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1巻
1-2
母との思い出は、どれも明るく穏やかなものだった。それが今もエリザベートの心を温める。
生前の母は時折、エリザベートを連れて教会を訪れた。
そこでは決まって、礼拝堂で長い祈りを捧げていた。
教会には、マーキスという名の青年司祭がいた。
漆黒のキャソックに漆黒の髪。濃く鮮やかな青い瞳。
マーキスのほかには使用人らしい老齢の女性を見かけるくらいで、聖職者が妻帯を許されるこの国で、彼はまだ独身のようだった。
背の高いマーキスは、エリザベートが挨拶をすると、目線を合わせて挨拶を返してくれた。
待合室の椅子は座高が高く、エリザベートが椅子に腰かけるときには、彼が手を貸してくれるのだった。
母が他界してからは、エリザベートは執事のロバートと一緒に教会を訪ねるようになった。母に代わって月に一度、教会への寄進を行っている。
「司祭様、ご機嫌よう」
母の口ぶりをまねて挨拶すれば、マーキスは目を細めて眉を下げた。
「エリザベート様。このたびもご寄進をありがとうございます。ひと月の間、お変わりはございませんでしたか?」
マーキスは最初に母へのお悔やみの言葉を述べてからは、もうそのことには触れなかった。
哀しいことを何度も思い出させないようにと、気遣っていたのだろう。
その日マーキスは、帰宅するエリザベートを馬車まで送ってくれた。
エリザベートが馬車に乗り込むと、扉が閉まる前に彼は言った。
「冥府とは哀しいばかりの場所ではないのだと思います。あちらの世界にも、きっと楽しいと笑えることがあるでしょう」
「あちらの世界でも笑えることが?」
「ええ。例えばエリザベート様がなにか面白いことがあって、それでお笑いになったなら、ミネルバ様も貴女と一緒にお笑いになるのでしょう」
マーキスの言葉の真偽はわからずとも、司祭が言うのだから間違いないと思った。
「ロバートもそう思う?」
帰りの馬車の中でそう尋ねれば、
「ええ、ミネルバ様はたいへんな笑い上戸でいらっしゃいましたから、今もお嬢様のことをご覧になって笑っていらっしゃると思いますよ」と言ってくれた。
第三章
「お義母様、ご機嫌よう。お父様がお呼びと伺いました」
「あら、そう。旦那様なら執務室にいらっしゃるわ」
エリザベートが挨拶をすれば、義母はおっとりと答えた。
義母とローズはよく似た母娘で、柔らかそうな淡い金色の髪もほんのり垂れた目元も、彼女たちを甘く儚げに見せていた。
父に所用で呼ばれて本邸を訪ねたのは、エリザベートが離れの邸に移ってからはこの日が初めてのことだった。
ついこの前まで暮らしていた本邸は、漂う空気がすっかり変わって、まるで知らない家のように感じられた。
ふと見上げた階段の上、手摺りの陰にエミリオの姿が見えた。
エミリオが胸元で小さく手を振っていた。エリザベートも同じように小さく手を振り返した。
それにエミリオが笑ってくれて、エリザベートは嬉しくなった。
「お姉さま」
エリザベートを呼んだのはローズだった。
青い瞳を細めて、はにかむ笑みが可愛らしい。
エリザベートも挨拶しようと口を開いたところで、義母が先に話しだした。
「駄目よ、ローズ。お姉様はお父様に呼ばれているのよ。お邪魔をしてはいけないわ」
義母はそう言ってやんわり窘めると、「じゃあ、私たちはこれで」とローズの手を取りティールームのほうへ向かっていった。
二階の手摺りのところにはまだエミリオがいて、こちらに来たそうな顔をしていた。
声をかけようとしたときに、
「エリザベートお嬢様、こちらへ」
父の侍従に促されて、それきりになってしまった。
その後もエリザベートは幾度か本邸を訪ねたが、もうすぐ晩餐の時間だからと食事に誘われることも、お茶はどうかとティールームに招かれることもなかった。
そういうときには義母は大抵、「お邪魔をしてはいけないわ」とか「お姉様はお忙しいのよ」と言って、おっとりとした笑みを浮かべるのだった。
生さぬ仲ではあるが、義母はエリザベートに冷たく接するわけではない。だからといって親身になるということもなかった。
顔を合わせれば笑みを浮かべて挨拶をするがそれだけで、エリザベートに対しては関心がないように見えた。
「まあ、お嬢様、もうお戻りで?」
離れの邸に戻ったエリザベートに侍女頭が驚いたのは、本邸でお茶に誘われるとばかり思っていたからだろう。
「さあさあ、お嬢様。午後のお茶にいたしましょう。料理長がプディングを蒸しておりますよ。ほら」
そう言って侍女頭はすんすんと鼻を鳴らしてみせた。
「本当だわ。いい匂いがする」
確かにここまで甘い香りが漂っている。
侍女頭は、それからエリザベートにお茶の用意をしてくれた。
晩餐のデザートにと調理していただろうプディングは、まだ粗熱が取り切れておらず、口に入れるとほんのり温かく感じた。ホイップしたクリームがいつもより多めに盛られて、それだけでエリザベートは嬉しかった。
