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第十三章
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ホールに背を向けるエイブリンの表情は、照明の影になって暗く見えた。学園でレイモンドを見上げていた明るいエメラルド色の瞳も、今は翳っているようだった。
エイブリンが学園の卒業と同時にゴドリック子爵に嫁いだことは知っていた。
爵位も家の派閥も異なる二人が、これまで社交場で顔を合わせずに済んだのはよいことだった。
だが、王家主催の会となれば、こんな至近距離で会うこともある。
ロウェナは再び小さく溜め息をついた。彼女がここに来たのは偶然ではないのだろう。ロウェナがレイモンドから離れたことを、どこかで見ていたのだと思った。
「私になにかご用でしょうか」
埒が明かない問答はしたくなかった。そう思って用件をこちらから尋ねた。
「貴女にお伝えしておかなくてはと思っていたのよ」
一つ学年が上だったことを、エイブリンはそのまま引きずっているのか、口調にそれが表れている。彼女が言いたいことなんて一つしかないから、ロウェナはわざわざ聞きたいと思わなかった。
「私は貴女に伺いたいことはございません」
そう返すと、エイブリンははっきりと眉を顰めた。
そんなにわかりやすくて大丈夫なのだろうか。彼女は子爵と結婚してすでに一年以上が経っている。
夫に関わる貴族たちとの交流もあるだろうし、彼女自身の社交もあろう。嫁いで尚、内心を隠す術を持たないのがエイブリンだった。
生家からも婚家からも、その辺りのことをしっかり学んできたロウェナには、エイブリンはまだ学園に通う令嬢の姿、そのままに見えた。学生だってしっかりしている令嬢は幾らでもいるのだが。
「ふふふ」
そこでエイブリンはうっそりと目を細めて小さく笑った。とても嫌な笑いだった。
ロウェナはもう、いつまでも彼女に付き合っていたくないと思った。
「レイモンド様はね」
彼女は今尚、レイモンドを名呼びした。それはまるで、学園を卒業してもまだ二人の縁が続いているような匂わせ方だった。
「夫のことで貴女から聞くことは、一つもございませんわ」
この際、はっきり言ったほうがよいだろう。そうでなければ、彼女はいつまでもロウェナに纏わりついてきそうだった。
「貴女も私も、いつまでも学生ではございません。互いに夫がいて守る家がございますでしょう?」
そう言えば、エイブリンはわかりやすく眉間を寄せた。折角、華やかな顔立ちをしているのに、どうして自分で自分を落とすのか。
そこでエイブリンの後ろから、こちらに歩み寄ってくる人物にロウェナは会釈をした。
妻が離れてしまったと、探しに来たのだろう。エイブリンの夫、ゴドリック子爵がこちらへ歩いてくる。
子爵はロウェナの会釈に同じく会釈で返してくれた。それから、どうやら自身の妻が他家の夫人に関わっていると思ったのだろう。
「エイブリン。こんな所にいたのか」
そう言って、エイブリンを呼んだ。
思った通り、落ち着きのある穏やかな声だった。子爵の評判は悪くない。実直な人柄だと聞いていた。
エイブリンは初めから、ロウェナに何かを伝えたかったのだろう。渋々というように夫の元に戻る間際に、置き土産を忘れなかった。
「なんにも知らない貴女に教えてあげる。私たち、離れてなんかいないのよ」
捨て鉢のように言い置いて、エイブリンは身を翻して子爵の元へ歩いていった。その後ろ姿を見つめて、「私たち」とはエイブリンと誰なのか考えた。
考えるまでもないのなら、考えるだけ無駄だろう。どこかで薄々気づいていた。
レイモンドはエイブリンと切れていない。
どうしてわかるかなんて理由はなかった。ただそう感じていたのだった。そしてそれは、もしかしたら義母も同じだったのではないだろうか。
先日の義母の言葉を思い出して、心を揺らすまいと腹に力を込めた。レイモンドの翅はロウェナのそれより艶やかに羽ばたいて、どこまでも飛んでいくようだった。
彼はロウェナを束縛しても、自分自身の自由は手放さない。
そういう男なのだ。それがロウェナの愛した夫だった。
ロウェナは子爵とエイブリンの背中が小さくなるのを見ていたが、そこでレイモンドの姿を探した。
見れば先ほどの公爵令息のほかに友人たちが加わって、レイモンドは彼らとすっかり話し込んでいる。エイブリンの突撃にも気づいていないようだった。
そこでロウェナは、少し離れたソファに向かって声をかけた。
「お寛ぎのところをお騒がせしてしまいました。申しわけございません」
