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1巻
1-3
父が再婚してから間もないころだった。何かの用事でエリザベートは本邸へ呼ばれた。
そこで久しぶりに会えたエミリオから、思いもしないことを聞いたのだった。
『義母上に言われたんだ。ミネルバ様がそう義父上にお願いしたって。僕らは姉上に会いに行っちゃ駄目だって』
『そうじゃないわ、エミリオ。お母様はそんなことは言ってないわ。エミリオだってわかるでしょう? お母様がそんなことを言うわけがないって』
エリザベートの言葉にエミリオは俯いてしまった。彼もそうだとわかっている。
だが養子のエミリオには遠慮がある。父に愛されている義母やローズに対してもそうだろう。
離れで暮らすエリザベートがどんなに否定をしても、彼にはどうすることもできない。
エリザベートは、これ以上言ってはエミリオを追い詰めるだけだと、そう思ったのである。
あれからエミリオとは、エリザベートが本邸を訪ねるときしか会えなくなった。
こんなふうにエミリオが声をかけてくれて、わずかな会話を交わすことが、彼とのささやかな交流となっている。
父の用事とは、来春に入学する学び舎についてだった。時期的に、多分そうだろうと予想をしていた。
だが父の言葉は、エリザベートが思いもしないことだった。
「ローズは貴族学園のほうに通いたいそうだ。お前は淑女学院に通うのが良いだろうと願書を用意していたのだ」
「私が淑女学院に?」
エリザベートは思わず聞き返した。
「何も問題なかろう。お前なら淑女学院の入学試験も難なく通るだろう。ローズも貴族学園へ入学するのを楽しみにしている」
貴族学園は貴族子女のための学び舎で、貴族の令息令嬢であれば入学に際して試験はない。
淑女学院も貴族学園と同様に王立の教育機関であるが、そこは令嬢だけの学舎であり入学に際して試験がある。
淑女学院への入学は狭き門と言われている。王族付きの女官や教育者には、淑女学院の出身者が多いことでも知られていた。
「ですが、お父様。貴族学園にはデマーリオ様が……」
「なんだ、お前も貴族学園に通いたかったのか?」
エリザベートは、デマーリオと同じ学び舎に通えるものと、当然のように思って心待ちにしていた。
「デマーリオ様も通うのですし、私もそちらに通うものだと思っておりました」
「お前が優秀なのは家庭教師からも聞いている。侯爵夫人にもお褒めの言葉を頂戴している。折角、成績優秀であるのだから、淑女学院で学ぶのが良いだろう」
父はエリザベートになにも確かめることなく、すでに準備を整えていた。
目の前には父が用意した願書があり、あとはエリザベートが署名をするばかりとなっている。
「私も貴族学園に通ってはいけないのですか?」
諦めきれず、エリザベートは父に尋ねた。
すると父はエリザベートを見つめて、どこか哀しいというような顔をした。
「ミネルバは、そう望まないだろうな」
「え?」
「カトレアとも話したんだが」
カトレアとは義母の名である。
「ローズとお前を同じ学園で学ばせるのを、ミネルバはきっと望まなかっただろうな。貴族学園に入学すればお前たちは同学年だ。二人が一緒になってわざわざ人の耳目を引かずともよかろう」
「私の気持ちも確かめずにですか?」
「エリザベート。聞き分けなさい。私たちはお前のために良かれと考えたのだ」
デマーリオと同じ学園に通える。当たり前と思っていたのが潰えたことに、エリザベートはすっかり落胆してしまった。
重い足取りで離れの邸へと戻り、玄関ホールに飾られた母の肖像画を見上げれば、その膝の上で幼いエリザベートがこちらを見ていた。母が最後に描かせた肖像画には、エリザベートも一緒に描かれている。
「お母様……」
額縁の中で、母はいつまでもエリザベートに温かな笑みを向けていた。
■
年が明けて淑女学院への入学が決まったころに、エリザベートに養子の話が持ち上がった。
それは今が初めてのことではなく、エリザベートには以前より、母方の祖父母と伯父から養子縁組が持ちかけられていた。
父方の祖父母はすでに鬼籍に入っており、エリザベートにとっての祖父母とは、この二人だけだった。
母の忘れ形見であるエリザベートを、祖父母も母の兄である伯父も案じてくれていた。
再び養子話が持ち上がったのは、デマーリオとローズが関係してのことだった。
それはエリザベートもあとになって知ったことだった。
とある茶会でデマーリオとローズが偶然、顔を合わせたらしく、そこでの二人の様子が小さな噂となっていた。
二人は親しげに会話を交わしていたが、そのうちデマーリオがローズをエスコートして庭を散策しはじめた。
それだけであれば、いずれ身内となるのだし多少の交流はあると思われただろう。
だが、このときの二人の様子があまりに睦まじく、なにやら距離も近かった。それが周囲の目を引いた。
茶会には義母も参加していたのだが、彼女はそんな二人にはなにも言うことはなかったという。
実のところ、ローズとデマーリオのそんな噂はこれまでもあったのだが、噂が祖父母たちの耳に入ったことで、いよいよエリザベートを引き取りたいと、そういう話になったらしい。
