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第二十六章
廊下の向こうにクエンティンの姿が見えた。
隣には義兄が並んで歩いている。
だが、ジャクリーンが見つける前に、クエンティンのほうが目敏く気がついていたようだ。
遠目でわかるほどクエンティンが歩く速度を速めた。危うく義兄が置いてけぼりになりそうだったが、流石は義兄、すぐに追いついた。
競歩並の早歩きで、あっという間に目の前にクエンティンがやって来た。
「ジャクリーン」
名前を呼んだだけなのに、彼は瞳にいろんな言葉を並べて見せた。器用である。
瞳に何か書いているわけではないのだが、目は口ほどにものを言う。
——今日も可愛い! 大好きだ! そんなに見つめられると抑えられない! ひと鞭打ってほし……自主規制
ざっとこんなものだろうか。
「ご機嫌よう、クエンティン様。それから、お義兄様」
ここは王都にある貴族学園の廊下である。
この春ジャクリーンは、学園へ入学していた。
二つ年上のクエンティンと義兄は、今は最上級生となっていた。
「どこに行くの?」
「図書室へ本を返しに行くところでした」
「一緒に行くよ。一人では淋しいだろう」
図書室に本を返却することは、どこからどう考えても淋しいことではない。いくらジャクリーンでも、それくらい当たり前のことである。
「いけませんわ。今日は生徒会活動の日ですよね」
腹痛を言い訳にして、散々欠席を繰り返していたクエンティンと義兄だが、幽霊会員にはなっていなかった。
とっくにクビにされると思っていたのだが、学園の入学式で、クエンティンは生徒会会長として祝辞を述べていた。
ちなみに義兄は副生徒会長である。
「それなら心配いらない。腹がいた」「駄目です」
例の文句でズル休みをしようとするクエンティンをジャクリーンは諌めた。
「生徒会が終わるまで、図書室でお待ちしておりますわ」
そこでジャクリーンは、コテンと首を横に倒して見せた。それは侍女のジェーンから教えてもらった「あざとい仕草」というものだった。
なんでも、青少年の心を狙い撃ちできる画期的なポーズなのだという。
「うっ!!」
そこでクエンティンが胸を押さえて蹲った。
「大丈夫ですか!! クエンティン様」
「ううぅ」
クエンティンはまだ小さく呻いていたが、胸を押さえたまま顔を上げると、ジャクリーン見つめて言った。
「反則だよ、ジャクリーン。可愛すぎて死ぬところだった」
ジェーンの言ったことは本当だった。頭コテンは効果覿面だった。
だが、ここでクエンティンに死なれては、ジャクリーンは殺人犯となってしまう。
それではクラーレン伯爵家はお取り潰しになるだろう。もしかしたら、この場に居合わせた義兄にも咎が及んでしまうかもしれない。
「死んじゃ嫌」
ジャクリーンは、胸の前で祈りの作法のように両手を組んだ。そこから上目遣いで懇願すれば、青少年の心を狙い撃ちできるのだと、これもジェーン情報である。
「やめるんだ、ジャクリーン。そんなでは、殿下は死にきれず地獄の業火に苛まれてしまう」
義兄が慌ててジャクリーンを止めた。
「地獄の豪華?」
「そっちじゃない。業火だ業火」
豪華な業火の話である。
「いやはや。可愛いは罪だな」
立ち直ったクエンティンが、そう言って額の汗を拭いながら立ち上がった。
狭い廊下で繰り広げられる、バカップルたちの戯れ合いを、周囲の生徒たちは静観していた。
変態王子と渾名されるクエンティンを、これほど見事に籠絡できるジャクリーンは、影で「変態使い」「鞭の女王」と呼ばれている。
まったく以て不本意である。
誰よりもクエンティンを操ることに長けているという事実を、本人ばかりは気づいていない。
そこでクエンティンが、ふと声を潜めた。
ジャクリーンは、その様子にすべてを察してクエンティンを見つめた。
「あとで。ボンディ」
それだけですべてが通じ合う。クエンティンは得意のモスキート音で話すから、義兄には聞こえていない。
モスキート音を聞き取る能力に長けているという事実を、本人ばかりは気づいていない。
あれから二人は、フランシスの元、パートナーとなって暗躍していた。
