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第十四章
少し長い前髪から、鮮やかな青い瞳が悪戯そうに見えている。
夢の中では、少年時代の終わりから青年王族となった彼の姿を知っている。
纏う衣服だけが時代が移り変わったことを示しており、それ以外は夢と寸分違わない、愛しい裏切り者の姿である。
「ノックをしたんだけれどね」
開け放たれた扉から、中には入らずクエンティンが言った。
その後ろには義兄がおり、そのまた後ろの隙間からジェーンのお仕着せがチラリと見えた。
どうして使用人が案内する前に扉を開けるかな。
そんなことを思っていると、顔に出ていたらしい。
「入れてもらえるだろうか?」
すでに扉を開けちゃっているのに、クエンティンは今更なことを言った。
「予定より早く着いてしまったんだ。出迎えの中に君の姿が見えなくて、スティーブンソンが部屋に案内してくれた」
ジャクリーンが、今もまだ椅子に座ったまま動けずにいたことで、クエンティンはどこか居心地の悪そうな様子で言った。
「ノックをしたんだよ。君は自分の世界に入って忙しそうだったから、聞こえなかったのかな」
まだ言い訳じみたことを並べる。
だがクエンティンはそれほど悪くない。たとえ急な来訪でも、使用人はジャクリーンを呼び寄せねばならなかったし、そもそもジャクリーンは居眠りしている場合ではなかった。
「えーと、ジャクリーン?」
盛大な独り言を聞かれた上に、内容が内容だった。
自分は一体、何を言った?
確か、鞭打ち、浮気一回ごとに鞭打ち刑。
まさかの王族に、ついこの前まで子爵家の娘だったジャクリーンが刑罰を考案していた。
恥ずかしくて情けなくて、なにより畏れ多くて、ジャクリーンはまだ刺繍枠を手にしたまま身動きできずにいるのだった。
「もうっ、殿下、だから言ったではないですか」
そこで間に入るように前に出たのは義兄だった。
「殿下、先ずはお入りください。ジャクリーン、すまない、入れさせてもらうよ」
二人が入室したことで、ようやく空いた隙間から、するりとジェーンも中に入った。そうして恭しく腰を折って、クエンティンを迎えた。
ジャクリーンの私室にもソファはあるが、令嬢仕様のそれは華奢で小振りな造りをしている。
そこに案内されてクエンティンが座ると、たちまち辺りはメルヘンの世界になった。後ろに立った義兄はまるで、王子を守るナイトである。
「大丈夫か? ジャクリーン。驚かせてすまなかった」
どうにか身体の硬直が解けて、ジャクリーンはすごすごとクエンティンの向かい側に座った。
できれば義兄には、こちら側にいてほしいが、王族に侍るのが彼の役目であるから仕方ない。
「ジャクリーン、君は何も悪くない。殿下が悪戯心を起こされてだな、それで、君を驚かせようだなんて言い出して……」
義兄が言うには、二人は予定よりも早く伯爵邸に着いた。そこでジャクリーンを呼ぼうとした使用人を引き止めたのは、クエンティンだという。
それには義兄も渋ったが、「ちょっとだけ、驚く顔が見てみたい」などと戯けたことを言ったクエンティンに流された。
ジェーンが呼びに来なかったのは、そもそも此奴らが悪戯心を起こしたからだ。
なにより、義兄もそんな悪ふざけに心を動かされたからだ。
「ごめんよ、まさか君が殿下の鞭打ち刑を思案していたなんて、その、すっかり邪魔をしてしまった」
義兄は、ジャクリーンが鞭打ちを考えていたことより、思考の邪魔をしたことを詫びた。とんだシスターコンプレックスである。
「私は君が思うような人間ではないよ」
ジェーンが淹れてくれたお茶を口に含み、カップをソーサーに戻すと、クエンティンはそんなことを言った。
「それは……」
「私が浮気者に見えたんだろう? それからなんだったかな、そうそう、所在も告げずに出歩く男だと思ったのかな」
クエンティンは、ジャクリーンの独り言をすっかり憶えていた。
「それと、もう一つあったんだろう? よければ聞かせてもらえると嬉しいのだが」