エリザベートが、母に似たユーモアや気さくな会話の楽しみ方を忘れないでいられたのは、こんな使用人たちがそばにいてくれたからだろう。
■
月に一度、デマーリオとの茶会がある。
それは婚約したときに両家で定めたことで、エリザベートはその日を何より心待ちにしていた。
二人の茶会は隔月で招くかたちで、侯爵家と伯爵家とで交互に設けられていた。
侯爵家を訪問する際には緊張を覚えたが、侯爵夫妻はいつもエリザベートを温かく迎え入れてくれた。
デマーリオは、高位貴族の嫡男らしく快活で社交的な少年だった。
友人も多く、勉学にも剣術の鍛錬にも励んでおり、朗らかな気質に加えて所作には品があった。
エリザベートはそんなデマーリオに、この頃にはすでに、はっきりと自覚できる恋心を抱いていた。
彼が語る話題はエリザベートの知らない少年らしいことばかりだったが、エリザベートはそれもすべて楽しかった。
デマーリオの言葉ならひとつだって聞き漏らしたくないと、シトリンの瞳を見つめて聞き入った。
その日は、伯爵家での茶会だった。
会合の場所は本邸ではなく、エリザベートが住まう離れの邸である。
デマーリオと婚約して一年が経ち、季節は初夏を迎えていた。
朝から気持ちの良い青空が広がって、庭園には夏花が咲きはじめている。
屋外を好むデマーリオのために、エリザベートは庭のガゼボにお茶を用意していた。
ガゼボでの茶会を気に入ってか、デマーリオはすぐに楽しげに話しはじめた。
護衛と剣の稽古をして一度だけ彼を打ち負かしたとか、少年たちで牧場に行った話だとか、このひと月の出来事を語っていたデマーリオが、そこでふと視線を止めた。
「あの子が?」
本邸と離れの邸の間は、共有する小径が通っているだけで、はっきりとした仕切りがない。
だから本邸の庭の端からこちらを窺うローズの姿に、デマーリオはすぐに気がついた。
「え?」
その姿にエリザベートは驚いた。
どうしてローズは、一人であんなところにいるのだろう。
ローズが伯爵家に迎えられてひと月ほどが経っていた。
慣れない庭で迷ってしまったのだろうか。侍女は彼女を一人にして一体どこにいるのだろう。
貴族令嬢の教育を受けたエリザベートは、ローズが異母姉のお茶会を覗き見ているとは思いもしないことだった。
「お嬢様、少々おそばを離れます」
後ろに控えていたソフィーが、足早にローズのほうへ向かっていった。
「あの子だろう? 前に聞いた」
「はい。ローズと申します」
「ふうん」
好奇心旺盛なデマーリオがローズに興味を抱いたようで、エリザベートはそこに微かな違和感を覚えた。
喩えるなら、それはさざ波のようなもので、エリザベートの胸をさわさわと騒がせた。
だがそれは、次の瞬間に波を立てた。
「こちらに呼んだら?」
「お坊ちゃま」
デマーリオの提案は、侯爵家の侍女がすぐに諫めた。
「わかってるよ」
デマーリオはそう言ったが、その瞳には確かな好奇心が浮かんでいた。
「まあ、少々のことは大目に見てやりなさい。姉の婚約者を見てみたかったんだろう」
晩餐の席で、父はローズの行為に寛容を示した。
離れの邸にひとり住まうエリザベートのために、父は週のうち幾日かは晩餐をともにしてくれる。
本邸での晩餐に呼ばれることがないからといって、父はエリザベートのことをすっかり忘れてしまってはいなかった。
「あの子は長いこと市井に暮らしていたから、貴族のマナーに慣れていないのだよ」
そうだろうとエリザベートも思った。だがローズは庶子であっても、父は伯爵家の当主で義母も子爵家の令嬢だったというから、相応の教育は受けていただろう。
「エリザベート。あの子はお前の妹だ。デマーリオ殿ともいずれ義兄妹となる。あまり厳しくしては可哀想だ、仲良くしてやりなさい」
父の言葉に、エリザベートはここでも微かな違和感を覚えた。
それはとても朧げなもので、静かに心の底に沈んでいった。
結局その次の茶会でも、ローズは庭園の端からこちらを見ていた。
ソフィーも晩餐での父の言葉を聞いており、前のように彼女を帰すことはできなかった。
エリザベートは、本邸の侍女たちがローズを連れて帰るだろうと思っていたが、茶会が終わるまで誰も現れることはなかった。
本邸の暮らしにまだ馴染めていないだろうローズには、使用人たちも遠慮して諫めるようなことを言えないのだと思った。
デマーリオと邸に戻るときになって、本邸の侍女が来てローズを連れ帰った。
その背中を見ていたのを、ふと本邸のほうへと視線を移した瞬間に、エリザベートは身体の自由を失って縫い留められたように動けなくなった。
視線の先、本邸の窓辺に義母がいた。
義母は庭に面した窓からこちらを見ていた。
遠目であってもはっきりわかった。義母はいつものおっとりとした表情をすっかりなくして、まるで感情の見えない顔をしていた。
温度のない眼差しに縛られたように、エリザベートは動くことができなかった。
「どうしたんだ? エリザベート」
デマーリオの声にはっとして、そこで身体の自由を取り戻した。
あれは一体、なんだったのだろう。
