負社員

葵むらさき

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第60話 ダメダメになっていく過程

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「これ」酒林が唸るように呟く。「どうなってんだ」
「ああ」天津も苦悩の声で返す。「きりがない……というか」
「どういう、現象なんだ?」酒林は、依代の姿であれば首を傾げているのだろうと思われる声音で誰にともなく問う。
「うん」天津も同じく、依代の姿であれば眉をひそめているのだろうと思われる声音で返す。「この洞窟……存在位置の座標が、あっちこっちものすごくぶれてる」
「本当すね」住吉が同調する。「磯田建機の地下と、深海底の間で行ったり来たりしてる」
「つまり我々と、スサ――出現物の間で今、この洞窟自体の取り合い、引っ張り合いが続いているという事か」石上が結論する。
「しかしそれにしてもだ」酒林が納得のいかない声で続ける。「あまりにも位置が、ぶれ過ぎる。我々が引き戻そうとするのは磯田建機の地下へだが、それを引き戻そうとする力はあっちこっち違う所へ持って行こうとしてる。海嶺だ海溝だ、でたらめに」
「いや、多分これは」大山が答える。「四十億年前の生命発祥の場所を選んで、巡ってるんだと思うよ」
「生命発祥の場所?」神たちは驚きの声を挙げる。
「ああ」酒林が茫然と呟く。「それで、か……熱水の出口の下ばかり選んで引っ張って行こうとしてるわけだ」
「そう」大山が、どこか遠くを見てでもいるかのような声で続ける。「我々が――最初に手をつけた、所だ」

「ん」鯰はもう一度水中を見下ろし、ぼちゃんと沈んだ。
「どうしたんすか」結城が波打つ水面に向かって問いかける。
 数秒後、ばしゃんと鯰はまた飛び上がって池の淵に半身を乗せた。「変なの」甲高くコメントする。
「何がすか」結城が訊く。
「さっきあったメルト、今もうなくなってる」鯰が答える。「今うちら、あの嫌な婆あんとこの地下にいるみたい」
「えっ」
「本当か」
「まあ」三人はそれぞれ驚いた。
「“嫌な婆あ”ってだけで誰のことかわかんの?」鯰が甲高い声で確認を取る。
 新人たちは互いの顔を見合わせ、鯰の方を向き、それぞれ無言で頷いた。
「てことは、今この近くになら神がいるんじゃないのかな」鯰はみちゃみちゃと左右に身体を捻りながら辺りを見回した。「ちょっと呼んでごらんよ」
「天津さーん」結城が口の左右に手を当て研修担当の神の名を呼んだ。
 他の二人は無言で耳を塞いだ。神の声は聞えなかった。
「岩っちー」鯰も鯰で地球に呼びかける。
 しかし地球の返事もやはりないようだった。
「いないのか」時中が眉をひそめる。
「水に潜ってもだめなのでしょうか」本原が池を見下ろす。
「そうか、行ってみよ」鯰がぼちゃんと水中に潜る。
 そして鯰はそのまま戻らなかった。

「そうだとしたら」酒林が慎重に考えを述べる。「相手は“自称スサノオ”だけじゃない、って可能性もあるぞ」
「え」天津が驚きの声を挙げる。「だけじゃない、って……他に誰が?」
「もしかしたら」酒林はますます慎重に答える。「マヨイガ、とか」
「えっ」神たちは一斉に驚きの声を挙げた。
「いや、あり得ないこともない」大山が後を続ける。「マヨイガに限らず、他の出現物たちも関わって来てるのかもな」
「出現物がこぞって」住吉が言い、
「新人たちを取り込もうとしているのか」石上が言い、
「何のために――」天津が持てる知識を総動員して推論をまとめようと試みた。

