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第十三章
昨晩、クエンティンは帰ってこなかった。
それは彼と結婚してから度々あったことで、特段珍しいことではない。
夫、クエンティンには職務がある。
臣籍降下して賜った伯爵家当主として、国王陛下と王太子殿下の何某か補佐をしている。
側近も侍従もいる王族の補佐が一体どういうものなのか、ジャクリーンは聞いたことはなかった。
王族に関わるのであるから口外できないことも多いだろう。むしろ、一つとして漏らしてはならないことばかりだろう。
クエンティンはどれほど多忙なのか、週のうち数日を王城に泊まっていた。
元より王子であり、王城には今も彼の私室がある。彼にとってはジャクリーンとの結婚後に住み始めた伯爵邸より、私室のほうが過ごしやすかっただろう。
ただ、帰ってこない夜のすべてを、彼が王城で一人きりで過ごしていたわけではなかったことを知った。
ジャクリーンを邸に残して、クエンティンは妻以外の女性と関係を深めていた。性の病を得るほどに。
ジャクリーンにどれほどの情報網があったとしても、クエンティンの行動を調べることはできなかった。
臣下に降りたとしても、彼は王位継承権を持つ王族で、堅い守りの中にいる。
あんなに明るく美しい金色の髪を持ちながら、クエンティンにはいつもどこか仄暗い秘密の影を感じていた。
夫の行動に違和感を抱くことは何度かあった。だが、なにも尋ねてはいけないと思っていた。
それが王族に嫁いだ者の定めであるのか、ジャクリーンの妻としての意地だったのか、もう考えても仕方のないことだと思っている。
少し前に、自分が病に罹患していることがわかった。同時に、子を宿したことも知った。
自分の身の内に、新たな生と間もなく訪れる死が共存している。
それはとても不思議な感覚だった。
一つだけ確かなのは、一つの身体に二つの魂を宿すことは、母親でなければ得られない稀有な体験だということだった。
そして、若くして迎える死が、思いのほか恐ろしくはないと思えたことだった。
死に救われる気持ちとは。
若いジャクリーンに、本来死とは遠いものだった。生家の家族は存命で、貴族令嬢に生まれた日から飢えたことすら一度もない。
それなのに、もうすぐ死んでしまうなんて。
夫に女性の影を探す時、必ず思い浮かぶ人物がいる。彼女は夫の部下で、夫と共に王家に仕えている。
二人の間にジャクリーンは入り込めなかった。それなのに、二人が共有したであろう病だけは貰い受けてしまった。
執事には、至急夫を医者に診せるように伝えている。自分が頼んだ医師にもひと目でわかった病である。王城の医師なら、即座に治療をしてくれるだろう。
ジャクリーンは、夫が邸を空けたまま帰宅しなかった朝に伯爵邸を出た。
郊外にある別邸に移り住んだのである。
だから、昨夜クエンティンが帰ってこなくて良かった。彼が在宅であったなら、あれこれ詮索されただろうし、場合によっては懐妊も知られてしまったかもしれない。
この子のことは、クエンティンに話すべきではないと思った。どの道二人とも助からない。子を失う哀しみに、クエンティンを苛ませたくはなかった。
ジャクリーンは、夫の不貞の末に命を落とす。そこに宿った我が子を知るのは、彼にとって幸福なことではないだろう。
移ったばかりの屋敷からは、鄙びた田園風景を眺めることができた。
雲雀が囀る声が聞こえる。遠くに農夫が働く姿が見えている。
王都であるというのに、馬車の車輪の音もなく、香る風の匂いも違っていた。
同じ空の下なのに、もうクエンティンとは別の世界にいるのだと思った。
彼が次に伯爵邸に戻るのがいつなのか、それすらジャクリーンは知らされていない。詮索しないことがジャクリーンの取り柄だったから、最後まで「良き妻」でいようと思った。
クエンティンとは面会を断るように使用人には言付けてある。
これから身体中が醜く腐敗する姿を、決して彼の目に触れさせたくはなかった。
せめて一日でも早く死ねればよいと願っている。弔いのときに、できるだけ見苦しくないように、少しでも美しくいられるように。
それから何度か夫が訪ねてきたらしい。
だが、ジャクリーンに忠誠心を抱く使用人たちは、彼を妻の元に通すことはしないでくれた。
使用人たちは、ジャクリーンに同情していたのだろう。夫と会わないことで静かな余生を過ごせるのならと、最後までジャクリーンの心に寄り添ってくれた。
だが、その日は必ずやって来る。
いよいよ天に召されるときに、薄らぐ意識の向こうに声が聞こえた。
「ジャクリーン!どうして君がっ」
なぜそんなに泣いているの?
