自動で水を流すというものがある。汚れ防止のためにね。けれどここ一週間くらいで『トイレに入ったら壁が真っ赤だった』、『トイレに入ろうとしたら何かに腕を掴まれた』なんていう具体的な報告が飛び込んできた。たとえ人間の仕業だとしても悪質だからね。調べておく必要はあると思う」
ちなみに、一度だけ体育の大柄な先生がトイレに入って確認したことがあるらしい。けれど何も異常がなかったので、報告に来た生徒が怒られたという話だった。先生をからかったと思われたのかもしれない。だからまた何かあったとしても先生には頼みづらいのだ。多分、本当に何か事件が起きてからでないと動いてくれないのだろう。それでは遅いのに――
真咲先輩は正義感じゃなくてただの好奇心からかもしれないけど、調査するのは一階のトイレを使う女子たちにはありがたいだろう。しかも調査に乗り出すのは怪異体験クラブのメンバーだ。放置されてきたトイレの花子さん問題に少し希望が見えてきたかもしれない。
でもそれは大きな間違いだった。僕はもちろん、真咲先輩でさえ見誤っていたのだ。相手の実力を。
夕暮れの放課後はゆったりした時間が流れている反面、どこかうら寂しさも感じさせる。自分が外の世界と切り離されて全く別の世界に迷い込んだような気分になるのだ。まるでちょっとした神隠しのような。校庭から聞こえる不揃いの掛け声、音楽室から聞こえてくる吹奏楽部の舌足らずな演奏。確かに自分以外の誰かがいるのに、それは全部どこか別の世界から聞こえてくる――スピーカーを通して聞くような、よそよそしさがあった。
そこで何をしていたかというと、僕は一階の女子トイレの前で見張りをしていた。女子トイレに入った真咲先輩を誰かに見られないよう、入口を見張る必要があったのだ。もし誰かがトイレの前に来ても、僕が一声掛けて先輩は個室に飛び込んで鍵を締めればいい。でも、女子トイレの近くでずっと男子生徒が突っ立っているのはやっぱり怪しいよな……。幸いまだ誰もこの場所を通っていない。女子に頼もうかと思ったけれど、真咲先輩はあえて僕に頼みたかったのだそうだ。理由はてんで分からないけれど「これは決定だ」と言わんばかりに先輩が部室を飛び出して行って、残されたメンバーの中に異議を申し立てる人もいなかった。
それに、僕も真咲先輩と一緒に行動するのは久しぶりなので「たまにはいいか」と思ってしまった。その判断が正解だったのかは今でも分からない。
一分、二分……。正確に数えていたわけじゃないけど五分は経っただろうか。ただ待っているだけだと時間の流れが遅く感じる。先輩が何をしているのか気になって、僕はそっと女子トイレの中を覗きこんだ。けれど先輩の姿は見えない。個室に入っているんだろうか? どの個室のドアも開いているけれど先輩の背中を見つけることは出来なかった。
ぴちゃん、と水の跳ねる音がした。飛び上がりそうなほどびっくりした僕は慌てて音の鳴っている場所を探した。洗面台の蛇口が緩くなっているんだろうか? 耳をそばたてても同じ音は聞こえてこない。空耳だったのか? 僕はおずおずと声をかけた。
「先輩?」
返ってくる声はない。学校のトイレなんていう狭い場所で僕の声が届かないはずはない。僕はさらに身を乗り出して女子トイレの中に足を踏み入れた。花子さんが出ると噂の個室はトイレの一番奥にある。先輩は、そこにいるはず。無意識に足音を殺すような忍び歩きをして、ゆっくり目的の個室へ近づいた。嫌な予感がするけれど当たらないでほしいと願う。トイレの突き当たり――。すりガラスの窓の手前にある個室のドアは開いていた。そっと覗き込む。誰もいない……。
「もう一人いたんだ」
知らない女の子の声がした。反射的にトイレから飛びすさる。僕は姿の見えない「何か」への恐怖で、狂ったように首をぶるぶる振って辺りを見回した。
「この子のお友達?」
聞き間違いじゃない。はっきり聞こえた。そしてその声は……。僕はゆっくりと天井を見上げた。天井からずるりと細い腕が降りてくる。
まるで天井が水面のようにゆらゆらと揺れて、波紋の中心から女の子の顔が覗いた。ちょうど僕たちと同じくらいの年の女の子……に見える。肩で切りそろえたおかっぱと椿のように真っ赤な唇に、血の抜けたように白い肌がよく似合っていた。