「ん」鹿島が池を見下ろしたまま、また声を挙げた。「戻ったか」
「あ」恵比寿は目を見開いた。「戻って来ましたか」確かに恵比寿にも、池を押さえる瓢箪の感覚からそれが感じ取られた。「何だったんすかね、急に消えたりまた戻ったり」ふう、と溜息をつきながら恵比寿は椅子に座り直した。
 鹿島は何も答えず、しばらく池を見下ろした後「そうか」と呟いた。
「え?」PC作業に戻っていた恵比寿はまた目を見開いて顔を上げ鹿島を見た。
「出現物たちが、な」鹿島は顎をさすりながら何度も頷く。
「あ」恵比寿は鹿島が社の者たちとコンタクトを取っているらしい事に気づき、慌てて自分も当該チャネルにログインした。

     ◇◆◇

「鯰くん?」地球の声が聞えた。
「岩っち?」鯰も呼び返す。「どこ行ってたの?」
「どこも行っていないよ」地球は比喩的に噴き出した。「どこにも行けないよ、私は」
「まあ、そうだよね」鯰はぷいと横を向く。
 自分の気持ち――地球とコンタクトが取れず憔悴していたこと――を悟られないように、ごまかしたつもりなのかも知れなかった。なので地球は、それ以上笑ったりしないでおいた――そしてまた、自分が鯰に対しひどく人間的な配慮をしていることに気づいた。
「でも、あたしの声聞えてなかったってどういう事?」鯰はすぐに気を取り直して疑問を寄越してきた。
「聞えていたけど」地球は答えた。「私が返事をしても、君には聞えていなかったみたい」
「なんで?」鯰が訊く。
「さあ」地球は比喩的に首を傾げた。「出現物のせいなのかな?」
「――」鯰は言葉を失った。「出現物って」呟く。
「え?」
「――何?」鯰は小さな声で疑問を寄越した。

     ◇◆◇

「なまつさーん」結城が叫ぶ。「あっ違った、天津さーん」訂正する。

「うるさいぞ」野太い怒鳴り声が答えた。

「うわびっくりした」結城が腕で顔面をかばい叫ぶ。「誰すか」
「さっきも教えただろうが」声は溜息混じりに答える。「儂はここの経営者の磯田源一郎じゃ。物覚えの悪い、まったく」
「あれ」結城が目を丸くする。「戻って来たんすか?」
「ああ?」野太い声は苛立たしそうに訊き返した。「儂はさっきからずっとここにおるわ。まったくわけのわからん」
「我々の方が、戻って来たという事だろうな」時中が整理する。「生命発祥の場所から、クライアントの所へ」
「ではこのまま上へ行けばよいのですか」本原が確認する。「エレベータで」

「下に降りるのはどれだけ振りかしら」磯田社長は機嫌よく微笑んでいた。
「そうすよね」伊勢も微笑む。微笑みながら、内心では祈る想いだった――まるで人間のように。今、この地下にある――はずの――洞窟が、どういう状態になっているのかは、社の者たちの焦燥に満ちたやり取りの傍受で理解していた。
 ――ちゃんと辿りつければいいが――もしまた洞窟が深海底に引っ張られて行ったとしたら、このエレベータはどこに降り立つことになるんだ? いや、それよりも出現物どもにまた引っ張って行かれる前に、新人たちと再会したい。
 焦る。エレベータの速度が、今日はなんだかのろのろしているような気がしてならない。
「今も、声は聞えてるんすか?」磯田に確認する。「お祖父様の声」
「そうね」磯田社長はゆっくりと瞬きをする。「なんか、昔みたいに大声で文句ばっかり言ってるみたいな気がするの」
「文句?」伊勢は訊き返す。
「ええ」磯田は苦笑する。「ほんとに頑固親父を絵に描いたような人だったのよ。根はいい人なんだけどね、昔気質ってやつで」

「昔って六千五百万年前のこと?」かすれた、弱々しい声が突然聞えた。

「え?」磯田社長は眉を持ち上げて伊勢を見た。
「――」伊勢も周りを見回した、だが声の主はどこにもいなかった。
「伊勢君、今何か言った?」社長が訊く。
「いえ」伊勢は首を振る。
 その時エレベータは停止した。伊勢は片眉をしかめた。
 ――まずいかもすね。
 社の方に一言送る。伊勢の予想通り、エレベータのドアは黙したまま開かなかった。
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