婚約者であるからパートナーなのに間違いないのだが、二人には別の姿がある。
王太子フランシスの子飼いとなって、影の世界で暗躍する、その名も『ジェームズ&ボンディ』。
命じられる任務は幅広い。
貴族の不正や過少申告。それは税務官のお仕事では? と思うことも、人使いが荒いフランシスにはモスキート音以上に届かない。
ほかには、フランシスが引きずり落としたいと目をつけた人物のゴシップ収集。
几帳面な二人は息もぴったりで、どんな些細なことも見落とさないから、ターゲットは大抵何らかのゴシップにより失脚する。
よくよく考えてみれば、フランシスの私利私欲に付き合わされている感がなきにしもあらず。
意外と勇敢だったジャクリーンは、一度そこを尋ねてみたことがある。
「それって殿下の私情ではごさいませんこと?」
するとフランシスは涼しい顔で答えたのだった。
「悪い?」
悪いかと問われれば悪いと思う。だが、身分でも口でも彼には勝てないジャクリーンは、渋々引き下がったのである。
丁度、先日もそんなふうに一人の青年貴族を失脚に追い込んだところだった。
なんでも、フランシスの婚約者に花を贈ったとかなんとか。
私情のもつれは前世だけで十分である。
だが、クエンティンは長兄に仕えることを定めとしている。彼一人を暗躍させるなんてできなかった。
そこでジャクリーンは思った。
前世でも夫はボロ雑巾のようになって帰ってきた。何日も戻らないことも度々だった。
あの時も、もしかしたら夫はこんなふうにあらゆることに奔走していたのではなかったか。
そしてそのたびに、件の女性・ボンディが、彼を支えていたのではないか。
任務の遂行には、絶対的な信頼関係が必要であることを、今のジャクリーンは身をもって知っている。
こんな深い関係を、夫と彼女が共有していたのなら、はじめからジャクリーンに勝ち目はなかったのだ。
あの時、死んで良かったんだわ。
不毛な人生が思った以上に短いものだったことは、神の恵みだったのだろう。
そんなふうに思って、かつての自分の魂を慰めた。
隣には義兄が並んで歩いている。
だが、ジャクリーンが見つける前に、クエンティンのほうが目敏く気がついていたようだ。
遠目でわかるほどクエンティンが歩く速度を速めた。危うく義兄が置いてけぼりになりそうだったが、流石は義兄、すぐに追いついた。
競歩並の早歩きで、あっという間に目の前にクエンティンがやって来た。
「ジャクリーン」
名前を呼んだだけなのに、彼は瞳にいろんな言葉を並べて見せた。器用である。
瞳に何か書いているわけではないのだが、目は口ほどにものを言う。
——今日も可愛い! 大好きだ! そんなに見つめられると抑えられない! ひと鞭打ってほし……自主規制
ざっとこんなものだろうか。
「ご機嫌よう、クエンティン様。それから、お義兄様」
ここは王都にある貴族学園の廊下である。
この春ジャクリーンは、学園へ入学していた。
二つ年上のクエンティンと義兄は、今は最上級生となっていた。
「どこに行くの?」
「図書室へ本を返しに行くところでした」
「一緒に行くよ。一人では淋しいだろう」
図書室に本を返却することは、どこからどう考えても淋しいことではない。いくらジャクリーンでも、それくらい当たり前のことである。
「いけませんわ。今日は生徒会活動の日ですよね」
腹痛を言い訳にして、散々欠席を繰り返していたクエンティンと義兄だが、幽霊会員にはなっていなかった。
とっくにクビにされると思っていたのだが、学園の入学式で、クエンティンは生徒会会長として祝辞を述べていた。
ちなみに義兄は副生徒会長である。
「それなら心配いらない。腹がいた」「駄目です」
例の文句でズル休みをしようとするクエンティンをジャクリーンは諌めた。
「生徒会が終わるまで、図書室でお待ちしておりますわ」
そこでジャクリーンは、コテンと首を横に倒して見せた。それは侍女のジェーンから教えてもらった「あざとい仕草」というものだった。
なんでも、青少年の心を狙い撃ちできる画期的なポーズなのだという。
「うっ!!」
そこでクエンティンが胸を押さえて蹲った。