それは想像していたよりもずっと人間らしく、理性的に僕へ話しかけてきた。
「でもだぁめ。この子は返してあげない」
女の子――彼女が花子さんだろう――はくすぐったそうにころころと笑った。何がおかしいんだろう。立すくんで何も言い返せないでいる、情けない僕の姿を見てあざ笑っているんだろうか。
「これからは私、この子とずっと遊ぶの」
彼女はそう言って水面の中に姿を消した。ちゃぽんと雫のしたたるような音がして、それきりトイレの中は静まりかえった。物音ひとつしない。一瞬、夢を見ていたんじゃないかと思えるほどだ。けれど今見たものが現実だというように、便器のそばにそれは落ちていた。三年生の学年章。一階には一年生の教室しかない。どうしてここに三年生の学年章があるのか? ……もちろんそれは分かっている。
確かに真咲先輩はこの個室へ入ったのだ。そして花子さんに襲われて、たぶん連れていかれてしまった。どこへ? それは分からない。先輩が油断していたとは思えないけれど、声を上げるヒマもなく彼は連れ去れてしまった。僕は床に落ちた真咲先輩の学年章を拾い上げる。
どうして花子さんが僕を見逃したのかは知らない。僕は彼女のお眼鏡にかなわなかったのかもしれなかった。でもそのおかげで出来ることがある。僕は後ろも振り返らずにトイレを飛び出した。誰もいない廊下を上履きで走って階段を一段飛ばしで駆け抜ける。息を切らしながら、きっと情けない顔をしながら部室へ向かってひた走った。
部室の扉を勢いよく開けた僕の顔を見て、残っていたメンバーは思い思いの表情を浮かべた。ただならぬ状況になったことを、全員が察知してくれたらしい。さすがは怪異体験クラブといったところか。いや、感心している場合じゃない。
一体、今の僕はどんな表情をしているんだろう。いつも涼し気に微笑んでいる鈴原さんですら眉をひそめていた。最初に声を掛けてくれたのは浅場先輩だった。
「何があったんですか? 保科くん」
僕が血相を変えて一人で帰ってきたことに不穏な空気を感じ取ったはずだ。それでも先輩は努めて冷静に尋ねてくれた。いつも以上に、彼の落ち着き払った態度が頼もしく思える。そんな彼を見ていると、僕の心臓の鼓動もだんだんと落ち着いてくる気がした。落ち着け、見たことを一つ一つゆっくりでいいから正確に説明するんだ……。
僕はトイレで目撃したことをありのままに話した。直接見ていないけど真咲先輩が花子さんに連れ去られたであろうことを。なんとか正気を保って話しているけれど、今この瞬間も先輩が無事だという保証はどこにもない。でも、そこはあえて意識しないようにした。気にしてしまうと、とても平静を装おうなんて出来ないからだ。
僕が喋り終えると部室は放課後の教室らしい静寂に包まれた。部室の壁に掛けられた時計の秒針がせっせと働く音が妙に大きく聞こえる。みんなは顔を伏せて各々思いにふけっているようだった。静けさに耐えかねて口を割ったのは野々宮先輩だ。
「その花子さんって霊をさ、退治しちゃうことって出来ないの?」
彼女はそう言ってから神木先輩の方へ向き直った。野々宮先輩も神木先輩の力のことは知っているらしい。神木先輩はしかつめらしい顔をして黙っている。浅場先輩が話を引き取って進めた。
「これまでの調査から花子さんはトイレから出てこない――あるいは出られないと推測されます。よって、トイレに入らなければ僕たちの身の安全は保障されると考えていいでしょう」
「あら、浅場君は真咲君のことを見捨てるのかしら?」
と鈴原先輩がこともなげに言った。僕は驚いて浅場先輩を振り返る。
「いいえ、作戦を練る時間はまだあるということです。もっとも、真咲先輩が今どういう状態にあるか分からない以上、なるべく急ぐ必要はありますが……」
退治しちゃおーよ! と野々宮先輩が続く。花子さんを退治すれば真咲先輩は助かるかもしれないし、花子さんが消えても真咲先輩は帰ってこないかもしれない。けれど、他に方法がないのだ。花子さんを除霊して一か八か真咲先輩が帰ってきてくれることに掛けるしかない――。
