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第四章
運命は残酷だった。記憶が蘇ったジャクリーンに、考える時間を与えてはくれなかった。
意外にも仕事の早い義兄は、すぐさま王城の医師を頼んでしまった。
そしてあろうことか、医師とともに同行してきたのは、最も会ってはいけない人物だった。
「急な環境の変化に、お心とお身体に変調を来たしてしまわれたのでしょう」
宮廷医師は、ジャクリーンが先年実父を亡くし、生家から縁を切られて、本日母の再婚先に来たばかりだと知ると、そんなことを言った。
ジャクリーンのタンコブを診てくれた医師も同じようなことを言っていた。誰が聞いても同じことを言うだろう。
宮廷医師の診察を受けながら、ジャクリーンはそう考えていた。そして次に、自分はどう行動すべきかを考えた。
考えることが多すぎて、もう一回昏倒してもよいかと思った。
「医師殿、ジャクリーンは、ジャクリーンは大丈夫なのですねっ」
義兄はすっかり母性に開眼してしまい、母より取り乱して心配した。
大きな身体に母性って。そこはせめて父性ではと思うだろうが、義兄の心の中は母の愛一色だった。
「こんな時には、なにを食べれば元気になるのだろう。林檎か?摩りおろし林檎か?」
発熱した幼児が食す、身体に優しい食べ物まで考えが及んでいる。
「蜂蜜で滋養をつけたほうがよいか。はっ!蜂蜜アレルギーは?ボツリヌス菌の耐性は?義母上、ジャクリーンは蜂蜜は大丈夫なのですね!?」
とうとう蜂蜜にまで言及しだした。
「落ち着けよ、スティーブンソン。君が慌ててどうする」
そこで義兄に声をかけたのは、もう絶対会ってはいけない男、天敵と言ってよいだろう存在だった。
「クエンティン殿下……」
義兄はクエンティンに窘められて、ボルテージを下げた。
狸寝入りを決め込んでいたジャクリーンは、そこで薄目を開けてヤツを見た。
今生では初めてお目にかかる貴人である。だが、前世ではえらい目に遭わされた。
言ってやりたいことが次々と脳内に浮かび上がってくる。それらの九分九厘、99%がクレームだった。
残りの1%は、悔しいけれど失いきれずに持ち越した愛情だ。
だがそれもわずか1%である。四捨五入するまでもなく、誤差の範囲だろう。前世の残置物のような愛情なんて、今世のジャクリーンからすれば塵芥以下である。
薄目でもわかる眩しい輝き。彼は人外の生物なのか。
東国にはかつて、日出処の天使様と呼ばれる人物がいたと、ものの本で読んだ。何でも彼は、十人同時に語る言葉の全てを聞き分けた超能力者だったという。
少しばかり東国に詳しいジャクリーンは、天使のような麗しいクエンティンを決して見るまいと目を瞑った。
目を瞑ったのだから、ジャクリーンには何も見えない。視覚を失うことで鋭敏になったのは、嗅覚だった。
やだ、とっても良い香りがする。これってなんだか懐かしい。
そう思ったことが再びトリガーとなって、ジャクリーンは思い出してしまった。
ああ、この香りはあの方の香油だわ。
それは前世で慣れ親しんだ香りだった。この香りに包まれて、何度も抱き締められて愛し合った。その末に、この身に我が子を宿したのだ。
また十四歳だというのに、魂はまるで女の歓びを知ったような感覚だった。
駄目よ、ジャクリーン。引っ張られてはいけないわ。もう彼とは未来永劫、関わりたくはないの。
自分で自分の心を必死で引き止めた。そのために、
「う、ううん」
思わず唸り声が溢れてしまった。
「大丈夫かっ、ジャクリーン!」
途端に義兄が騒ぎだした。お陰で医師まで慌ててしまった。これではまるで、臨終を看取らるようではないか。
そこで再び記憶が蘇る。
前世で最期を迎えたときに、ジャクリーンは別邸にいた。夫には、使用人を介して、静かな環境で療養したいと伝えたように思う。
彼はあの時、どうだったかしら。
ジャクリーンは彼の不在を見計らって、一人別邸に移っていた。なんだかいろいろゴネていたと、後で使用人から聞いたような気がする。
大体にして、貴方から移された病なのよ?