だが父は、養子縁組の申し出を断ったという。
エリザベートはそのことを、父に呼ばれた執務室で聞かされた。
エリザベートがなにかを知らされるのは、大抵、物事が決まった後のこととなる。
貴族令嬢とは大半が似たようなもので、父親の定めたことに従うしかない。
ただローズばかりはエリザベートの傍らで、彼女の希望を叶えられていた。
「養子などと、そんな話を承知できるわけがなかろう。お前は私の娘なんだぞ」
「……」
「ミネルバは、私にお前を託したんだ」
「お母様は……」
母はエリザベートの幸せを願っただけだった。父が迎える家族の中で孤立するだろうエリザベートのことを案じていた。
母があの日、エリザベートを離れに移すことを願わなければ、エリザベートは義家族と暮らしながら、今とは違う孤独を抱いていたのだろうか。
「エリザベート」
「……」
エリザベートは無言のまま俯いた。
「私たちに不服があるのか? そんなに私たちが嫌なのか?」
父はきっと、養子縁組を断ったことでエリザベートが消沈したと思ったのだろう。それでエリザベートが父たちを厭忌しているような言い方をした。
エリザベートは義母やローズに、父が言うほどの感情を抱いてはいなかった。
父からそんなふうに思われていたことにエリザベートのほうこそ驚いて、もうなにも言葉を返すことができなくなってしまった。
早春の庭園はようやく芽吹きの季節を迎えていた。
淑女学院への入学を翌月に控えて、その日の茶会はシェルバーン侯爵邸で行われた。
まだ風が冷たいからと、庭を眺められる応接室での会合だった。
「淑女学院に通うと聞いたが、それは本当なのか?」
「はい。父がそのように決めまして」
デマーリオは侯爵夫人から聞いたのだろう。夫人に招かれたお茶の席で、エリザベートは淑女学院に合格したことを報告していた。
デマーリオは冬の間、侯爵に連れられて狐狩りに夢中になっていたから、エリザベートが侯爵邸を訪問する際にも不在であることが多かった。今日、彼に会うのもひと月ぶりのことだった。
「てっきり、君も貴族学園に通うのだと思っていたよ」
エリザベートもそう思っていた。
「残念だな」
「え?」
「いや、君と一緒に通うものだとばかり思っていたから」
その言葉に、エリザベートの沈んだ心がふわりと浮上した。
「私も、」
「ん?」
「私も、そう思っておりました」
「そうか……」
デマーリオはそこでお茶をひと口含んだ。ただそれだけのことなのに、エリザベートはその姿に目を奪われた。
長い金色の睫毛が伏せられて、シトリンの瞳を覆っている。カップを持つ指先は、爪まで綺麗に整えられている。
久しぶりに会えた婚約者を、エリザベートは愛おしく思いながら見つめていた。
「君を、ほかの令息たちの目に触れさせずに済むと思えば、諦めもつくのかな」
淑女学院は当たり前だが令嬢ばかりの女学校である。デマーリオの独占めいた言葉に、エリザベートの胸が小さく跳ねた。
「あそこは寮があるんだろう? 君も入寮を?」
「いいえ。私は邸から通います」
そこでデマーリオは小さく息をついた。
なにを思っての溜め息なのか、デマーリオのそんな些細な仕草にも、いちいち心が揺れてしまう。
エリザベートはそこで、先日の出来事について話した。
「母の生家から養子の申し出を受けまして」
「そんな必要はないだろう。伯爵はそれを受けたのか?」
デマーリオの思いがけない否定に驚いた。
「いいえ、お断りしたと」
「そうか」
デマーリオが安堵したように見えて、養子話に後ろ髪を引かれていたエリザベートは、そこで迷いを手放した。
茶会が終わって、エリザベートを馬車まで送りながらデマーリオが言った。
「淑女学院に入学したら、君の暮らしぶりを教えてくれないか。文でよいから」
会おうと言ってはくださらないの? 思い切ってそう聞けたら、この胸のつかえは晴れるのだろうか。
デマーリオとローズの噂は、今もまだエリザベートの心に影を落としていた。
第五章
「淑女学院へのご入学、おめでとうございます」
「ありがとうございます、司祭様」
自分から願ったものではないと打ち明けたなら、司祭はなんと言うだろう。
彼ならきっと、喜ばしいとは言わないでくれるのだろう。
淑女学院へ入学して、エリザベートはこの日、教会を訪れていた。
漆黒のキャソックを纏うマーキスは、髪もまた濡れ羽のような黒髪である。濃く青い瞳まで、彼を聖職者らしく見せている。
年のころは二十歳をとうに過ぎているだろう。三十にはまだなっていないかもしれない。
神の僕であるからか、いつ会っても彼だけは同じ姿のまま変わらないように見えた。
「第五王女殿下もご一緒に入学されたそうで、もうお会いになられたのですか?」
「ええ。光栄なことに、同じ教室で学んでおります」
「そうですか。王女は聡明なお方であるとお聞きしております」
マーキスは、世間が語るようなことではなくて、アイリスを聡明と言った。
王国の第五王女であるアイリスは、孤独の王女である。
側妃腹の彼女は、第四王女リリーとは双子の姉妹として生まれた。
