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「城の暮らしには慣れましたか?」
通りに面していながら見落とされそうな程の小さな教会には、エリザベートの他にも寄進をする貴族がいるらしい。
教会で出されるお茶が身分の高い者から贈られたものであると思うのは、それが高価な茶葉であるからで、エリザベートにもその価値が解った。そうしてマーキスのお茶の淹れ方が上手なのもまた事実であった。
「お蔭様で、大分慣れて参りました」
紅茶の味わいを楽しみながら、数日前にスヴェンにも聞かれた事に同じ言葉で答えた。
今月の寄進をしてから礼拝堂で祈りを捧げた後に、エリザベートはマーキスからお茶に誘われた。マーキスが淹れてくれたお茶からは濃厚な香りが漂っている。風味と香りを深める夏摘みの茶葉は、僅かな期間だけ楽しめる夏の楽しみの一つである。
「とても美味しいお茶ですわね」
「お口に合ったなら宜しいです」
幼い頃から通う教会の、この静かな空気がエリザベートは好きであった。耳を澄ませば通りの喧騒が聞こえるのだが、それも含めてエリザベートにはすっかり馴染んだ空間だった。
今だ母との記憶が色濃く残る教会に、ここ最近のエリザベートは休暇の度に訪れていた。
寄進は月に一度であるが、何も用事の無い日にもエリザベートは教会を訪れた。礼拝堂でただ祈りを捧げるだけで、心のざわめきが鎮まってくる。
「ご婚約者様には、ご理解を頂けておられるのですか?」
幼い頃に婚約を交わしたデマーリオとの婚約期間は長い。マーキスもその事を知っており、そればかりか、エリザベートの母がその死を前に万全の守りで娘を囲い込み、婚約も含めてあらゆる事を整えていたのも知っている。
デマーリオとの婚約は、今尚解かれぬまま、二人の関係にも変化は無い。
「彼とは会っておりませんから、直接は何も聞いておりません」
「会っていないと?」
マーキスにしては珍しく表情を変えた。婚姻目前とされる婚約者同士が交流していないというのは、やはり余程の事なのだろう。
マーキスは、エリザベートの環境や置かれた状況を知っているのだろうが、それで何かを問われたのはこの日が初めての事だった。
「間もなくご婚姻なさるのだと、いや、失礼致しました。私が伺う話しではありませんでした」
マーキスは恐縮したような様子で詫びた。
「いいえ、司祭様。私と婚約者とは、長い間浅い交流のままでございました。それは社交界でも皆様ご存知の事です。私が城に上がりましたのも、そんな私にアイリス殿下が糊口を凌ぐ術をお与え下さったからです。ですから、お気になさらずとも結構です」
エリザベートがそう言えば、マーキスは眉を下げた。そんな表情もまた珍しいとエリザベートは思った。
「司祭様。私、先程も祈りを捧げて参りました。その祈りには、この婚約も含まれております」
「それは、私が耳にしてよい事ですか?」
「貴方は母をご存知ですわ。母が願った事も望んだ事も、母が選んだ選択もご存知なのでしょう?」
マーキスはそれには何も答えなかった。
「母が何を無くしてしまいたかったのかを知る貴方なら、お分かり頂けることでしょう。今の私の状況とは、全て母の選択から始まったと思っております」
「ミネルバ様の選択、ですか?」
「母が何の為に『祈りの聖水』を望んだのか、貴方はお解かりでしょう」
マーキスの濃く青い瞳を見つめる。
「母は何かを消してしまいたかった。それを消した後に行動に移しました。父を使って私を囲う気の長い計画ですわ。温かな檻の中で、私は死した母に守られながら生きて参りました」
マーキスもまた、エリザベートを見つめる。
「司祭様。私が何を消したのか、貴方はご存知なのでしょう?」
何も返事を返さないマーキスに、エリザベートは続ける。
「私は最愛を消しましたの。婚約者への愛を消しました。あの時、私は守られるばかりの自分も共に消し去ったのですね。だから、今いる私は過去の私と変わってしまった。それを今はとても身軽だと楽しく味わっております」
「味わう?」
「ええ。今の自分とこれからの人生を、じっくり味わって生きて行こうと思っております。そこに婚約者との婚姻は意味を成さなくなってしまったのです」
「司祭様。私は冷たい人間なのでしょうか」
「貴女は冷たくなどありません。冷たいと言うなら、貴女に聖水を飲む決心をさせた周囲の人々でしょう」
「周囲の?」
「貴女を愛するが故の不干渉とは、本当に愛なのか。私はこれまでの貴女の姿にそう思って来た。本当に貴女を愛するなら、ミネルバ様の施した囲いとやらを壊してでも貴女を得るべきだ」
「囲いを壊す……」
「私の思う愛とは、そう云うものです。私は死者の遺した心よりも生者の願いを選びます。今を生きる貴女が幸福である為に、どうすれば良いのかを考えます」
「私の幸福?」
「だから私は貴女の為に聖水を作った。貴女の幸福を神に祈った」
「エリザベート様。貴女は御自分の幸福を願ってよろしいのです。御自分のお力でこの先の人生を進むことが出来るなら、心の赴くままに生きるとよろしい。それが貴女の幸福なのだと私は思っております。貴女は決して冷たい女性ではない」
「貴女に神の御加護があらんことを」
そう言って、マーキスが向かい合う小さなテーブルからこちらへと手を伸ばした。
エリザベートの頬を濡らす涙の雫を、マーキスの指先がそっと拭った。