クエンティンは文句を言われるのが好きなのだろうか。最後の一つだって、聞いて気持ちのよいものではないとわかっているだろう。
「ジャクリーン。私もそこは気になるところだ。殿下が道を踏み外したなら、私はそれをお諌めしなければならない」
「それが臣下の務めである」と言って、義兄は戒めの三番目を聞きたがった。
ジャクリーンは、胸の悪くなるような夢見に閉口していた。
本当にそんな前世であったかなんてわからない。もし真実であるなら、過去のジャクリーンは若い身空で死してしまった。
それを言うなら、ここにいる三人とも、とっくに死んで生まれ変わっているのだが。
兎に角、時代が古かろうが新しかろうが、今のジャクリーンには理不尽しか感じられなかった。
もう少し成熟していたなら、貴族社会において、夫のそういった行動が決して珍しくないことを理解しただろう。
だが今生のジャクリーンはまだ若く、そして前世よりも潔癖だった。
夢で見た自分と、その身に宿った形にもならない我が子が不憫でならなかった。
あんなこと、もう二度と許さない。できることなら刻を遡ってでも、かつてのジャクリーンを夫の元から連れ出してしまいたい。
貴女は何も悪くない。苦しむ必要なんてなかったのだ。こんな爛れた夫など、病と一緒に例の女にくれてやればよい。
そして貴女の最期は、私が看取ってあげたかった。貴女の痛みも苦しみも、その手を握って一緒に感じてあげたかった。
時代を超えることなんてできよう筈もないのに、もう一人きりで泣くのも泣かせるのも御免だと思った。
ジャクリーンは、胸の内側からメラメラと炎が立ちのぼるのを感じた。
「ジャクリーン?」
義兄はジャクリーンの異変に気づいたようで、訝しむような顔をした。
ジャクリーンは背筋を伸ばすと、目の前でこちらを真っ直ぐ見つめるクエンティンを見据えた。
王家の証となるロイヤル・ブルーの瞳が、互いに互いを映している。
「ひとーつ」
そこでジャクリーンは一つ数えた。それからジャクリーン禁止事項を述べた。
「お出かけ先は報告必須です」
そう言うと、また「ひとーつ」と数をした。
「浮気は厳禁、許しません。一度の浮気につき鞭打ち百回。いかなる減刑もありません」
義兄がそこで生唾を飲み込んだ。
だがジャクリーンは、構わず三つ目の戒めを告げた。
「それから最後にもうひとーつ。心変わりをしたのなら、すぐさま私を解放してくださいませ」
それら三つが、今生でクエンティンと生きる条件だった。
「ジャクリーン、百回も鞭を打ったら殿下は死んでしまう」
義兄が情けないことを言ったが、ジャクリーンは曲げる気にはなれなかった。
夢の中では、少年時代の終わりから青年王族となった彼の姿を知っている。
纏う衣服だけが時代が移り変わったことを示しており、それ以外は夢と寸分違わない、愛しい裏切り者の姿である。
「ノックをしたんだけれどね」
開け放たれた扉から、中には入らずクエンティンが言った。
その後ろには義兄がおり、そのまた後ろの隙間からジェーンのお仕着せがチラリと見えた。
どうして使用人が案内する前に扉を開けるかな。
そんなことを思っていると、顔に出ていたらしい。
「入れてもらえるだろうか?」
すでに扉を開けちゃっているのに、クエンティンは今更なことを言った。
「予定より早く着いてしまったんだ。出迎えの中に君の姿が見えなくて、スティーブンソンが部屋に案内してくれた」
ジャクリーンが、今もまだ椅子に座ったまま動けずにいたことで、クエンティンはどこか居心地の悪そうな様子で言った。
「ノックをしたんだよ。君は自分の世界に入って忙しそうだったから、聞こえなかったのかな」
まだ言い訳じみたことを並べる。
だがクエンティンはそれほど悪くない。たとえ急な来訪でも、使用人はジャクリーンを呼び寄せねばならなかったし、そもそもジャクリーンは居眠りしている場合ではなかった。
「えーと、ジャクリーン?」
盛大な独り言を聞かれた上に、内容が内容だった。
自分は一体、何を言った?
