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第三十六章
「なぜ今なの?私たちが家を出て三年も経つのよ?」
フィリップは、すべてが母から仕向けられたことのように言った。だが、今ここで言うのなら、もっと早く、せめて最後の日にひと言だけでも言えることがあったのではないか。
何も言えなかったとしても、最後くらいジャクリーンを見てほしかった。
いつまでも開く気配のない扉の前で立ち尽くした、あの気持ちが思い出されて切ない気持ちが蘇る。
「伯母上が……怖かったんだ」
フィリップはそこで俯いてしまった。その横顔は翳りを帯びて、彼もまた当時を思い出しているようだった。
「ジャクリーン。こんなところにいたんだね」
名前を呼ばれた途端、もやもやとしたはっきりしない世界から浮上した。
声のしたへ振り向けば、思ったとおり彼がいた。
「クエンティン様」
「どうしたんだ?こんなところで」
二人きりで何をしている、と皆まで言わずクエンティンは尋ねた。
「従兄なんですの。廊下でばったり会ったものですから」
「ふうん」
フィリップは、行き成り現れた王子に挨拶もできぬまま固まっている。
クエンティンはそんなフィリップに興味を示すことはなかった。ちらりと視線を向けたがそれも一瞬のことで、すぐにジャクリーンへ視線を戻した。
「帰ろうか」
クエンティンの相棒ボンディとなってから、彼は朝夕、送り迎えをしてくれる。通学の馬車の中で作戦会議という名の二人きりの時間を過ごす。
クエンティンがジャクリーンに手を差し伸べた。ジャクリーンはその手に右手を重ねると、フィリップへ振り向いた。
「お話してくださって、ありがとう。フィリップお従兄様」
フィリップの言ったことのすべてを信じてはいなかった。彼の口から聞かされた母は、ジャクリーンが知る母とあまりにかけ離れていた。
もし仮に本当のことだとしたら、それはきっとジャクリーンのためだろう。
どういう理由があるのかわからない。
だが母は、ジャクリーンが子爵家を継ぐよりも違う生き方があることを、どこかで察していたのかもしれない。
父を失ったことで、母なりに母娘のこれからを考えたのではなかったか。
その証拠に、今の母は義父とはすっかり鴛鴦夫婦となっていた。
おっとりとした風情は相変わらずだし、なにより母は美しい。
あのまま寡婦となって子爵家に残るよりも、今の暮らしのほうが母らしく思えた。
フィリップに別れの挨拶をすると同時に、腕を引かれて立ち上がった。クエンティンに見下ろされて、そこで彼が心配していたのだと思った。
「帰りましょう」
微笑みながらクエンティンに言えば、ようやく表情を和らげた。
二人はそのまま、フィリップのことを振り返らずに歩き出す。
彼は多分、誤解を解きたいと思っていたのだろう。だが、ジャクリーンの失望と諦め切っていた気持ちはすぐには変えられなかった。
なぜなのか、生まれ育った子爵家との縁はまだ遠いままに思えた。古傷が疼くような感覚を、どうすることもできなかった。
もう少し、もう少し時間が経ったなら、子爵家の人々のことも母の行為も、理解できる日が来るだろう。
その時には、フィリップとも前のような気持ちで向き合えるのだろうか。
ただ確かなのは、父がジャクリーンを愛してくれた思い出は、決して色褪せることはないということだった。
クエンティンは、帰り道でもフィリップのことを尋ねてはこなかった。義兄から、ジャクリーンの身の上についてあらましを聞いている彼は、ジャクリーンが放逐されたことも知っている。
だがそれで、ジャクリーンと縁が生まれたと思うらしく、深入りはしてこない。
今日は、思ったとおり生徒会室からジャクリーンを見つけて、隣に男子生徒がいたことで急いで迎えにきたようだった。
ジャクリーンの心が波立ったのを宥めるように、ただ横にいて繋いだ手を離すことはなかった。