通りに面していながら見落とされそうな程の小さな教会には、エリザベートの他にも寄進をする貴族がいるらしい。
教会で出されるお茶が身分の高い者から贈られたものであると思うのは、それが高価な茶葉であるからで、エリザベートにもその価値が解った。そうしてマーキスのお茶の淹れ方が上手なのもまた事実であった。
「お蔭様で、大分慣れて参りました」
紅茶の味わいを楽しみながら、数日前にスヴェンにも聞かれた事に同じ言葉で答えた。
今月の寄進をしてから礼拝堂で祈りを捧げた後に、エリザベートはマーキスからお茶に誘われた。マーキスが淹れてくれたお茶からは濃厚な香りが漂っている。風味と香りを深める夏摘みの茶葉は、僅かな期間だけ楽しめる夏の楽しみの一つである。
「とても美味しいお茶ですわね」
「お口に合ったなら宜しいです」
幼い頃から通う教会の、この静かな空気がエリザベートは好きであった。耳を澄ませば通りの喧騒が聞こえるのだが、それも含めてエリザベートにはすっかり馴染んだ空間だった。
今だ母との記憶が色濃く残る教会に、ここ最近のエリザベートは休暇の度に訪れていた。
寄進は月に一度であるが、何も用事の無い日にもエリザベートは教会を訪れた。礼拝堂でただ祈りを捧げるだけで、心のざわめきが鎮まってくる。
「ご婚約者様には、ご理解を頂けておられるのですか?」
幼い頃に婚約を交わしたデマーリオとの婚約期間は長い。マーキスもその事を知っており、そればかりか、エリザベートの母がその死を前に万全の守りで娘を囲い込み、婚約も含めてあらゆる事を整えていたのも知っている。
デマーリオとの婚約は、今尚解かれぬまま、二人の関係にも変化は無い。
「彼とは会っておりませんから、直接は何も聞いておりません」
「会っていないと?」
マーキスにしては珍しく表情を変えた。婚姻目前とされる婚約者同士が交流していないというのは、やはり余程の事なのだろう。
マーキスは、エリザベートの環境や置かれた状況を知っているのだろうが、それで何かを問われたのはこの日が初めての事だった。
「間もなくご婚姻なさるのだと、いや、失礼致しました。私が伺う話しではありませんでした」
マーキスは恐縮したような様子で詫びた。
「いいえ、司祭様。私と婚約者とは、長い間浅い交流のままでございました。それは社交界でも皆様ご存知の事です。私が城に上がりましたのも、そんな私にアイリス殿下が糊口を凌ぐ術をお与え下さったからです。ですから、お気になさらずとも結構です」
エリザベートがそう言えば、マーキスは眉を下げた。そんな表情もまた珍しいとエリザベートは思った。
「司祭様。私、先程も祈りを捧げて参りました。その祈りには、この婚約も含まれております」
「それは、私が耳にしてよい事ですか?」
「貴方は母をご存知ですわ。母が願った事も望んだ事も、母が選んだ選択もご存知なのでしょう?」
マーキスはそれには何も答えなかった。
「母が何を無くしてしまいたかったのかを知る貴方なら、お分かり頂けることでしょう。今の私の状況とは、全て母の選択から始まったと思っております」
「ミネルバ様の選択、ですか?」
「母が何の為に『祈りの聖水』を望んだのか、貴方はお解かりでしょう」
マーキスの濃く青い瞳を見つめる。
「母は何かを消してしまいたかった。それを消した後に行動に移しました。父を使って私を囲う気の長い計画ですわ。温かな檻の中で、私は死した母に守られながら生きて参りました」
マーキスもまた、エリザベートを見つめる。
「司祭様。私が何を消したのか、貴方はご存知なのでしょう?」
何も返事を返さないマーキスに、エリザベートは続ける。
「私は最愛を消しましたの。婚約者への愛を消しました。あの時、私は守られるばかりの自分も共に消し去ったのですね。だから、今いる私は過去の私と変わってしまった。それを今はとても身軽だと楽しく味わっております」
「味わう?」
「ええ。今の自分とこれからの人生を、じっくり味わって生きて行こうと思っております。そこに婚約者との婚姻は意味を成さなくなってしまったのです」
「司祭様。私は冷たい人間なのでしょうか」
「貴女は冷たくなどありません。冷たいと言うなら、貴女に聖水を飲む決心をさせた周囲の人々でしょう」
「周囲の?」
「貴女を愛するが故の不干渉とは、本当に愛なのか。私はこれまでの貴女の姿にそう思って来た。本当に貴女を愛するなら、ミネルバ様の施した囲いとやらを壊してでも貴女を得るべきだ」
「囲いを壊す……」
「私の思う愛とは、そう云うものです。私は死者の遺した心よりも生者の願いを選びます。今を生きる貴女が幸福である為に、どうすれば良いのかを考えます」
「私の幸福?」
「だから私は貴女の為に聖水を作った。貴女の幸福を神に祈った」
「エリザベート様。貴女は御自分の幸福を願ってよろしいのです。御自分のお力でこの先の人生を進むことが出来るなら、心の赴くままに生きるとよろしい。それが貴女の幸福なのだと私は思っております。貴女は決して冷たい女性ではない」
「貴女に神の御加護があらんことを」
そう言って、マーキスが向かい合う小さなテーブルからこちらへと手を伸ばした。
エリザベートの頬を濡らす涙の雫を、マーキスの指先がそっと拭った。
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