義母はただ、窓から外の景色を見ていたのだ。そう思えばなんでもないことなのに、胸を激しく打つ鼓動はすぐには静まってくれなかった。
「顔が青いよ、寒いの?」
季節は夏の終わりを迎えていたが、日射しが強く暑い日だった。それでも日陰のガゼボは冷えるのだろうと、デマーリオは心配したようだった。
「大丈夫です、デマーリオ様」
そう言ってエリザベートが笑みを見せれば、デマーリオはそれ以上を気にかけることはなかった。
あんな射るような視線を、これまで向けられたことはなかった。
だから、次にデマーリオを迎える茶会で、エリザベートは少しばかり迷っていた。
秋は深まりその日は晴天で、紅葉する庭園の眺めが美しかった。
陽光が木々を眩しく照らして、こんな日には、デマーリオならきっと庭を散策しようと言うだろう。
窓辺に立つ義母の姿が思い出されて気にはなったが、デマーリオに楽しんでほしい気持ちが先になった。それで結局、庭のガゼボに招くことにした。
デマーリオを案内しながら庭園の端に目をやったが、誰の姿もなかった。本邸のあの窓は、ここからはよく見えなかった。
考えすぎだったのかもしれない。
デマーリオは楽しそうだった。それだけで彼をガゼボに招いて良かったと思った。
乾いた空気に枯れ葉の匂いが混じり、デマーリオは落ち葉が風に吹かれて舞いあがるのを面白いと言った。
それから、侯爵から新しく買ってもらったというお気に入りの剣の話をしてくれた。
庭園を散策しようとなって、二人並んで小径を歩いていた、そのときだった。
「あの子、またいるね」
デマーリオの言葉に、エリザベートは彼の視線の先を辿った。
本邸の庭の端に、ローズが風にワンピースの裾を靡かせて、こちらに向かって立っていた。
淡いレモン色のワンピースがデマーリオのシトリンの瞳と重なるようで、エリザベートは思わず目を瞑った。
「こちらにおいでよ」
デマーリオは、子供同士の集まりで気後れして輪に入れない子を呼ぶように、ローズに手招きをした。
「お坊ちゃま、なりません」
そう諫めたのはデマーリオの侍女で、エリザベートばかりでなく、その場にいた侯爵家の護衛もソフィーもデマーリオの行動に驚いた。
デマーリオは侍女に向かってちょっと肩をあげてみせた。それからエリザベートに向き直って言った。
「だって可哀想じゃないか。あの子は君の異母妹だろう? それなら僕にも関係あるよ」
可哀想とは、ローズのための言葉に思えた。
デマーリオに呼ばれたローズは、駆け足になってこちらへやってくる。
その向こうに本邸の侍女の姿が見えて、ローズが来たのは偶然ではないのだと思った。
「こんにちは」
ローズはデマーリオに呼ばれて嬉しかったのだろう。はにかみながら笑みを浮かべて挨拶した。それから、はっとしたようにエリザベートにも「こんにちは」と言った。
「私はシェルバーン侯爵家のデマーリオという。君がエリザベートの妹のローズだね?」
デマーリオは自分のことを「私」と言った。エリザベートには僕と言っていたから、どうやらローズの前で背伸びをしているようだった。
名乗る前に自分の名前を言い当てられて、ローズは満面の笑みを浮かべた。
言葉も所作も令嬢のそれに及ばない。なのにローズは可憐だった。真っ白な歯を見せた彼女の笑みに、デマーリオが見惚れたように思えた。
エリザベートの群青色の瞳とは違う、ローズの明るい青い瞳が、秋の日射しに眩しそうに細められた。
「君は街のことに詳しいんだろう? だったらあの店を知ってるかな?」
デマーリオは、エリザベートが知らない菓子店だろう店の名を挙げた。
「ううん、よくわからないわ」
ローズが困ったようにはにかんで、それにデマーリオが「なんだそうか」と言う。
その後も二人は短い会話を交わして、それはどれも他愛のない子供同士の話だった。
だがデマーリオは、最後まで剣や馬乗りといった男の子たちとの遊びのことではなくて、王都の百貨店や菓子店などの話をした。
どれも女の子の好みそうなことで、デマーリオがローズのために話題を選んで話すのを、エリザベートは彼の隣で聞いていた。
「お坊ちゃま、そろそろお暇のお時間です」
デマーリオに辞去を促したのは侯爵家の侍女だった。
エリザベートはこの日、婚約者が帰ることに初めてほっとした。
「エリザベート、また来月会おう。母上が君の好きな菓子を用意するよ」
屈託のない笑みを向けてエリザベートに言う姿は、いつもと変わらないエリザベートのよく知るデマーリオだった。
帰りの見送りに、ローズがついてくることはなかった。
邸に戻ろうとデマーリオが手を差し伸べて、それにエリザベートが手を添えるのを、ローズはただじっと見ていた。
第四章
デマーリオと婚約を結んでから年月が過ぎて、二人は互いに十五歳になっていた。
「デマーリオが失礼してしまったようね。貴女には不快な思いをさせてしまったわ」
シェルバーン侯爵家の庭園のガゼボで、侯爵夫人はそう言って眉を下げた。
夫人はふくふくとした小柄な女性で、柔らかな気品の漂う面立ちはデマーリオもよく似ている。
