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第二十一章
思えばジャクリーンは、これまで異性と接触する機会がほとんどなかった。
生家にいた頃も、祖父や叔父のほかは一つ年上の従兄のフィリップくらいしか思い出せない。
クラーレン伯爵家に来てからは義兄と出会っているが、彼には前世の兄の面影があるから、最初から家族枠だった。
今世のジャクリーンにとって異性とは、クエンティンだけなのである。その彼から手の甲へ接吻を受けて、ジャクリーンは混乱した。
「ジャクリーン?」
クエンティンの問いかけにも無言だった。
「……その、すまなかった」
クエンティンはそう言うと、ジャクリーンの様子を窺うように覗き見た。
前世でも今世でも、ジャクリーンにとっての異性とはクエンティンただ一人だった。そのことに今更ながら気がついて、胸の奥から言いようのない気持ちが溢れてくる。
それはきっと、前の生で死に際に昇華しきれず、この世に持ち越した感情なのだろう。
「クエンティン様」
今、呼びかけたのだって、前世のジャクリーンが口を借りているようだった。
「怒ってない?」
クエンティンの瞳が揺れている。こんな表情を前にも見た。それが前世か今世なのか、自分でもわからなかった。
もしも前世であるなら、ジャクリーンは不幸なばかりではなかったのだろう。
クエンティンはきっと、前の生でもジャクリーンを想ってくれていたのではないか。
いつから彼は変わってしまったのだろう。
そう考えたときに、フランシスが思い出された。
「怒ってなどいませんわ。ただ、驚いたのと、恥ずかしかったんです」
「恥ずかしい?」
「皆様の前だったから」
ちらりと、背後にいる侍女と近衛騎士に視線を向ければ、今度も目を逸らされた。
「気にしなくていいよ」
お前はな!と言えたらスッキリするのだろうか。
相変わらず右手は繋がれている。恥ずかしいけれど、嫌ではなかった。
クエンティンはそれから、ジャクリーンを連れてある扉の前で立ち止まった。
ジャクリーンは、もうここが王城である以外どこなのかわからなくなっていた。
クエンティンは制服の内ポケットから鍵を取り出した。それから重厚な扉を開錠すると、自ら開けてジャクリーンを中へ招き入れた。
「ここは?」
「私の執務室だよ」
クエンティンはまだ学生である。兄王子たちとも立場の差があるというのに、もうすでに執務を与えられているのか。
先ほど会ったばかりのフランシスを思い浮かべて、クエンティンはまるで彼に人生を搾取されているように感じたのは間違いなのか。
クエンティンが言ったとおり、いつもここで執務を行っているのだろう。窓辺に背を向ける位置に執務机があった。向かって左側の壁は一面本棚となっている。
右手に暖炉とその脇に扉が見えた。向こう側は応接室なのだろうか。
ジャクリーンはそこで気がついた。
ここには机が一つしかない。ほかには応接テーブルとソファがあるだけだった。
クエンティンには事務方の文官がつけられていないようだった。
文官ばかりではない。どうやら彼には従者もいない。
末王子とはそういうものなのかと考えたが、王家のことなどジャクリーンにはわからなかった。
そう言えば、前の生でも夫に侍従はいなかった。屋敷には家令も執事もいたのだが、クエンティンに付き従っていたのは、件の彼女だった。
今世でも、クエンティンはこれから彼女と出会うのだろうか。
またあの女性に悩まされるのは御免だと思ったときに、懐かしい感情が芽生えた。
——この人に近づかないで。
それは、すっかり忘れていた悋気めいた感情だった。
「ジャクリーン、こちらに」
クエンティンに誘われてソファに座った。ローテーブルを挟んでソファが二台あり、クエンティンは奥まったほうへジャクリーンを座らせた。
王子でありながら婚約者を上座に誘うクエンティン。彼の本質は、誠実で紳士的なものだった。
侍女がお茶をサーブし終えると、クエンティンは人払いをした。
扉を開けておくこともさせずに、彼らが退室すると内側から鍵をかけてしまった。
「怖がらないでほしい。漏らしてはならない話なんだ」
密室にいることでジャクリーンが不安になると思ったのか、クエンティンはそんなことを言った。
そこで彼は、これまで見たことのない表情をした。
日が落ちてくる。窓から落陽する日射しが入ってクエンティンの頬に当たっていた。それが彼を知らない人に見せるのだろうか。
「私は君と約束した。それを違えることはしないと誓った。だから、君だけに伝えておくよ」
クエンティンは、ジャクリーンを見つめて薄く笑みを浮かべた。
「私は、兄の仕事を補佐している。それは知ってるよね」
「はい」
そのことはすでに聞いていた。臣籍降下の後も、形骸的な爵位を与えられるクエンティンは、フランシスを補佐することが決まっている。
「私は、なんというか、兄の汚れ仕事を引き受けるんだ。それが私の仕事なんだよ」