その手の温もりに慰められて、伯爵邸に着く頃には、気持ちはすっかり落ち着いていた。
「お帰りなさい、ジャクリーン」
「ただいま戻りました……お母様」
母はいつもと変わらぬ様子で、帰宅したジャクリーンを出迎えてくれた。
柔和な笑みを浮かべる母を見つめて、ジャクリーンはエカテリーナの言葉を思い出した。
「全力で仕込んだ娘」確かそんなふうに言っていた。それから、いつどんな殿方に望まれても相応しいようにとも。教え甲斐があったとも言っていた。
現王妃の妃教育を受け持ち、今はジャクリーンの教師でもある祖母は、このおっとりとした母の能力を買っていた。
「どうしたの?」
母を見上げたまま無言になったジャクリーンに母が尋ねた。
「いいえ。お母様はいつまでも若々しくてお綺麗だなと思ったの」
「まあ」
ジャクリーンの言葉に、母はおっとりと微笑んだ。父が愛した笑みだった。今は義父に大切に愛されている。
それがジャクリーンの知る母だ。それだけで十分だった。
母だって、夫の死に見舞われる哀しみを経験している。この先の人生は、母らしく幸せになってほしい。
フィリップの言葉のすべてを疑ってはいなかったが、母のおっとりとした顔を見るうちに、どうでもよく思えてきた。
「お母様、お茶をご一緒してもよい?」
「ええ、勿論よ。そう思ってゼリーを用意してもらったの。今日は暑かったから」
青林檎なのよ?と言って母は微笑んだ。
「すぐ着替えてまいります」
ジャクリーンはそういい置いて私室に向かって階段を上がった。心はすっかり軽くなって、青林檎のゼリーを思い浮かべていた。
セリーヌは、軽やかな足取りで階段を上がってゆくジャクリーンの後ろ姿を見つめていた。
今日も娘はクエンティンに送られて帰ってきた。
クエンティン様、今度こそ、今度こそ貴方はお幸せになるのです。
もう二度と、愛する女性と哀しい別れをなさらぬように。
セリーヌの心の内の呟きは、誰の耳にも聞こえることはなかった。
フィリップは、すべてが母から仕向けられたことのように言った。だが、今ここで言うのなら、もっと早く、せめて最後の日にひと言だけでも言えることがあったのではないか。
何も言えなかったとしても、最後くらいジャクリーンを見てほしかった。
いつまでも開く気配のない扉の前で立ち尽くした、あの気持ちが思い出されて切ない気持ちが蘇る。
「伯母上が……怖かったんだ」
フィリップはそこで俯いてしまった。その横顔は翳りを帯びて、彼もまた当時を思い出しているようだった。
「ジャクリーン。こんなところにいたんだね」
名前を呼ばれた途端、もやもやとしたはっきりしない世界から浮上した。
声のしたへ振り向けば、思ったとおり彼がいた。
「クエンティン様」
「どうしたんだ?こんなところで」
二人きりで何をしている、と皆まで言わずクエンティンは尋ねた。
「従兄なんですの。廊下でばったり会ったものですから」
「ふうん」
フィリップは、行き成り現れた王子に挨拶もできぬまま固まっている。
クエンティンはそんなフィリップに興味を示すことはなかった。ちらりと視線を向けたがそれも一瞬のことで、すぐにジャクリーンへ視線を戻した。
「帰ろうか」
クエンティンの相棒ボンディとなってから、彼は朝夕、送り迎えをしてくれる。通学の馬車の中で作戦会議という名の二人きりの時間を過ごす。
クエンティンがジャクリーンに手を差し伸べた。ジャクリーンはその手に右手を重ねると、フィリップへ振り向いた。
「お話してくださって、ありがとう。フィリップお従兄様」
フィリップの言ったことのすべてを信じてはいなかった。彼の口から聞かされた母は、ジャクリーンが知る母とあまりにかけ離れていた。
もし仮に本当のことだとしたら、それはきっとジャクリーンのためだろう。
どういう理由があるのかわからない。
だが母は、ジャクリーンが子爵家を継ぐよりも違う生き方があることを、どこかで察していたのかもしれない。