エリザベートは定期的に侯爵邸を訪れて夫人から教えを受けており、その後はいつもお茶の時間となっていた。
夫人の謝罪は、先日のエリザベートとの茶会で起きた出来事についてだった。デマーリオの侍従から報告を受けたのだろう。
「旦那様がお留守だと、気が緩んでしまうのかしら」
侯爵は領地と王都を行き来しており、今は領地にいて王都の邸を留守にしていた。
「私から注意をしておきました。今後は気をつけると思うの」
先日の茶会はストレンジ伯爵家で行われた。
爽やかな初秋の風が心地よいからと、デマーリオに誘われて離れの庭を散策していた。
彼はこのごろまた背が伸びて、エリザベートが見上げるほどになっていた。剣術の稽古に励む身体は、上背ばかりでなく厚みも増している。
いつの間にか、エリザベートの前でも自分のことを「私」と言うようになり、側付きは去年には侍女から侍従に変わっていた。
金色の髪とシトリンの瞳は変わらず出会った頃のままで、こちらを気遣いながらエスコートする紳士のマナーも身につけている。
「父上が領地から戻ってきたら、カブ・ハンティングに連れていってもらうことになったんだ」
カブ・ハンティングとは子狐狩りのことで、本格的な狐狩りシーズンを前に、経験の浅い狩猟者のトレーニング代わりになっている。
「狐を狩ったら君に贈るよ。冬の襟巻に仕立てて」
きっと似合うだろうなと言って、デマーリオは悪戯っぽくエリザベートを覗き込んだ。
顔を寄せたデマーリオにエリザベートはすっかり照れて、思わず俯いてしまった。デマーリオは、そんなエリザベートを逃すまいとするように、尚もこちらを覗いてきた。
陽光にエリザベートの頬が染まる。デマーリオと二人で過ごす、穏やかな秋のひとときだった。
あの角のところで引き返せばよかった。そう思ったのは後になってからである。
庭園の角を曲がれば本邸との境目となる。
小径が通っているだけだから、そこにローズがいたとしても、誰も何も問うことはない。
「デマーリオ様、ご機嫌よう」
そう言ってローズはデマーリオに微笑んで、それからエリザベートにも笑みを向けた。
「君も散歩?」
「ええ。お天気が良いから」
ローズはそこで、デマーリオの右側に並ぶように歩み寄った。左側にはエリザベートをエスコートしていたから、デマーリオを真ん中にして三人は横並びになった。
「んっんっ」
デマーリオの侍従が小さく咳ばらいをしたのは、ローズがデマーリオの腕に手を掛けたからだった。
「少し歩くだけだよ」
デマーリオは、ちらりと侍従に向いて言った。
「ローズ、貴女、侍女は?」
「はぐれてしまったの。一緒に来たのだけれど」
エリザベートが尋ねると、ローズは何でもないというように答えた。
ローズはデマーリオの姿を見つけて、急いでこちらに来たのだろう。それで侍女を置き去りにしてしまったか、或いはそのまま見逃されたか。
義母が差配する本邸で、誰もローズを止めることはない。デマーリオもまた、屈託なく彼女を受け入れてしまう。
ほんの数日前の出来事を思い出していたエリザベートは、夫人の言葉に顔を上げた。
「それにしても、伯爵はまだそんな甘やかしをなさっておられるのね」
夫人は、ローズへの父の教育について言ったのだろう。
今の父の最愛は義母である。その義母によく似たローズへ向ける愛情は深く、父がローズに甘いのも今に始まったことではない。
夫人の話はそれからすぐに、どこかの茶会のことに移った。
朗らかな夫人の声を聞きながらエリザベートが思い浮かべたのは、視線を交わす二人の姿だった。
ほんの数秒、それくらいのことだった。
デマーリオを見つめるローズの瞳を、彼もまた見つめていた。
ローズが笑みを深めると、白く綺麗な歯が見えた。
破顔するローズを、デマーリオは何を思って見ていたのだろう。
まるで二人が心を寄せ合うようで、その瞬間に、エリザベートはひとり傍観者のように取り残された。
■
庭の木々がすっかり葉を落として、はあと吐いた息が白く辺りに滲んだ。
冬枯れの季節を迎えて、エリザベートは父に呼ばれて本邸に行く途中で歩みを緩めた。
ローズとデマーリオが見つめ合っていた小径には、誰の姿もなかった。
鮮やかな赤や黄色の落ち葉に彩られた二人の姿を思い出した瞬間に、エリザベートは自分が今もまだあそこでひとり傍観者のまま佇んでいるようで、足早になって通りすぎた。
「姉上!」
「エミリオ」
玄関ホールに入ると、人懐っこい笑みを浮かべてエミリオが大階段から降りてきた。
エリザベートは階下にいて、エミリオが小走りで降りてくるのを待った。
「走っては危ないわ、エミリオ」
「姉上ほど頼りない足腰じゃありません」
「まあ。失礼ね」
「義父上に用事?」
「ええ、そうなの」
「僕も一緒に行こうかな」
「お小言を言われるのかもしれなくてよ。貴方も付き合ってくれるの?」
「姉上と一緒なら、たまにはいいかな」
義母とローズは出掛けているらしい。
エミリオはエリザベートを見つけると、大抵、彼のほうから声をかけてくれる。
エミリオが離れの邸に来ることはない。
