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第十八章
紆余曲折と番狂わせの末に、クエンティンの婚約者が定まった。お相手の令嬢は、当然ながらジャクリーンである。
二人の婚約は正式に国内外に公表されて、新聞でも報じられた。麗しい末王子の慶事である。王国中で喜びとして受け取められた。表向きは。
婚約者候補を辞退したお喋り雀な令嬢がたが吹聴したクエンティンの秘密。
それは今や王都中、もしかしたら王国中に広まってしまったのではなかろうか。
なぜならジャクリーンはいろんな場所で祝いの言葉を受け取った。そしてそこには、隠れた憐憫の眼差しが含まれていた。
元子爵令嬢であるジャクリーンに、やっかみや卑下の一つや二つは、あっても可怪しくないことだろう。
それなのに、二人の婚約は至るところで好意的に受け止められた。
きっとみんな知っている。
クエンティンの決して表に出てはならない「癖」は、所謂、公然の秘密ということだろう。
変態王子への人身御供、それがジャクリーンの評価のようだった。どこに行っても哀れみの眼差しを受ける。そして、多くの令嬢からは感謝までされていた。
みんな、夜な夜な妻を鞭打つ変態王子なんて御免なのだ。そこには大きな誤解があるのだが、クエンティンに気にする様子がないことで、ジャクリーンからは弁明はしなかった。
「ジャクリーン。そこはRだよ」
綴りの間違いを指摘されて、ジャクリーンはそこでスペルミスに気がついた。
「まあ、恥ずかしい。こんな初歩的なことを間違えてしまうなんて。殿下、お教えいただきありがとうございます」
「いや、ここはミスを誘うんだよ。私も間違えたことがある」
二人は机に椅子を並べて、一つのノートを一緒に見ていた。あともうちょっと近づいたら、互いの頭がごっちんことぶつかってしまいそうだ。
ノートはジャクリーンのものである。そしてここは王城の一室だった。
ジャクリーンは、王子妃教育のために王城へ通うようになっていた。以前、母が予見したとおり、祖母から事前に教育を受けていたことは、結果的にプラスとなった。
なにより。
「殿下、なぜこちらにおられるのですか」
祖母はそう言って、ジャクリーンの隣にいるクエンティンに尋ねた。
王城で始まったジャクリーンの妃教育。その指導教師となったのは、祖母だった。
現王妃の王太子妃教育を受け持った経歴はもちろん、ジャクリーンの実の祖母ということから選ばれた。なにより彼女は才媛で、教育者の鑑であった。
そしてクエンティンはというと、先ほど学園から戻ってきた。今日は生徒会活動の日だと聞いていたが、それにしてはずいぶん早い戻りである。
彼がどんな言い訳をして生徒会活動をサボったかは、もう考えないことにした。
クエンティンは、王城でジャクリーンが学んでいることで、彼女を何よりも優先して帰ってきてくれるのである。
今のところ、彼は最高に誠実な婚約者だった。過去世の裏切りが幻のように、ジャクリーンだけを望んでくれる。
今もぴたりとジャクリーンに寄り添って、一つのノートを一緒に見ていたところで、祖母から注意を受けていた。
「エカテリーナ夫人。すまない、少しだけ見逃してはくれないか。私はジャクリーンの勉学の助けになりたいだけなんだ」
「くっつきすぎなんですよ、殿下」
祖母はそう言いながら、手に持つ鞭をビュンと鳴らした。
それはジャクリーンが贈られたようなものではない。教育者が指示棒にしている小振りな鞭である。
だが最近、鞭に過敏に反応してしまうジャクリーンは、祖母がふりふりする鞭に視線を奪われていた。
「大体にして、ご自分の椅子まで持ち込まれては困るんです」
ここへはマイ椅子片手に現れたクエンティンだった。あの姿で王城を歩いていたのか。
まことしやかに噂される彼の性癖に、「椅子」が加わるのではないかとジャクリーンは危惧した。だがその頃にはすでに、噂は広まったあとだったことをジャクリーンは知らない。
「殿下。貴方様にも自学のお時間がございましょう。ジャクリーンに付き合っていては、眠る時間を削ることになりましてよ」
クエンティンは将来、国王と王太子を補佐する役目を担っている。そのために、彼にも学ばねばならないことは多い。
祖母はその勉学の大変さがわかるのだろう。珍しく心配そうな表情を見せて言った。
「ご心配には及びませんよ、寝ませんから」
ええ!と驚いてクエンティンを見上げれば、彼はこの世の慈愛のすべてを集めたような甘い眼差しでジャクリーンを見ていた。
「駄目です、殿下。ちゃんと寝てください。そんなことで倒れてしまってはいけないわ」
「ねえ、ジャクリーン」
心配するジャクリーンに向かって、クエンティンはゆるゆると首を振った。
「違うだろう?私の名は殿下ではないよ」
え?それは屁理屈?
