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第十五章
「わかった」
まるで自分が鞭打たれるように青褪めた義兄をよそに、クエンティンはジャクリーンの条件を受け入れた。
「確かに承知した。三つすべて」
そう言うと、クエンティンは悪戯な眼差しにうっすらと笑みを浮かべた。
嫌と言わせない狡猾さまで気品がある。そんなところは、彼が生粋の王族なのだと思わせた。
「すべて約束したなら、君は私との婚約を受け入れてくれるのだろう?」
クエンティンは、そこで初めて婚約について口にした。今日、彼がここに来た理由がそれだったのだろう。
前世のジャクリーンは、深く夫を愛していた。
それは昨日今日の愛ではなくて、婚約を結んだときから何年もかけて育み信頼してきた愛だった。
クエンティンの裏切りにどれほど傷つけられても、命の灯し火が消えるその瞬間まで、彼に抱く愛情が消え失せることはなかった。
だがしかし。
今のジャクリーンは、かつてのクエンティンを穢れて爛れて悍ましい、情けない大人の代表選手のように思っている。だから、前世の自分を手ぬるいと感じていた。
そんな夫、今の自分であればキリキリと締め上げてくれる。夢の出来事があまりに最悪で、苛烈なことを考えた。
だからこそ、クエンティンが腹を決めて向き合うなら、己も正々堂々対峙せねばなるまいと思った。
婚約の申し込みも受けて立とう。クエンティンが誠実に夫婦の約束事を守るなら、ようやく過去のジャクリーンも浮かばれるのではないか。
ジャクリーンは毅然と顎を上げてクエンティンを見た。女戦士が初陣で、前衛に独り立つような凛々しさだった。
クエンティンは、そんなジャクリーンに一瞬、見惚れたように目を細めた。
それから、
「その……。打たれるなら君の手がいい」
と、とんでもないことを呟いた。
「え?」
よく聞こえませんでしたと言うように、ジャクリーンは思わず聞き返した。
するとあろうことかクエンティンは、眦を紅く染めて俯いてしまった。
紅顔の美少年とは言うけれど、クエンティンこそ紅顔美少年その人だった。
クエンティンは、まるで蚊が囁くよな声音で言った。
「打たれるなら、君から鞭打たれたい」
「……」
クエンティンが放ったモスキート音は、とんでも発言であった。
「あのう、クエンティン殿下?」
名を呼ばれてクエンティンは、ちらりとジャクリーンをチラ見した。そしてはにかむような笑みを浮かべると、再びモスキート音で囁いた。
「鞭を、鞭を贈るよ。君専用の」
ジャクリーンは思わずそこでジェーンを見た。この部屋で正常な感性の人間は彼女しか思い浮かばなかった。申し訳ないが、義兄は正常グループから外れてもらった。
ジェーンは目を見開いてジャクリーンを見つめていた。クエンティンの言葉に驚愕しているのだろう。
そうですよね、それが正しい反応ですよね。
二人は互いの心が通じ合うように頷いた。するとなぜだか義兄まで一緒に頷いた。
貴方はこのグループには入れません、あちら側のお人ですとも言えず、取り敢えず義兄は放っておいた。
それから再びクエンティンへ視線を戻すと、彼はすでに麗しい王子に戻っていた。
クエンティンはジャクリーンに言った。
「約束するよ。君の望むこと三つ。どれか一つでも違えたなら、君の鞭をこの身に受けると誓おう」
だがジャクリーンの内心は「辟易」のひと言だった。「うへえ」と声を漏らさなかっただけでも偉いと思う。
どうしてこのお方はジャクリーンが振るう鞭を望むのか。それではまるでご褒美ではないか。ジャクリーンはそんな変態チックな苛めっ子気質ではない。
罰を与えるなら、伯爵邸にいる一番屈強な人間にお願いしようと考えた。
いっそのこと、義兄なんてよいのではないかと恵まれた体躯の義兄を見た。脳内では、早速義兄がクエンティンを鞭打った。
「クエンティン殿下」
義兄が鞭を振るう姿が頭に浮かび、慌ててそれを打ち消してクエンティンに語りかけた。
「なんだろうか、ジャクリーン」
「そのお覚悟、本心からのものと信じてよろしいのですね」
それは念押しだった。前世のジャクリーンを裏切り欺いたクエンティンへ、楔を打ちつける言葉だった。
「ジャクリーン、よさないか。殿下も殿下です、いくらなんでもそんなこと」
流石に義兄も黙って聞き流すことはできなかったようだ。ジャクリーンを窘めると、クエンティンを引き止めた。
だが義兄の言葉を制したのはクエンティンだった。
「いいんだスティーブンソン。私はジャクリーンの信頼を勝ち得ねばならない。望むところだジャクリーン。思う存分、打ってくれ」
クエンティは、どうやっても鞭打ちから思考が離れられずにいるようだった。
ジャクリーンは、そんなクエンティンの真偽を推し量るように、彼をじっと見つめた。
今度の貴方はどうなのかしら。
ジャクリーンは今度こそ、そこを見極めなければならない。
クエンティンが誓いを違えない人物か確かめるまで、安心して信用することはできそうになかった。
「貴方様の嘘偽りのない誠実なお姿を、拝見させていただきます」
「ああ。是非ともそうしてほしい。必ず君に信頼されるよう精進しよう」
それは可怪しな話だった。
ジャクリーンはクエンティンの婚約者候補なのだと義父から聞いていた。
選ばれるのはクエンティンではなくて、ジャクリーンのほうなのだ。
それなのに、クエンティンは自分こそジャクリーンから選ばれたいと思うようだった。