……いや、そう思えるけれど本当にそうだろうか? 僕は思い出す。今でもはっきりと頭の中に思い描くことができた。初めて真咲先輩に出会った時のこと、怪異の存在を知った時のこと、死の呪いにかかった僕と一緒にいてくれた真咲先輩の言葉や行動を。
そう、他にも方法はあるんじゃないだろうか。きっと。
「浅場先輩、花子さんがトイレに出る理由って分かりますか?」
話を遮るようで恐縮だけれど、僕はおずおずと浅場先輩に切り出した。浅場先輩は虚を突かれたようで一瞬黙ったけれど、すぐに返してくれた。
「それが……よく分かっていません。花子さんの話自体はかなり昔からあります。昭和の五十年くらいまで遡ることができて、もっと古い時代まで彼女は存在していたかもしれません。けれど花子さんがトイレに出る理由は今も不明のままです」
なるほど。僕が考えこもうとすると、浅場先輩ははっとしたように僕を見た。メンバーの中でもとりわけ察しのいい彼は僕の目論見に気づいてくれたらしい。
「まさか……花子さんの無念を晴らそうとしているんですか?」
他のメンバーはぎょっとして顔を上げた。本気でそんなことを考えているのかと疑わしい視線、本当にそんなことが出来るのかという戸惑う視線。色々な感情が僕に向けられている。けれど僕は堂々と頷いた。
「特定の場所に出る幽霊には、そこに何か理由があるんですよね? 多分、花子さんにはあの場所から動けない理由があるんだと思うんです。それを解決してあげればいいんじゃないかって」
「……除霊ではなく成仏させる、ということですか」
「初めて真咲先輩に出会った時、僕は呪いの本――西沢かなえさんに呪いをかけられました。きっと除霊することだってできたのに、あえて先輩はそうしませんでした。西沢さんの願いを叶えてあげることで彼女を成仏させたんです」
「君にもそれが出来ると?」
「分かりません。いや、僕だけだったら難しいと思います。でも、みなさんと一緒なら」
僕は部室にいるメンバーの顔を一人ひとり見回した。一緒に怪異と遭遇して、それでも共に生き延びてきた彼らのことを。浅場先輩は顎に手を当てて考え込んでいる。野々宮先輩も「うーん」とうなっていた。鈴原先輩は素知らぬふりをしているようだけれど、彼女なりに真咲先輩の身を案じているのかもしれない。神木先輩はじっと僕を見ていた。
「保科君は花子さんを見たんですよね?」
浅場先輩の言葉に僕は首を縦に振った。
「彼女は何か言っていませんでしたか?」
えーと、確か……
「お友達とか、この子と遊ぶとか……」
「この子?」
「多分、真咲先輩のことだと思います」
「新校舎の一階の女子トイレに花子さんが出る」
怪談の王道、怪異の大御所とも言える花子さん。どこの学校にも伝わっているほど有名な話だけれどありふれ過ぎていて、怪異ひしめく祥天高校ではキャラが薄い気がする。
「どうして新校舎に出るんだろうね」
真咲先輩は部屋中に響く声でみんなに聞こえるよう高らかに言うけれど、瞳はじっと僕を捉えていた。つまり僕に話しかけているのだ。
「どうしてって、新校舎の女子トイレに思い入れがあるからじゃないですか?」
僕が模範解答をすると真咲先輩はさらに突っ込んできた。
「不思議だろう? 旧校舎は戦前からあって戦後も建て直された歴史のある場所だ。嘘か真か、戦国時代にあの場所で大規模な合戦があったとか処刑場があったともいわれている。今では滅多に人の訪れもなく中はボロボロ、薄暗くてじめじめしている。だから旧校舎が怪異の巣窟になってしまうのも致し方ない」
浅場先輩が机の上に置いたファイルを繰った。紙を傷めないよう、白い指で優しくめくりながら言う。
「新校舎の女子トイレで何か事件があったという記録はありません」
なるほど。経験上、花子さんのように「特定の場所に出る」怪異はその場所に執着している。そこで何かをなくしたとか、死んだとか。自殺者が出たトイレは人が出入りできないよう封鎖されたりするらしいけれど、祥天高校にそんな話はないようだ。
「あまり考えたくないけど水子の霊ということはないようだしね」
……高校生くらいになればそういう話もある。妊娠した女の子が誰にも言えずにトイレで出産して子どもを捨てたりとか。