貴方が泣いていることが、瞼を閉じてもわかるのよ。
そんなに哀しませるなんて、ジャクリーンの本望ではなかったのに。
ただ、クエンティンは病を癒して、この先も長く幸福に生きてほしいと願った。
クエンティンの幸せを願ったまま、暗い海に沈むように静かに意識を手放した。
「とんだ死に際だわ」
瞼を開けたジャクリーンは、そこで小さく呟いた。
義兄たちが来るまでまだ間があった。それで窓辺で刺繍をしていたのだが、午後の暖かな日射しを浴びるうちに微睡んでいたのだろう。
哀しい夢を見た。
目が覚めて思ったことは、あり得ないという呆れだった。
「夫の風上にも置けない愚か者だわ。不貞を働いたうえに、性病?穢らわしい!」
多感なお年頃のジャクリーンには、夫の裏切りに耐え忍ぶオトナの気持ちも理解できない。
「全然まったく許せない。蹴りを入れたいくらいだわ。お腹に子がいたのよ?」
前世の自分がどれほど忍耐強くても、愛し合ったと信じた夫の裏切りは、夢でも許せそうにはなかった。
「どうしましょう。これから殿下とお会いするのに、あの顔を見たなら瞬間的に蹴りを入れてしまいそう」
そうなれば、ジャクリーンはどうなってしまうのか。
「確実に処されるわ」
病を得る前に、牢獄生活を迎えてしまう。
クエンティンから婚約を求められている。心の奥底から湧き出す感情に蓋をして、取り敢えず、今世での方針を決めなければならない。
「一つ、彼の所在ははっきりさせましょう。一つ、浮気厳禁。浮気一回につき鞭打ちよね」
一つ、ともう一つ重ねて言おうとした時だった。
「鞭打ちとは、私が鞭で打たれるのかな?」
ここはジャクリーンの私室である。刺繍をする間、ジェーンは退室しており一人きりだった。
だから思いっきり独り言を言っていた。
それを聞かれるだなんて、痛恨のミス。
ジャクリーンは、ギギギと音がするように、開かれた扉へ顔を向けた。
「……ご機嫌よう。クエンティン殿下」
刺繍枠を手に持って窓辺の椅子に座ったまま、ぎこちなく来客に挨拶をした。
クエンティンの背後から、情けない顔をしてこちらを見る義兄と目が合った。
それは彼と結婚してから度々あったことで、特段珍しいことではない。
夫、クエンティンには職務がある。
臣籍降下して賜った伯爵家当主として、国王陛下と王太子殿下の何某か補佐をしている。
側近も侍従もいる王族の補佐が一体どういうものなのか、ジャクリーンは聞いたことはなかった。
王族に関わるのであるから口外できないことも多いだろう。むしろ、一つとして漏らしてはならないことばかりだろう。
クエンティンはどれほど多忙なのか、週のうち数日を王城に泊まっていた。
元より王子であり、王城には今も彼の私室がある。彼にとってはジャクリーンとの結婚後に住み始めた伯爵邸より、私室のほうが過ごしやすかっただろう。
ただ、帰ってこない夜のすべてを、彼が王城で一人きりで過ごしていたわけではなかったことを知った。
ジャクリーンを邸に残して、クエンティンは妻以外の女性と関係を深めていた。性の病を得るほどに。
ジャクリーンにどれほどの情報網があったとしても、クエンティンの行動を調べることはできなかった。
臣下に降りたとしても、彼は王位継承権を持つ王族で、堅い守りの中にいる。
あんなに明るく美しい金色の髪を持ちながら、クエンティンにはいつもどこか仄暗い秘密の影を感じていた。
夫の行動に違和感を抱くことは何度かあった。だが、なにも尋ねてはいけないと思っていた。
それが王族に嫁いだ者の定めであるのか、ジャクリーンの妻としての意地だったのか、もう考えても仕方のないことだと思っている。
少し前に、自分が病に罹患していることがわかった。同時に、子を宿したことも知った。
自分の身の内に、新たな生と間もなく訪れる死が共存している。
それはとても不思議な感覚だった。
一つだけ確かなのは、一つの身体に二つの魂を宿すことは、母親でなければ得られない稀有な体験だということだった。
そして、若くして迎える死が、思いのほか恐ろしくはないと思えたことだった。
死に救われる気持ちとは。
若いジャクリーンに、本来死とは遠いものだった。生家の家族は存命で、貴族令嬢に生まれた日から飢えたことすら一度もない。
それなのに、もうすぐ死んでしまうなんて。
夫に女性の影を探す時、必ず思い浮かぶ人物がいる。彼女は夫の部下で、夫と共に王家に仕えている。