まるで自分が鞭打たれるように青褪めた義兄をよそに、クエンティンはジャクリーンの条件を受け入れた。
「確かに承知した。三つすべて」
そう言うと、クエンティンは悪戯な眼差しにうっすらと笑みを浮かべた。
嫌と言わせない狡猾さまで気品がある。そんなところは、彼が生粋の王族なのだと思わせた。
「すべて約束したなら、君は私との婚約を受け入れてくれるのだろう?」
クエンティンは、そこで初めて婚約について口にした。今日、彼がここに来た理由がそれだったのだろう。
前世のジャクリーンは、深く夫を愛していた。
それは昨日今日の愛ではなくて、婚約を結んだときから何年もかけて育み信頼してきた愛だった。
クエンティンの裏切りにどれほど傷つけられても、命の灯し火が消えるその瞬間まで、彼に抱く愛情が消え失せることはなかった。
だがしかし。
今のジャクリーンは、かつてのクエンティンを穢れて爛れて悍ましい、情けない大人の代表選手のように思っている。だから、前世の自分を手ぬるいと感じていた。
そんな夫、今の自分であればキリキリと締め上げてくれる。夢の出来事があまりに最悪で、苛烈なことを考えた。
だからこそ、クエンティンが腹を決めて向き合うなら、己も正々堂々対峙せねばなるまいと思った。
婚約の申し込みも受けて立とう。クエンティンが誠実に夫婦の約束事を守るなら、ようやく過去のジャクリーンも浮かばれるのではないか。
ジャクリーンは毅然と顎を上げてクエンティンを見た。女戦士が初陣で、前衛に独り立つような凛々しさだった。
クエンティンは、そんなジャクリーンに一瞬、見惚れたように目を細めた。
それから、
「その……。打たれるなら君の手がいい」
と、とんでもないことを呟いた。
「え?」
よく聞こえませんでしたと言うように、ジャクリーンは思わず聞き返した。
するとあろうことかクエンティンは、眦を紅く染めて俯いてしまった。
紅顔の美少年とは言うけれど、クエンティンこそ紅顔美少年その人だった。
クエンティンは、まるで蚊が囁くよな声音で言った。
「打たれるなら、君から鞭打たれたい」
「……」
クエンティンが放ったモスキート音は、とんでも発言であった。
「あのう、クエンティン殿下?」
名を呼ばれてクエンティンは、ちらりとジャクリーンをチラ見した。そしてはにかむような笑みを浮かべると、再びモスキート音で囁いた。
「鞭を、鞭を贈るよ。君専用の」
ジャクリーンは思わずそこでジェーンを見た。この部屋で正常な感性の人間は彼女しか思い浮かばなかった。申し訳ないが、義兄は正常グループから外れてもらった。
ジェーンは目を見開いてジャクリーンを見つめていた。クエンティンの言葉に驚愕しているのだろう。
そうですよね、それが正しい反応ですよね。
二人は互いの心が通じ合うように頷いた。するとなぜだか義兄まで一緒に頷いた。
貴方はこのグループには入れません、あちら側のお人ですとも言えず、取り敢えず義兄は放っておいた。
それから再びクエンティンへ視線を戻すと、彼はすでに麗しい王子に戻っていた。
クエンティンはジャクリーンに言った。
「約束するよ。君の望むこと三つ。どれか一つでも違えたなら、君の鞭をこの身に受けると誓おう」
だがジャクリーンの内心は「辟易」のひと言だった。「うへえ」と声を漏らさなかっただけでも偉いと思う。
どうしてこのお方はジャクリーンが振るう鞭を望むのか。それではまるでご褒美ではないか。ジャクリーンはそんな変態チックな苛めっ子気質ではない。
罰を与えるなら、伯爵邸にいる一番屈強な人間にお願いしようと考えた。
いっそのこと、義兄なんてよいのではないかと恵まれた体躯の義兄を見た。脳内では、早速義兄がクエンティンを鞭打った。
「クエンティン殿下」
義兄が鞭を振るう姿が頭に浮かび、慌ててそれを打ち消してクエンティンに語りかけた。
「なんだろうか、ジャクリーン」
「そのお覚悟、本心からのものと信じてよろしいのですね」
それは念押しだった。前世のジャクリーンを裏切り欺いたクエンティンへ、楔を打ちつける言葉だった。
「ジャクリーン、よさないか。殿下も殿下です、いくらなんでもそんなこと」
流石に義兄も黙って聞き流すことはできなかったようだ。ジャクリーンを窘めると、クエンティンを引き止めた。
だが義兄の言葉を制したのはクエンティンだった。
「いいんだスティーブンソン。私はジャクリーンの信頼を勝ち得ねばならない。望むところだジャクリーン。思う存分、打ってくれ」
クエンティは、どうやっても鞭打ちから思考が離れられずにいるようだった。
ジャクリーンは、そんなクエンティンの真偽を推し量るように、彼をじっと見つめた。
今度の貴方はどうなのかしら。
ジャクリーンは今度こそ、そこを見極めなければならない。
クエンティンが誓いを違えない人物か確かめるまで、安心して信用することはできそうになかった。
「貴方様の嘘偽りのない誠実なお姿を、拝見させていただきます」
「ああ。是非ともそうしてほしい。必ず君に信頼されるよう精進しよう」
それは可怪しな話だった。
ジャクリーンはクエンティンの婚約者候補なのだと義父から聞いていた。
選ばれるのはクエンティンではなくて、ジャクリーンのほうなのだ。
それなのに、クエンティンは自分こそジャクリーンから選ばれたいと思うようだった。
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