生後すぐに執り行われた神殿での儀式で、二人は宣託を受けたという。
陰と陽の双子の姉妹。リリーが表に出るならアイリスは影のように後ろに控える。
混じり気のない金の髪もロイヤルブルーの瞳も、ほかの異母兄姉たちと同じである。
だがアイリスは、生まれたばかりで姉とは明確に分けられて育った。
王太子を筆頭に、正妃、側妃それぞれから生まれた王子王女らが並ぶときにも、アイリスは彼らの最後尾にそっと並び立つ。
彼女の場合も、リリーは貴族学園に、アイリスは淑女学院にと、姉妹は別々の学び舎に入学していた。
それはまるで、エリザベートとローズ姉妹と同じように思えた。
教会を訪れた翌週に、エリザベートは十六歳の誕生日を迎えた。
春の盛りの庭園は、一斉に開花した花々が見事な眺めとなっていた。
生まれたことをデマーリオが祝ってくれる。春は、エリザベートが一年で最も好きな季節である。
母が亡くなってからは、誕生日の祝いは離れの邸で開かれていた。
料理長が趣向を凝らした祝いの晩餐を、父とエリザベートの二人で囲む。
祝いの日だからと、エリザベートが本邸に招かれることも、義家族が離れの邸を訪れることもない。エリザベートはそれでも構わなかった。
誕生日には、離れの邸にデマーリオから花束と祝いの品が届けられる。それがなにより嬉しかった。
デマーリオは、贈り物を選ぶときにエリザベートを思い浮かべてくれるのだろうか。そうだとしたらその時間さえ、贈り物のように思えるのだった。
受け取った品を、エリザベートは少しの傷もつかぬよう、クローゼットに仕舞って大切にしていた。時にはそれらを取り出して、そっと手の平に乗せて眺める。
デマーリオが選んだものなら、どれも宝物のように思えた。
贈り物にはいつもカードが添えられていた。
小さなカードに記されたメッセージは、短い文であるがデマーリオの直筆で、侍従に代筆させたものではなかった。
エリザベートは寝台の中に入ってからも、月明かりを頼りにメッセージを何度も読み返す。
今年の誕生日に贈られたのは、青い石で水仙を模ったブローチだった。
エリザベートの瞳の色から、彼はこの石を選んでくれたのだろう。
『星月夜に輝く水仙の君へ』
カードには、最近王都で人気が高い青年詩人の詩の一節が記されていた。
エリザベートも侯爵夫人に勧められて同じ詩集を持っていたから、デマーリオがそこから抜粋したのだとすぐにわかった。
「水仙の君……」
エリザベートは、そっと詩を口ずさむ。瞼を閉じて星空の下に咲く水仙を思い浮かべた。
エリザベートの幸福な思い出が、また一つ増えた夜だった。
■
エリザベートはその日、帰宅してすぐに本邸へ向かった。
学院に提出する書類があって、ロバートに頼むより直接自分で持っていくほうが早いと思った。
本邸の馬車寄せには来客だろう馬車が停められていた。その馬車にエリザベートは見覚えがあった。
見知った御者がエリザベートに気づいて頭を下げた。
なぜ本邸に彼が来ているのだろう。
馬車はデマーリオのものだった。
デマーリオが来ることを、エリザベートは知らされてはいなかった。
エリザベートは足早に玄関ホールに入ったところで息を呑んだ。
「ああ、エリザベート」
こちらへ振り返ったデマーリオに、彼がたった今、ローズを送ってきたのだとひと目でわかった。
玄関ホールには父と義母がいて、二人は学園から帰宅したローズを出迎えたところだった。
「お姉様……」
ローズに窓から射し込む夕日があたって、頬がほんのり紅く染まって見えた。
「エリザベート、どうしたんだ。なにかあったのか?」
父に聞かれて答える前に、デマーリオが話しはじめた。
「放課後、たまたまローズと一緒になったんだ。折角だから送ってきたところだった」
たまたま帰りが一緒になったら、それで同じ馬車で帰ってくるのだろうか。ローズの馬車はどうしたのだろう。
そんなことを考える自分のほうが可怪しいのか。
ローズが、はにかむような笑みを浮かべてデマーリオを見つめていた。
父も義母もそんな二人を、微笑ましいというように見ている。
「ああ、書類だったか。どれ、こちらへ。それではデマーリオ殿、ローズが世話になりましたな」
父はデマーリオに礼を言うと、エリザベートを執務室へと誘った。
「では私はこれで失礼します。エリザベート、また」
辞去を告げたデマーリオがエリザベートに笑みを向ける。
またと言われて言葉を返せず、エリザベートはデマーリオの後ろ姿と、それを見送るローズの姿を見つめていた。
だから、そんなエリザベートを見る義母の視線がどうであったかは、知ることはなかった。
父の執務室で、エリザベートは思い切って確かめてみた。
「お父様、デマーリオ様とローズはいつから馬車で送っていただくほど親しくなったのです?」
父はそれには、こともなげに答えた。
「ローズはあの通りおとなしい娘だろう。慣れない学園にいて一人で困っているのではないかと思ってね。それでデマーリオ殿に頼んでいたんだ。ローズを気にかけてやってはくれないかとね」
「なぜそんな……」
一人というなら、エリザベートだって一人で学院に通っている。
