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王城から正式な書簡が届いて王女付きの女官に拝命されたなら、父もそれを受け入れない訳には行かない。
もう決まったことなのだ。間もなく官報にも王城の人事が載るだろう。ストレンジ伯爵家から王族付きの女官が輩出される。一族にとって名誉であるのに変わりはない。
父にはエリザベートを見送ることしか術は無い。侯爵家が何を言うかについては、父に任せるよりエリザベートには方法が無かった。
デマーリオとの婚約が解消される前に、義母と慕った侯爵夫人には、せめてお礼をしたいと思ったが、その切っ掛けを掴めずにいた。
父はエリザベートが学院でアイリスと親しくしていたことを知らなかったのだろう。それ以上に、ここ数年のエリザベートの身辺についてを殆ど知らないだろう。
母の遺言を忠実に守るばかりで、離れの邸で唯一人、日々成長していくエリザベートの姿を、見ているつもりで見落としていたのだろう。
父の家族とは、今や義家族達なのだから。
晩餐の席ではエリザベートが何を望んでいるのか尋ねても、何もなければそこで会話は終わっていた。
自分の家庭とあちらの娘を行き来せねばならない父に、いつしか娘らしい我が儘ひとつ言わなくなったエリザベートに、父は気が付かなかった。
エリザベートは幼い頃から聞き分けの良い娘であった。親ばかりでなく使用人の手も煩わせることは無かった。
もっと我が儘を言ったなら、父はそんなエリザベートに手を焼きながら、もう一人いる娘の存在を忘れる事は無かったのかも知れない。
家族の団欒を遠い昔の記憶でしか知らないエリザベートは、巣立つ間際の雛鳥の様に、向う視線は空だった。上を向いて飛び立つ事に心を躍らせている。
父は翌日も離れの邸を訪れた。そうして晩餐をエリザベートと共にとった。父が連日邸を訪れる、そんな事は初めてであったから、エリザベートばかりか邸の使用人達も慌ててしまった。
父を迎える際の献立は、小食のエリザベートが自室で摂る内容とは異なっていた。本邸と違って急な来客が皆無な離れの邸では、エリザベートに関わる事以外の準備が無い。
父は、エリザベートが女官として出仕するのを、父の一存では止められないと諦めたのだろう。
残り僅かな父娘の時間を、せめて晩餐の席で過ごそうと思うらしかった。
デマーリオとの婚約解消は、父と侯爵家に委ねるしかないから、エリザベートは別の事を話すことにした。
「卒業式の夜会に参加しないと?」
「ええ。デマーリオ様も御自分の学園の夜会に参加なさりたいでしょう。三年間学ばれて御学友も大勢いらっしゃるでしょうから」
ローズをエスコートすれば良い、とまでは言えなかった。
今月の初めには、デマーリオから卒業式の後にある夜会の衣装を合わせたいと云う旨の文を受け取っていた。
だが、デマーリオが一体、貴族学園と淑女学院のどちらの夜会に出席するつもりなのかは記されてはいなかった。
貴族学園の夜会にエリザベートを伴おうと考えているのか、淑女学院の夜会にエスコートをするつもりなのか。
貴族学園と淑女学院の卒業式は同じ日である。
エリザベートは卒業式後の夜会には参加するつもりは無かった。
デマーリオの文への返事はまだ返していなかったが、それでデマーリオから何かを言ってくることも無かった。
デマーリオは、形式に則って婚約者に儀礼的な文を出したのだろう。
この週末には、月に一度の婚約者の茶会がある。今回はこの離れの邸で会うことになっていたから、その際に話すつもりでいた。
デマーリオは、自身の学び舎である貴族学園の夜会に出席するのが良いだろう。エリザベートと揃いの衣装は不要だと。
城の女官に登用が決まった事は父が侯爵家へ伝えるから、デマーリオも茶会の頃には侯爵から知らされているだろう。
であれば、エリザベートは一体彼と何を話せば良いのだろう。
マーキスがエリザベートの為に祈りを捧げた『祈りの聖水』の効果は絶大であった。
あれからエリザベートは、至極客観的にデマーリオの事を考えられる様になった。
