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『貴女を愛するが故の不干渉とは、本当に愛なのか』
マーキスの言葉は、エリザベートの心に静かに落ちた。自分では言い表せなかった胸のざわめきの正体が漸く解った気がした。
ああ、私を愛すると言っていた人達に、私は本当の意味で愛されていた訳では無かった。
そのことに辿り着いて、靄が晴れたような気持ちになった。エリザベートを愛していると言った人々は、他に大切な存在があったのだろう。父も、デマーリオも。
エリザベートは、この世で自分だけを愛して欲しいと望んでいるのではない。ただ、彼等の思う愛がエリザベートの思う幸福と違っていただけなのだと理解出来た。
母からは、確かに愛されていたと思う。それを実感しながら、母の選んだ方法の全てが正しいとも思わない。
もしかして、母は自分が作ったエリザベートを囲う檻を、誰かに壊して欲しかったのだろうか。
エリザベートの未来を憂いて、遺言と言う死者の遺志で囲った温かな檻。母はその檻を、エリザベートを愛する人々に破壊して欲しかったのか。
それとも、いつの日か、エリザベートが自分で自分を愛せることに気が付いて、守りの檻を内側から打ち破って外の世界へ飛び出して欲しいと願ったのか。
母の愛なら今も胸の内に残っている。聖水を飲み干す前にエリザベートを見つめた眼差しは、今も鮮やかな記憶として残っている。
母は、エリザベートが明るい世界に這い出た事を知ったなら、頑張ったと言って喜んでくれるだろうか。
エリザベートは檻から出た。
切っ掛けは、幸福な孤独であった。
愛されている様で愛を感じられない、そんな矛盾した幸せの意味はマーキスの言葉で綺麗に解けた。
『私は、死者の遺した心よりも生者の願いを選びます。今を生きる貴女が幸福である為に、どうすれば良いのかを考えます』
マーキスは、エリザベートが思いもしなかった方法で幸せを選ぶ道を示してくれた。
心は確かに歓びを感じて胸が熱い。流れる涙はエリザベートには止められなかった。
まるで生まれて初めて流す涙の様に涙の止め方が解らない。哀しいことなど何も無いのに涙が頬を濡らし続ける。
終いにはマーキスの指先では全然足りずに、彼はハンカチで頬を拭ってくれた。
ハンカチならエリザベートも持っていたのに、神の僕の手があまりに心地良くて、エリザベートは瞳を閉じて為すがままに頬を預けた。
「ハンカチを、洗ってお返し致します」
「いえ、それは貴女にお持ち頂いて結構です。お手を煩わせるほどの品物でもございません」
人前で涙を晒した恥ずかしさは、あとから一気に訪れた。教会から王城に戻ってからも、その恥ずかしさが鎮まる事は無かった。
エリザベートは男性と触れた経験が極端に少ない。父とは晩餐の席で向かい合って座るのだが、それで帰り際に頭や頬を撫でられたりなど一度も無かった。ささやかな触れ合いなら老執事のロバートの方が余程多い。
デマーリオとは月に一度のお茶会の席でも向かい合うばかりで、偶に夜会でエスコートを受けるのにもマナーに則った指先の接触があるだけだった。
十六歳のデヴュタントでデマーリオと踊ったダンスだけは幸福な思い出で、彼とは長い婚約期間の間にも、指先への口付けすら贈られた事は無かった。
エリザベートは、恋人から贈られる柔らかな口付けを知らない。
心が騒いで跳ねるのも、頬がいつまでも赤く火照るのも、初々しい恋人との触れ合いの全てを、エリザベートは何一つ知らぬまま来た。
エリザベートが教会で祈ったのは、デマーリオとのことだった。
エリザベートを守る母の強固な縛りは、デマーリオにも犠牲を強いるものだった。
若き青年貴族として貴族社会に足を踏み入れたデマーリオから、エリザベートという枷を外してあげたい。彼がそのままローズを望むなら、それで良いと思う。彼とならローズはきっと幸せになれるだろう。
デマーリオはローズとの間の愛情を否定したが、エリザベートにとってはもう全て終わった事だった。
デマーリオの幸福を願って、一刻も早く彼を解放したいと思いながら、今だその機会を得られず焦りを感じていた。
過去に胸を焦がした恋慕や思慕は、祈りの聖水に清められて既に過去の思い出に変わっていた。
偶然なのか、それともデマーリオとの事を考えていたエリザベートへの神の差配であるのか、デマーリオから文が届いたのは、教会を訪ねた翌日の事だった。
王国では、議会が会期を終了して本格的な夏が訪れると、貴族の多くは王都を出る。領地に戻る者もいれば風光明媚な避暑地でひと夏を過ごす貴族も多い。
その前に、王城では王家主催の夜会が催される。デマーリオの文とは、その夜会のエスコートと揃いの衣装を贈ると言う知らせであった。
エリザベートは夜会には参加しない。正確に言えば、アイリスの女官として側に控えるが、自身がパートナーを伴って参加はしないという事であった。
デマーリオにその旨を返信の文に記せば、女官服のまま参加するのかと問う文が直ぐに届いた。
女官は侍女と異なり正装の夜会服で参加をする。ドレスの用意は必要であるが、それをエリザベートはデマーリオと揃いにしようとは考えていなかった。
夜会服だけでなく、昼間のデイドレスも茶会用のドレスも、アイリスに同伴する際に着用するドレスは全て、城に上る前に一通り用意済みであった。