「なぜってお前だってわかるだろう。あの子は生まれを気にしてか、少々引っ込み思案なところがある。それにお前には侯爵夫人が後ろ盾となってくれているが、カトレアではそうはいかない。兎に角だ、同じ学園に通っているのだから、デマーリオ殿の世話になることだってあるだろう」
義母はもともと子爵家の生まれだが、ローズを身籠ったころには長兄が家を継いでいた。
生家は代替わりしており、彼女は、貴族の令嬢であっても法律上の身分は平民と同等になっていた。
貴族が愛人を持つのを当然だと言えるのは夫たちばかりで、夫人らの皆が皆それを認めているわけではない。
母と結婚したばかりの父と愛人関係になっていたこともあって、義母は貞淑を良しとする夫人たちからは少々遠巻きにされている。
デマーリオの母もその一人で、亡き母のことを知る侯爵夫人からは、義母は冷ややかな眼差しで見られていた。
「それに、学園で友人も作れずにいては可哀想ではないか」
ローズの交友関係は、父が心配するほど乏しいものではない。
以前、茶会の席でローズと一緒になったことがある。
彼女は令嬢や令息たちの集まる中にいて、楽しそうに歓談していた。
生まれたときこそ庶子ゆえに平民とされていたが、それも父が認知したことで今は貴族の身分を得ている。
両親に揃って出迎えられて、デマーリオを見上げて微笑むローズは、満ち足りた姿に見えていた。
■
「エリザベート、貴女、デヴュタントの用意はどうなっているのかしら?」
侯爵夫人との茶会の席で尋ねられたことは、エリザベートも不安に思っていたことだった。
「それが……、父には頼んでいるのですが」
「まさか、まだ手をつけていないというの?」
「……はい」
王国では、貴族の令嬢は十六歳の年にデヴュタントを迎える。
春に十六歳となったエリザベートは、今年がデヴュタントの年だった。
同い年のローズも成人を迎えるから、父も当然わかっている。
父は日頃から、自身を含めた家族の装いには質の良いものを選ばせる。
エリザベートが身に着ける衣装にも、常から十分な予算が割り当てられていた。
デヴュタントのドレスについても同様で、だが、支度はまだ手がつけられていなかった。
すでに一度、ロバートが父に確認しており、そのときには「わかった」と言われていた。
「お嬢様、もう一度確かめましょう。今晩は旦那様がこちらにいらっしゃいますから」
ソフィーの言葉にエリザベートも不安になって、その日の晩餐の席で父に尋ねた。
「まだ支度をしていない? そんなことはないだろう。カトレアが用意しているだろう、ローズはそう言っていたぞ?」
父はそれから、ふと思いついたように続けた。
「うむ、二人分だからな。デヴュタントの衣装となると気を遣うものだろうし、カトレアも手が回らないのかもしれない。私から話しておくからもう少し待っていなさい。まだ時間はあるのだし心配いらない」
父の言葉に、エリザベートも一旦は安堵した。
だが、まだ生地すら選んでいない。
「それで、夫人はそれからもなにも言ってこないのね?」
「……はい」
侯爵夫人はエリザベートの話に、もう先は聞かずともわかったというように溜め息をついた。
「エリザベート。本来なら貴女が案ずることではないのよ、デヴュタントの支度とは母親がするものなの」
夫人の言うのは、そのとおりだった。
母を亡くしたエリザベートの支度とは、父ではなく義母の役目である。
「二人分? 貴女は伯爵家の長子だわ。仕立てるなら貴女のドレスを先にすべきよ。まあ、伯爵はそこが甘いのですもの、こうなっても貴女のせいではないわ」
エリザベートは、すっかり情けなくなってしまった。
義母についてなにかを言っても、父にはきっと通じないだろう。義母とローズが関わると父は途端に甘くなる。
母が亡くなって久しく、本邸は義母が家政を取り仕切っている。
エリザベートはこれまでも、義母に直接なにかを頼んだことはなかった。何事も父を通すのが暗黙のルールとなって、それは義母とローズが伯爵家に来たはじめのころから変わらないことだった。
「伯爵にも困ったものね、あの夫人のこととなると。いいえ、貴女を責めているのではないのよ。わかったわ、良いでしょう。貴女は当家に嫁ぐのですもの、デヴュタントはこちらで支度をしましょう。伯爵には旦那様から伝えていただきますから貴女は何も言わなくても良いわ」
夫人はそこでまたひとつ小さく息を吐いて、だがすぐにいつもの朗らかな夫人に戻ってエリザベートに微笑んだ。
エリザベートは後日、離れの邸を訪れた父から謝罪を受けた。
「すまなかった、エリザベート。どうやら誤解があったようだ。カトレアは、てっきりお前の支度は侯爵家で用意するのだと、そう思い違いをしていたようだ。夫人はお前を娘のように思っているからと言ってだな、まあ、ちゃんと話はしたから、もう今後はこんな行き違いは起こらない」
父の言う「今後」があるとするなら、母親が次に支度をするのは婚礼衣装だろう。
デマーリオとの婚礼は、学園を卒業したらすぐにでもということになっている。
二人は今年入学したばかりで、卒業まではまだ三年ある。
先々のことを、いまから思い悩んでもしようがない。