一瞬、そんなことを思ったが、これが正常のクエンティンなのだ。最近、彼のいろんな面が理解できるようになってきた。
それは間違いなく前世の記憶が手伝っている。
クエンティンの仕草や言葉に直ちに馴染む自分を恐ろしく思いながら、それほど彼のことを愛していたのだと、過去の不遇な自分を憐れに思った。
「クエンティン様」
自分と同じ、ロイヤル・ブルーの瞳を見つめて、ジャクリーンはその名を呼んだ。
クエンティンはそこで、はっとして固まった。それから、得意のモスキート音で囁いた。
「キスをしてもよい?」
「駄目です」
途端に祖母の鞭が二人の間に差し込まれた。
危なかった。危うくチューされてしまうところだった。
バクバクと鼓動が胸を叩く。それは懐かし感覚だった。
かつてのジャクリーンが、クエンティンとの人生を一つ一つなぞるようで、ジャクリーンは切ない思いが込み上げた。
同時に、この胸の鼓動が、確かに今の自分自身が心を揺らしているのだと気づいた。
過去世で散々なことを仕出かしたクエンティン。今はどこか物憂げな顔をして、ジャクリーンを見つめている。
そんなクエンティンに、ジャクリーンは胸が温かくなっていることを認めないわけにはいかなかった。
二人の婚約は正式に国内外に公表されて、新聞でも報じられた。麗しい末王子の慶事である。王国中で喜びとして受け取められた。表向きは。
婚約者候補を辞退したお喋り雀な令嬢がたが吹聴したクエンティンの秘密。
それは今や王都中、もしかしたら王国中に広まってしまったのではなかろうか。
なぜならジャクリーンはいろんな場所で祝いの言葉を受け取った。そしてそこには、隠れた憐憫の眼差しが含まれていた。
元子爵令嬢であるジャクリーンに、やっかみや卑下の一つや二つは、あっても可怪しくないことだろう。
それなのに、二人の婚約は至るところで好意的に受け止められた。
きっとみんな知っている。
クエンティンの決して表に出てはならない「癖」は、所謂、公然の秘密ということだろう。
変態王子への人身御供、それがジャクリーンの評価のようだった。どこに行っても哀れみの眼差しを受ける。そして、多くの令嬢からは感謝までされていた。
みんな、夜な夜な妻を鞭打つ変態王子なんて御免なのだ。そこには大きな誤解があるのだが、クエンティンに気にする様子がないことで、ジャクリーンからは弁明はしなかった。
「ジャクリーン。そこはRだよ」
綴りの間違いを指摘されて、ジャクリーンはそこでスペルミスに気がついた。
「まあ、恥ずかしい。こんな初歩的なことを間違えてしまうなんて。殿下、お教えいただきありがとうございます」
「いや、ここはミスを誘うんだよ。私も間違えたことがある」
二人は机に椅子を並べて、一つのノートを一緒に見ていた。あともうちょっと近づいたら、互いの頭がごっちんことぶつかってしまいそうだ。
ノートはジャクリーンのものである。そしてここは王城の一室だった。
ジャクリーンは、王子妃教育のために王城へ通うようになっていた。以前、母が予見したとおり、祖母から事前に教育を受けていたことは、結果的にプラスとなった。
なにより。
「殿下、なぜこちらにおられるのですか」
祖母はそう言って、ジャクリーンの隣にいるクエンティンに尋ねた。
王城で始まったジャクリーンの妃教育。その指導教師となったのは、祖母だった。
現王妃の王太子妃教育を受け持った経歴はもちろん、ジャクリーンの実の祖母ということから選ばれた。なにより彼女は才媛で、教育者の鑑であった。