エミリオばかりでなく、義母もローズも、父以外の家族がエリザベートを訪れることはない。
生前の母は時折、エリザベートを連れて教会を訪れた。
そこでは決まって、礼拝堂で長い祈りを捧げていた。
教会には、マーキスという名の青年司祭がいた。
漆黒のキャソックに漆黒の髪。濃く鮮やかな青い瞳。
マーキスのほかには使用人らしい老齢の女性を見かけるくらいで、聖職者が妻帯を許されるこの国で、彼はまだ独身のようだった。
背の高いマーキスは、エリザベートが挨拶をすると、目線を合わせて挨拶を返してくれた。
待合室の椅子は座高が高く、エリザベートが椅子に腰かけるときには、彼が手を貸してくれるのだった。
母が他界してからは、エリザベートは執事のロバートと一緒に教会を訪ねるようになった。母に代わって月に一度、教会への寄進を行っている。
「司祭様、ご機嫌よう」
母の口ぶりをまねて挨拶すれば、マーキスは目を細めて眉を下げた。
「エリザベート様。このたびもご寄進をありがとうございます。ひと月の間、お変わりはございませんでしたか?」
マーキスは最初に母へのお悔やみの言葉を述べてからは、もうそのことには触れなかった。
哀しいことを何度も思い出させないようにと、気遣っていたのだろう。
その日マーキスは、帰宅するエリザベートを馬車まで送ってくれた。
エリザベートが馬車に乗り込むと、扉が閉まる前に彼は言った。
「冥府とは哀しいばかりの場所ではないのだと思います。あちらの世界にも、きっと楽しいと笑えることがあるでしょう」
「あちらの世界でも笑えることが?」
「ええ。例えばエリザベート様がなにか面白いことがあって、それでお笑いになったなら、ミネルバ様も貴女と一緒にお笑いになるのでしょう」
マーキスの言葉の真偽はわからずとも、司祭が言うのだから間違いないと思った。
「ロバートもそう思う?」
帰りの馬車の中でそう尋ねれば、
「ええ、ミネルバ様はたいへんな笑い上戸でいらっしゃいましたから、今もお嬢様のことをご覧になって笑っていらっしゃると思いますよ」と言ってくれた。
第三章
「お義母様、ご機嫌よう。お父様がお呼びと伺いました」
「あら、そう。旦那様なら執務室にいらっしゃるわ」
エリザベートが挨拶をすれば、義母はおっとりと答えた。
義母とローズはよく似た母娘で、柔らかそうな淡い金色の髪もほんのり垂れた目元も、彼女たちを甘く儚げに見せていた。
父に所用で呼ばれて本邸を訪ねたのは、エリザベートが離れの邸に移ってからはこの日が初めてのことだった。
ついこの前まで暮らしていた本邸は、漂う空気がすっかり変わって、まるで知らない家のように感じられた。
ふと見上げた階段の上、手摺りの陰にエミリオの姿が見えた。
エミリオが胸元で小さく手を振っていた。エリザベートも同じように小さく手を振り返した。
それにエミリオが笑ってくれて、エリザベートは嬉しくなった。
「お姉さま」
エリザベートを呼んだのはローズだった。
青い瞳を細めて、はにかむ笑みが可愛らしい。
エリザベートも挨拶しようと口を開いたところで、義母が先に話しだした。
「駄目よ、ローズ。お姉様はお父様に呼ばれているのよ。お邪魔をしてはいけないわ」
義母はそう言ってやんわり窘めると、「じゃあ、私たちはこれで」とローズの手を取りティールームのほうへ向かっていった。
二階の手摺りのところにはまだエミリオがいて、こちらに来たそうな顔をしていた。
声をかけようとしたときに、
「エリザベートお嬢様、こちらへ」
父の侍従に促されて、それきりになってしまった。
その後もエリザベートは幾度か本邸を訪ねたが、もうすぐ晩餐の時間だからと食事に誘われることも、お茶はどうかとティールームに招かれることもなかった。
そういうときには義母は大抵、「お邪魔をしてはいけないわ」とか「お姉様はお忙しいのよ」と言って、おっとりとした笑みを浮かべるのだった。
生さぬ仲ではあるが、義母はエリザベートに冷たく接するわけではない。だからといって親身になるということもなかった。
顔を合わせれば笑みを浮かべて挨拶をするがそれだけで、エリザベートに対しては関心がないように見えた。
「まあ、お嬢様、もうお戻りで?」
離れの邸に戻ったエリザベートに侍女頭が驚いたのは、本邸でお茶に誘われるとばかり思っていたからだろう。
「さあさあ、お嬢様。午後のお茶にいたしましょう。料理長がプディングを蒸しておりますよ。ほら」
そう言って侍女頭はすんすんと鼻を鳴らしてみせた。
「本当だわ。いい匂いがする」
確かにここまで甘い香りが漂っている。
侍女頭は、それからエリザベートにお茶の用意をしてくれた。
晩餐のデザートにと調理していただろうプディングは、まだ粗熱が取り切れておらず、口に入れるとほんのり温かく感じた。ホイップしたクリームがいつもより多めに盛られて、それだけでエリザベートは嬉しかった。
エリザベートが、母に似たユーモアや気さくな会話の楽しみ方を忘れないでいられたのは、こんな使用人たちがそばにいてくれたからだろう。
■
月に一度、デマーリオとの茶会がある。