エリザベートはそう自分に言い聞かせて、それ以上は考えないことにした。
そこで久しぶりに会えたエミリオから、思いもしないことを聞いたのだった。
『義母上に言われたんだ。ミネルバ様がそう義父上にお願いしたって。僕らは姉上に会いに行っちゃ駄目だって』
『そうじゃないわ、エミリオ。お母様はそんなことは言ってないわ。エミリオだってわかるでしょう? お母様がそんなことを言うわけがないって』
エリザベートの言葉にエミリオは俯いてしまった。彼もそうだとわかっている。
だが養子のエミリオには遠慮がある。父に愛されている義母やローズに対してもそうだろう。
離れで暮らすエリザベートがどんなに否定をしても、彼にはどうすることもできない。
エリザベートは、これ以上言ってはエミリオを追い詰めるだけだと、そう思ったのである。
あれからエミリオとは、エリザベートが本邸を訪ねるときしか会えなくなった。
こんなふうにエミリオが声をかけてくれて、わずかな会話を交わすことが、彼とのささやかな交流となっている。
父の用事とは、来春に入学する学び舎についてだった。時期的に、多分そうだろうと予想をしていた。
だが父の言葉は、エリザベートが思いもしないことだった。
「ローズは貴族学園のほうに通いたいそうだ。お前は淑女学院に通うのが良いだろうと願書を用意していたのだ」
「私が淑女学院に?」
エリザベートは思わず聞き返した。
「何も問題なかろう。お前なら淑女学院の入学試験も難なく通るだろう。ローズも貴族学園へ入学するのを楽しみにしている」
貴族学園は貴族子女のための学び舎で、貴族の令息令嬢であれば入学に際して試験はない。
淑女学院も貴族学園と同様に王立の教育機関であるが、そこは令嬢だけの学舎であり入学に際して試験がある。
淑女学院への入学は狭き門と言われている。王族付きの女官や教育者には、淑女学院の出身者が多いことでも知られていた。
「ですが、お父様。貴族学園にはデマーリオ様が……」
「なんだ、お前も貴族学園に通いたかったのか?」
エリザベートは、デマーリオと同じ学び舎に通えるものと、当然のように思って心待ちにしていた。
「デマーリオ様も通うのですし、私もそちらに通うものだと思っておりました」
「お前が優秀なのは家庭教師からも聞いている。侯爵夫人にもお褒めの言葉を頂戴している。折角、成績優秀であるのだから、淑女学院で学ぶのが良いだろう」
父はエリザベートになにも確かめることなく、すでに準備を整えていた。
目の前には父が用意した願書があり、あとはエリザベートが署名をするばかりとなっている。
「私も貴族学園に通ってはいけないのですか?」
諦めきれず、エリザベートは父に尋ねた。
すると父はエリザベートを見つめて、どこか哀しいというような顔をした。
「ミネルバは、そう望まないだろうな」
「え?」
「カトレアとも話したんだが」
カトレアとは義母の名である。
「ローズとお前を同じ学園で学ばせるのを、ミネルバはきっと望まなかっただろうな。貴族学園に入学すればお前たちは同学年だ。二人が一緒になってわざわざ人の耳目を引かずともよかろう」
「私の気持ちも確かめずにですか?」
「エリザベート。聞き分けなさい。私たちはお前のために良かれと考えたのだ」
デマーリオと同じ学園に通える。当たり前と思っていたのが潰えたことに、エリザベートはすっかり落胆してしまった。
重い足取りで離れの邸へと戻り、玄関ホールに飾られた母の肖像画を見上げれば、その膝の上で幼いエリザベートがこちらを見ていた。母が最後に描かせた肖像画には、エリザベートも一緒に描かれている。
「お母様……」
額縁の中で、母はいつまでもエリザベートに温かな笑みを向けていた。
■
年が明けて淑女学院への入学が決まったころに、エリザベートに養子の話が持ち上がった。
それは今が初めてのことではなく、エリザベートには以前より、母方の祖父母と伯父から養子縁組が持ちかけられていた。
父方の祖父母はすでに鬼籍に入っており、エリザベートにとっての祖父母とは、この二人だけだった。
母の忘れ形見であるエリザベートを、祖父母も母の兄である伯父も案じてくれていた。
再び養子話が持ち上がったのは、デマーリオとローズが関係してのことだった。
それはエリザベートもあとになって知ったことだった。
とある茶会でデマーリオとローズが偶然、顔を合わせたらしく、そこでの二人の様子が小さな噂となっていた。
二人は親しげに会話を交わしていたが、そのうちデマーリオがローズをエスコートして庭を散策しはじめた。
それだけであれば、いずれ身内となるのだし多少の交流はあると思われただろう。
だが、このときの二人の様子があまりに睦まじく、なにやら距離も近かった。それが周囲の目を引いた。
茶会には義母も参加していたのだが、彼女はそんな二人にはなにも言うことはなかったという。
実のところ、ローズとデマーリオのそんな噂はこれまでもあったのだが、噂が祖父母たちの耳に入ったことで、いよいよエリザベートを引き取りたいと、そういう話になったらしい。
だが父は、養子縁組の申し出を断ったという。
エリザベートはそのことを、父に呼ばれた執務室で聞かされた。
