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第四章
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夫は律儀な御方だと、サフィリアは毎朝思う。望まず得てしまった妻にも、決して礼儀を忘れない。だからお出掛けの挨拶にも手を抜かない。
「では行ってくる」
そう言ってルクスは、行って参りますの口づけをした。余りに長くてサフィリアが酸欠となりよろめいた。咄嗟に護衛のラルフと侍従のローレンが背後を支えようとして、ルクスにキッと睨まれた。
半ば朦朧としながら夫を見送り、それからサフィリアはふらふらと執務室に向かった。
「バーバリー。こちらは旦那様にチェックをお願い」
「承知致しました。奥様」
元気を取り戻したサフィリアは、家令に向けて声を掛けた。家令はサフィリアの差し出した帳簿を受け取る。
「ダンヒル。こちらは今日中に銀行へ。現金ではなく口座に入れてちょうだい」
「承知致しました。奥様」
次にサフィリアは、執事に向けて声を掛けた。執事は差し出された小切手を受け取った。サフィリアは小切手に裏書きのサインをする権限を与えられている。
サフィリアは、多忙な夫に代わって執務の多くを代行している。サフィリアの記した書類や帳簿は最終的にルクスが確認するのだが、それで過ちがあったことは一度もない。
サフィリアは生家でも姉の元で執務の手伝いをしていたから、こういうことに慣れている。本人は、全くそんな気はしていないのだが、おっとり気質の割に細かいところによく気がつく。
ルクスに嫁いですぐの頃に、「君に任せる」とルクスから執務を習った。
「ええ?ですが、それで重大な過ちでもあったら……」
「大丈夫だ」
及び腰になるサフィリアに、ルクスは平然と言ったのだ。
「君なら必ずできる」
ええ。どこからそんな確信が湧くのだろう、責任重大なんですけど。
サフィリアは、確かに生家では執務の端っこを齧っていた。生家も婚家も同じ伯爵家であるから、違いはあれど仕組みはわかる。
「君は領地経営を学んでいただろう」
ルクスの言うのは本当で、サフィリアは学園では領地経営科で学んでいた。姉の命で。
「ですが、私がおっきなポカミスをしてしまって、それで家が傾くだなんてことにでもなったら」
「構わない。君に身上を潰されるなら本望だ」
ええ!
夫の太っ腹にサフィリアは慄いた。
「ふっ」
そこでルクスは不意に笑った。サフィリアはその時初めて夫の笑みを見た。どうやら及び腰のサフィリアに笑いのツボを刺激されたらしい。夫の笑みは眩しかった。
「大丈夫だ、サフィリア。君一人に任せはしない。私が必ず目を通す。補佐する事務官もいる。バーバリーもダンヒルも一緒だ」
サフィリアは納得した。そして覚悟を決めた。
夫がそう言うのならサフィリアに不安はない。何よりサフィリアを娶ってくれた夫に報いるのに、我が身でお役に立てるのなら、これでも足りないくらいだと思った。
こうしてサフィリアは、一事務官になったつもりで勤勉に夫の執務の補佐をした。こう見えて仕事の早いサフィリアは、すぐにコットナー伯爵家の内務を覚えた。
姉の元で鍛えられていたことが、こんなところで生かされるだなんて。先見の明がある姉は尊敬に値する。サフィリアは益々姉を崇めるようになった。流石はお姉様。神だわ神。
さて、サフィリアは机上の執務ばかりにかまけている訳ではない。夫人の社交もそこそこ熟している。
姉の鞄持ちのようにサロンや茶会にお供していたから、それなりに顔が広い。
今日もお茶のお誘いを受けて出向いたところだった。
「よく来てくれたわね、サフィリア」
「お招き頂きましてありがとうごさいます。王太子妃様」
「やだわ、私たちの仲でしょう。名前で呼んでちょうだいな」
「では、クラウディア様」
王太子妃クラウディアは、姉の学友である。学友という前に親友だったりする。
クラウディアは、例のサフィリア版『ガリ勉リリちゃん』を姉と一緒に楽しんだ過去がある。あの頃は侯爵令嬢だったが、手ずからサフィリアの髪を三つ編みに結って楽しんでいた。
クラウディアは当時から王太子殿下ネロの婚約者だったが、休日にこんな伯爵家で遊んでいていいのかとサフィリアが心配になるくらいには伯爵家に入り浸っていた。
かと言ってネロと不仲な訳でもなく、今も鴛鴦夫婦なのは広く知られたことである。
「それでね。今日は貴女とゲームをしようかと思って」
「なんのゲームでしよう?」
「大したことではないわ。カードゲームよ」
そう言って、クラウディアは侍女を見やった。すぐに侍女がうんしょとテーブルの上になにやら束になったものを積んだ。
「これこれ。大判のカードにしようと思って」
「クラウディア様、そんなことはいけませんわ。これって釣書ですよね?」
テーブルに積み上げられたのは釣書の束だった。サフィリアはその光景に懐かしい記憶が甦った。
「ヴィクトリアが言ってたの。貴女の引きに間違いはないって」
ヴィクトリアとはサフィリアの姉である。
「あの可愛い夫を引き当てたじゃない」
「可愛いって、義兄のことでしょうか」
「ヴィクトリア、幸せだって言ってるわ。貴女に任せて間違いないと」
確かに姉は義兄をとても大切にしている。
「大きなトランプだと思って楽しみましょう」
結局サフィリアは、そんな王太子妃に流されて、二人はカードゲームを楽しんだ。
ところでジョーカーは、一体誰だったのだろう。
「ふうん。この方ね」