それは婚約したときに両家で定めたことで、エリザベートはその日を何より心待ちにしていた。
二人の茶会は隔月で招くかたちで、侯爵家と伯爵家とで交互に設けられていた。
侯爵家を訪問する際には緊張を覚えたが、侯爵夫妻はいつもエリザベートを温かく迎え入れてくれた。
デマーリオは、高位貴族の嫡男らしく快活で社交的な少年だった。
友人も多く、勉学にも剣術の鍛錬にも励んでおり、朗らかな気質に加えて所作には品があった。
エリザベートはそんなデマーリオに、この頃にはすでに、はっきりと自覚できる恋心を抱いていた。
彼が語る話題はエリザベートの知らない少年らしいことばかりだったが、エリザベートはそれもすべて楽しかった。
デマーリオの言葉ならひとつだって聞き漏らしたくないと、シトリンの瞳を見つめて聞き入った。
その日は、伯爵家での茶会だった。
会合の場所は本邸ではなく、エリザベートが住まう離れの邸である。
デマーリオと婚約して一年が経ち、季節は初夏を迎えていた。
朝から気持ちの良い青空が広がって、庭園には夏花が咲きはじめている。
屋外を好むデマーリオのために、エリザベートは庭のガゼボにお茶を用意していた。
ガゼボでの茶会を気に入ってか、デマーリオはすぐに楽しげに話しはじめた。
護衛と剣の稽古をして一度だけ彼を打ち負かしたとか、少年たちで牧場に行った話だとか、このひと月の出来事を語っていたデマーリオが、そこでふと視線を止めた。
「あの子が?」
本邸と離れの邸の間は、共有する小径が通っているだけで、はっきりとした仕切りがない。
だから本邸の庭の端からこちらを窺うローズの姿に、デマーリオはすぐに気がついた。
「え?」
その姿にエリザベートは驚いた。
どうしてローズは、一人であんなところにいるのだろう。
ローズが伯爵家に迎えられてひと月ほどが経っていた。
慣れない庭で迷ってしまったのだろうか。侍女は彼女を一人にして一体どこにいるのだろう。
貴族令嬢の教育を受けたエリザベートは、ローズが異母姉のお茶会を覗き見ているとは思いもしないことだった。
「お嬢様、少々おそばを離れます」
後ろに控えていたソフィーが、足早にローズのほうへ向かっていった。
「あの子だろう? 前に聞いた」
「はい。ローズと申します」
「ふうん」
好奇心旺盛なデマーリオがローズに興味を抱いたようで、エリザベートはそこに微かな違和感を覚えた。
喩えるなら、それはさざ波のようなもので、エリザベートの胸をさわさわと騒がせた。
だがそれは、次の瞬間に波を立てた。
「こちらに呼んだら?」
「お坊ちゃま」
デマーリオの提案は、侯爵家の侍女がすぐに諫めた。
「わかってるよ」
デマーリオはそう言ったが、その瞳には確かな好奇心が浮かんでいた。
「まあ、少々のことは大目に見てやりなさい。姉の婚約者を見てみたかったんだろう」
晩餐の席で、父はローズの行為に寛容を示した。
離れの邸にひとり住まうエリザベートのために、父は週のうち幾日かは晩餐をともにしてくれる。
本邸での晩餐に呼ばれることがないからといって、父はエリザベートのことをすっかり忘れてしまってはいなかった。
「あの子は長いこと市井に暮らしていたから、貴族のマナーに慣れていないのだよ」
そうだろうとエリザベートも思った。だがローズは庶子であっても、父は伯爵家の当主で義母も子爵家の令嬢だったというから、相応の教育は受けていただろう。
「エリザベート。あの子はお前の妹だ。デマーリオ殿ともいずれ義兄妹となる。あまり厳しくしては可哀想だ、仲良くしてやりなさい」
父の言葉に、エリザベートはここでも微かな違和感を覚えた。
それはとても朧げなもので、静かに心の底に沈んでいった。
結局その次の茶会でも、ローズは庭園の端からこちらを見ていた。
ソフィーも晩餐での父の言葉を聞いており、前のように彼女を帰すことはできなかった。
エリザベートは、本邸の侍女たちがローズを連れて帰るだろうと思っていたが、茶会が終わるまで誰も現れることはなかった。
本邸の暮らしにまだ馴染めていないだろうローズには、使用人たちも遠慮して諫めるようなことを言えないのだと思った。
デマーリオと邸に戻るときになって、本邸の侍女が来てローズを連れ帰った。
その背中を見ていたのを、ふと本邸のほうへと視線を移した瞬間に、エリザベートは身体の自由を失って縫い留められたように動けなくなった。
視線の先、本邸の窓辺に義母がいた。
義母は庭に面した窓からこちらを見ていた。
遠目であってもはっきりわかった。義母はいつものおっとりとした表情をすっかりなくして、まるで感情の見えない顔をしていた。
温度のない眼差しに縛られたように、エリザベートは動くことができなかった。
「どうしたんだ? エリザベート」
デマーリオの声にはっとして、そこで身体の自由を取り戻した。
あれは一体、なんだったのだろう。
義母はただ、窓から外の景色を見ていたのだ。そう思えばなんでもないことなのに、胸を激しく打つ鼓動はすぐには静まってくれなかった。
「顔が青いよ、寒いの?」