エリザベートがなにかを知らされるのは、大抵、物事が決まった後のこととなる。
貴族令嬢とは大半が似たようなもので、父親の定めたことに従うしかない。
ただローズばかりはエリザベートの傍らで、彼女の希望を叶えられていた。
「養子などと、そんな話を承知できるわけがなかろう。お前は私の娘なんだぞ」
「……」
「ミネルバは、私にお前を託したんだ」
「お母様は……」
母はエリザベートの幸せを願っただけだった。父が迎える家族の中で孤立するだろうエリザベートのことを案じていた。
母があの日、エリザベートを離れに移すことを願わなければ、エリザベートは義家族と暮らしながら、今とは違う孤独を抱いていたのだろうか。
「エリザベート」
「……」
エリザベートは無言のまま俯いた。
「私たちに不服があるのか? そんなに私たちが嫌なのか?」
父はきっと、養子縁組を断ったことでエリザベートが消沈したと思ったのだろう。それでエリザベートが父たちを厭忌しているような言い方をした。
エリザベートは義母やローズに、父が言うほどの感情を抱いてはいなかった。
父からそんなふうに思われていたことにエリザベートのほうこそ驚いて、もうなにも言葉を返すことができなくなってしまった。
早春の庭園はようやく芽吹きの季節を迎えていた。
淑女学院への入学を翌月に控えて、その日の茶会はシェルバーン侯爵邸で行われた。
まだ風が冷たいからと、庭を眺められる応接室での会合だった。
「淑女学院に通うと聞いたが、それは本当なのか?」
「はい。父がそのように決めまして」
デマーリオは侯爵夫人から聞いたのだろう。夫人に招かれたお茶の席で、エリザベートは淑女学院に合格したことを報告していた。
デマーリオは冬の間、侯爵に連れられて狐狩りに夢中になっていたから、エリザベートが侯爵邸を訪問する際にも不在であることが多かった。今日、彼に会うのもひと月ぶりのことだった。
「てっきり、君も貴族学園に通うのだと思っていたよ」
エリザベートもそう思っていた。
「残念だな」
「え?」
「いや、君と一緒に通うものだとばかり思っていたから」
その言葉に、エリザベートの沈んだ心がふわりと浮上した。
「私も、」
「ん?」
「私も、そう思っておりました」
「そうか……」
デマーリオはそこでお茶をひと口含んだ。ただそれだけのことなのに、エリザベートはその姿に目を奪われた。
長い金色の睫毛が伏せられて、シトリンの瞳を覆っている。カップを持つ指先は、爪まで綺麗に整えられている。
久しぶりに会えた婚約者を、エリザベートは愛おしく思いながら見つめていた。
「君を、ほかの令息たちの目に触れさせずに済むと思えば、諦めもつくのかな」
淑女学院は当たり前だが令嬢ばかりの女学校である。デマーリオの独占めいた言葉に、エリザベートの胸が小さく跳ねた。
「あそこは寮があるんだろう? 君も入寮を?」
「いいえ。私は邸から通います」
そこでデマーリオは小さく息をついた。
なにを思っての溜め息なのか、デマーリオのそんな些細な仕草にも、いちいち心が揺れてしまう。
エリザベートはそこで、先日の出来事について話した。
「母の生家から養子の申し出を受けまして」
「そんな必要はないだろう。伯爵はそれを受けたのか?」
デマーリオの思いがけない否定に驚いた。
「いいえ、お断りしたと」
「そうか」
デマーリオが安堵したように見えて、養子話に後ろ髪を引かれていたエリザベートは、そこで迷いを手放した。
茶会が終わって、エリザベートを馬車まで送りながらデマーリオが言った。
「淑女学院に入学したら、君の暮らしぶりを教えてくれないか。文でよいから」
会おうと言ってはくださらないの? 思い切ってそう聞けたら、この胸のつかえは晴れるのだろうか。
デマーリオとローズの噂は、今もまだエリザベートの心に影を落としていた。
第五章
「淑女学院へのご入学、おめでとうございます」
「ありがとうございます、司祭様」
自分から願ったものではないと打ち明けたなら、司祭はなんと言うだろう。
彼ならきっと、喜ばしいとは言わないでくれるのだろう。
淑女学院へ入学して、エリザベートはこの日、教会を訪れていた。
漆黒のキャソックを纏うマーキスは、髪もまた濡れ羽のような黒髪である。濃く青い瞳まで、彼を聖職者らしく見せている。
年のころは二十歳をとうに過ぎているだろう。三十にはまだなっていないかもしれない。
神の僕であるからか、いつ会っても彼だけは同じ姿のまま変わらないように見えた。
「第五王女殿下もご一緒に入学されたそうで、もうお会いになられたのですか?」
「ええ。光栄なことに、同じ教室で学んでおります」
「そうですか。王女は聡明なお方であるとお聞きしております」
マーキスは、世間が語るようなことではなくて、アイリスを聡明と言った。
王国の第五王女であるアイリスは、孤独の王女である。
側妃腹の彼女は、第四王女リリーとは双子の姉妹として生まれた。
生後すぐに執り行われた神殿での儀式で、二人は宣託を受けたという。
陰と陽の双子の姉妹。リリーが表に出るならアイリスは影のように後ろに控える。
