侯爵夫人の手紙

桃井すもも

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【32】

「大丈夫か、ルイーザ。」

オーガストは、なるべく揺らさぬ様にボートを漕いだ。すっかり舟酔いをしたルイーザは、青い顔で口元をハンカチ手押さえている。若干目が白目を剥いて見える。

「大丈夫じゃないな、ルイーザ。」

白目を剥いたままルイーザが小さく頷いた。
なるべく刺激を与えない様に細心の注意を払いながらボートを漕ぐも、如何せん湖の上。揺れてなんぼの世界である。

頑張れルイーザ、負けるなルイーザ。
ルイーザは心の内で自分で自分を激励した。


岸辺は目の前に見えている。着きそうで着かない岸を前に、ここから思いっきりジャンプ出来たなら直ぐさま桟橋に着けるのにと恨めしく思った。
ブランコで酔ってしまうルイーザが、舟酔いしたのだと察したジェイムズ達も岸へと向かう。見守る従者も護衛達も、ルイーザが酔ったのだと解ったらしい。

桟橋にわらわらと人が集まり、ルイーザは、なるべく揺らさぬ様にしかしながら可及的速やかにボートから降ろされる事となった。

「うえ」

変な声が漏れてしまう。折角夫がボートを漕いで、積年の憧れを叶えてくれたのに。

無念。

ルイーザはそのまま暫く岸辺に寝かされ、遠目には、まるで土左衛門水死人の様に見えただろう。

暫くして、何とか起き上がれるまで回復したが、その後もフラフラふらついて、なかなか酔いが覚めない。
どうにか別荘に戻った時には、ルイーザは今度こそ丘に上がった土左衛門状態であった。



「ルイーザ、大丈夫か。」

寝台に横になって暫くしても、酔いが引き起こした胸のむかつきが収まらない。

「旦那様。」

心配をするオーガストに声を掛けたのはヘレンだった。扉の向こうで二人が何事か言葉を交わす。それに気付きながら瞼を閉じるルイーザは、疲れも出たのだろう、そのまま眠りに落ちるのだった。



晴天の霹靂。
ルイーザは、思いもしない事に声を失った。

「お目出度うございます、奥様。」

医師はルイーザにそう告げた。


ルイーザが短い眠りから目覚めると、何故か医師が呼ばれていた。心配症のヘレンが夫に頼んだのだろう。大事になってしまった事で困惑するルイーザを他所に、医師は軽い触診のあと幾つか質問をした。
聞かれるままに答えるうちに、ルイーザの困惑は深まっていく。
真逆、そんな事。いつかはと願っていたが、それが真逆の今なのか?
最終的には月の障りを逆算して、間違い無いだろうと診断された。

「ちょっと、独りにしてもらっても良いかしら。」

ヘレンに頼めば、彼女は直ぐに頷いた。
それから、掛布を一枚増やしてルイーザが冷えない様に整えて、静かに部屋を出て行った。

「ここにいるの?」

ルイーザは天井を見上げたまま、薄い腹に手を添える。夫の祖母が子を産んだ邸宅で、我が子の存在を知らされた。

「旦那様。」

オーガストはどうしているだろう。もう聞いているだろうか。聞いたなら、きっと驚いているだろう。二年もの間子を成せず、周囲がそれとなく窺っているのは気付いていた。悩みに思う事も度々で、それでも夫第一でいたルイーザは、夫の体調の方が余程心配であった。

「あれ?」

気付かぬ内に涙が溢れていた。

「なんで涙が、」

指先で拭っても足りなくて、掛布を引き上げ涙を拭った。嬉しい筈なのに困惑するのは不思議であった。昨日と違う明日が怖く思えた。
理由の分からないまま流れる涙が嗚咽に変わって、どうしよう、泣き止まないとと自分の涙に混乱する頃、小さく扉がノックされた。

「ルイーザ。入っても?」
「旦那様、うう、」

ルイーザの涙声に気付いたオーガストが扉を開ける。スライディングする勢いで寝台脇まで滑り込んで来た。

「どうした?ルイーザ。なんで泣いてる?どこか痛むのか?」
「うう、解りません、解らないけど泣けちゃって、」
「いや、いいんだ、泣きたいなら無くと良い。だが、あんまり無くと腹の子が心配するぞ?」
「え、」

それは全く不思議な事で、腹の子が心配すると聞いた途端、むくむくと胸の奥から沸き起こる熱いものを感じた。
こうしてはいられない。泣いてなんていられない。母の身を小さな我が子が案ずるなんて。

ルイーザの心が立ち上がる。母は強し。

「旦那様。」
「なんだ、ルイーザ。」
「子が出来ましたの。」
「うん。」
「旦那様のお子です。」
「うん。」
「嬉しい。」
「うん、そうだな。」
「旦那様も嬉しい?」
「ああ、嬉しいよ。だが、正直なところ、今は君の身体の方が心配だ。」
「大丈夫です。私なら大丈夫。」

オーガストはルイーザの「大丈夫」に心が揺れた。彼女はいつだって「大丈夫」だと言って自分で自分をすり減らす。

「無理をするな。」
「大丈夫よ、旦那様。私には旦那様がおりますもの。辛い時には泣き言を聞いて頂くわ。」

ほんの数分前まで不安定な心で涙を流した妻なのに、どこでスイッチが入ったのか、ルイーザはすっかり母の顔をして見えた。その姿に、今度はオーガストの方が心を揺さぶられた。ボートの上で真っ青な顔をして、半目で白目を剥いた妻の顔を思い出す。その顔が、今になって可笑しみを誘って、笑いたいのに泣きたくなった。

ルイーザが、オーガストの為に子を生む。
ルイーザの身体から我が子が生まれることの実感が沸かぬまま、オーガストは目の前で笑みを浮かべる妻を見て、やはり泣きたい気持ちになった。





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