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第二十四章
それは前世の記憶だった。
まだ夫から病を移されたと気づく前のことだ。
その晩、夫は数日ぶりに帰ってきた。
美しい人なのに、使い古しのボロ布のようになって、酷く疲れているようだった。頬は削げて、それなのに眼光ばかりが爛々としていた。
待ちわびた夫がようやく帰宅したのに、彼が邸内に入ってきたときに、ジャクリーンは微かな恐れを抱いたほどだ。
一体、どれほど過酷な執務を与えられているのか。王城の仕事とは、何日も帰ってこられないほど多忙なのだろうか。
夫の職務については、口出しをしたことはなかった。彼は元は王族であり、任務も王家に関わることだった。
長兄である王太子の背後に、影のように付き従う夫の姿を見たことがある。たまたま招かれた茶会には、王太子夫妻も参加しており、そこには夫と部下の彼女もいたのである。
彼らには近づくまい。
それがジャクリーンの決め事だった。自分は夫人として多忙な夫に代わって伯爵家の家政を回し、社交を熟す。それがジャクリーンの責務と矜持で、心の支えでもあった。
夫は部下と揃って帰宅していた。晩餐は済ませたと言われて、彼女と一緒に食事をしたのかと、ジャクリーンはつい勘ぐってしまった。
結婚してから、夫とゆっくり晩餐を楽しんだ日はそう多くはなかった。多分、妻の自分より部下である彼女と過ごす時間のほうが長いだろう。
夫とは婚約期間も含めれば、長い付き合いとなっていた。むしろ婚約者だった頃のほうが、今よりよほど、二人きりの逢瀬を楽しめていたように思う。
数日湯浴みをしていなかったと、さっぱりとした表情で寝室に来た夫は言った。
夫の話すひと言ひと言に、彼女の気配を探す自分が嫌になる。
もっと堂々としていればよいのだと、自分で自分を叱った。帰ってくる夫にあれこれ確かめて、煩わしい妻だと思われたくはなかった。
なにより夫は、ジャクリーンに対していつでも優しかった。優しいことは出会った頃から変わらないが、夫婦となってからは、知らなかった男の顔を見せるようになった。
疲れているだろうに、一緒に横になった寝台で、数日ぶりに愛された。甘く熱く、濃く深く蕩かされる。
息も絶えだえになるほど愛されて、意識を飛ばしてしまうのはいつもジャクリーンのほうだった。
一頻り愛された後に、ジャクリーンは眠っていたようだ。
目が覚めたのは、珍しく夫が寝言を呟いたからだ。
「ボンディ……」
夫の口から、彼女の名が漏れた。
「ボンディ……しゅ……ぃ……は、いいか」
ジャクリーンはそこで冷水を浴びせられたように身体が一気に冷えた。
——ボンディ。手技はいいか。
夫はそう言ったのだと思った。手技なんてそんな言葉、閨教育でも教わらなかった。
最近人気の婦人雑誌に、センセーショナルな内容の恋愛小説が掲載されていた。そこには貴婦人が口にするのははしたない、そんな単語がいくつもあった。
ジャクリーンは、その小説で夜のワードに詳しくなった。耳年増ジャクリーン夫人と言ってもよい。
手技って、つまりそういうことよね。まさか手芸のことではないわよね。それとも本当に彼女と刺繍や編み物をしているの?