夜半に寝台に横になりながら、どうにも出来ないデマーリオの心を憂いて胸が苦しくなる事も無くなった。
十年もの間、鬱々と溜め込んだ思慕を失う事は、物理的に身体まで軽くなった様に思えた。
母は違えどローズとは姉妹であるから、エリザベートにもどこかローズと似たところがあるかも知れない。そうであるなら、いつかデマーリオがそれに気付いて、エリザベートを愛してくれはしまいかと思ったこともあったのだが、そんな哀しい妄想もぷつりと途絶えた。
「デマーリオ殿はお前をエスコートするおつもりだ」
「多分、そうお気遣いをなさっておられるのですわ」
「そうではない」
「お父様。あの御方には次期侯爵家当主の未来がおありです。でしたらお考えの筈ですわ」
「どう言う意味だ」
「疎遠な関係であった私をエスコートする姿を、貴族の皆様の前で示して見せねばならないと。そうしなければ婚約者としての体裁を保てない。きっとそうお考えになったのでしょう」
「そんな筈は無いだろう。お前をエスコートしたいのだと、何故思わないのだ」
「思い出の学び舎をご卒業なさるのです。ご自分の学園で、最後にお別れの会をお過ごしになりたいと思うのが自然でしょう。
ご友人もおられるでしょうし、それに、ローズも一緒ですわ」
「そうではない。エリザベート」
「お父様、そんな事よりお食事を楽しみましょう。折角料理長がお父様の好物を用意してくれたのです」
父は沈んだ表情のまま目の前の皿を見る。
「私ならご心配には及びませんわ。王女殿下にお仕え出来ることを誉れと思っておりますの。そうそう経験出来る事ではありませんもの。私はもう、どなたにもお気遣い頂かずとも大丈夫なのです」
父は視線を上げてエリザベートを見た。エリザベートの顔をまじまじと見つめて、それから虚ろな表情のままカトラリーを手にした。
父の好物である合鴨のテリーヌは、急な訪いであったのに料理長が父の為に用意した。
幼い頃のエリザベートは、合鴨の臭みのある苦味とテリーヌの舌触りが苦手であった。苦手であった筈なのに、今夜は微かな苦味も味わい深い滋味に感じられた。
エリザベートはもう、幼い少女ではなかった。
もう決まったことなのだ。間もなく官報にも王城の人事が載るだろう。ストレンジ伯爵家から王族付きの女官が輩出される。一族にとって名誉であるのに変わりはない。
父にはエリザベートを見送ることしか術は無い。侯爵家が何を言うかについては、父に任せるよりエリザベートには方法が無かった。
デマーリオとの婚約が解消される前に、義母と慕った侯爵夫人には、せめてお礼をしたいと思ったが、その切っ掛けを掴めずにいた。
父はエリザベートが学院でアイリスと親しくしていたことを知らなかったのだろう。それ以上に、ここ数年のエリザベートの身辺についてを殆ど知らないだろう。
母の遺言を忠実に守るばかりで、離れの邸で唯一人、日々成長していくエリザベートの姿を、見ているつもりで見落としていたのだろう。
父の家族とは、今や義家族達なのだから。
晩餐の席ではエリザベートが何を望んでいるのか尋ねても、何もなければそこで会話は終わっていた。
自分の家庭とあちらの娘を行き来せねばならない父に、いつしか娘らしい我が儘ひとつ言わなくなったエリザベートに、父は気が付かなかった。
エリザベートは幼い頃から聞き分けの良い娘であった。親ばかりでなく使用人の手も煩わせることは無かった。
もっと我が儘を言ったなら、父はそんなエリザベートに手を焼きながら、もう一人いる娘の存在を忘れる事は無かったのかも知れない。
家族の団欒を遠い昔の記憶でしか知らないエリザベートは、巣立つ間際の雛鳥の様に、向う視線は空だった。上を向いて飛び立つ事に心を躍らせている。
父は翌日も離れの邸を訪れた。そうして晩餐をエリザベートと共にとった。父が連日邸を訪れる、そんな事は初めてであったから、エリザベートばかりか邸の使用人達も慌ててしまった。
父を迎える際の献立は、小食のエリザベートが自室で摂る内容とは異なっていた。本邸と違って急な来客が皆無な離れの邸では、エリザベートに関わる事以外の準備が無い。
父は、エリザベートが女官として出仕するのを、父の一存では止められないと諦めたのだろう。
