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【31】
麓では夏の盛りを過ぎたばかりであるのに、森の奥に秋の気配を感じてルイーザは驚いた。
王都生まれのルイーザが触れる自然とは、王立の植物園か王都郊外の森林公園である。初夏に王城の薔薇園が一般開放されるのも楽しみであったが、どれも人の手が加わったもので、原生林というものはこれまで図鑑でしか見たことが無かった。
緑の葉を繁らす木々の中に、既に赤や黄色が見えていた。下草は花の時期を終えて、立ち枯れ始めたものもある。朝夕の寒暖差があるのだとジェイムズが教えてくれて、同じ季節を過ごしているのに、まるで時間がズレているような不思議な感覚を覚えた。
草むす湿った薫りを吸い込む。聞き覚えの無い鳥の囀りがあちらこちらにこだまして、目を閉じると辺りをぐるりと囲まれているように思った。
姿は見えないのに森の中に確かな生き物達の息遣いが感じられて、それが鳥なのか狐や兎という小動物なのか、それとも鹿や大きな獣もいるのかと想像が膨らんだ。
「ここには熊はおりませんのでご安心下さい。狼ならいるかも知れませんね。」
「全然安心出来ないじゃない。」
後ろを歩くジェイムズに脅されてルイーザが怯える。オーガストはそんな妻の手を握り、小径を進む。
湖畔へ続く小径の手前で馬を降りていた。
ここまで夫と相乗りで来たルイーザは、背中に感じる夫の体温に昨夜の熱を思い出していた。馬の背に揺れる度に、オーガストの腕がルイーザの腹部に回され支えてくれる。
婚姻して二年も経つのに、こんな昼中から夫と歩くことも触れ合うこともこれまで滅多に無かったから、バカンスに胸が躍るのとは違う意味で心が跳ねた。
馬を降りて森の小径に足を踏み入れれば、鬱蒼と生い茂る草木の中に細い道が伸びて、その向こうが明るく開けて見えていた。湖はそれほど遠い場所ではないらしい。
誰が歩いて出来た小径なのだろう。オーガストに手を引かれて歩きながら、ルイーザはそんな事を考えた。
こんな風に、恋人に手を引かれて歩いたのだろうか。何度も何度も恋人達が行き来して、森の小径が出来たのだろうか。
幼い頃に読んだ童話の挿絵を思い浮かべて、ルイーザはいるかいないか分からない恋人達の姿を思った。
オーガストはルイーザの歩みに合わせてゆっくり進む。前にも後ろにも護衛と従者が続くのだが、下草を踏み分けながら道を歩くうちに、日射しの届かない仄暗い森の中にオーガストと二人きりでいるような孤独を感じた。二人だけの空間は、孤独であるのに幸福な、そんな不思議な感覚を伴った。
さわさわと風が抜ける。目の前が眩しく感じて足元から目線を開ければ、
「まあ、」
湖が水面に光を浴びて見えていた。
「綺麗。」
思わず漏れた言葉は、きっと皆が思った事だろう。
湖を風が渡り水面が揺れる。それが静まれば、鏡の様な湖面は青い空を映した。
拍子抜けしたのは、森の奥の湖は管理が行き届いた場所であった。
湖畔には管理小屋が見えて桟橋があり、ボートが数隻繋がれていた。森の中を幾度も往来して踏みしめ小径を作ったのは、この小屋に通う管理人なのだろう。ロマンティックな恋人達ではなかったらしい事が解って、ルイーザは浮かれた妄想に水を差されてしまった。
管理小屋には人が立ち寄っている痕跡が見えていた。だが、どうやら今は不在であるらしい。森の中を見回っているのだろう。
「ここは自然公園としてマーモット伯爵家で管理をしているのだそうです。」
事前情報をリサーチしたらしいジェイムズの言葉に、ローレンスが領内を隈無く整備していることが窺われて感心した。
北の土地は冬が厳しい。季節の良い時期に観光に力を入れることで領地に財を得られるようにするのだろう。
そう思えば、ルイーザが街に落とした幾ばくかの金銭が、領民の役に立てば良いと見知った顔を思い浮かべた。
「ボートに乗ってみるかい?」
オーガストがそう言ったのは、ゆっくり湖畔を散策して、気持ちの良い汗を掻いた後だった。