そんなこと、ある筈ないじゃない! いいえ、もしかしたら旦那様は正真正銘、手芸好きなのかもしれないわ。
だとしたら、部下の彼女、ボンディも一緒に手芸をしているのかしら。
そんなわけはないだろう。
夫はボンディと「そういう関係」なのだ。
多忙な職務の合間には、彼女との甘い時間が挟まれている。
そう思うと、するすると疑問が解けてきた。
いつだか夫が漏らした言葉があった。やはりその時も寝言だった。
「私は……もう、いける」
——もう、イケる。
なんて破廉恥なお言葉! それも例の小説で学んだワードだった。
ああ、旦那様! 貴方はこんな貧相な私の身体では満足できなかったのね。
ボンディという名の部下は豊満なボディの持ち主だ。豊満なボディのくせにボンディなんて、クドい名前だと思っていた。
まだ婚約者だった頃に、「君だけを愛するよ」と言ってくれた。
婚姻式でウェディングベールを持ち上げて、燃えるような熱い眼差しを向けた後に、長すぎる口づけをしてくれた。
あれはすべて幻だったのか。
それを愛されていると勘違いして、自分は今の今まで砂の城に住んでいたのか。
ジャクリーンの脳内で、砂でできた城が波を被った。砂城は脆く崩れて、跡形もなく消えてしまった。
という場面をジャクリーンは思い出した。
まるで舞台の正面から名場面を観劇するような気持ちだった。
「ジャクリーン? どうしたんだ?」
呆然となったジャクリーンに、クエンティンが心配そうに尋ねてきた。
「ボンディ、気に入らない?」
どうやら彼は、ジャクリーンがコードネームを気に入らなかったと思ったようだ。
「別のネームがいいかな? そうだな、バディ、いやビンディとかは? ブディも呼びやすいな」
いい加減、バ行から離れてほしい。
ジャクリーンは、クエンティンがベディと言うだろうところで先回りした。
「ボンディで結構ですわ」
前世で散々悩まされた名前だった。今世はその名を我が名としよう。それならボンディ=ジャクリーンだ。ジャクリーンは前世も今世もジャクリーンで変わらない。
そう思えば、なんとなく「ボンディ」を攻略できたような気になれた。
「ボンディ」
間合いのよいところで、クエンティンがコードネームでジャクリーンを呼んだ。
「ボンディ。君にとても似合っている名だね」
そう言って笑ったクエンティンの青い瞳には、微塵も嘘は見えなかった。
だからジャクリーンは覚悟を決めた。そう思えば清々しくもある。
今世では、ジャクリーンでありボンディだ。
「ジェームズも。とても良い名前だわ」
そう言って、ジャクリーンはクエンティンに微笑んだ。
まだ夫から病を移されたと気づく前のことだ。
その晩、夫は数日ぶりに帰ってきた。
美しい人なのに、使い古しのボロ布のようになって、酷く疲れているようだった。頬は削げて、それなのに眼光ばかりが爛々としていた。
待ちわびた夫がようやく帰宅したのに、彼が邸内に入ってきたときに、ジャクリーンは微かな恐れを抱いたほどだ。
一体、どれほど過酷な執務を与えられているのか。王城の仕事とは、何日も帰ってこられないほど多忙なのだろうか。
夫の職務については、口出しをしたことはなかった。彼は元は王族であり、任務も王家に関わることだった。
長兄である王太子の背後に、影のように付き従う夫の姿を見たことがある。たまたま招かれた茶会には、王太子夫妻も参加しており、そこには夫と部下の彼女もいたのである。
彼らには近づくまい。
それがジャクリーンの決め事だった。自分は夫人として多忙な夫に代わって伯爵家の家政を回し、社交を熟す。それがジャクリーンの責務と矜持で、心の支えでもあった。
夫は部下と揃って帰宅していた。晩餐は済ませたと言われて、彼女と一緒に食事をしたのかと、ジャクリーンはつい勘ぐってしまった。
結婚してから、夫とゆっくり晩餐を楽しんだ日はそう多くはなかった。多分、妻の自分より部下である彼女と過ごす時間のほうが長いだろう。
夫とは婚約期間も含めれば、長い付き合いとなっていた。むしろ婚約者だった頃のほうが、今よりよほど、二人きりの逢瀬を楽しめていたように思う。
数日湯浴みをしていなかったと、さっぱりとした表情で寝室に来た夫は言った。