そこで王太子妃は、サフィリアが最後に引いた一枚を受け取り、それからカード、間違い、大切な釣書を開いた。
その翌週に、第二王子の婚約者が発表されるのだが、サフィリアはそこに自分が関与しただなんて、これっぽっちも思わずにいた。
「では行ってくる」
そう言ってルクスは、行って参りますの口づけをした。余りに長くてサフィリアが酸欠となりよろめいた。咄嗟に護衛のラルフと侍従のローレンが背後を支えようとして、ルクスにキッと睨まれた。
半ば朦朧としながら夫を見送り、それからサフィリアはふらふらと執務室に向かった。
「バーバリー。こちらは旦那様にチェックをお願い」
「承知致しました。奥様」
元気を取り戻したサフィリアは、家令に向けて声を掛けた。家令はサフィリアの差し出した帳簿を受け取る。
「ダンヒル。こちらは今日中に銀行へ。現金ではなく口座に入れてちょうだい」
「承知致しました。奥様」
次にサフィリアは、執事に向けて声を掛けた。執事は差し出された小切手を受け取った。サフィリアは小切手に裏書きのサインをする権限を与えられている。
サフィリアは、多忙な夫に代わって執務の多くを代行している。サフィリアの記した書類や帳簿は最終的にルクスが確認するのだが、それで過ちがあったことは一度もない。
サフィリアは生家でも姉の元で執務の手伝いをしていたから、こういうことに慣れている。本人は、全くそんな気はしていないのだが、おっとり気質の割に細かいところによく気がつく。
ルクスに嫁いですぐの頃に、「君に任せる」とルクスから執務を習った。
「ええ?ですが、それで重大な過ちでもあったら……」
「大丈夫だ」
及び腰になるサフィリアに、ルクスは平然と言ったのだ。
「君なら必ずできる」
ええ。どこからそんな確信が湧くのだろう、責任重大なんですけど。
サフィリアは、確かに生家では執務の端っこを齧っていた。生家も婚家も同じ伯爵家であるから、違いはあれど仕組みはわかる。
「君は領地経営を学んでいただろう」
ルクスの言うのは本当で、サフィリアは学園では領地経営科で学んでいた。姉の命で。
「ですが、私がおっきなポカミスをしてしまって、それで家が傾くだなんてことにでもなったら」
「構わない。君に身上を潰されるなら本望だ」
ええ!
夫の太っ腹にサフィリアは慄いた。
「ふっ」
そこでルクスは不意に笑った。サフィリアはその時初めて夫の笑みを見た。どうやら及び腰のサフィリアに笑いのツボを刺激されたらしい。夫の笑みは眩しかった。
「大丈夫だ、サフィリア。君一人に任せはしない。私が必ず目を通す。補佐する事務官もいる。バーバリーもダンヒルも一緒だ」
サフィリアは納得した。そして覚悟を決めた。
夫がそう言うのならサフィリアに不安はない。何よりサフィリアを娶ってくれた夫に報いるのに、我が身でお役に立てるのなら、これでも足りないくらいだと思った。
こうしてサフィリアは、一事務官になったつもりで勤勉に夫の執務の補佐をした。こう見えて仕事の早いサフィリアは、すぐにコットナー伯爵家の内務を覚えた。
姉の元で鍛えられていたことが、こんなところで生かされるだなんて。先見の明がある姉は尊敬に値する。サフィリアは益々姉を崇めるようになった。流石はお姉様。神だわ神。
さて、サフィリアは机上の執務ばかりにかまけている訳ではない。夫人の社交もそこそこ熟している。
姉の鞄持ちのようにサロンや茶会にお供していたから、それなりに顔が広い。
今日もお茶のお誘いを受けて出向いたところだった。
「よく来てくれたわね、サフィリア」
「お招き頂きましてありがとうごさいます。王太子妃様」
「やだわ、私たちの仲でしょう。名前で呼んでちょうだいな」
「では、クラウディア様」
王太子妃クラウディアは、姉の学友である。学友という前に親友だったりする。
クラウディアは、例のサフィリア版『ガリ勉リリちゃん』を姉と一緒に楽しんだ過去がある。あの頃は侯爵令嬢だったが、手ずからサフィリアの髪を三つ編みに結って楽しんでいた。
クラウディアは当時から王太子殿下ネロの婚約者だったが、休日にこんな伯爵家で遊んでいていいのかとサフィリアが心配になるくらいには伯爵家に入り浸っていた。
かと言ってネロと不仲な訳でもなく、今も鴛鴦夫婦なのは広く知られたことである。
「それでね。今日は貴女とゲームをしようかと思って」
「なんのゲームでしよう?」
「大したことではないわ。カードゲームよ」
そう言って、クラウディアは侍女を見やった。すぐに侍女がうんしょとテーブルの上になにやら束になったものを積んだ。
「これこれ。大判のカードにしようと思って」
「クラウディア様、そんなことはいけませんわ。これって釣書ですよね?」
テーブルに積み上げられたのは釣書の束だった。サフィリアはその光景に懐かしい記憶が甦った。
「ヴィクトリアが言ってたの。貴女の引きに間違いはないって」
ヴィクトリアとはサフィリアの姉である。
「あの可愛い夫を引き当てたじゃない」
「可愛いって、義兄のことでしょうか」
「ヴィクトリア、幸せだって言ってるわ。貴女に任せて間違いないと」
確かに姉は義兄をとても大切にしている。
「大きなトランプだと思って楽しみましょう」
結局サフィリアは、そんな王太子妃に流されて、二人はカードゲームを楽しんだ。
ところでジョーカーは、一体誰だったのだろう。
「ふうん。この方ね」
そこで王太子妃は、サフィリアが最後に引いた一枚を受け取り、それからカード、間違い、大切な釣書を開いた。
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