ロウェナの座っていた席から一つ空いたソファには、先客がいた。ちらりと横から見ただけだったが、彼は一人、背もたれに深く身を預けて夜の庭園を眺めていた。
賑やかな会場を離れて、ここで静寂を楽しんでいただろうに、エイブリンとロウェナの女の諍いに巻き込まれてしまっただろう。
「ふっ」
そこで男性は小さく笑った。それから、
「君こそ災難だったね」
そう言って、彼はロウェナを見た。
ロウェナはそこで、腰を沈めてカーテシーで礼をした。こちらを向いた顔が見えて、彼が誰であるか気がついた。
「とんだお耳汚しをお詫び致します。ポートレット公爵ご令息様」
金髪に青眼なのはレイモンドも同じだが、彼の青い瞳は更に鮮やかなもので、夜の闇の中にいてもなぜかはっきり見えていた。
オーランド・クラーク・ポートレット。
彼はポートレット公爵の次男である。そして王弟であるポートレット公爵の血を引く彼も王家の血脈にあたる。
舞踏会のはじめに挨拶をした王族たちとよく似た雰囲気を、こちらを向いた彼からも感じた。
「ああ、畏まらないでいただきたい。私自身はしがない宮仕えにすぎないんだ」
彼は本気で言っているようだった。だがロウェナは、そんな言葉にも敬意を緩めることはしなかった。
しがない宮仕えというのは、彼の勤めである宰相付き事務官の身分を言ってのことだろう。
「君こそ、大丈夫だったかい?」
「え?」
「なんだか個性的なご婦人だったね」
オーランドはそこで、エイブリンを「個性的」と言った。毒の抜けた言い様に、ロウェナはつい可笑しくなった。
「ふふ」
うっかり笑ってしまったが、お陰でエイブリンの残した毒までわずかばかり薄まってくれたようだった。
「ロウェナ」
そこでロウェナの背後で声がした。ロウェナは途端にはっとなって、慌ててオーランドに会釈をした。
「お騒がせいたしました。ここで失礼いたします」
「ははは、気にしないで。ではまた」
オーランドは気さくな返しで、ではまたと言って笑った。宮仕えのためか、彼に威圧的な感覚は抱かなかった。
ロウェナを呼んでいたのはレイモンドだった。
テラス席から早足になって戻ってきたロウェナに、レイモンドは眉を潜めた。
「彼となにを?」
エイブリンに難癖をつけられていたことには気づかずに、レイモンドは、ロウェナがオーランドと挨拶していたことを暗に咎めた。
「呪われオーランド殿と、なにを話していたんだ」
『呪われオーランド』
オーランドには、そんな二つ名があった。それはロウェナも知っていることだった。
エイブリンが学園の卒業と同時にゴドリック子爵に嫁いだことは知っていた。
爵位も家の派閥も異なる二人が、これまで社交場で顔を合わせずに済んだのはよいことだった。
だが、王家主催の会となれば、こんな至近距離で会うこともある。
ロウェナは再び小さく溜め息をついた。彼女がここに来たのは偶然ではないのだろう。ロウェナがレイモンドから離れたことを、どこかで見ていたのだと思った。
「私になにかご用でしょうか」
埒が明かない問答はしたくなかった。そう思って用件をこちらから尋ねた。
「貴女にお伝えしておかなくてはと思っていたのよ」
一つ学年が上だったことを、エイブリンはそのまま引きずっているのか、口調にそれが表れている。彼女が言いたいことなんて一つしかないから、ロウェナはわざわざ聞きたいと思わなかった。
「私は貴女に伺いたいことはございません」
そう返すと、エイブリンははっきりと眉を顰めた。
そんなにわかりやすくて大丈夫なのだろうか。彼女は子爵と結婚してすでに一年以上が経っている。
夫に関わる貴族たちとの交流もあるだろうし、彼女自身の社交もあろう。嫁いで尚、内心を隠す術を持たないのがエイブリンだった。
生家からも婚家からも、その辺りのことをしっかり学んできたロウェナには、エイブリンはまだ学園に通う令嬢の姿、そのままに見えた。学生だってしっかりしている令嬢は幾らでもいるのだが。
「ふふふ」
そこでエイブリンはうっそりと目を細めて小さく笑った。とても嫌な笑いだった。
ロウェナはもう、いつまでも彼女に付き合っていたくないと思った。
「レイモンド様はね」
彼女は今尚、レイモンドを名呼びした。それはまるで、学園を卒業してもまだ二人の縁が続いているような匂わせ方だった。
「夫のことで貴女から聞くことは、一つもございませんわ」
この際、はっきり言ったほうがよいだろう。そうでなければ、彼女はいつまでもロウェナに纏わりついてきそうだった。
「貴女も私も、いつまでも学生ではございません。互いに夫がいて守る家がございますでしょう?」