夫の話すひと言ひと言に、彼女の気配を探す自分が嫌になる。
もっと堂々としていればよいのだと、自分で自分を叱った。帰ってくる夫にあれこれ確かめて、煩わしい妻だと思われたくはなかった。
なにより夫は、ジャクリーンに対していつでも優しかった。優しいことは出会った頃から変わらないが、夫婦となってからは、知らなかった男の顔を見せるようになった。
疲れているだろうに、一緒に横になった寝台で、数日ぶりに愛された。甘く熱く、濃く深く蕩かされる。
息も絶えだえになるほど愛されて、意識を飛ばしてしまうのはいつもジャクリーンのほうだった。
一頻り愛された後に、ジャクリーンは眠っていたようだ。
目が覚めたのは、珍しく夫が寝言を呟いたからだ。
「ボンディ……」
夫の口から、彼女の名が漏れた。
「ボンディ……しゅ……ぃ……は、いいか」
ジャクリーンはそこで冷水を浴びせられたように身体が一気に冷えた。
——ボンディ。手技はいいか。
夫はそう言ったのだと思った。手技なんてそんな言葉、閨教育でも教わらなかった。
最近人気の婦人雑誌に、センセーショナルな内容の恋愛小説が掲載されていた。そこには貴婦人が口にするのははしたない、そんな単語がいくつもあった。
ジャクリーンは、その小説で夜のワードに詳しくなった。耳年増ジャクリーン夫人と言ってもよい。
手技って、つまりそういうことよね。まさか手芸のことではないわよね。それとも本当に彼女と刺繍や編み物をしているの?
そんなこと、ある筈ないじゃない! いいえ、もしかしたら旦那様は正真正銘、手芸好きなのかもしれないわ。
だとしたら、部下の彼女、ボンディも一緒に手芸をしているのかしら。
そんなわけはないだろう。
夫はボンディと「そういう関係」なのだ。
多忙な職務の合間には、彼女との甘い時間が挟まれている。
そう思うと、するすると疑問が解けてきた。
いつだか夫が漏らした言葉があった。やはりその時も寝言だった。
「私は……もう、いける」
——もう、イケる。
なんて破廉恥なお言葉! それも例の小説で学んだワードだった。
ああ、旦那様! 貴方はこんな貧相な私の身体では満足できなかったのね。
ボンディという名の部下は豊満なボディの持ち主だ。豊満なボディのくせにボンディなんて、クドい名前だと思っていた。
まだ婚約者だった頃に、「君だけを愛するよ」と言ってくれた。
婚姻式でウェディングベールを持ち上げて、燃えるような熱い眼差しを向けた後に、長すぎる口づけをしてくれた。
あれはすべて幻だったのか。
それを愛されていると勘違いして、自分は今の今まで砂の城に住んでいたのか。
ジャクリーンの脳内で、砂でできた城が波を被った。砂城は脆く崩れて、跡形もなく消えてしまった。
という場面をジャクリーンは思い出した。
まるで舞台の正面から名場面を観劇するような気持ちだった。
「ジャクリーン? どうしたんだ?」
呆然となったジャクリーンに、クエンティンが心配そうに尋ねてきた。
「ボンディ、気に入らない?」
どうやら彼は、ジャクリーンがコードネームを気に入らなかったと思ったようだ。
「別のネームがいいかな? そうだな、バディ、いやビンディとかは? ブディも呼びやすいな」
いい加減、バ行から離れてほしい。
ジャクリーンは、クエンティンがベディと言うだろうところで先回りした。
「ボンディで結構ですわ」
前世で散々悩まされた名前だった。今世はその名を我が名としよう。それならボンディ=ジャクリーンだ。ジャクリーンは前世も今世もジャクリーンで変わらない。
そう思えば、なんとなく「ボンディ」を攻略できたような気になれた。
「ボンディ」
間合いのよいところで、クエンティンがコードネームでジャクリーンを呼んだ。
「ボンディ。君にとても似合っている名だね」
そう言って笑ったクエンティンの青い瞳には、微塵も嘘は見えなかった。
だからジャクリーンは覚悟を決めた。そう思えば清々しくもある。
今世では、ジャクリーンでありボンディだ。
「ジェームズも。とても良い名前だわ」
そう言って、ジャクリーンはクエンティンに微笑んだ。
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