二人の間にジャクリーンは入り込めなかった。それなのに、二人が共有したであろう病だけは貰い受けてしまった。
執事には、至急夫を医者に診せるように伝えている。自分が頼んだ医師にもひと目でわかった病である。王城の医師なら、即座に治療をしてくれるだろう。
ジャクリーンは、夫が邸を空けたまま帰宅しなかった朝に伯爵邸を出た。
郊外にある別邸に移り住んだのである。
だから、昨夜クエンティンが帰ってこなくて良かった。彼が在宅であったなら、あれこれ詮索されただろうし、場合によっては懐妊も知られてしまったかもしれない。
この子のことは、クエンティンに話すべきではないと思った。どの道二人とも助からない。子を失う哀しみに、クエンティンを苛ませたくはなかった。
ジャクリーンは、夫の不貞の末に命を落とす。そこに宿った我が子を知るのは、彼にとって幸福なことではないだろう。
移ったばかりの屋敷からは、鄙びた田園風景を眺めることができた。
雲雀が囀る声が聞こえる。遠くに農夫が働く姿が見えている。
王都であるというのに、馬車の車輪の音もなく、香る風の匂いも違っていた。
同じ空の下なのに、もうクエンティンとは別の世界にいるのだと思った。
彼が次に伯爵邸に戻るのがいつなのか、それすらジャクリーンは知らされていない。詮索しないことがジャクリーンの取り柄だったから、最後まで「良き妻」でいようと思った。
クエンティンとは面会を断るように使用人には言付けてある。
これから身体中が醜く腐敗する姿を、決して彼の目に触れさせたくはなかった。
せめて一日でも早く死ねればよいと願っている。弔いのときに、できるだけ見苦しくないように、少しでも美しくいられるように。
それから何度か夫が訪ねてきたらしい。
だが、ジャクリーンに忠誠心を抱く使用人たちは、彼を妻の元に通すことはしないでくれた。
使用人たちは、ジャクリーンに同情していたのだろう。夫と会わないことで静かな余生を過ごせるのならと、最後までジャクリーンの心に寄り添ってくれた。
だが、その日は必ずやって来る。
いよいよ天に召されるときに、薄らぐ意識の向こうに声が聞こえた。
「ジャクリーン!どうして君がっ」
なぜそんなに泣いているの?
貴方が泣いていることが、瞼を閉じてもわかるのよ。
そんなに哀しませるなんて、ジャクリーンの本望ではなかったのに。
ただ、クエンティンは病を癒して、この先も長く幸福に生きてほしいと願った。
クエンティンの幸せを願ったまま、暗い海に沈むように静かに意識を手放した。
「とんだ死に際だわ」
瞼を開けたジャクリーンは、そこで小さく呟いた。
義兄たちが来るまでまだ間があった。それで窓辺で刺繍をしていたのだが、午後の暖かな日射しを浴びるうちに微睡んでいたのだろう。
哀しい夢を見た。
目が覚めて思ったことは、あり得ないという呆れだった。
「夫の風上にも置けない愚か者だわ。不貞を働いたうえに、性病?穢らわしい!」
多感なお年頃のジャクリーンには、夫の裏切りに耐え忍ぶオトナの気持ちも理解できない。
「全然まったく許せない。蹴りを入れたいくらいだわ。お腹に子がいたのよ?」
前世の自分がどれほど忍耐強くても、愛し合ったと信じた夫の裏切りは、夢でも許せそうにはなかった。
「どうしましょう。これから殿下とお会いするのに、あの顔を見たなら瞬間的に蹴りを入れてしまいそう」
そうなれば、ジャクリーンはどうなってしまうのか。
「確実に処されるわ」
病を得る前に、牢獄生活を迎えてしまう。
クエンティンから婚約を求められている。心の奥底から湧き出す感情に蓋をして、取り敢えず、今世での方針を決めなければならない。
「一つ、彼の所在ははっきりさせましょう。一つ、浮気厳禁。浮気一回につき鞭打ちよね」
一つ、ともう一つ重ねて言おうとした時だった。
「鞭打ちとは、私が鞭で打たれるのかな?」
ここはジャクリーンの私室である。刺繍をする間、ジェーンは退室しており一人きりだった。
だから思いっきり独り言を言っていた。
それを聞かれるだなんて、痛恨のミス。
ジャクリーンは、ギギギと音がするように、開かれた扉へ顔を向けた。
「……ご機嫌よう。クエンティン殿下」
刺繍枠を手に持って窓辺の椅子に座ったまま、ぎこちなく来客に挨拶をした。
クエンティンの背後から、情けない顔をしてこちらを見る義兄と目が合った。
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