父を失ったことで、母なりに母娘のこれからを考えたのではなかったか。
その証拠に、今の母は義父とはすっかり鴛鴦夫婦となっていた。
おっとりとした風情は相変わらずだし、なにより母は美しい。
あのまま寡婦となって子爵家に残るよりも、今の暮らしのほうが母らしく思えた。
フィリップに別れの挨拶をすると同時に、腕を引かれて立ち上がった。クエンティンに見下ろされて、そこで彼が心配していたのだと思った。
「帰りましょう」
微笑みながらクエンティンに言えば、ようやく表情を和らげた。
二人はそのまま、フィリップのことを振り返らずに歩き出す。
彼は多分、誤解を解きたいと思っていたのだろう。だが、ジャクリーンの失望と諦め切っていた気持ちはすぐには変えられなかった。
なぜなのか、生まれ育った子爵家との縁はまだ遠いままに思えた。古傷が疼くような感覚を、どうすることもできなかった。
もう少し、もう少し時間が経ったなら、子爵家の人々のことも母の行為も、理解できる日が来るだろう。
その時には、フィリップとも前のような気持ちで向き合えるのだろうか。
ただ確かなのは、父がジャクリーンを愛してくれた思い出は、決して色褪せることはないということだった。
クエンティンは、帰り道でもフィリップのことを尋ねてはこなかった。義兄から、ジャクリーンの身の上についてあらましを聞いている彼は、ジャクリーンが放逐されたことも知っている。
だがそれで、ジャクリーンと縁が生まれたと思うらしく、深入りはしてこない。
今日は、思ったとおり生徒会室からジャクリーンを見つけて、隣に男子生徒がいたことで急いで迎えにきたようだった。
ジャクリーンの心が波立ったのを宥めるように、ただ横にいて繋いだ手を離すことはなかった。
その手の温もりに慰められて、伯爵邸に着く頃には、気持ちはすっかり落ち着いていた。
「お帰りなさい、ジャクリーン」
「ただいま戻りました……お母様」
母はいつもと変わらぬ様子で、帰宅したジャクリーンを出迎えてくれた。
柔和な笑みを浮かべる母を見つめて、ジャクリーンはエカテリーナの言葉を思い出した。
「全力で仕込んだ娘」確かそんなふうに言っていた。それから、いつどんな殿方に望まれても相応しいようにとも。教え甲斐があったとも言っていた。
現王妃の妃教育を受け持ち、今はジャクリーンの教師でもある祖母は、このおっとりとした母の能力を買っていた。
「どうしたの?」
母を見上げたまま無言になったジャクリーンに母が尋ねた。
「いいえ。お母様はいつまでも若々しくてお綺麗だなと思ったの」
「まあ」
ジャクリーンの言葉に、母はおっとりと微笑んだ。父が愛した笑みだった。今は義父に大切に愛されている。
それがジャクリーンの知る母だ。それだけで十分だった。
母だって、夫の死に見舞われる哀しみを経験している。この先の人生は、母らしく幸せになってほしい。
フィリップの言葉のすべてを疑ってはいなかったが、母のおっとりとした顔を見るうちに、どうでもよく思えてきた。
「お母様、お茶をご一緒してもよい?」
「ええ、勿論よ。そう思ってゼリーを用意してもらったの。今日は暑かったから」
青林檎なのよ?と言って母は微笑んだ。
「すぐ着替えてまいります」
ジャクリーンはそういい置いて私室に向かって階段を上がった。心はすっかり軽くなって、青林檎のゼリーを思い浮かべていた。
セリーヌは、軽やかな足取りで階段を上がってゆくジャクリーンの後ろ姿を見つめていた。
今日も娘はクエンティンに送られて帰ってきた。
クエンティン様、今度こそ、今度こそ貴方はお幸せになるのです。
もう二度と、愛する女性と哀しい別れをなさらぬように。
セリーヌの心の内の呟きは、誰の耳にも聞こえることはなかった。
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