それもデマーリオには伝えたのだが、案外頑固なデマーリオは、そんな事では引き下がらなかった。
マーキスの言葉は、エリザベートの心に静かに落ちた。自分では言い表せなかった胸のざわめきの正体が漸く解った気がした。
ああ、私を愛すると言っていた人達に、私は本当の意味で愛されていた訳では無かった。
そのことに辿り着いて、靄が晴れたような気持ちになった。エリザベートを愛していると言った人々は、他に大切な存在があったのだろう。父も、デマーリオも。
エリザベートは、この世で自分だけを愛して欲しいと望んでいるのではない。ただ、彼等の思う愛がエリザベートの思う幸福と違っていただけなのだと理解出来た。
母からは、確かに愛されていたと思う。それを実感しながら、母の選んだ方法の全てが正しいとも思わない。
もしかして、母は自分が作ったエリザベートを囲う檻を、誰かに壊して欲しかったのだろうか。
エリザベートの未来を憂いて、遺言と言う死者の遺志で囲った温かな檻。母はその檻を、エリザベートを愛する人々に破壊して欲しかったのか。
それとも、いつの日か、エリザベートが自分で自分を愛せることに気が付いて、守りの檻を内側から打ち破って外の世界へ飛び出して欲しいと願ったのか。
母の愛なら今も胸の内に残っている。聖水を飲み干す前にエリザベートを見つめた眼差しは、今も鮮やかな記憶として残っている。
母は、エリザベートが明るい世界に這い出た事を知ったなら、頑張ったと言って喜んでくれるだろうか。
エリザベートは檻から出た。
切っ掛けは、幸福な孤独であった。
愛されている様で愛を感じられない、そんな矛盾した幸せの意味はマーキスの言葉で綺麗に解けた。
『私は、死者の遺した心よりも生者の願いを選びます。今を生きる貴女が幸福である為に、どうすれば良いのかを考えます』
マーキスは、エリザベートが思いもしなかった方法で幸せを選ぶ道を示してくれた。
心は確かに歓びを感じて胸が熱い。流れる涙はエリザベートには止められなかった。
まるで生まれて初めて流す涙の様に涙の止め方が解らない。哀しいことなど何も無いのに涙が頬を濡らし続ける。
終いにはマーキスの指先では全然足りずに、彼はハンカチで頬を拭ってくれた。
ハンカチならエリザベートも持っていたのに、神の僕の手があまりに心地良くて、エリザベートは瞳を閉じて為すがままに頬を預けた。
「ハンカチを、洗ってお返し致します」
「いえ、それは貴女にお持ち頂いて結構です。お手を煩わせるほどの品物でもございません」
人前で涙を晒した恥ずかしさは、あとから一気に訪れた。教会から王城に戻ってからも、その恥ずかしさが鎮まる事は無かった。
エリザベートは男性と触れた経験が極端に少ない。父とは晩餐の席で向かい合って座るのだが、それで帰り際に頭や頬を撫でられたりなど一度も無かった。ささやかな触れ合いなら老執事のロバートの方が余程多い。
デマーリオとは月に一度のお茶会の席でも向かい合うばかりで、偶に夜会でエスコートを受けるのにもマナーに則った指先の接触があるだけだった。
十六歳のデヴュタントでデマーリオと踊ったダンスだけは幸福な思い出で、彼とは長い婚約期間の間にも、指先への口付けすら贈られた事は無かった。
エリザベートは、恋人から贈られる柔らかな口付けを知らない。
心が騒いで跳ねるのも、頬がいつまでも赤く火照るのも、初々しい恋人との触れ合いの全てを、エリザベートは何一つ知らぬまま来た。
エリザベートが教会で祈ったのは、デマーリオとのことだった。
エリザベートを守る母の強固な縛りは、デマーリオにも犠牲を強いるものだった。
若き青年貴族として貴族社会に足を踏み入れたデマーリオから、エリザベートという枷を外してあげたい。彼がそのままローズを望むなら、それで良いと思う。彼とならローズはきっと幸せになれるだろう。
デマーリオはローズとの間の愛情を否定したが、エリザベートにとってはもう全て終わった事だった。
デマーリオの幸福を願って、一刻も早く彼を解放したいと思いながら、今だその機会を得られず焦りを感じていた。
過去に胸を焦がした恋慕や思慕は、祈りの聖水に清められて既に過去の思い出に変わっていた。
偶然なのか、それともデマーリオとの事を考えていたエリザベートへの神の差配であるのか、デマーリオから文が届いたのは、教会を訪ねた翌日の事だった。
王国では、議会が会期を終了して本格的な夏が訪れると、貴族の多くは王都を出る。領地に戻る者もいれば風光明媚な避暑地でひと夏を過ごす貴族も多い。
その前に、王城では王家主催の夜会が催される。デマーリオの文とは、その夜会のエスコートと揃いの衣装を贈ると言う知らせであった。
エリザベートは夜会には参加しない。正確に言えば、アイリスの女官として側に控えるが、自身がパートナーを伴って参加はしないという事であった。
デマーリオにその旨を返信の文に記せば、女官服のまま参加するのかと問う文が直ぐに届いた。
女官は侍女と異なり正装の夜会服で参加をする。ドレスの用意は必要であるが、それをエリザベートはデマーリオと揃いにしようとは考えていなかった。
夜会服だけでなく、昼間のデイドレスも茶会用のドレスも、アイリスに同伴する際に着用するドレスは全て、城に上る前に一通り用意済みであった。
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