「一方で男子トイレに何か出るという話はあまり聞かない。女子トイレは全部個室だから『何かいるんじゃないか』っていう気持ちを起こさせるのかも知れないね」
まるで見てきたように真咲先輩は言う(先輩は調査のためなら女子トイレだろうが火の中だろうが飛び込んでいく気がするけど)。僕は女子トイレに入ったことがないから想像しかできないけど確かにそういうものかもしれない。
「怪奇スポットというのはあまり人が立ち入らない場所、視界が悪くなる場所ですから。野外だと廃墟やトンネルがありがちです」
と浅場先輩。確かにデパートやレストランの怪談はあまり聞かないかもしれない。閉店後のデパートでマネキンが動くとか、誰もいないレストランで割れた皿を数える声が聞こえるという話があっても良さそうだけれど。噂が流れるには「いかにも出そう」「何かいるのでは?」という雰囲気が必要なんだろう。怪異も舞台にはこだわるのかもしれない。
「単なる噂なら僕も気にしないんだけどね、どうも女子トイレに何かがいるのは確かのようだ」
そう言って先輩は神妙な面持ちになった。怪異体験クラブなんていう後ろ向きなクラブの中でも、真咲先輩は明るく振る舞っている。いつも堂々としているからなんとなく「何かあってもどうにかなるんじゃないか」と思わせてくれる。そんな先輩の真剣な視線が胸に刺さって、僕は自分の心臓が跳ねる音が聞こえた気がした。思わず身構える。
「だいぶ前から、女子トイレの一番奥の個室から『誰も入っていないのに女の子の声がする』とか『誰もいないのに勝手に水が流れた』とか、その程度の話はあったようだね。水については、トイレの機能として長い時間使われないでいると自動で水を流すというものがある。汚れ防止のためにね。けれどここ一週間くらいで『トイレに入ったら壁が真っ赤だった』、『トイレに入ろうとしたら何かに腕を掴まれた』なんていう具体的な報告が飛び込んできた。たとえ人間の仕業だとしても悪質だからね。調べておく必要はあると思う」
ちなみに、一度だけ体育の大柄な先生がトイレに入って確認したことがあるらしい。けれど何も異常がなかったので、報告に来た生徒が怒られたという話だった。先生をからかったと思われたのかもしれない。だからまた何かあったとしても先生には頼みづらいのだ。多分、本当に何か事件が起きてからでないと動いてくれないのだろう。それでは遅いのに――
真咲先輩は正義感じゃなくてただの好奇心からかもしれないけど、調査するのは一階のトイレを使う女子たちにはありがたいだろう。しかも調査に乗り出すのは怪異体験クラブのメンバーだ。放置されてきたトイレの花子さん問題に少し希望が見えてきたかもしれない。
でもそれは大きな間違いだった。僕はもちろん、真咲先輩でさえ見誤っていたのだ。相手の実力を。
夕暮れの放課後はゆったりした時間が流れている反面、どこかうら寂しさも感じさせる。自分が外の世界と切り離されて全く別の世界に迷い込んだような気分になるのだ。まるでちょっとした神隠しのような。校庭から聞こえる不揃いの掛け声、音楽室から聞こえてくる吹奏楽部の舌足らずな演奏。確かに自分以外の誰かがいるのに、それは全部どこか別の世界から聞こえてくる――スピーカーを通して聞くような、よそよそしさがあった。
そこで何をしていたかというと、僕は一階の女子トイレの前で見張りをしていた。女子トイレに入った真咲先輩を誰かに見られないよう、入口を見張る必要があったのだ。もし誰かがトイレの前に来ても、僕が一声掛けて先輩は個室に飛び込んで鍵を締めればいい。でも、女子トイレの近くでずっと男子生徒が突っ立っているのはやっぱり怪しいよな……。幸いまだ誰もこの場所を通っていない。女子に頼もうかと思ったけれど、真咲先輩はあえて僕に頼みたかったのだそうだ。理由はてんで分からないけれど「これは決定だ」と言わんばかりに先輩が部室を飛び出して行って、残されたメンバーの中に異議を申し立てる人もいなかった。
それに、僕も真咲先輩と一緒に行動するのは久しぶりなので「たまにはいいか」と思ってしまった。その判断が正解だったのかは今でも分からない。