地べたに布を敷いてそこに腰を降ろすと、湿った草が布を通してひやりと感じられた。そのまま足を伸ばして湖を眺め、マーサをヘレンが手伝って急拵えで作ったサンドウィッチを皆で頬張った。
ひと心地ついたところで、オーガストがボートに乗ろうと言い出した。
「旦那様、ボートを漕げますの?」
「文官を侮ってもらっては困る。ペンを握り締めて日々手首と腕を鍛錬しているんだ。」
「それじゃあ全然説得力がございませんわ。」
オーガストの軽口に笑いながらルイーザは係留されたボートを見た。
ルイーザは泳げない。でもボート乗りは密かに憧れていた。恋愛脳のルイーザは、何かの小説の挿絵で見て、恋人達の逢瀬での重要なファクターとしてボートを記憶していた。
「乗ってみたいわ。」
その一言でオーガストがルイーザの手を取る。
「行こう、ルイーザ。」
夫に手を引かれて桟橋まで歩く。
ボートは頑丈そうで、オーガストと二人で乗っても沈みそうには見えなかった。先にオーガストが乗るとボートが揺れて、怖気づくルイーザにジェイムズが手を貸して漸くボートに乗り込んだ。
揺れる水面が怖いと思ったのは最初だけであった。
ジェイムズとヘレンも別のボートに乗り込み、オーガストがゆっくり漕ぎ出したボートを追って来る。
二隻のボートが湖を木の葉が浮かぶ様に進む。小さな湖に見えていたのに、中央に向かうにつれて陸地が遠退き、見える風景が姿を変えて水面はきらきらと日の光を反射して輝いた。
これよ、これこれ。これが憧れのボート乗りだわ。
ヘレンに手を振りヘレンも手を振り返して、オーガストが漕ぐボートが漂うのを楽しんだ。
びゅうと風が吹いてボートが揺れた。地に足が付かない不安定な揺れに、ルイーザは自分が目眩症であるのを思い出した。
「うっ」
「ルイーザ?」
幼児用のブランコで酔うルイーザが、水面に揺れるボートに酔わない筈が無い。
「ルイーザ、もしや酔ったのか?」
オーガストに尋ねられてルイーザは、真っ青な顔をして両手で口元を覆ったまま頷いた。憧れのボート乗りは、舟酔いの戦意喪失により敢え無く撤退する事となった。
王都生まれのルイーザが触れる自然とは、王立の植物園か王都郊外の森林公園である。初夏に王城の薔薇園が一般開放されるのも楽しみであったが、どれも人の手が加わったもので、原生林というものはこれまで図鑑でしか見たことが無かった。
緑の葉を繁らす木々の中に、既に赤や黄色が見えていた。下草は花の時期を終えて、立ち枯れ始めたものもある。朝夕の寒暖差があるのだとジェイムズが教えてくれて、同じ季節を過ごしているのに、まるで時間がズレているような不思議な感覚を覚えた。
草むす湿った薫りを吸い込む。聞き覚えの無い鳥の囀りがあちらこちらにこだまして、目を閉じると辺りをぐるりと囲まれているように思った。
姿は見えないのに森の中に確かな生き物達の息遣いが感じられて、それが鳥なのか狐や兎という小動物なのか、それとも鹿や大きな獣もいるのかと想像が膨らんだ。
「ここには熊はおりませんのでご安心下さい。狼ならいるかも知れませんね。」
「全然安心出来ないじゃない。」
後ろを歩くジェイムズに脅されてルイーザが怯える。オーガストはそんな妻の手を握り、小径を進む。
湖畔へ続く小径の手前で馬を降りていた。
ここまで夫と相乗りで来たルイーザは、背中に感じる夫の体温に昨夜の熱を思い出していた。馬の背に揺れる度に、オーガストの腕がルイーザの腹部に回され支えてくれる。
婚姻して二年も経つのに、こんな昼中から夫と歩くことも触れ合うこともこれまで滅多に無かったから、バカンスに胸が躍るのとは違う意味で心が跳ねた。
馬を降りて森の小径に足を踏み入れれば、鬱蒼と生い茂る草木の中に細い道が伸びて、その向こうが明るく開けて見えていた。湖はそれほど遠い場所ではないらしい。
誰が歩いて出来た小径なのだろう。オーガストに手を引かれて歩きながら、ルイーザはそんな事を考えた。
こんな風に、恋人に手を引かれて歩いたのだろうか。何度も何度も恋人達が行き来して、森の小径が出来たのだろうか。