混じり気のない金の髪もロイヤルブルーの瞳も、ほかの異母兄姉たちと同じである。
だがアイリスは、生まれたばかりで姉とは明確に分けられて育った。
王太子を筆頭に、正妃、側妃それぞれから生まれた王子王女らが並ぶときにも、アイリスは彼らの最後尾にそっと並び立つ。
彼女の場合も、リリーは貴族学園に、アイリスは淑女学院にと、姉妹は別々の学び舎に入学していた。
それはまるで、エリザベートとローズ姉妹と同じように思えた。
教会を訪れた翌週に、エリザベートは十六歳の誕生日を迎えた。
春の盛りの庭園は、一斉に開花した花々が見事な眺めとなっていた。
生まれたことをデマーリオが祝ってくれる。春は、エリザベートが一年で最も好きな季節である。
母が亡くなってからは、誕生日の祝いは離れの邸で開かれていた。
料理長が趣向を凝らした祝いの晩餐を、父とエリザベートの二人で囲む。
祝いの日だからと、エリザベートが本邸に招かれることも、義家族が離れの邸を訪れることもない。エリザベートはそれでも構わなかった。
誕生日には、離れの邸にデマーリオから花束と祝いの品が届けられる。それがなにより嬉しかった。
デマーリオは、贈り物を選ぶときにエリザベートを思い浮かべてくれるのだろうか。そうだとしたらその時間さえ、贈り物のように思えるのだった。
受け取った品を、エリザベートは少しの傷もつかぬよう、クローゼットに仕舞って大切にしていた。時にはそれらを取り出して、そっと手の平に乗せて眺める。
デマーリオが選んだものなら、どれも宝物のように思えた。
贈り物にはいつもカードが添えられていた。
小さなカードに記されたメッセージは、短い文であるがデマーリオの直筆で、侍従に代筆させたものではなかった。
エリザベートは寝台の中に入ってからも、月明かりを頼りにメッセージを何度も読み返す。
今年の誕生日に贈られたのは、青い石で水仙を模ったブローチだった。
エリザベートの瞳の色から、彼はこの石を選んでくれたのだろう。
『星月夜に輝く水仙の君へ』
カードには、最近王都で人気が高い青年詩人の詩の一節が記されていた。
エリザベートも侯爵夫人に勧められて同じ詩集を持っていたから、デマーリオがそこから抜粋したのだとすぐにわかった。
「水仙の君……」
エリザベートは、そっと詩を口ずさむ。瞼を閉じて星空の下に咲く水仙を思い浮かべた。
エリザベートの幸福な思い出が、また一つ増えた夜だった。
■
エリザベートはその日、帰宅してすぐに本邸へ向かった。
学院に提出する書類があって、ロバートに頼むより直接自分で持っていくほうが早いと思った。
本邸の馬車寄せには来客だろう馬車が停められていた。その馬車にエリザベートは見覚えがあった。
見知った御者がエリザベートに気づいて頭を下げた。
なぜ本邸に彼が来ているのだろう。
馬車はデマーリオのものだった。
デマーリオが来ることを、エリザベートは知らされてはいなかった。
エリザベートは足早に玄関ホールに入ったところで息を呑んだ。
「ああ、エリザベート」
こちらへ振り返ったデマーリオに、彼がたった今、ローズを送ってきたのだとひと目でわかった。
玄関ホールには父と義母がいて、二人は学園から帰宅したローズを出迎えたところだった。
「お姉様……」
ローズに窓から射し込む夕日があたって、頬がほんのり紅く染まって見えた。
「エリザベート、どうしたんだ。なにかあったのか?」
父に聞かれて答える前に、デマーリオが話しはじめた。
「放課後、たまたまローズと一緒になったんだ。折角だから送ってきたところだった」
たまたま帰りが一緒になったら、それで同じ馬車で帰ってくるのだろうか。ローズの馬車はどうしたのだろう。
そんなことを考える自分のほうが可怪しいのか。
ローズが、はにかむような笑みを浮かべてデマーリオを見つめていた。
父も義母もそんな二人を、微笑ましいというように見ている。
「ああ、書類だったか。どれ、こちらへ。それではデマーリオ殿、ローズが世話になりましたな」
父はデマーリオに礼を言うと、エリザベートを執務室へと誘った。
「では私はこれで失礼します。エリザベート、また」
辞去を告げたデマーリオがエリザベートに笑みを向ける。
またと言われて言葉を返せず、エリザベートはデマーリオの後ろ姿と、それを見送るローズの姿を見つめていた。
だから、そんなエリザベートを見る義母の視線がどうであったかは、知ることはなかった。
父の執務室で、エリザベートは思い切って確かめてみた。
「お父様、デマーリオ様とローズはいつから馬車で送っていただくほど親しくなったのです?」
父はそれには、こともなげに答えた。
「ローズはあの通りおとなしい娘だろう。慣れない学園にいて一人で困っているのではないかと思ってね。それでデマーリオ殿に頼んでいたんだ。ローズを気にかけてやってはくれないかとね」
「なぜそんな……」
一人というなら、エリザベートだって一人で学院に通っている。
「なぜってお前だってわかるだろう。あの子は生まれを気にしてか、少々引っ込み思案なところがある。それにお前には侯爵夫人が後ろ盾となってくれているが、カトレアではそうはいかない。兎に角だ、同じ学園に通っているのだから、デマーリオ殿の世話になることだってあるだろう」