一分、二分……。正確に数えていたわけじゃないけど五分は経っただろうか。ただ待っているだけだと時間の流れが遅く感じる。先輩が何をしているのか気になって、僕はそっと女子トイレの中を覗きこんだ。けれど先輩の姿は見えない。個室に入っているんだろうか? どの個室のドアも開いているけれど先輩の背中を見つけることは出来なかった。
ぴちゃん、と水の跳ねる音がした。飛び上がりそうなほどびっくりした僕は慌てて音の鳴っている場所を探した。洗面台の蛇口が緩くなっているんだろうか? 耳をそばたてても同じ音は聞こえてこない。空耳だったのか? 僕はおずおずと声をかけた。
「先輩?」
返ってくる声はない。学校のトイレなんていう狭い場所で僕の声が届かないはずはない。僕はさらに身を乗り出して女子トイレの中に足を踏み入れた。花子さんが出ると噂の個室はトイレの一番奥にある。先輩は、そこにいるはず。無意識に足音を殺すような忍び歩きをして、ゆっくり目的の個室へ近づいた。嫌な予感がするけれど当たらないでほしいと願う。トイレの突き当たり――。すりガラスの窓の手前にある個室のドアは開いていた。そっと覗き込む。誰もいない……。
「もう一人いたんだ」
知らない女の子の声がした。反射的にトイレから飛びすさる。僕は姿の見えない「何か」への恐怖で、狂ったように首をぶるぶる振って辺りを見回した。
「この子のお友達?」
聞き間違いじゃない。はっきり聞こえた。そしてその声は……。僕はゆっくりと天井を見上げた。天井からずるりと細い腕が降りてくる。
まるで天井が水面のようにゆらゆらと揺れて、波紋の中心から女の子の顔が覗いた。ちょうど僕たちと同じくらいの年の女の子……に見える。肩で切りそろえたおかっぱと椿のように真っ赤な唇に、血の抜けたように白い肌がよく似合っていた。
それは想像していたよりもずっと人間らしく、理性的に僕へ話しかけてきた。
「でもだぁめ。この子は返してあげない」
女の子――彼女が花子さんだろう――はくすぐったそうにころころと笑った。何がおかしいんだろう。立すくんで何も言い返せないでいる、情けない僕の姿を見てあざ笑っているんだろうか。
「これからは私、この子とずっと遊ぶの」
彼女はそう言って水面の中に姿を消した。ちゃぽんと雫のしたたるような音がして、それきりトイレの中は静まりかえった。物音ひとつしない。一瞬、夢を見ていたんじゃないかと思えるほどだ。けれど今見たものが現実だというように、便器のそばにそれは落ちていた。三年生の学年章。一階には一年生の教室しかない。どうしてここに三年生の学年章があるのか? ……もちろんそれは分かっている。
確かに真咲先輩はこの個室へ入ったのだ。そして花子さんに襲われて、たぶん連れていかれてしまった。どこへ? それは分からない。先輩が油断していたとは思えないけれど、声を上げるヒマもなく彼は連れ去れてしまった。僕は床に落ちた真咲先輩の学年章を拾い上げる。
どうして花子さんが僕を見逃したのかは知らない。僕は彼女のお眼鏡にかなわなかったのかもしれなかった。でもそのおかげで出来ることがある。僕は後ろも振り返らずにトイレを飛び出した。誰もいない廊下を上履きで走って階段を一段飛ばしで駆け抜ける。息を切らしながら、きっと情けない顔をしながら部室へ向かってひた走った。
部室の扉を勢いよく開けた僕の顔を見て、残っていたメンバーは思い思いの表情を浮かべた。ただならぬ状況になったことを、全員が察知してくれたらしい。さすがは怪異体験クラブといったところか。いや、感心している場合じゃない。
一体、今の僕はどんな表情をしているんだろう。いつも涼し気に微笑んでいる鈴原さんですら眉をひそめていた。最初に声を掛けてくれたのは浅場先輩だった。
「何があったんですか? 保科くん」
僕が血相を変えて一人で帰ってきたことに不穏な空気を感じ取ったはずだ。それでも先輩は努めて冷静に尋ねてくれた。いつも以上に、彼の落ち着き払った態度が頼もしく思える。そんな彼を見ていると、僕の心臓の鼓動もだんだんと落ち着いてくる気がした。落ち着け、見たことを一つ一つゆっくりでいいから正確に説明するんだ……。
僕はトイレで目撃したことをありのままに話した。直接見ていないけど真咲先輩が花子さんに連れ去られたであろうことを。なんとか正気を保って話しているけれど、今この瞬間も先輩が無事だという保証はどこにもない。でも、そこはあえて意識しないようにした。気にしてしまうと、とても平静を装おうなんて出来ないからだ。