季節は夏の終わりを迎えていたが、日射しが強く暑い日だった。それでも日陰のガゼボは冷えるのだろうと、デマーリオは心配したようだった。
「大丈夫です、デマーリオ様」
そう言ってエリザベートが笑みを見せれば、デマーリオはそれ以上を気にかけることはなかった。
あんな射るような視線を、これまで向けられたことはなかった。
だから、次にデマーリオを迎える茶会で、エリザベートは少しばかり迷っていた。
秋は深まりその日は晴天で、紅葉する庭園の眺めが美しかった。
陽光が木々を眩しく照らして、こんな日には、デマーリオならきっと庭を散策しようと言うだろう。
窓辺に立つ義母の姿が思い出されて気にはなったが、デマーリオに楽しんでほしい気持ちが先になった。それで結局、庭のガゼボに招くことにした。
デマーリオを案内しながら庭園の端に目をやったが、誰の姿もなかった。本邸のあの窓は、ここからはよく見えなかった。
考えすぎだったのかもしれない。
デマーリオは楽しそうだった。それだけで彼をガゼボに招いて良かったと思った。
乾いた空気に枯れ葉の匂いが混じり、デマーリオは落ち葉が風に吹かれて舞いあがるのを面白いと言った。
それから、侯爵から新しく買ってもらったというお気に入りの剣の話をしてくれた。
庭園を散策しようとなって、二人並んで小径を歩いていた、そのときだった。
「あの子、またいるね」
デマーリオの言葉に、エリザベートは彼の視線の先を辿った。
本邸の庭の端に、ローズが風にワンピースの裾を靡かせて、こちらに向かって立っていた。
淡いレモン色のワンピースがデマーリオのシトリンの瞳と重なるようで、エリザベートは思わず目を瞑った。
「こちらにおいでよ」
デマーリオは、子供同士の集まりで気後れして輪に入れない子を呼ぶように、ローズに手招きをした。
「お坊ちゃま、なりません」
そう諫めたのはデマーリオの侍女で、エリザベートばかりでなく、その場にいた侯爵家の護衛もソフィーもデマーリオの行動に驚いた。
デマーリオは侍女に向かってちょっと肩をあげてみせた。それからエリザベートに向き直って言った。
「だって可哀想じゃないか。あの子は君の異母妹だろう? それなら僕にも関係あるよ」
可哀想とは、ローズのための言葉に思えた。
デマーリオに呼ばれたローズは、駆け足になってこちらへやってくる。
その向こうに本邸の侍女の姿が見えて、ローズが来たのは偶然ではないのだと思った。
「こんにちは」
ローズはデマーリオに呼ばれて嬉しかったのだろう。はにかみながら笑みを浮かべて挨拶した。それから、はっとしたようにエリザベートにも「こんにちは」と言った。
「私はシェルバーン侯爵家のデマーリオという。君がエリザベートの妹のローズだね?」
デマーリオは自分のことを「私」と言った。エリザベートには僕と言っていたから、どうやらローズの前で背伸びをしているようだった。
名乗る前に自分の名前を言い当てられて、ローズは満面の笑みを浮かべた。
言葉も所作も令嬢のそれに及ばない。なのにローズは可憐だった。真っ白な歯を見せた彼女の笑みに、デマーリオが見惚れたように思えた。
エリザベートの群青色の瞳とは違う、ローズの明るい青い瞳が、秋の日射しに眩しそうに細められた。
「君は街のことに詳しいんだろう? だったらあの店を知ってるかな?」
デマーリオは、エリザベートが知らない菓子店だろう店の名を挙げた。
「ううん、よくわからないわ」
ローズが困ったようにはにかんで、それにデマーリオが「なんだそうか」と言う。
その後も二人は短い会話を交わして、それはどれも他愛のない子供同士の話だった。
だがデマーリオは、最後まで剣や馬乗りといった男の子たちとの遊びのことではなくて、王都の百貨店や菓子店などの話をした。
どれも女の子の好みそうなことで、デマーリオがローズのために話題を選んで話すのを、エリザベートは彼の隣で聞いていた。
「お坊ちゃま、そろそろお暇のお時間です」
デマーリオに辞去を促したのは侯爵家の侍女だった。
エリザベートはこの日、婚約者が帰ることに初めてほっとした。
「エリザベート、また来月会おう。母上が君の好きな菓子を用意するよ」
屈託のない笑みを向けてエリザベートに言う姿は、いつもと変わらないエリザベートのよく知るデマーリオだった。
帰りの見送りに、ローズがついてくることはなかった。
邸に戻ろうとデマーリオが手を差し伸べて、それにエリザベートが手を添えるのを、ローズはただじっと見ていた。
第四章
デマーリオと婚約を結んでから年月が過ぎて、二人は互いに十五歳になっていた。
「デマーリオが失礼してしまったようね。貴女には不快な思いをさせてしまったわ」
シェルバーン侯爵家の庭園のガゼボで、侯爵夫人はそう言って眉を下げた。
夫人はふくふくとした小柄な女性で、柔らかな気品の漂う面立ちはデマーリオもよく似ている。
エリザベートは定期的に侯爵邸を訪れて夫人から教えを受けており、その後はいつもお茶の時間となっていた。
夫人の謝罪は、先日のエリザベートとの茶会で起きた出来事についてだった。デマーリオの侍従から報告を受けたのだろう。