そう言えば、エイブリンはわかりやすく眉間を寄せた。折角、華やかな顔立ちをしているのに、どうして自分で自分を落とすのか。
そこでエイブリンの後ろから、こちらに歩み寄ってくる人物にロウェナは会釈をした。
妻が離れてしまったと、探しに来たのだろう。エイブリンの夫、ゴドリック子爵がこちらへ歩いてくる。
子爵はロウェナの会釈に同じく会釈で返してくれた。それから、どうやら自身の妻が他家の夫人に関わっていると思ったのだろう。
「エイブリン。こんな所にいたのか」
そう言って、エイブリンを呼んだ。
思った通り、落ち着きのある穏やかな声だった。子爵の評判は悪くない。実直な人柄だと聞いていた。
エイブリンは初めから、ロウェナに何かを伝えたかったのだろう。渋々というように夫の元に戻る間際に、置き土産を忘れなかった。
「なんにも知らない貴女に教えてあげる。私たち、離れてなんかいないのよ」
捨て鉢のように言い置いて、エイブリンは身を翻して子爵の元へ歩いていった。その後ろ姿を見つめて、「私たち」とはエイブリンと誰なのか考えた。
考えるまでもないのなら、考えるだけ無駄だろう。どこかで薄々気づいていた。
レイモンドはエイブリンと切れていない。
どうしてわかるかなんて理由はなかった。ただそう感じていたのだった。そしてそれは、もしかしたら義母も同じだったのではないだろうか。
先日の義母の言葉を思い出して、心を揺らすまいと腹に力を込めた。レイモンドの翅はロウェナのそれより艶やかに羽ばたいて、どこまでも飛んでいくようだった。
彼はロウェナを束縛しても、自分自身の自由は手放さない。
そういう男なのだ。それがロウェナの愛した夫だった。
ロウェナは子爵とエイブリンの背中が小さくなるのを見ていたが、そこでレイモンドの姿を探した。
見れば先ほどの公爵令息のほかに友人たちが加わって、レイモンドは彼らとすっかり話し込んでいる。エイブリンの突撃にも気づいていないようだった。
そこでロウェナは、少し離れたソファに向かって声をかけた。
「お寛ぎのところをお騒がせしてしまいました。申しわけございません」
ロウェナの座っていた席から一つ空いたソファには、先客がいた。ちらりと横から見ただけだったが、彼は一人、背もたれに深く身を預けて夜の庭園を眺めていた。
賑やかな会場を離れて、ここで静寂を楽しんでいただろうに、エイブリンとロウェナの女の諍いに巻き込まれてしまっただろう。
「ふっ」
そこで男性は小さく笑った。それから、
「君こそ災難だったね」
そう言って、彼はロウェナを見た。
ロウェナはそこで、腰を沈めてカーテシーで礼をした。こちらを向いた顔が見えて、彼が誰であるか気がついた。
「とんだお耳汚しをお詫び致します。ポートレット公爵ご令息様」
金髪に青眼なのはレイモンドも同じだが、彼の青い瞳は更に鮮やかなもので、夜の闇の中にいてもなぜかはっきり見えていた。
オーランド・クラーク・ポートレット。
彼はポートレット公爵の次男である。そして王弟であるポートレット公爵の血を引く彼も王家の血脈にあたる。
舞踏会のはじめに挨拶をした王族たちとよく似た雰囲気を、こちらを向いた彼からも感じた。
「ああ、畏まらないでいただきたい。私自身はしがない宮仕えにすぎないんだ」
彼は本気で言っているようだった。だがロウェナは、そんな言葉にも敬意を緩めることはしなかった。
しがない宮仕えというのは、彼の勤めである宰相付き事務官の身分を言ってのことだろう。
「君こそ、大丈夫だったかい?」
「え?」
「なんだか個性的なご婦人だったね」
オーランドはそこで、エイブリンを「個性的」と言った。毒の抜けた言い様に、ロウェナはつい可笑しくなった。
「ふふ」
うっかり笑ってしまったが、お陰でエイブリンの残した毒までわずかばかり薄まってくれたようだった。
「ロウェナ」
そこでロウェナの背後で声がした。ロウェナは途端にはっとなって、慌ててオーランドに会釈をした。
「お騒がせいたしました。ここで失礼いたします」
「ははは、気にしないで。ではまた」
オーランドは気さくな返しで、ではまたと言って笑った。宮仕えのためか、彼に威圧的な感覚は抱かなかった。
ロウェナを呼んでいたのはレイモンドだった。
テラス席から早足になって戻ってきたロウェナに、レイモンドは眉を潜めた。
「彼となにを?」
エイブリンに難癖をつけられていたことには気づかずに、レイモンドは、ロウェナがオーランドと挨拶していたことを暗に咎めた。
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