僕が喋り終えると部室は放課後の教室らしい静寂に包まれた。部室の壁に掛けられた時計の秒針がせっせと働く音が妙に大きく聞こえる。みんなは顔を伏せて各々思いにふけっているようだった。静けさに耐えかねて口を割ったのは野々宮先輩だ。
「その花子さんって霊をさ、退治しちゃうことって出来ないの?」
彼女はそう言ってから神木先輩の方へ向き直った。野々宮先輩も神木先輩の力のことは知っているらしい。神木先輩はしかつめらしい顔をして黙っている。浅場先輩が話を引き取って進めた。
「これまでの調査から花子さんはトイレから出てこない――あるいは出られないと推測されます。よって、トイレに入らなければ僕たちの身の安全は保障されると考えていいでしょう」
「あら、浅場君は真咲君のことを見捨てるのかしら?」
と鈴原先輩がこともなげに言った。僕は驚いて浅場先輩を振り返る。
「いいえ、作戦を練る時間はまだあるということです。もっとも、真咲先輩が今どういう状態にあるか分からない以上、なるべく急ぐ必要はありますが……」
退治しちゃおーよ! と野々宮先輩が続く。花子さんを退治すれば真咲先輩は助かるかもしれないし、花子さんが消えても真咲先輩は帰ってこないかもしれない。けれど、他に方法がないのだ。花子さんを除霊して一か八か真咲先輩が帰ってきてくれることに掛けるしかない――。
……いや、そう思えるけれど本当にそうだろうか? 僕は思い出す。今でもはっきりと頭の中に思い描くことができた。初めて真咲先輩に出会った時のこと、怪異の存在を知った時のこと、死の呪いにかかった僕と一緒にいてくれた真咲先輩の言葉や行動を。
そう、他にも方法はあるんじゃないだろうか。きっと。
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話を遮るようで恐縮だけれど、僕はおずおずと浅場先輩に切り出した。浅場先輩は虚を突かれたようで一瞬黙ったけれど、すぐに返してくれた。
「それが……よく分かっていません。花子さんの話自体はかなり昔からあります。昭和の五十年くらいまで遡ることができて、もっと古い時代まで彼女は存在していたかもしれません。けれど花子さんがトイレに出る理由は今も不明のままです」
なるほど。僕が考えこもうとすると、浅場先輩ははっとしたように僕を見た。メンバーの中でもとりわけ察しのいい彼は僕の目論見に気づいてくれたらしい。
「まさか……花子さんの無念を晴らそうとしているんですか?」
他のメンバーはぎょっとして顔を上げた。本気でそんなことを考えているのかと疑わしい視線、本当にそんなことが出来るのかという戸惑う視線。色々な感情が僕に向けられている。けれど僕は堂々と頷いた。
「特定の場所に出る幽霊には、そこに何か理由があるんですよね? 多分、花子さんにはあの場所から動けない理由があるんだと思うんです。それを解決してあげればいいんじゃないかって」
「……除霊ではなく成仏させる、ということですか」
「初めて真咲先輩に出会った時、僕は呪いの本――西沢かなえさんに呪いをかけられました。きっと除霊することだってできたのに、あえて先輩はそうしませんでした。西沢さんの願いを叶えてあげることで彼女を成仏させたんです」
「君にもそれが出来ると?」
「分かりません。いや、僕だけだったら難しいと思います。でも、みなさんと一緒なら」
僕は部室にいるメンバーの顔を一人ひとり見回した。一緒に怪異と遭遇して、それでも共に生き延びてきた彼らのことを。浅場先輩は顎に手を当てて考え込んでいる。野々宮先輩も「うーん」とうなっていた。鈴原先輩は素知らぬふりをしているようだけれど、彼女なりに真咲先輩の身を案じているのかもしれない。神木先輩はじっと僕を見ていた。
「保科君は花子さんを見たんですよね?」
浅場先輩の言葉に僕は首を縦に振った。
「彼女は何か言っていませんでしたか?」
えーと、確か……
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