「大丈夫ですか!! クエンティン様」
「ううぅ」
クエンティンはまだ小さく呻いていたが、胸を押さえたまま顔を上げると、ジャクリーン見つめて言った。
「反則だよ、ジャクリーン。可愛すぎて死ぬところだった」
ジェーンの言ったことは本当だった。頭コテンは効果覿面だった。
だが、ここでクエンティンに死なれては、ジャクリーンは殺人犯となってしまう。
それではクラーレン伯爵家はお取り潰しになるだろう。もしかしたら、この場に居合わせた義兄にも咎が及んでしまうかもしれない。
「死んじゃ嫌」
ジャクリーンは、胸の前で祈りの作法のように両手を組んだ。そこから上目遣いで懇願すれば、青少年の心を狙い撃ちできるのだと、これもジェーン情報である。
「やめるんだ、ジャクリーン。そんなでは、殿下は死にきれず地獄の業火に苛まれてしまう」
義兄が慌ててジャクリーンを止めた。
「地獄の豪華?」
「そっちじゃない。業火だ業火」
豪華な業火の話である。
「いやはや。可愛いは罪だな」
立ち直ったクエンティンが、そう言って額の汗を拭いながら立ち上がった。
狭い廊下で繰り広げられる、バカップルたちの戯れ合いを、周囲の生徒たちは静観していた。
変態王子と渾名されるクエンティンを、これほど見事に籠絡できるジャクリーンは、影で「変態使い」「鞭の女王」と呼ばれている。
まったく以て不本意である。
誰よりもクエンティンを操ることに長けているという事実を、本人ばかりは気づいていない。
そこでクエンティンが、ふと声を潜めた。
ジャクリーンは、その様子にすべてを察してクエンティンを見つめた。
「あとで。ボンディ」
それだけですべてが通じ合う。クエンティンは得意のモスキート音で話すから、義兄には聞こえていない。
モスキート音を聞き取る能力に長けているという事実を、本人ばかりは気づいていない。
あれから二人は、フランシスの元、パートナーとなって暗躍していた。
婚約者であるからパートナーなのに間違いないのだが、二人には別の姿がある。
王太子フランシスの子飼いとなって、影の世界で暗躍する、その名も『ジェームズ&ボンディ』。
命じられる任務は幅広い。
貴族の不正や過少申告。それは税務官のお仕事では? と思うことも、人使いが荒いフランシスにはモスキート音以上に届かない。
ほかには、フランシスが引きずり落としたいと目をつけた人物のゴシップ収集。
几帳面な二人は息もぴったりで、どんな些細なことも見落とさないから、ターゲットは大抵何らかのゴシップにより失脚する。
よくよく考えてみれば、フランシスの私利私欲に付き合わされている感がなきにしもあらず。
意外と勇敢だったジャクリーンは、一度そこを尋ねてみたことがある。
「それって殿下の私情ではごさいませんこと?」
するとフランシスは涼しい顔で答えたのだった。
「悪い?」
悪いかと問われれば悪いと思う。だが、身分でも口でも彼には勝てないジャクリーンは、渋々引き下がったのである。
丁度、先日もそんなふうに一人の青年貴族を失脚に追い込んだところだった。
なんでも、フランシスの婚約者に花を贈ったとかなんとか。
私情のもつれは前世だけで十分である。
だが、クエンティンは長兄に仕えることを定めとしている。彼一人を暗躍させるなんてできなかった。
そこでジャクリーンは思った。
前世でも夫はボロ雑巾のようになって帰ってきた。何日も戻らないことも度々だった。
あの時も、もしかしたら夫はこんなふうにあらゆることに奔走していたのではなかったか。
そしてそのたびに、件の女性・ボンディが、彼を支えていたのではないか。
任務の遂行には、絶対的な信頼関係が必要であることを、今のジャクリーンは身をもって知っている。
こんな深い関係を、夫と彼女が共有していたのなら、はじめからジャクリーンに勝ち目はなかったのだ。
あの時、死んで良かったんだわ。
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そんなふうに思って、かつての自分の魂を慰めた。
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