確か、鞭打ち、浮気一回ごとに鞭打ち刑。
まさかの王族に、ついこの前まで子爵家の娘だったジャクリーンが刑罰を考案していた。
恥ずかしくて情けなくて、なにより畏れ多くて、ジャクリーンはまだ刺繍枠を手にしたまま身動きできずにいるのだった。
「もうっ、殿下、だから言ったではないですか」
そこで間に入るように前に出たのは義兄だった。
「殿下、先ずはお入りください。ジャクリーン、すまない、入れさせてもらうよ」
二人が入室したことで、ようやく空いた隙間から、するりとジェーンも中に入った。そうして恭しく腰を折って、クエンティンを迎えた。
ジャクリーンの私室にもソファはあるが、令嬢仕様のそれは華奢で小振りな造りをしている。
そこに案内されてクエンティンが座ると、たちまち辺りはメルヘンの世界になった。後ろに立った義兄はまるで、王子を守るナイトである。
「大丈夫か? ジャクリーン。驚かせてすまなかった」
どうにか身体の硬直が解けて、ジャクリーンはすごすごとクエンティンの向かい側に座った。
できれば義兄には、こちら側にいてほしいが、王族に侍るのが彼の役目であるから仕方ない。
「ジャクリーン、君は何も悪くない。殿下が悪戯心を起こされてだな、それで、君を驚かせようだなんて言い出して……」
義兄が言うには、二人は予定よりも早く伯爵邸に着いた。そこでジャクリーンを呼ぼうとした使用人を引き止めたのは、クエンティンだという。
それには義兄も渋ったが、「ちょっとだけ、驚く顔が見てみたい」などと戯けたことを言ったクエンティンに流された。
ジェーンが呼びに来なかったのは、そもそも此奴らが悪戯心を起こしたからだ。
なにより、義兄もそんな悪ふざけに心を動かされたからだ。
「ごめんよ、まさか君が殿下の鞭打ち刑を思案していたなんて、その、すっかり邪魔をしてしまった」
義兄は、ジャクリーンが鞭打ちを考えていたことより、思考の邪魔をしたことを詫びた。とんだシスターコンプレックスである。
「私は君が思うような人間ではないよ」
ジェーンが淹れてくれたお茶を口に含み、カップをソーサーに戻すと、クエンティンはそんなことを言った。
「それは……」
「私が浮気者に見えたんだろう? それからなんだったかな、そうそう、所在も告げずに出歩く男だと思ったのかな」
クエンティンは、ジャクリーンの独り言をすっかり憶えていた。
「それと、もう一つあったんだろう? よければ聞かせてもらえると嬉しいのだが」
クエンティンは文句を言われるのが好きなのだろうか。最後の一つだって、聞いて気持ちのよいものではないとわかっているだろう。
「ジャクリーン。私もそこは気になるところだ。殿下が道を踏み外したなら、私はそれをお諌めしなければならない」
「それが臣下の務めである」と言って、義兄は戒めの三番目を聞きたがった。
ジャクリーンは、胸の悪くなるような夢見に閉口していた。
本当にそんな前世であったかなんてわからない。もし真実であるなら、過去のジャクリーンは若い身空で死してしまった。
それを言うなら、ここにいる三人とも、とっくに死んで生まれ変わっているのだが。
兎に角、時代が古かろうが新しかろうが、今のジャクリーンには理不尽しか感じられなかった。
もう少し成熟していたなら、貴族社会において、夫のそういった行動が決して珍しくないことを理解しただろう。
だが今生のジャクリーンはまだ若く、そして前世よりも潔癖だった。
夢で見た自分と、その身に宿った形にもならない我が子が不憫でならなかった。
あんなこと、もう二度と許さない。できることなら刻を遡ってでも、かつてのジャクリーンを夫の元から連れ出してしまいたい。
貴女は何も悪くない。苦しむ必要なんてなかったのだ。こんな爛れた夫など、病と一緒に例の女にくれてやればよい。
そして貴女の最期は、私が看取ってあげたかった。貴女の痛みも苦しみも、その手を握って一緒に感じてあげたかった。
時代を超えることなんてできよう筈もないのに、もう一人きりで泣くのも泣かせるのも御免だと思った。
ジャクリーンは、胸の内側からメラメラと炎が立ちのぼるのを感じた。
「ジャクリーン?」
義兄はジャクリーンの異変に気づいたようで、訝しむような顔をした。
ジャクリーンは背筋を伸ばすと、目の前でこちらを真っ直ぐ見つめるクエンティンを見据えた。
王家の証となるロイヤル・ブルーの瞳が、互いに互いを映している。
「ひとーつ」
そこでジャクリーンは一つ数えた。それからジャクリーン禁止事項を述べた。
「お出かけ先は報告必須です」
そう言うと、また「ひとーつ」と数をした。
「浮気は厳禁、許しません。一度の浮気につき鞭打ち百回。いかなる減刑もありません」
義兄がそこで生唾を飲み込んだ。
だがジャクリーンは、構わず三つ目の戒めを告げた。
「それから最後にもうひとーつ。心変わりをしたのなら、すぐさま私を解放してくださいませ」
それら三つが、今生でクエンティンと生きる条件だった。
「ジャクリーン、百回も鞭を打ったら殿下は死んでしまう」
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