幼い頃に読んだ童話の挿絵を思い浮かべて、ルイーザはいるかいないか分からない恋人達の姿を思った。
オーガストはルイーザの歩みに合わせてゆっくり進む。前にも後ろにも護衛と従者が続くのだが、下草を踏み分けながら道を歩くうちに、日射しの届かない仄暗い森の中にオーガストと二人きりでいるような孤独を感じた。二人だけの空間は、孤独であるのに幸福な、そんな不思議な感覚を伴った。
さわさわと風が抜ける。目の前が眩しく感じて足元から目線を開ければ、
「まあ、」
湖が水面に光を浴びて見えていた。
「綺麗。」
思わず漏れた言葉は、きっと皆が思った事だろう。
湖を風が渡り水面が揺れる。それが静まれば、鏡の様な湖面は青い空を映した。
拍子抜けしたのは、森の奥の湖は管理が行き届いた場所であった。
湖畔には管理小屋が見えて桟橋があり、ボートが数隻繋がれていた。森の中を幾度も往来して踏みしめ小径を作ったのは、この小屋に通う管理人なのだろう。ロマンティックな恋人達ではなかったらしい事が解って、ルイーザは浮かれた妄想に水を差されてしまった。
管理小屋には人が立ち寄っている痕跡が見えていた。だが、どうやら今は不在であるらしい。森の中を見回っているのだろう。
「ここは自然公園としてマーモット伯爵家で管理をしているのだそうです。」
事前情報をリサーチしたらしいジェイムズの言葉に、ローレンスが領内を隈無く整備していることが窺われて感心した。
北の土地は冬が厳しい。季節の良い時期に観光に力を入れることで領地に財を得られるようにするのだろう。
そう思えば、ルイーザが街に落とした幾ばくかの金銭が、領民の役に立てば良いと見知った顔を思い浮かべた。
「ボートに乗ってみるかい?」
オーガストがそう言ったのは、ゆっくり湖畔を散策して、気持ちの良い汗を掻いた後だった。
地べたに布を敷いてそこに腰を降ろすと、湿った草が布を通してひやりと感じられた。そのまま足を伸ばして湖を眺め、マーサをヘレンが手伝って急拵えで作ったサンドウィッチを皆で頬張った。
ひと心地ついたところで、オーガストがボートに乗ろうと言い出した。
「旦那様、ボートを漕げますの?」
「文官を侮ってもらっては困る。ペンを握り締めて日々手首と腕を鍛錬しているんだ。」
「それじゃあ全然説得力がございませんわ。」
オーガストの軽口に笑いながらルイーザは係留されたボートを見た。
ルイーザは泳げない。でもボート乗りは密かに憧れていた。恋愛脳のルイーザは、何かの小説の挿絵で見て、恋人達の逢瀬での重要なファクターとしてボートを記憶していた。
「乗ってみたいわ。」
その一言でオーガストがルイーザの手を取る。
「行こう、ルイーザ。」
夫に手を引かれて桟橋まで歩く。
ボートは頑丈そうで、オーガストと二人で乗っても沈みそうには見えなかった。先にオーガストが乗るとボートが揺れて、怖気づくルイーザにジェイムズが手を貸して漸くボートに乗り込んだ。
揺れる水面が怖いと思ったのは最初だけであった。
ジェイムズとヘレンも別のボートに乗り込み、オーガストがゆっくり漕ぎ出したボートを追って来る。
二隻のボートが湖を木の葉が浮かぶ様に進む。小さな湖に見えていたのに、中央に向かうにつれて陸地が遠退き、見える風景が姿を変えて水面はきらきらと日の光を反射して輝いた。
これよ、これこれ。これが憧れのボート乗りだわ。
ヘレンに手を振りヘレンも手を振り返して、オーガストが漕ぐボートが漂うのを楽しんだ。
びゅうと風が吹いてボートが揺れた。地に足が付かない不安定な揺れに、ルイーザは自分が目眩症であるのを思い出した。
「うっ」
「ルイーザ?」
幼児用のブランコで酔うルイーザが、水面に揺れるボートに酔わない筈が無い。
「ルイーザ、もしや酔ったのか?」
オーガストに尋ねられてルイーザは、真っ青な顔をして両手で口元を覆ったまま頷いた。憧れのボート乗りは、舟酔いの戦意喪失により敢え無く撤退する事となった。
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