「汚れ仕事、ですか?」
「そう。兄は国王になる存在だよ。汚れも傷もついてはいけないんだ」
フランシスと対面した時に感じたことは正しかった。クエンティンは、フランシスの影武者のような存在なのだろう。
長兄のために生きてきた、それがクエンティンの存在価値なのだと気づいたときに、得体の知れない暗いものが足元から這い上がってくるような錯覚を抱いた。
生家にいた頃も、祖父や叔父のほかは一つ年上の従兄のフィリップくらいしか思い出せない。
クラーレン伯爵家に来てからは義兄と出会っているが、彼には前世の兄の面影があるから、最初から家族枠だった。
今世のジャクリーンにとって異性とは、クエンティンだけなのである。その彼から手の甲へ接吻を受けて、ジャクリーンは混乱した。
「ジャクリーン?」
クエンティンの問いかけにも無言だった。
「……その、すまなかった」
クエンティンはそう言うと、ジャクリーンの様子を窺うように覗き見た。
前世でも今世でも、ジャクリーンにとっての異性とはクエンティンただ一人だった。そのことに今更ながら気がついて、胸の奥から言いようのない気持ちが溢れてくる。
それはきっと、前の生で死に際に昇華しきれず、この世に持ち越した感情なのだろう。
「クエンティン様」
今、呼びかけたのだって、前世のジャクリーンが口を借りているようだった。
「怒ってない?」
クエンティンの瞳が揺れている。こんな表情を前にも見た。それが前世か今世なのか、自分でもわからなかった。
もしも前世であるなら、ジャクリーンは不幸なばかりではなかったのだろう。
クエンティンはきっと、前の生でもジャクリーンを想ってくれていたのではないか。
いつから彼は変わってしまったのだろう。
そう考えたときに、フランシスが思い出された。
「怒ってなどいませんわ。ただ、驚いたのと、恥ずかしかったんです」
「恥ずかしい?」
「皆様の前だったから」
ちらりと、背後にいる侍女と近衛騎士に視線を向ければ、今度も目を逸らされた。
「気にしなくていいよ」
お前はな!と言えたらスッキリするのだろうか。
相変わらず右手は繋がれている。恥ずかしいけれど、嫌ではなかった。
クエンティンはそれから、ジャクリーンを連れてある扉の前で立ち止まった。
ジャクリーンは、もうここが王城である以外どこなのかわからなくなっていた。
クエンティンは制服の内ポケットから鍵を取り出した。それから重厚な扉を開錠すると、自ら開けてジャクリーンを中へ招き入れた。
「ここは?」
「私の執務室だよ」
クエンティンはまだ学生である。兄王子たちとも立場の差があるというのに、もうすでに執務を与えられているのか。
先ほど会ったばかりのフランシスを思い浮かべて、クエンティンはまるで彼に人生を搾取されているように感じたのは間違いなのか。
クエンティンが言ったとおり、いつもここで執務を行っているのだろう。窓辺に背を向ける位置に執務机があった。向かって左側の壁は一面本棚となっている。
右手に暖炉とその脇に扉が見えた。向こう側は応接室なのだろうか。
ジャクリーンはそこで気がついた。
ここには机が一つしかない。ほかには応接テーブルとソファがあるだけだった。
クエンティンには事務方の文官がつけられていないようだった。
文官ばかりではない。どうやら彼には従者もいない。
末王子とはそういうものなのかと考えたが、王家のことなどジャクリーンにはわからなかった。
そう言えば、前の生でも夫に侍従はいなかった。屋敷には家令も執事もいたのだが、クエンティンに付き従っていたのは、件の彼女だった。
今世でも、クエンティンはこれから彼女と出会うのだろうか。
またあの女性に悩まされるのは御免だと思ったときに、懐かしい感情が芽生えた。
——この人に近づかないで。
それは、すっかり忘れていた悋気めいた感情だった。
「ジャクリーン、こちらに」
クエンティンに誘われてソファに座った。ローテーブルを挟んでソファが二台あり、クエンティンは奥まったほうへジャクリーンを座らせた。
王子でありながら婚約者を上座に誘うクエンティン。彼の本質は、誠実で紳士的なものだった。
侍女がお茶をサーブし終えると、クエンティンは人払いをした。
扉を開けておくこともさせずに、彼らが退室すると内側から鍵をかけてしまった。
「怖がらないでほしい。漏らしてはならない話なんだ」
密室にいることでジャクリーンが不安になると思ったのか、クエンティンはそんなことを言った。
そこで彼は、これまで見たことのない表情をした。
日が落ちてくる。窓から落陽する日射しが入ってクエンティンの頬に当たっていた。それが彼を知らない人に見せるのだろうか。
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「はい」
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