義母はもともと子爵家の生まれだが、ローズを身籠ったころには長兄が家を継いでいた。
生家は代替わりしており、彼女は、貴族の令嬢であっても法律上の身分は平民と同等になっていた。
貴族が愛人を持つのを当然だと言えるのは夫たちばかりで、夫人らの皆が皆それを認めているわけではない。
母と結婚したばかりの父と愛人関係になっていたこともあって、義母は貞淑を良しとする夫人たちからは少々遠巻きにされている。
デマーリオの母もその一人で、亡き母のことを知る侯爵夫人からは、義母は冷ややかな眼差しで見られていた。
「それに、学園で友人も作れずにいては可哀想ではないか」
ローズの交友関係は、父が心配するほど乏しいものではない。
以前、茶会の席でローズと一緒になったことがある。
彼女は令嬢や令息たちの集まる中にいて、楽しそうに歓談していた。
生まれたときこそ庶子ゆえに平民とされていたが、それも父が認知したことで今は貴族の身分を得ている。
両親に揃って出迎えられて、デマーリオを見上げて微笑むローズは、満ち足りた姿に見えていた。
■
「エリザベート、貴女、デヴュタントの用意はどうなっているのかしら?」
侯爵夫人との茶会の席で尋ねられたことは、エリザベートも不安に思っていたことだった。
「それが……、父には頼んでいるのですが」
「まさか、まだ手をつけていないというの?」
「……はい」
王国では、貴族の令嬢は十六歳の年にデヴュタントを迎える。
春に十六歳となったエリザベートは、今年がデヴュタントの年だった。
同い年のローズも成人を迎えるから、父も当然わかっている。
父は日頃から、自身を含めた家族の装いには質の良いものを選ばせる。
エリザベートが身に着ける衣装にも、常から十分な予算が割り当てられていた。
デヴュタントのドレスについても同様で、だが、支度はまだ手がつけられていなかった。
すでに一度、ロバートが父に確認しており、そのときには「わかった」と言われていた。
「お嬢様、もう一度確かめましょう。今晩は旦那様がこちらにいらっしゃいますから」
ソフィーの言葉にエリザベートも不安になって、その日の晩餐の席で父に尋ねた。
「まだ支度をしていない? そんなことはないだろう。カトレアが用意しているだろう、ローズはそう言っていたぞ?」
父はそれから、ふと思いついたように続けた。
「うむ、二人分だからな。デヴュタントの衣装となると気を遣うものだろうし、カトレアも手が回らないのかもしれない。私から話しておくからもう少し待っていなさい。まだ時間はあるのだし心配いらない」
父の言葉に、エリザベートも一旦は安堵した。
だが、まだ生地すら選んでいない。
「それで、夫人はそれからもなにも言ってこないのね?」
「……はい」
侯爵夫人はエリザベートの話に、もう先は聞かずともわかったというように溜め息をついた。
「エリザベート。本来なら貴女が案ずることではないのよ、デヴュタントの支度とは母親がするものなの」
夫人の言うのは、そのとおりだった。
母を亡くしたエリザベートの支度とは、父ではなく義母の役目である。
「二人分? 貴女は伯爵家の長子だわ。仕立てるなら貴女のドレスを先にすべきよ。まあ、伯爵はそこが甘いのですもの、こうなっても貴女のせいではないわ」
エリザベートは、すっかり情けなくなってしまった。
義母についてなにかを言っても、父にはきっと通じないだろう。義母とローズが関わると父は途端に甘くなる。
母が亡くなって久しく、本邸は義母が家政を取り仕切っている。
エリザベートはこれまでも、義母に直接なにかを頼んだことはなかった。何事も父を通すのが暗黙のルールとなって、それは義母とローズが伯爵家に来たはじめのころから変わらないことだった。
「伯爵にも困ったものね、あの夫人のこととなると。いいえ、貴女を責めているのではないのよ。わかったわ、良いでしょう。貴女は当家に嫁ぐのですもの、デヴュタントはこちらで支度をしましょう。伯爵には旦那様から伝えていただきますから貴女は何も言わなくても良いわ」
夫人はそこでまたひとつ小さく息を吐いて、だがすぐにいつもの朗らかな夫人に戻ってエリザベートに微笑んだ。
エリザベートは後日、離れの邸を訪れた父から謝罪を受けた。
「すまなかった、エリザベート。どうやら誤解があったようだ。カトレアは、てっきりお前の支度は侯爵家で用意するのだと、そう思い違いをしていたようだ。夫人はお前を娘のように思っているからと言ってだな、まあ、ちゃんと話はしたから、もう今後はこんな行き違いは起こらない」
父の言う「今後」があるとするなら、母親が次に支度をするのは婚礼衣装だろう。
デマーリオとの婚礼は、学園を卒業したらすぐにでもということになっている。
二人は今年入学したばかりで、卒業まではまだ三年ある。
先々のことを、いまから思い悩んでもしようがない。
エリザベートはそう自分に言い聞かせて、それ以上は考えないことにした。
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