悪阻と重なったために、ジャクリーンのほうが先に病がわかった。
あの後、夫は病を治療したのだろうか。早期であれば治ると聞いた。医師はジャクリーンにも治療を勧めてくれたのだが、それは腹の子を犠牲にするものだった。
ジャクリーンは、その治療を拒んだ。この子を一人で冥府の旅路に就かせることなどできはしない。
それに、たとえ自分だけ生き残っても、後には地獄と変わらない人生が残るだけだと思った。
ジャクリーンを裏切った夫から移された病なら、このまま貰ってやろうと思った。
なにより、もう駄目なのだと予感があった。
生きる気力も治癒したい希望も、少しも湧かなかった。
できることならこのまま我が子と、眠るように死んでしまいたい。冥府のほうが現実よりも、よほど優しい世界に思えた。
夫には後から報告する形で、先に郊外にある別邸に移った。先代が購入していたそこは小さな屋敷であったが、静かで空気の良いところだった。
周囲には農地が広がり、王都とは思えない鄙びた穏やかな場所だった。
あんな病に罹ってなければ、夫に離縁を願って、慰謝料代わりに別邸を貰い受けただろう。
そこでひっそり子を産んで、気心の知れた使用人を数人雇って、生涯静かに暮らしただろう。
貴方の邪魔なんてするつもりはなかったの。
貴方がそれで幸せなら、身を引くこともできたのよ。
ひとこと言ってくれたなら、ちゃんと離れてあげたのに。
思い出のように脳内で誰かが語る。
クエンティンから漂う懐かしい香りがそうさせたのか。ジャクリーンは遠い昔の記憶を思い出していた。
諦念の中に、彼を恨む気持ちはなかった。
ジャクリーンは、第三者になった気持ちで、かつての自分の思考が語る言葉を聞いていた。
大丈夫よ。もうそんな哀しい最期になんてさせないわ。
記憶だけとなった過去の自分を慰めたくて、そんなことを考えた。そうするうちに、微睡みに誘われるように眠ってしまった。
意外にも仕事の早い義兄は、すぐさま王城の医師を頼んでしまった。
そしてあろうことか、医師とともに同行してきたのは、最も会ってはいけない人物だった。
「急な環境の変化に、お心とお身体に変調を来たしてしまわれたのでしょう」
宮廷医師は、ジャクリーンが先年実父を亡くし、生家から縁を切られて、本日母の再婚先に来たばかりだと知ると、そんなことを言った。
ジャクリーンのタンコブを診てくれた医師も同じようなことを言っていた。誰が聞いても同じことを言うだろう。
宮廷医師の診察を受けながら、ジャクリーンはそう考えていた。そして次に、自分はどう行動すべきかを考えた。
考えることが多すぎて、もう一回昏倒してもよいかと思った。
「医師殿、ジャクリーンは、ジャクリーンは大丈夫なのですねっ」
義兄はすっかり母性に開眼してしまい、母より取り乱して心配した。
大きな身体に母性って。そこはせめて父性ではと思うだろうが、義兄の心の中は母の愛一色だった。
「こんな時には、なにを食べれば元気になるのだろう。林檎か?摩りおろし林檎か?」
発熱した幼児が食す、身体に優しい食べ物まで考えが及んでいる。
「蜂蜜で滋養をつけたほうがよいか。はっ!蜂蜜アレルギーは?ボツリヌス菌の耐性は?義母上、ジャクリーンは蜂蜜は大丈夫なのですね!?」
とうとう蜂蜜にまで言及しだした。
「落ち着けよ、スティーブンソン。君が慌ててどうする」
そこで義兄に声をかけたのは、もう絶対会ってはいけない男、天敵と言ってよいだろう存在だった。
「クエンティン殿下……」
義兄はクエンティンに窘められて、ボルテージを下げた。
狸寝入りを決め込んでいたジャクリーンは、そこで薄目を開けてヤツを見た。
今生では初めてお目にかかる貴人である。だが、前世ではえらい目に遭わされた。
言ってやりたいことが次々と脳内に浮かび上がってくる。それらの九分九厘、99%がクレームだった。
残りの1%は、悔しいけれど失いきれずに持ち越した愛情だ。