「旦那様がお留守だと、気が緩んでしまうのかしら」
侯爵は領地と王都を行き来しており、今は領地にいて王都の邸を留守にしていた。
「私から注意をしておきました。今後は気をつけると思うの」
先日の茶会はストレンジ伯爵家で行われた。
爽やかな初秋の風が心地よいからと、デマーリオに誘われて離れの庭を散策していた。
彼はこのごろまた背が伸びて、エリザベートが見上げるほどになっていた。剣術の稽古に励む身体は、上背ばかりでなく厚みも増している。
いつの間にか、エリザベートの前でも自分のことを「私」と言うようになり、側付きは去年には侍女から侍従に変わっていた。
金色の髪とシトリンの瞳は変わらず出会った頃のままで、こちらを気遣いながらエスコートする紳士のマナーも身につけている。
「父上が領地から戻ってきたら、カブ・ハンティングに連れていってもらうことになったんだ」
カブ・ハンティングとは子狐狩りのことで、本格的な狐狩りシーズンを前に、経験の浅い狩猟者のトレーニング代わりになっている。
「狐を狩ったら君に贈るよ。冬の襟巻に仕立てて」
きっと似合うだろうなと言って、デマーリオは悪戯っぽくエリザベートを覗き込んだ。
顔を寄せたデマーリオにエリザベートはすっかり照れて、思わず俯いてしまった。デマーリオは、そんなエリザベートを逃すまいとするように、尚もこちらを覗いてきた。
陽光にエリザベートの頬が染まる。デマーリオと二人で過ごす、穏やかな秋のひとときだった。
あの角のところで引き返せばよかった。そう思ったのは後になってからである。
庭園の角を曲がれば本邸との境目となる。
小径が通っているだけだから、そこにローズがいたとしても、誰も何も問うことはない。
「デマーリオ様、ご機嫌よう」
そう言ってローズはデマーリオに微笑んで、それからエリザベートにも笑みを向けた。
「君も散歩?」
「ええ。お天気が良いから」
ローズはそこで、デマーリオの右側に並ぶように歩み寄った。左側にはエリザベートをエスコートしていたから、デマーリオを真ん中にして三人は横並びになった。
「んっんっ」
デマーリオの侍従が小さく咳ばらいをしたのは、ローズがデマーリオの腕に手を掛けたからだった。
「少し歩くだけだよ」
デマーリオは、ちらりと侍従に向いて言った。
「ローズ、貴女、侍女は?」
「はぐれてしまったの。一緒に来たのだけれど」
エリザベートが尋ねると、ローズは何でもないというように答えた。
ローズはデマーリオの姿を見つけて、急いでこちらに来たのだろう。それで侍女を置き去りにしてしまったか、或いはそのまま見逃されたか。
義母が差配する本邸で、誰もローズを止めることはない。デマーリオもまた、屈託なく彼女を受け入れてしまう。
ほんの数日前の出来事を思い出していたエリザベートは、夫人の言葉に顔を上げた。
「それにしても、伯爵はまだそんな甘やかしをなさっておられるのね」
夫人は、ローズへの父の教育について言ったのだろう。
今の父の最愛は義母である。その義母によく似たローズへ向ける愛情は深く、父がローズに甘いのも今に始まったことではない。
夫人の話はそれからすぐに、どこかの茶会のことに移った。
朗らかな夫人の声を聞きながらエリザベートが思い浮かべたのは、視線を交わす二人の姿だった。
ほんの数秒、それくらいのことだった。
デマーリオを見つめるローズの瞳を、彼もまた見つめていた。
ローズが笑みを深めると、白く綺麗な歯が見えた。
破顔するローズを、デマーリオは何を思って見ていたのだろう。
まるで二人が心を寄せ合うようで、その瞬間に、エリザベートはひとり傍観者のように取り残された。
■
庭の木々がすっかり葉を落として、はあと吐いた息が白く辺りに滲んだ。
冬枯れの季節を迎えて、エリザベートは父に呼ばれて本邸に行く途中で歩みを緩めた。
ローズとデマーリオが見つめ合っていた小径には、誰の姿もなかった。
鮮やかな赤や黄色の落ち葉に彩られた二人の姿を思い出した瞬間に、エリザベートは自分が今もまだあそこでひとり傍観者のまま佇んでいるようで、足早になって通りすぎた。
「姉上!」
「エミリオ」
玄関ホールに入ると、人懐っこい笑みを浮かべてエミリオが大階段から降りてきた。
エリザベートは階下にいて、エミリオが小走りで降りてくるのを待った。
「走っては危ないわ、エミリオ」
「姉上ほど頼りない足腰じゃありません」
「まあ。失礼ね」
「義父上に用事?」
「ええ、そうなの」
「僕も一緒に行こうかな」
「お小言を言われるのかもしれなくてよ。貴方も付き合ってくれるの?」
「姉上と一緒なら、たまにはいいかな」
義母とローズは出掛けているらしい。
エミリオはエリザベートを見つけると、大抵、彼のほうから声をかけてくれる。
エミリオが離れの邸に来ることはない。
エミリオばかりでなく、義母もローズも、父以外の家族がエリザベートを訪れることはない。
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