残り僅かな父娘の時間を、せめて晩餐の席で過ごそうと思うらしかった。
デマーリオとの婚約解消は、父と侯爵家に委ねるしかないから、エリザベートは別の事を話すことにした。
「卒業式の夜会に参加しないと?」
「ええ。デマーリオ様も御自分の学園の夜会に参加なさりたいでしょう。三年間学ばれて御学友も大勢いらっしゃるでしょうから」
ローズをエスコートすれば良い、とまでは言えなかった。
今月の初めには、デマーリオから卒業式の後にある夜会の衣装を合わせたいと云う旨の文を受け取っていた。
だが、デマーリオが一体、貴族学園と淑女学院のどちらの夜会に出席するつもりなのかは記されてはいなかった。
貴族学園の夜会にエリザベートを伴おうと考えているのか、淑女学院の夜会にエスコートをするつもりなのか。
貴族学園と淑女学院の卒業式は同じ日である。
エリザベートは卒業式後の夜会には参加するつもりは無かった。
デマーリオの文への返事はまだ返していなかったが、それでデマーリオから何かを言ってくることも無かった。
デマーリオは、形式に則って婚約者に儀礼的な文を出したのだろう。
この週末には、月に一度の婚約者の茶会がある。今回はこの離れの邸で会うことになっていたから、その際に話すつもりでいた。
デマーリオは、自身の学び舎である貴族学園の夜会に出席するのが良いだろう。エリザベートと揃いの衣装は不要だと。
城の女官に登用が決まった事は父が侯爵家へ伝えるから、デマーリオも茶会の頃には侯爵から知らされているだろう。
であれば、エリザベートは一体彼と何を話せば良いのだろう。
マーキスがエリザベートの為に祈りを捧げた『祈りの聖水』の効果は絶大であった。
あれからエリザベートは、至極客観的にデマーリオの事を考えられる様になった。
夜半に寝台に横になりながら、どうにも出来ないデマーリオの心を憂いて胸が苦しくなる事も無くなった。
十年もの間、鬱々と溜め込んだ思慕を失う事は、物理的に身体まで軽くなった様に思えた。
母は違えどローズとは姉妹であるから、エリザベートにもどこかローズと似たところがあるかも知れない。そうであるなら、いつかデマーリオがそれに気付いて、エリザベートを愛してくれはしまいかと思ったこともあったのだが、そんな哀しい妄想もぷつりと途絶えた。
「デマーリオ殿はお前をエスコートするおつもりだ」
「多分、そうお気遣いをなさっておられるのですわ」
「そうではない」
「お父様。あの御方には次期侯爵家当主の未来がおありです。でしたらお考えの筈ですわ」
「どう言う意味だ」
「疎遠な関係であった私をエスコートする姿を、貴族の皆様の前で示して見せねばならないと。そうしなければ婚約者としての体裁を保てない。きっとそうお考えになったのでしょう」
「そんな筈は無いだろう。お前をエスコートしたいのだと、何故思わないのだ」
「思い出の学び舎をご卒業なさるのです。ご自分の学園で、最後にお別れの会をお過ごしになりたいと思うのが自然でしょう。
ご友人もおられるでしょうし、それに、ローズも一緒ですわ」
「そうではない。エリザベート」
「お父様、そんな事よりお食事を楽しみましょう。折角料理長がお父様の好物を用意してくれたのです」
父は沈んだ表情のまま目の前の皿を見る。
「私ならご心配には及びませんわ。王女殿下にお仕え出来ることを誉れと思っておりますの。そうそう経験出来る事ではありませんもの。私はもう、どなたにもお気遣い頂かずとも大丈夫なのです」
父は視線を上げてエリザベートを見た。エリザベートの顔をまじまじと見つめて、それから虚ろな表情のままカトラリーを手にした。
父の好物である合鴨のテリーヌは、急な訪いであったのに料理長が父の為に用意した。
幼い頃のエリザベートは、合鴨の臭みのある苦味とテリーヌの舌触りが苦手であった。苦手であった筈なのに、今夜は微かな苦味も味わい深い滋味に感じられた。
エリザベートはもう、幼い少女ではなかった。
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