だがそれもわずか1%である。四捨五入するまでもなく、誤差の範囲だろう。前世の残置物のような愛情なんて、今世のジャクリーンからすれば塵芥以下である。
薄目でもわかる眩しい輝き。彼は人外の生物なのか。
東国にはかつて、日出処の天使様と呼ばれる人物がいたと、ものの本で読んだ。何でも彼は、十人同時に語る言葉の全てを聞き分けた超能力者だったという。
少しばかり東国に詳しいジャクリーンは、天使のような麗しいクエンティンを決して見るまいと目を瞑った。
目を瞑ったのだから、ジャクリーンには何も見えない。視覚を失うことで鋭敏になったのは、嗅覚だった。
やだ、とっても良い香りがする。これってなんだか懐かしい。
そう思ったことが再びトリガーとなって、ジャクリーンは思い出してしまった。
ああ、この香りはあの方の香油だわ。
それは前世で慣れ親しんだ香りだった。この香りに包まれて、何度も抱き締められて愛し合った。その末に、この身に我が子を宿したのだ。
また十四歳だというのに、魂はまるで女の歓びを知ったような感覚だった。
駄目よ、ジャクリーン。引っ張られてはいけないわ。もう彼とは未来永劫、関わりたくはないの。
自分で自分の心を必死で引き止めた。そのために、
「う、ううん」
思わず唸り声が溢れてしまった。
「大丈夫かっ、ジャクリーン!」
途端に義兄が騒ぎだした。お陰で医師まで慌ててしまった。これではまるで、臨終を看取らるようではないか。
そこで再び記憶が蘇る。
前世で最期を迎えたときに、ジャクリーンは別邸にいた。夫には、使用人を介して、静かな環境で療養したいと伝えたように思う。
彼はあの時、どうだったかしら。
ジャクリーンは彼の不在を見計らって、一人別邸に移っていた。なんだかいろいろゴネていたと、後で使用人から聞いたような気がする。
大体にして、貴方から移された病なのよ?
悪阻と重なったために、ジャクリーンのほうが先に病がわかった。
あの後、夫は病を治療したのだろうか。早期であれば治ると聞いた。医師はジャクリーンにも治療を勧めてくれたのだが、それは腹の子を犠牲にするものだった。
ジャクリーンは、その治療を拒んだ。この子を一人で冥府の旅路に就かせることなどできはしない。
それに、たとえ自分だけ生き残っても、後には地獄と変わらない人生が残るだけだと思った。
ジャクリーンを裏切った夫から移された病なら、このまま貰ってやろうと思った。
なにより、もう駄目なのだと予感があった。
生きる気力も治癒したい希望も、少しも湧かなかった。
できることならこのまま我が子と、眠るように死んでしまいたい。冥府のほうが現実よりも、よほど優しい世界に思えた。
夫には後から報告する形で、先に郊外にある別邸に移った。先代が購入していたそこは小さな屋敷であったが、静かで空気の良いところだった。
周囲には農地が広がり、王都とは思えない鄙びた穏やかな場所だった。
あんな病に罹ってなければ、夫に離縁を願って、慰謝料代わりに別邸を貰い受けただろう。
そこでひっそり子を産んで、気心の知れた使用人を数人雇って、生涯静かに暮らしただろう。
貴方の邪魔なんてするつもりはなかったの。
貴方がそれで幸せなら、身を引くこともできたのよ。
ひとこと言ってくれたなら、ちゃんと離れてあげたのに。
思い出のように脳内で誰かが語る。
クエンティンから漂う懐かしい香りがそうさせたのか。ジャクリーンは遠い昔の記憶を思い出していた。
諦念の中に、彼を恨む気持ちはなかった。
ジャクリーンは、第三者になった気持ちで、かつての自分の思考が語る言葉を聞いていた。
大丈夫よ。もうそんな哀しい最期になんてさせないわ。
記憶だけとなった過去の自分を慰めたくて、そんなことを考えた。そうするうちに、微睡みに誘われるように眠ってしまった。
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