そしてクエンティンはというと、先ほど学園から戻ってきた。今日は生徒会活動の日だと聞いていたが、それにしてはずいぶん早い戻りである。
彼がどんな言い訳をして生徒会活動をサボったかは、もう考えないことにした。
クエンティンは、王城でジャクリーンが学んでいることで、彼女を何よりも優先して帰ってきてくれるのである。
今のところ、彼は最高に誠実な婚約者だった。過去世の裏切りが幻のように、ジャクリーンだけを望んでくれる。
今もぴたりとジャクリーンに寄り添って、一つのノートを一緒に見ていたところで、祖母から注意を受けていた。
「エカテリーナ夫人。すまない、少しだけ見逃してはくれないか。私はジャクリーンの勉学の助けになりたいだけなんだ」
「くっつきすぎなんですよ、殿下」
祖母はそう言いながら、手に持つ鞭をビュンと鳴らした。
それはジャクリーンが贈られたようなものではない。教育者が指示棒にしている小振りな鞭である。
だが最近、鞭に過敏に反応してしまうジャクリーンは、祖母がふりふりする鞭に視線を奪われていた。
「大体にして、ご自分の椅子まで持ち込まれては困るんです」
ここへはマイ椅子片手に現れたクエンティンだった。あの姿で王城を歩いていたのか。
まことしやかに噂される彼の性癖に、「椅子」が加わるのではないかとジャクリーンは危惧した。だがその頃にはすでに、噂は広まったあとだったことをジャクリーンは知らない。
「殿下。貴方様にも自学のお時間がございましょう。ジャクリーンに付き合っていては、眠る時間を削ることになりましてよ」
クエンティンは将来、国王と王太子を補佐する役目を担っている。そのために、彼にも学ばねばならないことは多い。
祖母はその勉学の大変さがわかるのだろう。珍しく心配そうな表情を見せて言った。
「ご心配には及びませんよ、寝ませんから」
ええ!と驚いてクエンティンを見上げれば、彼はこの世の慈愛のすべてを集めたような甘い眼差しでジャクリーンを見ていた。
「駄目です、殿下。ちゃんと寝てください。そんなことで倒れてしまってはいけないわ」
「ねえ、ジャクリーン」
心配するジャクリーンに向かって、クエンティンはゆるゆると首を振った。
「違うだろう?私の名は殿下ではないよ」
え?それは屁理屈?
一瞬、そんなことを思ったが、これが正常のクエンティンなのだ。最近、彼のいろんな面が理解できるようになってきた。
それは間違いなく前世の記憶が手伝っている。
クエンティンの仕草や言葉に直ちに馴染む自分を恐ろしく思いながら、それほど彼のことを愛していたのだと、過去の不遇な自分を憐れに思った。
「クエンティン様」
自分と同じ、ロイヤル・ブルーの瞳を見つめて、ジャクリーンはその名を呼んだ。
クエンティンはそこで、はっとして固まった。それから、得意のモスキート音で囁いた。
「キスをしてもよい?」
「駄目です」
途端に祖母の鞭が二人の間に差し込まれた。
危なかった。危うくチューされてしまうところだった。
バクバクと鼓動が胸を叩く。それは懐かし感覚だった。
かつてのジャクリーンが、クエンティンとの人生を一つ一つなぞるようで、ジャクリーンは切ない思いが込み上げた。
同時に、この胸の鼓動が、確かに今の自分自身が心を揺らしているのだと気づいた。
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